ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「さあ、着いたわ。入って、入って、桐生さん」
柔ちゃんのお母さん、玉緒さんが思わず身構えてしまいそうになるほど立派な門構えの扉を開き私をそう手招きするが、不意に何かに気づいたのか口に手を当てて、ホホホと照れ笑いをする。
「いやだわ、私ったら。私こそ長い間留守にしていたのに」
「くすっ。お母さんったらもう。ほら、お母さんも茜さんも入って」
母の様子に笑みを浮かべた柔ちゃんが、呆れた口調で私達を手招きする。柔ちゃんの表情がやわらかい。おそらくお母さんが戻ってきてくれた事が嬉しいんだろうな。
あの西海大学での試合後、私は滋悟郎氏と柔ちゃん、それに玉緒さんと一緒にタクシーでここまで来ていた。ちなみに祐天寺監督の、是非この機会に我が柔道部を見学して行って欲しいと言うしつこい誘いを断るのが大変だった。
私は、ぐるりと家を取り囲んでいる漆喰の白壁に視線を投げた。漫画では何度か見た事があるけれど、実際に見ると感動もひとしおね。それに、広い! さすがは自宅に柔道場を併設させているだけの事はあるわ。山手線から少し外れているとは言え、それでも十分以上に地価が高いと思われるこの地を保有し立派な家を構えているとは、猪熊家って意外とブルジョワなのかしら……?
そんな風に感慨に浸っている私を焦れたのか、柔ちゃんが私のバッグを手に取り、「ほら、茜さん、どうぞ」と笑顔を向ける。
「あ、う、うん。おじゃまします」
そう言って私は、夢だった猪熊家の敷居を跨いだのだった。
「さあ、今日は柔のお友達も来てくれているし、はりきって晩御飯を用意しなきゃ。柔、桐生さんをお父さんの部屋に案内したら、お風呂を使って貰って。柔もだけど、汗を流したいでしょう?」
玉緒さんは縁側から居間に入り、壁にかけられていたエプロンを身に着けながらそう言葉を投げかける。
「分かったわ、お母さん。茜さん、二階に行きましょう」
私は柔ちゃんに案内されるまま、縁側の突き当りにある階段から二階に上がる。「こっちよ」と先導する柔ちゃんの後をついて行きながら視線を横に向けると、可愛らしくポップ調でやわら♡と書かれた板がぶら下がった扉が視界に入る。
「あの……柔ちゃん」
私の言葉に、「え……?」と振り返る柔ちゃん。
「あのー……、柔ちゃんさえ良かったらだけど……」
私の言葉に、柔ちゃんが不思議そうに首をこてんと傾げた。
「やっぱりお客様に床に寝てもらって、私がベッドっていうのは……」
「良いの、良いの。私が無理言って柔ちゃんと一緒に寝たいなんて言ったんだから」
貸し与えられた布団を柔ちゃんのベッド脇のフローリングの床にバフっと広げながら、私は柔ちゃんに返事をする。
「せっかく柔ちゃんと友達になれたんだし、寝ながら色々お話しできたらなって思ったの。柔ちゃんは迷惑じゃなかった?」
「迷惑だなんて……。私も茜さんにはいろいろと聞きたい事があったから、むしろ嬉しいわ。はい、掛布団と枕」
「ありがとう」と応えながらそれを受け取った私は、敷いたばかりの布団の上にそれを重ねる。
「お風呂、先に入って、茜さん」
「良いの? 柔ちゃんこそ2連戦もして疲れているんじゃない? 私より柔ちゃんが先に入ってよ」
「ううん、私は大丈夫。茜さんこそ、秋田から来て疲れているでしょう? 先に入って」
その後私達は、「いやいや、柔ちゃんが……」、「ううん、茜さんが……」というやり取りを何度か繰り返した後折衷案を選択する結果となった。
「わっ。柔ちゃんってもしかして着やせするタイプ? 胸、大きくない?」
私が湯船の中から首を伸ばすようにしてこちらに背を向けて身体を洗っている柔ちゃんを覗き込むと、柔ちゃんは恥ずかしそうに胸を押さえて身体を丸める。
