ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「互いに、礼!」
滋悟郎氏の言葉に、私達は開始線で相手に対して頭を下げる。そして、そのまま数歩歩み寄り互いに軽く抱擁し合う。
「桐生さん……、とても強くて驚きました」
「猪熊さんも強かったわよ。って、猪熊さんは藤堂さんから続けての連戦でしょ? それに、サドンデスルールは私から言い出したルールだし、本当の意味で勝った気はしないわ」
それは私の本心だった。いくらあの猪熊柔とは言え、まだ公式戦デビューもしておらず、その上連戦、慣れないルール、更に言えば私にその手口を知られているという不利な条件が重なりながらも、私と延長戦にもつれ込むほどまでに戦われると、とてもではないがいつまでも勝利の余韻に浸っていられる心境では無かった。
「猪熊さん、最後は惜しくも敗れましたが、78kg超級の藤堂選手に見事に勝利し、やはり階級が上の52kgの桐生選手と接戦を演じられたのは、お見事でしたね!」
「猪熊さん、先ほどの敗戦は、やはり藤堂選手との一戦の疲労が影響しましたか!?」
「え、い、いえ、そういう事は関係なく、本当に相手が強くて――」
猪熊柔へのインタビューを今か今かと待ち構えていた報道陣に畳の上で囲まれた彼女は、しどろもどろになりながら言葉を返す。これが公式戦なら畳の上から降りるまでは取材など許可されないのだが、今日は練習試合。まあ、これぐらいは大目に見られるだろう。事実、大会の主催者である日刊エブリ―の松田記者や会場を貸与している西海大学の祐天寺監督は、猪熊柔を取り囲む報道陣を特に止める様子もなく見つめていた。
「これ、お主……、桐生といったな?」
「えっ……」と、背後から投げかけられた言葉に振り返ると、そこにはチャーミングなお爺ちゃんが。
「え、ええ。桐生茜。17歳。こんな髪をしていますが、一応
「ふむ、それはもう分かったわ。日本人のくせにそのように髪を赤く染めるとは、たるんでおると言ってやりたいところじゃが、お主の先ほどの見事な片手袖釣り込みに免じてそれは勘弁してやろう」
にまっと笑みを浮かべる滋悟郎氏に、私も「それはどうも」と笑みを返す。
「片手で仕留めるのみならず、それを技の仕掛けの最中に繰り出すとは、あっぱれ! じゃが、儂の孫はもうあれには引っかからんと心得よ!」
「分かっていますよ。でも、こんな格言があるのをご存じですか? 『切り札は先に見せるな、見せるならさらに奥の手を持て』……。ふふふ、私の切り札があれだけだとは思わない方が良いですよ?」
「はっはっは! よいよい、柔のライバルにこれ以上ない程の娘が現れおったわ!」
「桐生さん、今日はありがとう。さすがの強さだったよ」
私が滋悟郎氏とそんな会話を交わしていると、横からそんな声が投げかけられる。日刊エブリースポーツの松田だ。
「ふふふ、そんな事を言って、本当は猪熊さんが勝つ事を望んでいたんじゃないですか?」
「ははは……、正直言って、そんな気持ちは一切なかったとは言い切れない所もあるけれど、柔さんのあんな表情を見る事が出来たんだから、十分だよ。あらためて、ありがとう桐生さん。……彼女に敗北を与えてくれて」
「くすっ。まあ、敗北を与えたと言っても所詮は練習試合ですからね。しかも彼女にとって色々悪い条件が重なっていた。良い所ドローという所じゃないですか。ねえ、柔ちゃん?」
私が松田さんの背後に視線を投げかけながらそう問いかけると、松田さんは「え……?」と不思議そうな表情で背後を振り返る。おそらく各社の報道機関は、印刷に持ち込む紙面の締め切りの都合もあるのだろう。そこには、報道陣の囲み取材から解放された猪熊柔の姿があった。
「と、とんでもないです、桐生さん。さっきの試合は完全に私の負けです。桐生さんは、――」
「……茜」
「え……?」
猪熊柔の言葉を遮った私に、猪熊柔が可愛らしく首を傾げる。
「お互い高校3年生。花も恥じらう同い年でしょ? 茜、柔でいこうよ! 敬語なんて無し、無し! ねっ?」
「花も恥じらう……。おい、鴨田、恥じらっているか?」、「さあ、どちらかというと花を恥じらうじゃないですかね……?」などと失礼極まりない事を口走っている日刊エブリーコンビのそれぞれの脇腹に高速で肘を入れつつ、「ねっ、良いでしょ、柔ちゃん!?」と彼女の手を取りおねだりする私。
「え、ええ……。それじゃあ、私は……茜さんって呼んでもいい?」
「もちろん! これで私達、友達ね! よろしくね、柔ちゃん!」
やった、念願だった柔ちゃんと友達になれた! はるばる秋田から東京まで来たかいがあったわ。柔ちゃんの手を取りぶんぶんと振り回している私を、柔ちゃんのお母さんが「まあ、柔に良いお友達が出来たようで嬉しいわ」とコロコロと笑っていた。
