ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side 猪熊柔
桐生さんが道着の乱れを直している間に、私は深呼吸をして息を整える。まだポイントで有効一つ分負けている……。桐生茜……。私は、目の前のこの女性の強さに、身体が震えるほど興奮していた。どうしてだろう……。強い相手との試合なら、これまでお爺ちゃんとの練習で嫌というほど経験していたはずなのに、この女性との試合はこれまでに経験したことが無い程……。
さっきの一本背負い……。完璧に決まったと思ったのに、想像していた以上のスピードで彼女を投げ飛ばしてしまい、襟元を取っていた私の手が解けてしまった。ううん、あれはきっと彼女が自分から飛んだんだ。私の一本背負いから逃れるために……。凄い、あんな避け方があるんだ。
もう少し……。もう少しでこの強い人に勝てるはずだったのに、……悔しい。
え……? 私、今悔しいと思った? どうして? 私、この試合で負ける事を決めていたのに、悔しいと思うなんて。それだけじゃない。試合が始まって2分間。私はどうしてだか、彼女の攻撃を躱す事に必死だった。躱す必要、無いじゃない。最初から負けるつもりだったんだから。
「始めぃ!」のお爺ちゃんの言葉で、私は我に返る。いけない、この人を相手に上の空でいたら一瞬で負けちゃう。でも、それで良いんじゃないの? でも……。ああ、もう訳が分からないわ!
――!
また来た! おそらく彼女の得意な技であろう右の背負い投げ。腹筋が異常に発達しているのだろうか。懐に入られたと感じた時には、私の身体はもう宙に半ば浮きかけていた。
「――くっ!」
かろうじて彼女の足に自身の足を引っかけて、身体を畳から引っこ抜かれるのを防ぐ私。そのまま互いにケンケンをするように畳の傍までもみ合うように移動する。背負い投げで私を担ぐ事を諦めたのか、彼女が身を翻して私と再び組み合おうとする。
身体が勝手に動いていた。彼女が身を翻そうとして私から一瞬視線を逸らした瞬間、私は彼女の足を小外刈りで刈っていた。スパンッ、という子気味良い音が聞こえるかのような完璧なタイミングだった。
「――しまっ!」
ここしかないというタイミングを逃すまいと咄嗟に出した足技だったため、私の手がそれについていけなかった。彼女の身体が宙を飛んだ瞬間に引き付けていたら勝てたのに、それが出来なかったため、彼女の背はわずかに畳についた程度だった。
「――有効ぉ、っぢゃ!」
お爺ちゃんに言われるまでもなく分かっている。もとより今の掛かり具合で一本を取れるとは思っていない。でも、これでポイントでは並んだ。
残り1分を切っている。徐々に桐生さんの速さにも慣れて来た。藤堂さんとのあまりのスピードの違いに最初は戸惑ったけれど、もう大丈夫。後1分弱。お爺ちゃんに教わった一本を取る柔道で勝って見せる……!
「始めっ」の合図と同時に桐生さんと私は互いの開始線の中央で組み合う。組み手争いに執着が無いのか、互いに一瞬で良い所を取り合う私達。負けようと考えていた事なんてとっくに頭から締め出した私は、気がついたら無心で桐生さんに挑んでいた。勝つか、負けるか、なんて二の次。全力をぶつける事の出来る相手がいる事がこんなに楽しいなんて……! 知らず私は、笑みが顔に浮かんでいた。
「ふっ!」
桐生さんがもう一度背負い投げを仕掛けて来た。そんな大技――!
「――!? くっ!」
危なかった。桐生さんは前に背負うと見せかけて、後ろに私を倒そうと大内刈りをしかけてきた。どたどたと崩れた足さばきで畳の上を駆ける私に、桐生さんがここぞとばかりに食い下がってくる。その桐生さんの向かってくる勢いを利用して私は、咄嗟に桐生さんの身体を巴投げで宙に跳ね上げる。
「こんなものっ!」
どんな運動神経をしているのか、遠心力で満足に身体なんて動かせないだろうに、桐生さんは宙で猫のように身体を捻り、両足で畳の上に着地する。そして、そのまま息もつかせぬ勢いのまま私に組み付いて来る彼女。
――いけないっ!