「も、もう! そんなに見ないでよ、茜さん。お爺ちゃんの特訓を毎日しているから、私の身体普通の女の子より筋肉がついちゃって恥ずかしいんだから――。きゃっ! ちょっ、茜さん、どこ触ってるの!?」
「いや、ほんとに筋肉がついているかなって思って……」と、私は柔ちゃんの背後からその腕やお腹に手を伸ばして、軽く揉みこむ。
「そんなに恥ずかしがること無いわよ、柔ちゃん。ちゃーんと、女の子の身体してるって。間違いない。これなら松田さんもイチコロよ」
「――!? 何でそこで松田さんの名前が出てくるのよ!?」
「うーん、なんとなく? そんな事より、ほら、私の方こそ腹筋が割れちゃっているでしょ? 多分筋肉がついている量で言えば、柔ちゃんより私の方が多いんじゃないかな。まあ、私よりマシだなんて言われても、柔ちゃんとしては安心できないか?」
「そ、そんな事ないわ。茜さん、私よりスタイルが良いし、肌も白くて羨ましい……」
「そうかなぁ? 絶対柔ちゃんの身体の方が男好きすると思うけど。あ、でも、ここが擦り傷だらけなのは、柔道選手あるあるよね」と、私は腹ばい練習で細かな傷が全体に及んでいる前腕部を柔ちゃんに掲げて見せる。
「本当だ。私も傷だらけ。ふふふ」
柔ちゃんも、私同様に細かなすり傷がついた前腕部を私に見えるように掲げる。それを見て「うんうん、分かる、分かる」と頷いていた私だが、不意に柔ちゃんの左膝に大きな青たんが出来ている事に気づく。
「ちょっ、どうしたのよ、柔ちゃん!? ここ、真っ青になっているじゃない! さては何処かで転んだわね。全く、柔道に関してはあれほどセンス抜群なのに、変な所でどんくさいんだから。あはははは」
と高笑いしていたら、その柔ちゃんが顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。
「――これは茜さんが蹴ったからでしょ! 凄く痛かったんだから!」
「え……? 私、そんな事したっけ?」
「――しました!」
そんな風な柔ちゃんとの裸でのじゃれ合いは、玉緒さんが「ご飯の支度が出来たから、そろそろ上がりなさい」という声がすりガラスの向こう側から投げかけられるまで続いた。
「むっ、このいぶりがっこは実に美味いのう!」
「まあ、本当に美味しいわ。桐生さん、これは?」と、燻製干ししたたくあんを齧った玉緒さんも目を丸くする。
「それは、母方のお祖母ちゃんの自家製なんです。気に入ってくれたようで良かったです。あ、滋悟郎さん、このいぶりがっこタルタルもご飯につけて食べてみてください。きっと合いますから」
私が小瓶に入った、やはりお祖母ちゃん自家製のタルタルソースを勧めると、さっそく滋悟郎さんがそれを湯気の立っている白米に乗せ口に運ぶ。
「ううむっ! 実に美味い! これに免じて、昼間の試合で儂に物言いした生意気な態度は水に流してやるわ! はっはっは!」
「だからあれはただの独り言だったって、さっきから言っているじゃないですか。ちょっと頭の中で“いないいないばあ”を唱えていたらついポロっと口に出ちゃって。全日本柔道選手権大会五連覇の滋悟郎さんにそんな失礼な事言いませんよ、私は」
「ぬけぬけとよう言うわ! 玉緒さんっ、白米おかわりぢゃ!! それと儂は七連覇ぢゃ!」と、いぶりがっこタルタルで食事のペースの早くなった滋悟郎さんが、玉緒さんに空になったお茶碗を差し出す。玉緒さんは、はいはい、と嬉しそうにそれを受け取りながら私に顔を向ける。
「でも、本当に美味しいわ、桐生さん。こんな素敵なお土産を頂いちゃって、逆に申し訳ないわね」
「とんでもないです。こちらこそ泊めていただいたばかりか、こんなごちそうまで頂いて。あ、このひじきの五目煮、美味しいですねー」
「そうじゃろう! 玉緒さんの作る料理は絶品ぢゃからのう! 柔、お前もよく分からんストロング金剛などという牛丼ばかり作っておらんで、このような料理を玉緒さんから習わんか!」