「おお、猪熊ぁ! 俺は猛烈に感動したぞ! 素晴らしい試合をありがとう!」
突然野太い大きな声が、報道陣が去り大学関係者のみとなり閑散とし始めた武道場に響いた。その声に、女子の同級生に周囲を囲まれて怪我が無いか心配されていた柔ちゃんもびくっとして声の方を振り返る。そこには、うちの部の真田の上背をも上回る巨漢の男性が。
んん!? あのパイナップル頭の男はもしかして……。
「花園君……。ありがとう、花園君も心配して来てくれた――「花園ぉ!!」」
柔ちゃんの言葉を遮って、花園と、大声を上げたのは私だ。
花園薫。原作通りなら、彼は柔ちゃんと武蔵山高校時代からの同窓生で、柔道部の主将のはずだ。色々と省くが、彼は大学で出会った伊東富士子と恋仲になるものの、一時の過ちでその伊東を妊娠させ、彼女の柔道人生に大きな影響を与えた人物。
断っておくが、私はこの男が嫌いな訳ではない。いや、どちらかというとこういうタイプは好きな方だ。だけど、原作をこよなく愛していた身からすれば、私はこの男に『自制しろよ、お前!!』と突っ込みたくてたまらなかった。
私に突然名を呼ばれた事で、花園は柔ちゃんへの突進を止め、茫然とした表情で私を見つめている。その他の面々も同様だ。いったい何事、という顔で私を見ている。
私はそんな外野には目もくれず、花園の前までつかつかと近づきピシャリと言い放つ。
「――正座!!」
「は……?」と素っ頓狂な顔をして私を見下ろす花園に、「――正座と言ったら、正座!!」となおも続ける。その私の怒気を纏った言葉に、さすがに花園も私に従わなければまずい、と感じたのか、いそいそと畳の上で正座をする。
「……学校の成績は?」
「え……? あ、あの桐生さん、一体何を――「学校の成績は!?」」
花園の言葉を遮り再度告げた言葉に、彼はびくっと身を縮め、おずおずと応える。柔ちゃんを含めた周囲の人間は、何だ、何だと私達のやり取りを注視している。
「え、えっと……数学は4で英語は――」
「それじゃない! 保健の成績よ!」
「ほ、保健……? 保健はその2だったような――」
「――低い! そんなんだから、無計画なまま女の子を妊娠させるのよ! 去勢するわよ!?」
「ちょ、ちょっと桐生さ……あ、茜さん。いきなり何を言っているの?」
私のあまりの剣幕に皆が私を遠巻きに見つめる中、意を決して柔ちゃんが私に声をかけてくる。
「何? 去勢の話? 知らないの? 去勢っていうのは、男のちん――」
「――それは知ってます!」 私に皆まで言わせず、私の口を閉ざそうと顔を真っ赤にしながら柔ちゃんが口に手を伸ばしてくる。
いや、まあ去勢がやりすぎだと言う事は分かる。本当に去勢してしまうと、伊東富士子ちゃんと花園との間にフクちゃんが生まれなくなってしまう。うん……? 妊娠時期が変わってしまっても、フクちゃんは大丈夫かな?
不意に不安にさいなまれたが、私はすぐにドラえもんのセワシ理論を思い出す。うん……、うん。大丈夫、大丈夫だ。内心で安堵の息をついた私は、正座したまま言葉もなく私を見上げている花園を見下ろして忠告する。
「良い……? 猿じゃないんだから、ちゃんと致す時に避妊は忘れない事! また同じことを繰り返したら、私の桐生スペシャルを喰らわせてやるわよ!」
そこでようやく花園は事態を飲み込めたようだ。心外だっと言わんばかりに立ち上がり、この場にいる全員に聞こえるほどの大音量で言い放つ。
「ま、またとはどういう意味だ! お、俺はまだ童貞だぁ!」
童貞だぁ……童貞だぁ……童貞だぁ……。空虚な武道場にその単語だけが浸透するようにどこまでも響き渡っていく。
皆が花園を見つめる中、彼は自分が何を言ったのか悟ったのか、突然頭から湯気を発したかと思うと、逃げるように武道場から駆け去っていった。
「……ちょっと厳しく言いすぎたかな」
去り際に、彼の瞳から水滴が零れ落ちるのを見て、私はそう呟く。まあ、これは一方的に男の方だけが悪い話じゃないし。富士子ちゃんに会ったら、彼女にもちゃんと言い聞かせておかないといけない。
ふんぬぅっ、と鼻息荒くそう決心していた私だったが、松田さんが「いや、ちょっとどころじゃなく、今君は一人の男の自尊心を叩き潰したんじゃないかな……」とボソッと呟くと、その場に残っていた皆が一様にうんうん、と同意するように頷いていた。
「ところで、もうこんな時間なんですけど、今日私はどこに泊まれば良いんですか?」
花園事件からほどなくして私服に着替え終わった私は、窓から差し込む緋色の日差しに視線を投げながら、本日の主催者に問いかける。だが、その主催者の一人である松田さんは、私のその問いかけに意味が分かっていない表情を顔に浮かべる。