危険を察した私は、巴投げを放った仰向けの態勢から即座に畳に腹ばいになる。しかし瞬時に私の背に回った桐生さんは、私の両脇から手を突っ込みそのまま「うりゃっ!」と私を抱えたままひっくり返す。今度は逆に桐生さんが私の下。もしかしたらこのまま抑え込めるかもと思った私は、畳に背を付けた格好の桐生さんの襟首に腕を伸ばそうとする。
――!?
「――くっ!」
私の伸ばした右腕に桐生さんの両手が左右から蛇のように巻き付く――寸前に私は伸ばしかけた手を引っ込める事で、かろうじてその拘束が決まる前に逃げる事に成功する。でも、まだ桐生さんの攻めは終わっていなかった。
ガシィッ!
畳に着いた私の左膝を桐生さんが強く蹴りつける。痛っ! 私は支えが無くなり身体が左に崩れるのを防ごうと咄嗟に畳に左手を付くが、その付いた左手を再び桐生さんは狙ってきた。私の左手を挟むように両足を入れた桐生さんは、そのまま私の身体を足の力だけでひっくり返して仰向けにする。
腕ひしぎ十字!!
これは決まれば絶対に逃げられない関節技! お爺ちゃんから何度もこの技の危険性を聞かされていた私は、咄嗟に覚えていた回避手段を取る。仰向けにされた瞬間の一瞬の反動を利用し、私は胸の上に置かれた桐生さんの足を搔い潜り、十字の拘束から逃れる。そしてそのまま間髪入れずに立ち上がり寝技の攻防から逃れる私。
「――やるぅ! 関節技対応も抜かりないじゃない!」
そう言って桐生さんは、(ほら、もう一度やろうよ)と言わんばかりに上半身だけを畳から起こし、一見して隙だらけの態勢で私を誘ってくる。
……行くわけがない。当然私はその誘いには付き合わない。
私が寝技に行く様子がない事を見て、お爺ちゃんが「待てぃっ!」と声を上げ試合を中断する。その声を聞いて残念そうな表情でゆっくりと立ち上がる桐生さん。互いに開始線に戻る短い間に、私は桐生さんをそっと伺う。
……強い。本当に強いわ、この人。さっきの藤堂さんという女性とは強さの次元が違う。この人の柔道って、本当に立ち技も寝技も火の出るような柔道。それに、この人の速さには慣れたはずなのに、今になってどんどん速くなっているような気が……。
私が開始線についたのを確認した桐生さんが、1秒たりともこの時間を無駄にしたくないと言わんばかりに私に向かってくる。
その後も互いに一歩も引かない攻防を続けた私達に、お爺ちゃんが「それまでっ!!」と、4分経過の声を上げた。
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side 松田耕作
「す、すげぇ……。柔さんってこんなに強かったんだな……」
俺は、桐生さんと柔さんの試合を見て思わずそんな言葉を発していた。俺の隣でカメラを構えていた鴨田が俺を不思議そうに振り返って首を傾げる。
「でも、柔ちゃん、桐生さんに押されっぱなしですよ。技有りも、有効も取られちゃっていますし……」
「馬鹿っ! 柔さんだからこそ一本取られずに済んでるんだよ! 桐生さんは、今の国内じゃあ敵無しの柔道家だぞ! その桐生さんにあんな鬼気迫った表情をさせている柔さんは、やっぱり本物だよ」
「そんなもんですかねぇ……?」と疑い半分の言葉を吐きながら鴨田は、再びカメラを構えて前を向く。
「あの……、今柔と対戦している選手はそんなに強いんですか?」
背後から控えめにかけられた言葉に、俺は「え……?」と戸惑いながら振り返る。そこには、つい先ほどこの武道場に着いたばかりの柔さんのお母さんが。
「え、ええ。もちろんです。今お嬢さんと試合をしているのは、桐生茜選手。名実ともに52kg以下級日本一の選手です!」
「まあ……。でも、さきほどの、……そうそう、藤堂さん。彼女も日本一だったんでしょう? 確か78kg超級と言ったかしら?」
「た、確かに、藤堂由貴選手も日本一です。でも、同じ日本一でも今まさに上り調子にある桐生選手と藤堂選手では、俺は桐生選手に軍配が上がると思います」
俺の言葉に柔さんのお母さんは「まあ、あんなに小さい体なのに……」と、口に手を当てて驚きを示す。無理もない。俺は視線を前に戻し、二人の試合の様子を見つめる。桐生さんと柔さんは1階級差、つまり4kgの差がある。でも、俺が思うに、柔さんは48kgちょうどだとしても、桐生さんは52kgいっぱいは無いのではないだろうか。
これは俺の勘だが、彼女はいつも50kg程に仕上げて試合に臨んでいるはずだ。だから柔さんのお母さんが両者に体格の差が無いと思ったのも無理はなかった。特に、先の藤堂選手と柔さんの体格差を見た後では。
おっ……。桐生さんの攻勢に受け身一方だった柔さんが攻め始めた。俺はその事実に思わず身震いするほど感動していた。だって、この試合を負けるつもりでいた、あの柔さんがだぜ?