「ビーフ・ストロガノフです! ふんだっ! もうお爺ちゃんにはご飯作ってあげないよーだ!」
滋悟郎さんの言葉に、柔ちゃんがベェッと舌を出して文句を言う。ぷっ、なかなかどうして仲のいい祖父と孫じゃない。
「あはは。じゃあ、滋悟郎さん。今度機会があったら私がごちそうしますよ。こう見えても私の料理、定評があるんですよ。この間も手作りのチョコが大人気だったんですから」
「ほう! では、いつか頼むとしよう。忘れるでないぞ! よしっ、玉緒さん。あれを出してくれんか!」
「ああ、あれですね。ふふふ、よほど今日の事が嬉しかったんですね」と玉緒さんが席を立ったかと思うと、台所からいそいそと高級そうなラベルの貼られた一升瓶を腕に抱えて戻ってきた。
「はい、どうぞ、お義父さん」と、玉緒さん手ずから、お猪口になみなみとその一升瓶に入っていた透明な液体を注がれた滋悟郎さん。彼はそれを口に運び、キューっと一気に飲み干す。途端に彼は赤ら顔になり、ご満悦の表情を浮かべた。
「美味い! やはり地獄車は良いのぉ! むっ? どうした桐生よ? お主も飲んでみるか?」
私が物欲しそうに見ていたのを察したのか、滋悟郎さんがそう言って玉緒さんの手から一升瓶をひったくり、私にそれを向けてくる。
わっ。久しぶりのお酒。お酒なんて前世以来だわ。俄然テンションの上がった私は「――ごちになります!」とテーブルの上にあった空のお猪口を手に取り、それを捧げ持つようにして滋悟郎さんに差し出す。
「おう! いけ、いけ!」とそのお猪口に滋悟郎さんがお酒を注ごうとしてくれるが、そこで外野から制止の声が飛んだ。
「ちょっ!? 何言っているのよ、お爺ちゃん! 茜さんはまだ高校生なのよ! お酒なんて駄目に決まっているじゃない! 茜さんも茜さんよ! 何を慣れた様子でいただこうとしているのよ!」
「そうですよ、お義父さん。お酒なんて飲ませて、大事な娘さんをお預かりしているのに、桐生さんのご両親にどう説明なさるつもりなんですか?」
「む、むう……」
柔ちゃんはともかく玉緒さんには弱い滋悟郎さんが、途端にばつの悪そうな顔で口ごもる。
えーー、ちょっとぐらい良いじゃない、と柔ちゃんの手に渡った一升瓶を私が名残惜し気に見つめていると、柔ちゃんは(駄目よっ!)と言わんばかりにそれを私の視界から隠す。
ちぇっ。柔ちゃんだって短大に入学して直ぐに、サークルのコンパでお酒を飲んでへべれけになったくせにぃ……。
「えっ? 柔ちゃん、スノボやった事ないの? だったら冬休みに秋田においでよ! 良いスキー場あるわよ。夜はうちに泊まったら良いからさ!」
「ほんと!? 嬉しい! お母さん、行って良い?」
「もちろんよ。行ってらっしゃい。ふふふ、柔にこんなに良いお友達が出来たなんて、嬉しいわ」
「柔ぁッ! 今日この娘に負けたばかりだと言うのに、そのような事でオリンピックで金メダルを取れると思うておるのか!」
「べーだ! 私、オリンピックで金メダルなんて考えてません!」
「なんじゃとっ!?」と柔ちゃんの言葉に激高する滋五郎さんだったが、それに関しては私も滋悟郎さんに賛同する立場だ。玉緒さんお手製の芋煮に舌鼓を打っていた私は、口の中の煮っころがしをゴクンと呑み込み、隣の柔ちゃんに顔を向ける。
「えー、柔ちゃん、オリンピック行かないの? 行こうよぉ、一緒に。私が52kg以下級、柔ちゃんが48kg以下級の日本代表になってさ」
「で、でも、桐生さんはともかく私なんかが48kg以下級の代表だなんてとても……」
「何言ってんのよ。柔ちゃんより強い48kg以下級の選手なんて国内にいやしないわよ。オリンピック2連覇の私が保証する!」
そう胸を張る私。しかし柔ちゃんは「ああ、茜さんまでお爺ちゃんに感化され始めているわ……」と呆れた様子で首を振るだけだった。