「だから、私が今日宿泊するホテルですよ? 私を秋田から呼び寄せた主催者なんですし、どこか用意してくれているんでしょう? 帝国ホテル? それともオークラですか? 贅沢はいいませんから、私はどちらでも良いですよ?」
その私の言葉に、途端に日刊エブリ―コンビがこそこそと、「お、おい。鴨田、お前ホテルは……」、「し、知りませんよ、そんな事。桐生さんを呼んだのは松田さんでしょ?」というやり取りを始める。
こいつら……。私と柔ちゃんの試合をセッティングする事にかまけて、その後の事を完全に頭から除外していたわね……。むう、このお馬鹿さん達をどうしてくれよう。そんな事を考えていた時、私と松田さんの顔を交互に見て困惑している様子の柔ちゃんが視界に入る。その時、私の脳裏に妙案が浮かんだ。
「ふう……ホテル、とり忘れていたわけね……」
「め、面目ない、桐生さん。帝国やオークラとはいかないけれど、どこか今の時間からでも空いているビジネスホテルが無いかすぐに調べる――「もう良いですよ、松田さん」」
「え……?」
「もう良いって言ったんです。その代わり、今日は私を松田さんの自宅に泊めて下さい」
「「「え、えぇぇぇ!!」」」
私のその発言に、日刊エブリ―コンビばかりか、柔ちゃんまで口を押えて大声を上げた。
「そ、それは駄目だよ、桐生さん! 君は女子高生じゃないか! 俺は一人暮らしだし、そんな事させられないよ!」
「そ、そうよ、桐生さ――、じゃなかった、茜さん! 女の子が男の人の家に泊まるなんて!」
松田さんが慌てるのは分かるが、何故か柔ちゃんまで一緒になって泡を食ったように私に詰め寄る。うふふふふ……。本人はまだ自分の気持ちに気づいていないかもしれないけれど、これはもしかすると“じぇらじぇら”の兆候かもしれない。うぷぷぷ。ああ、最高。これだけで、白米3杯はお代わりできるわ。ううん、でもまだまだ桐生ちゃんはお代わりを求めるわよ♪
「えぇ? でも松田さんもこの間女子高生を家に泊めたでしょう?」
「ち、違う! 家には泊めたけど、俺は外で寝た――」
「――松田さん!」
「と、とと! な、何でもない! そ、そんな事するはずがないだろう!?」
うぷぷぷ。白米4杯いただきました! 笑いを必死でこらえていると、柔ちゃんが一見常識的な発言をする。
「いい、茜さん。男の人って、ほんとにHなんだから、女の子がそんな危ない事をしたら駄目よ。きっと松田さんの家には、Hな本がいーーっぱいあって、壁にもそんなポスターが貼られているわ」
「ち、違っ!? あれは鴨田が置いていった奴で!」、「何言ってんすか、松田さん!?」と、突然泡を食ったように慌て出す日刊エブリ―コンビを他所に、私は柔ちゃんをからかう事をやめない。
「へー、柔ちゃんってまるで松田さんの家に行った事があるみたい。もしかして柔ちゃん……」
「い、行ってないわよ、私は! そうじゃなくて、私はあくまで一般論を言っているの!」
くっくくく。白米5杯に達したわ。でも、この件でからかうのはそろそろ終わりにしてあげよう。この場には滋悟郎氏も柔ちゃんのお母さんもいるから、変に勘繰られてはまずい。私はこの二人の恋路を応援したいのであって、決して邪魔をしたいわけでは無いのだ。
「だーいじょうぶよぉ、柔ちゃん。私、こう見えても全日本52kg以下級のチャンピオンよ。松田さんが夜に私を襲おうと迫ってきても、返り討ちにしてあげるわ!」
「あ、確かに松田さんでは桐生さんにはどう逆立ちしても勝てませんね。あはは、それこそ去勢されちゃいますよ」と鴨田カメラマン。
「うるせぇっ!」と、その鴨田さんの頭を小突きながら松田さんが「うーむ……」と唸り声を上げる。その横で柔ちゃんもおろおろと思案顔だ。
さあ、どうでる? どうする、柔ちゃん? 私は別に松田さんの家に泊まっても良いのよ。さっきは冗談であんな事を言ったけれど、性欲魔人の風祭じゃあるまいし、漢 松田耕作がそんな事をするはずがないんだから。そんな事を考えていると、考えがまとまったのか、柔ちゃんが口を開いた。
「あ、あの! それなら、今日は私の家に泊まったらどう? うちなら、使っていない部屋もあるし。ねえ、お母さん、お爺ちゃん。それでも良いわよね?」
「もちろんよ、柔。今日は是非うちにいらして、桐生さん」
「うむっ。袖すり合うも他生の縁というしな。儂は一向にかまわぬ!」
玉緒さんと滋悟郎氏の言葉に、松田さんはほっとした顔で胸をなでおろしていた。ふふふ、策士 桐生茜。計算どおりっ!! 心の内で、私は再びぐっとガッツポーズを決めていた。
後一話で終わりです。もう本日中に一気に投稿するつもりです。