1週間ほど前に電話で桐生さんと詳細を詰めていた際に彼女が口にした言葉が、俺の脳裏に蘇る。
『……多分だけど、その猪熊さんって子、柔道の本当の楽しさを知らないんじゃないかな?』
『本当の楽しさ……?』
『そう。だって、松田さんの話じゃあ、猪熊さんって公式戦どころか練習試合にも出た事無いんでしょう? いつも祖父との練習に明け暮れて……。唯一って言うか、ほんの少しの例外が、ひったくり犯であったり、風見鶏っていうコーチを投げ飛ばしただけ。それじゃあ、柔道の本当の楽しさは分からないんじゃないかなぁ』
俺は彼女の言葉に、その通りだと思い、思わず電話口で膝を打っていた。
『た、確かに……! それじゃあ、柔さんが柔道の楽しさを知れば、もしかしたら……!』
『そういう事。もっとも、柔道を楽しいと彼女に感じてもらうには、私が彼女と対等に戦える事が絶対条件だけどね。だから、私の最初の目標は猪熊さんに柔道って楽しいって思ってもらう事。それが叶ったら、二つ目の目標は……』
『……二つ目の目標は?』と、彼女の答えを促す俺。電話口の向こうで、彼女が微かに笑った気がした。
『二つ目の目標は、彼女に“負けて悔しい!”って思わせる事よ! ふふふ、腕が鳴るわぁっ!!』
彼女の言葉に俺は頬が引きつるのを感じていた。だけど、彼女のその言葉を、俺は荒唐無稽と切り捨てる事は出来なかった。昨年末の全日本選手権で山口かおるを破りそれ以降国内の52kg以下級の女王として君臨し続けている彼女。あの猪熊柔に土を付けられる日本人選手がいるとしたら、それは彼女以外ありえない。
いちスポーツ記者として、俺は是が非でもこの黄金マッチを見たくなってしまった。
「はぁっ、はぁっ!」
桐生さんと組み合っている柔さんの息遣いが荒くなる。もちろんそれは桐生さんも同じだった。
「――あっ!」
一瞬の事だった。柔さんの姿がぶれたと思ったら、つぎの瞬間には彼女は桐生さんの懐に飛び込んでいた。周囲から「――いったぁっ!」の声と、カシャ、カシャと激しいシャッター音が鳴り始める。
ズダーーーン!!
桐生さんの背中が畳に叩きつけられ、滋悟郎氏が「技有りぃっ」と声を張り上げる。
「ああっ、惜しいっ!」
心の底で柔さんの勝利を願っていた俺は思わずそんな声を上げてしまったが、直後、しまったと口を押える。桐生さんは俺の頼みを聞いてはるばる秋田から東京まで来てくれているのに、それはさすがに失礼すぎる。幸い桐生さんは、続く寝技の攻防で俺の上げた声に気づくことは無かったようだ。
その後、柔さんの動きはどんどん良くなっていき、残り試合時間が1分を切るかどうかという時間帯に足払いで有効を奪った。
これで両者のポイントは、互いに技あり一つと有効一つで並んだ事になる。さあ、ここからだ、二人とも! 俺は、柔さんの目が、先ほどの藤堂選手との戦いとは明らかに異なり、活き活きとし始めた事に気づいて、思わず笑みが零れた。
「二人とも、ここからが勝負だ! どっちもがんばれぇっ!!」
試合に没頭している二人に俺の言葉など届かない事を分かっていながら、俺はそう大声を張り上げていた。
そして、一進一退の攻防を続けていた二人の戦いは、互いにポイントが並んだまま4分が経過した。
次話で決着。少し加筆修正が必要なので投稿は週末……かな。