「それにしても桐生よ。お主のその柔道の師はいったい誰じゃ? まさか学校の教師なぞとは言わぬじゃろうな?」
その滋悟郎さんのいつになく真剣な様子で発せられた言葉に、柔ちゃんと玉緒さんの視線が私に自然と集まる。私は右手に握っていたお箸をそっと置き、ふーむと首を傾げた。師……か。さほど特筆すべき人はいないんだよね。前世では高校から推薦で大学に進んで、その過程でコーチ陣に指導はされたけど、これはという人は別にいない。
「そうですね……。師と呼べるような固有名詞は浮かんできませんが、強いて言えば、柔術から柔道が誕生して100年以上もの間連綿と続く柔道の歴史そのものが私の師、でしょうかね。だからそういう意味では、その歴史の中にいる滋五郎さんも私の師という事になりますね」
私の答えに満足したのか、滋悟郎さんは手に持っていたお猪口をぐっと口に運び、一口で飲み干した後上機嫌に口を開く。
「気に入った! お主には儂のサイン入りの自伝を進呈してやろう!」
「あざっす!」と頭を下げる私。
「お母さん、茜さんってお爺ちゃんと馬が合いそうね」
「ほんとに。こんなに嬉しそうなお義父さんを見るのは久しぶりね。ふふふ。二人目の孫が出来たように思っているのかもしれないわね」
柔ちゃんと玉緒さんは私達に視線を投げかけ、そんな会話を交わしていた。
「そろそろ電気を消すわね、茜さん」
「うん、良いわよ」と答えた私は、布団の中に潜り込みながら照明の落ちた豆球に照らされた柔ちゃんの部屋の壁に視線を投げた。そこには何やらレトロ感のあるポスターが。
「そう言えば、柔ちゃんって〇年隊のファンなの? 誰が一押し?」
「え、う、うん。それはやっぱりリーダーの錦〇さんかなぁ」
「えぇ? やめときなよ、あの人将来禿げるよ?」
「――なんでそんな事が分かるのよ!?」
よほど私の言葉がショックだったのか、横になったばかりだったベッドから飛び起き、驚愕の表情で私を見下ろす柔ちゃん。……どうして分かるって言われても。うーん、こればかりは上手く説明できないなぁ。
でも、そう言えばこの時期の柔ちゃんって結構ミーハーだった気がするなぁ。そうだ、大事な事を忘れてた。せっかくだから、この機会に忠告しておこう。
「そんな事より、柔ちゃん。風祭って男に言い寄られているでしょう?」
「い、言い寄られているって、そんな事は……」
薄暗い部屋の中、私のその言葉に柔ちゃんが動揺するように身じろぎする気配。
「あの男、2か月前に武道館で私の事をナンパしてきたのよ。ああいう男は、女性なら誰にでも甘い言葉をかけてくるんだから、もう、魔物よ、魔物!」
「――! 風祭さんは、魔物じゃありません!」
「いいや、魔物よ。私には分かるわ。だいたいあいつ、会うなり私の手の甲にキスしてきたのよ? 信じられないでしょ!?」
「キ、キス……。で、でも風祭さんは、軽い挨拶のつもりでそんな事をしたのかも……」
「軽い挨拶で手にキスをしてくる日本人なんかいないってば!」と、先日の不愉快な出来事を思い出し、私は柔ちゃんに怒鳴り返す。
「良い、柔ちゃん? 人生経験豊富な私からの忠告よ。あいつには気を付ける事! 良いわね?」
「人生経験豊富って、茜さん、私と同い年じゃない……」と、いまだ私の言葉に納得できない様子でぶつぶつと呟く柔ちゃん。
「と、とにかく! 私が言っているのは、恋愛対象にする男は、自然と笑みが浮かぶような、あるがままの自然体の自分を出せるような男を選んだ方が良いって事! いるでしょう? 柔ちゃんの周りにもそんな男?」
偉そうな事を言っているが、前世も含めても彼氏がいた経験が皆無な私が、もとより柔ちゃんに適切な言葉をかけられるはずもなかった。言いたい事は、『風祭、駄目、絶対』。それだけなのである。こんな時は、誤謬力の無い自分が恨めしい。
「あるがままの自然体の自分を出せる……? うーん、いないけどなぁ。あっ、そうだ。桐生さんの方こそ、誰か気になる人がいたりするの?」
そう言って、ベッドの上から肩肘を付きながらこちらを見下ろす柔ちゃん。
「私の気になる人? そりゃあ、やっぱり三五十五かな、うん」
「誰よ、その変な名前の人!?」
「えっと、麿みたいなクリッとした眉をしてて、時々ストレスでその眉にミステリーサークルみたいな紋様が出来るのがまたかわゆし。あっ、一言で言えば、柔ちゃんと同類みたいな感じよ!」
「――それってどういう意味!?」
夢にまで見た猪熊柔との初邂逅の日の夜はそうやって更けていった。そこは同世代の花も恥じらう女子同士、おしゃべりは尽きず、私達はどちらが先に意識を手放したかも分からないほどそのおしゃべりを楽しんだ。
「それじゃあ、滋悟郎さん、玉緒さん。お世話になりました!」
翌朝。わざわざ洗濯してくれていた柔道着と着替えが入った鞄を肩にかけた私は、猪熊家の立派な門構えの所まで見送りに出て来てくれた彼らにそう別れの挨拶をする。
「うむ! 桐生、柔に勝ったからと言って、決して精進を怠るでないぞ! お主も、まだまだじゃという事を肝に命じよ! 世界は広いからな!」
「桐生さん、とても楽しい時間だったわ。また東京に来られたら、是非うちに寄って行って頂戴ね」
「はい、もちろんです! 今度東京に来た時は、是非柔道を教えてくださいね、滋悟郎さん。玉緒さんも、こちらこそ楽しかったです。お土産もこんなにいっぱい貰って。本当にありがとうございました!」
そして私は、柔ちゃんの手を取り言葉を投げかける。
「柔ちゃん、いつでも電話してきてね!」
「茜さん……。うん、また電話するわ。今度は一緒にお買い物とかもしようね」
「良いわね。じゃあ、韓国でお買い物しましょう!」という私の返事に、柔ちゃんは引きつった笑いを返す。
私達がそんな会話を交わしていた時、道路の向こうからドルルルル……と、こちらに近づいて来るバイクの駆動音が聞こえて来た。
「あのバイク……」と、そのバイクに見覚えがあったのか柔ちゃんが口に手を当てる。そのバイクは私達の前で停止し、ヘルメットをかぶっていた男がそれを脱ぐ。
バイクにまたがっていた男。それは日刊エブリ―スポーツの松田記者だった。
「日刊エブリ―、何をしにきおった?」という滋悟郎さんに軽く頭を下げた松田さんは、私達に視線を投げる。
「お早うございます、皆さん。良かった、間に合った。桐生さん、東京駅から帰るんだろう? 良かったら、そこまで送っていくよ」
そう言って、右ひじに引っかけていたもう一つのヘルメットを私に差し出す松田さん。
「良いんですか? それじゃあ、せっかくだからお言葉に甘えようかな」
どこかでタクシーを捕まえようと思っていた私は差し出されたそのヘルメットに手を伸ばし、それを頭からスポッとかぶる。その間に松田さんは、柔ちゃんに挨拶の言葉もそぞろに興奮した様子で口を開く。
「柔さん、今日の俺の記事見てくれた? あの後会社に戻ってあの試合の記事を書いていて、俺もう興奮が抑えられなかったよ。くーー、ほんと名勝負だったよなぁ!」
あの記事……? ああ、日刊エブリ―スポーツの今日の朝刊の事か。もちろん私も目にしている。というか、日刊エブリ―スポーツを含めたほとんどの新聞を滋五郎さんは購読しているので、朝食卓を囲んだ時に私も読ませてもらっていた。
日刊エブリ―スポーツ以外の新聞は、柔ちゃんが72kg超級の藤堂さんに一本勝ちをした記事が一面に掲載され、私との試合はその隅に小さく書かれていただけだったが、日刊エブリ―スポーツは違った。
試合中の写真こそ無かったものの、試合後に私と柔ちゃんが抱き合う光景が一面に掲載され、その見出しは右半分に『猪熊柔! デビュー戦で女王 桐生茜を追い詰める激闘!』、そして左半分には『これが桐生茜だ! 桐生スペシャルで貫禄の一本勝ち!』と来たものだ。
確かにあの試合の後、最後に放った技の名を松田さんに問われたから正直に答えていたが、まさか新聞の見出しに堂々と掲載されるとは思わなかった。(ちなみにどの新聞にも祐天寺監督の『桐生茜選手は、私の監督生命をかけてでも西海大学に来てもらう!』と載っていたのには閉口した)
(ま、別に隠すほどのものじゃないし良いんだけどね)、と会話を交わす二人に視線を移すと、柔ちゃんが何やら松田さんに苦言を呈していた。
「松田さん、私の時みたいに勝手な記事を書いて、茜さんに迷惑かけないで下さいね!」
「私の時みたいだなんて、心外だなぁ。俺がいつ柔さんを困らせたんだよ? 俺はただ――」
「――いつもです!」
松田さんにおかんむりな柔ちゃんは、バイクに跨ったままの松田さんに食って掛かっている。その松田さんは柔さんの剣幕にたじたじだ。ぷっ、くすくすくす。思わず吹き出しそうになってしまった私は、柔ちゃんの肩にポンと手を置き「ほら、自然体じゃない」と耳元で囁く。
「え……?」と、きょとんとした顔で振り返る柔ちゃんに私はウィンクだけを返し、「じゃ、よろしく!」とバイクに跨った松田さんの後ろのスペースに腰を下ろした。そして松田さんの腰に手を回そうとして不意に忘れていた事を思い出し、ヘルメットのバイザーを上げて柔ちゃんに問いかける。
「ね、柔ちゃん。楽しかったっしょ、柔道?」
その問いかけに柔ちゃんは、一瞬困惑した表情を顔に浮かべたが、すぐにはにかむような笑顔で頷いてくれた。
「ふふふ。じゃあねぇ、私に負けて悔しかった?」
「――! ……。……次は負けないんだから」
ぼそぼそと蚊の鳴くような小声で発せられた言葉は、その裏に隠された感情と共にしっかりと私の耳に届く。そしてそれは、私達の会話を固唾を飲んで聞いていた松田さんにも届いていたようだ。
咄嗟に後ろを振り返った松田さんと視線を交わした私は、片手で彼とハイタッチを交わし喜びを露わにする。あはっ、ミッション成功! やったね、松田さん!
「もう、何をそんなに意気投合しているのよ……! 本当に会ったのは昨日で3回目だったの!?」
そんな柔ちゃんの言葉を笑って聞き流しながら、私はお世話になった猪熊邸を後にした。
松田さんの運転するバイクが、渋滞する車を横目に軽快に進んでいく。雑多な東京の街並みを背景に、次々と現れては後方に過ぎ去っていく色とりどりの車の列を眺めながら、私は一人歌を口ずさんでいた。
「……ページをめくるとぉ いつもそこにきみがいたぁ♪ ノートの落書きぃ いつもそこに君がいたぁ♪ アールバムを眺めては 懐かしく思うんだぁ♪」
松田さんは私が後ろで歌を口ずさんでいる事など全く気づかない様子で、先ほどからしきりに、「昨日の試合は凄かった」、「柔さんと桐生さんの動きがどんどん……」、などと興奮したようにまくし立てている。
全く、相変わらずなんだから……。原作と何一つ変わらないその松田さんの子供のようなはしゃぎぶりに、私は歌を歌うのを止めて、松田さんのくすんだ水色のジャンパーの背中にヘルメットを押し付け、そっと呟く。
「こら、松田。援護射撃はしてあげるけど、最後の一本はちゃんとあなたが柔ちゃんから奪うんだよ。そこの所分かってる?」
「えっ? 何か言った、桐生さん?」と、呑気にこちらを振り返る松田さん。私の気持ちも知らずにこいつぅ……。
「言いました! 松田さんは、今度私が東京に来た時に、私のために帝国ホテルのスイートルームを確保しても、ばちは当たらないと思う!」
「えぇっ!? 勘弁してくれよ、桐生さん。うちの会社の給料少ないんだからさぁ!」
「勘弁してあげないよーだ! あははは!」
4月の東京の空は、私達の前途を祝福しているかのように、突き抜けるような雲一つない日本晴れの空だった。
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日刊エブリ―スポーツ 1面
『これが桐生茜だ! 桐生スペシャルで貫禄の一本勝ち!』
この日、日本女子柔道界の歴史に新たな1ページが加わった。その1ページが生まれた場所は、8,000人以上の観衆が集う日本武道館ではなく、公式戦ですら無かった。それは、信じられない事に、観衆僅か数十人の都内の大学の柔道場で行われた練習試合から生まれていた。
対戦者は、今や昇り龍の勢いの女子52kg以下級の女王 桐生茜と、本誌が追い続けてきた、かつて全日本柔道選手権大会で五連覇した猪熊滋五郎氏が手ずから育てた猪熊柔。
私は断言する。この日二人が展開した死闘は、今後日本柔道が続いていく限り永遠に語り継がれていく事になる事だろう名勝負だったと。試合結果は既に述べているように、延長戦に突入してから桐生茜が放った隠し技、『片手袖釣り込み腰』改め本人曰く『桐生スペシャル』により桐生茜の勝利で終わった。
だが、これまでの公式戦の全ての試合で誰も3分以上組み合う事を許さなかった桐生を相手に延長戦までもつれ込み、あまつさえ誰も見た事の無い彼女の切り札である『桐生スペシャル』を引き出した猪熊柔の力もまた、紛れもなく本物だった。
桐生茜の試合をこれまでにご覧になった事のある者なら分かるだろうが、彼女の柔道はポイントを守ると言う意識など皆無の、常に一本のみを狙う苛烈極まりない柔道である。それは、これまでの公式戦の全てを彼女が一本勝ちで制してきている事から明らか。
対して猪熊柔の柔道も桐生茜の柔道と同様に常に一本を狙う柔道でありながら、彼女のそれは、一瞬の間合いとタイミングで相手を投げ飛ばす、言わば名刀の切れ味を想起させる
互いに技ありと有効を取った後に行われた練習試合ならではの特別ルールによる延長戦。共に体力は限界に近付いているだろうに、両者の動きは逆に無駄な物を削ぎ落していくかのように洗練されていく。何も事情を知らない者がこの試合を見ればとてもではないが信じられないだろう。この両者の内の一方が日本女子52kg以下級の絶対女王であり、もう一方が対外試合をこの日初めて行う初段ですらない柔道選手だなどと。
戦いの後互いの健闘をたたえ合い抱擁する二人を見て、私は来年韓国で開催されるソウルオリンピックでの日本勢の活躍に今から胸を躍らせている。桐生茜と猪熊柔。彼女達ならたとえ世界の強豪を相手にしても、きっと世界をあっと驚かせる戦いをしてくれる事だろう。私は今後も彼女達を追い続けていくつもりだ。
≪松田耕作≫
はい、これにて第1章 黎明編 完結です。
前作の投稿ペースをご存じの方はお分かりかと思いますが、自分はある程度骨格となるストックを貯めた上で投稿を進めるタイプですので、ストックが尽きた以上はしばらく充電期間を頂こうと思います。だいたい1か月から2か月程度でしょうか。少なくとも1章分は貯めておきたいですね。そういう意味では第2章は高校3年生編。そしていよいよ第3章はソウルオリンピック編……かなぁ。ソウルオリンピック自体の構想は漠然としたものが既にあるので、どうにかそこまではエタらず書き進めたいとは思っています。
本作の投稿を始めたばかりの頃は、誰も見てくれなくてもそれもまた一興と虚勢を張っておりましたが、蓋を開けてみれば週間ランキングで一瞬1位になるのを発見するなど、驚きの連続でした。これはひとえに、読者の皆様はもちろん、本作を推薦してくれた方や、イラストを投稿してくれた方など皆さまのおかげだと思っています。
たくさんの感想や高評価もありがとうございます。一日に何度も見返すほど、感想や評価というものは書き手にとっての活力源になっております。
それでは、またこの作品に戻ってくるその時までお待ちいただけると幸いです。ではでは。