ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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第2章 萌芽編(高校3年生)
15話 夢なき者に成功なし


「……えっと、柔ちゃんの家の電話番号は、と。あ、あった、あった」

 

あの東京での柔ちゃんとの練習試合から一カ月が過ぎた。もう東北は桜散る新たな出会いの季節となっていて、私も高校3年生に進級していた。私は、柔ちゃんに確認したい事があり、夕食の後自室の子機から東京の猪熊邸に電話をかけようと、受話器を手に手帳を捲る。

 

ピ、ポ、パ、ポ……と、私の指の動きに合わせて人工的な電子音を立てる受話器。猫の頭を模した平べったいクッションの上にぺたんと座り込んだ私は、耳に当てた受話器から呼び出し音が鳴り出した事でほっと息を吐く。するとどういうわけか、その吐息が吐き切らないワンコールにも満たないタイミングで突然、ガチャッと受話器の上がる音。

 

「あっ、やわ――」

 

『――もう電話してこないでったら!!』

 

ガチャンッ!!

 

ツー、ツー……。

 

え、何が一体どうした……?

 

思わず受話器を耳から離してしまうほど激しい音を立てて電話を切られた私は、茫然とその受話器を見つめていた。

 

 

 

「あはは。そう言う事だったんだ。それはタイミングが悪かったわね。でも、その須藤って子もかわいいじゃない。お望み通り寝技をやってあげたら?」

 

『もう、笑い事じゃないわよ、茜さん! その子、私のお尻触ってきたり、バスで絡んできたり本当に大変だったんだから!』

 

電話口の向こうで柔ちゃんがぷりぷり怒っている様子が、受話器越しに伝わってくる。あの後少し時間を置いてもう一度猪熊邸にかけ直した私は、玉緒さんに取り次いでもらって柔ちゃんとこうしておしゃべりをしていた。

彼女はどうも、私が電話をかける直前に新入生の須藤という男の子から家に不愉快な電話をかけられており、私の電話をその須藤と勘違いしたようだった。

 

その勘違いをひとしきり彼女は私に詫びた後、その1年生に対する愚痴を零す。

 

「そうかー、お尻を触ってきたか。なら今度触って来たら、その須藤君の自慢のリーゼントを丸刈りにしてやったら?」

 

『あ、それ良いかも。……? あれ、どうして茜さん、須藤君の髪型がリーゼントって知ってるの? 私、そんな事まで言ったかしら?』

 

「え? あ、ごめん、ごめん。不良みたいだって柔ちゃんから聞いたから、つい勝手にそんな想像をしちゃってたわ。秋田じゃ、不良イコール長ランにリーゼントがマストだから、つい、ね」

 

私の言葉に、柔ちゃんはなるほど、と納得する声を出すが、私は危ない、危ない、と内心冷や汗をかいていた。

 

私は須藤君とは面識が無い。しかし、原作知識から彼の容姿はしっかりと脳裏に思い浮かべる事が出来ていた。だからさっきは、ついあんなことを口走ってしまったわけだが、次からは気をつけないといけない。

 

それにしても、もうそんな時期になったか。原作で柔ちゃんが藤堂選手に一本勝ちした事で、多くの新1年生が柔ちゃんの高校の柔道部に入部希望を出してくる事になるが、その内の一人が須藤という子だった。

 

私が脳裏に思い浮かべたように、彼はリーゼント頭の典型的なヤンキーキャラで、今柔ちゃんが憤っているように当初は生意気な男子だった。しかし、今後の話であるが、彼は柔ちゃんに鍛えられた2年生、果ては柔ちゃん本人に柔道で負かされた事で、その性根が正される事になる。

 

そして、原作通りの事を考えているのだろう、柔ちゃんがそれを裏付けるような事を私に尋ねてくる。

 

『だから私、2年生の子達を鍛えて、その須藤君をギャフンって言わせようと思っているんだけど、茜さんどう思う?』

 

「それは良い考えだと思うけど、柔ちゃんはその2年生の子達をどうやって鍛えるつもりなの?」

 

私のその問いに柔ちゃんは、『まずは準備運動で、腹ばい百往復、あひる歩き百往復、V字腹筋百回から始まってぇ……』と、嬉々とした様子で口にする。

 

うん……、私個人は別として、そんな強度の準備運動、うちの部員にもさせてないから。これだから自覚の無い天才柔道娘は怖い……と私は呆れるが、別に私はその2年生達に思い入れがあるわけでは無い。だから私は、「体幹と上半身も鍛えた方が良いから、懸垂百回も追加した方が良いんじゃないかしら」と提案し、柔ちゃんも『良いわね、それ! それもメニューに入れておくわ!』と受け入れる。

 

聞こえるはずもない2年生の怨嗟の声が遠い秋田の私にまで届いた気がしたが、私はそれを無視して肝心の用件を柔ちゃんに伝える。

 

『えっ? 西海大学……? 行くわけ無いわ、そんな大学』

 

私の、高校卒業後の進路をどうするのか、という問いに柔ちゃんはそう答えを返す。あ、やっぱりそうか。いや、分かっていたのだ。彼女が大学柔道の名門 西海大学入りを断固拒否するというのは原作で何度も描写されていたから忘れようもない。

 

ただ、私が危惧していたのは、先日の私との試合で彼女がその意思を変えてはいないか、という事だったが、どうやらその心配は杞憂だったようだ。これで私も腹が決まった。

 

「そうなのね。いや、2日前に西海大学の祐天寺監督から電話がかかってきて、猪熊さんも当大学に入学すると言っていますぞ、って熱弁していたからちょっと本人に確認しようと思って」

 

『祐天寺監督ったら、そんな事を? もうっ、きっとお爺ちゃんがある事無い事言ったせいね。でも、そういう茜さんこそどうするの? 茜さんならどの大学でも選び放題でしょ?』

 

「私……? 私はねぇ、料理の腕を極めたいと思っているから、家政科のある三葉女子短大を目指しているわ」

 

『――えっ! 私と一緒!! 凄い偶然!』

 

電話口の向こうから柔ちゃんの興奮した声が聞こえてくる。それは、そうだろう。私は柔ちゃんがその大学を目指す事を知っているのだから。そのまま話題は、三葉女子短大の試験対策に向かう。

 

「えっ、柔ちゃん合格判定Bランクなの? やば……、私、Cランクの下位だよ。あーあ、実技が試験にあったら自信があるのに、試験は筆記だけだからなぁ」

 

真田を筆頭とした同級生や下級生から絶大な人気を博している私の手料理を試験官に披露出来たら、入学試験なんてイチコロなのに……。

 

『だ、大丈夫よ、茜さん。試験は来年なんだから、一緒に頑張ろう! 私も茜さんが受けると聞いて、俄然やる気が出てきたわ!』

 

その後私達は互いの健闘を祈り合い、電話を切った。

 

 

 

 

翌朝、私は朝食の席で父さんと母さんに、私が三葉女子短大の家政科を受けたいと考えている事を伝える。

 

「三葉女子短大……。茜は本当にその選択で良いんだね? 祐天寺監督は、西海大学に入学する事がオリンピックでの金メダルへの最短距離だと言っていたんだろう?」

 

「うん、もう決めた。私は私だから。西海大学に頼らなくても、オリンピックで金メダルを取って見せる。もし取れなくても、私の決断だから後悔は絶対にしない。ただ、西海大学だったら、多分特待生扱いで入れるから授業料とか色々免除されたと思うんだけど、三葉女子短大だと色々とお金が――」

 

「そんな事は茜が考える事ではないよ。なあ、母さん?」

 

私の言葉を父さんが遮り、母さんに顔を向ける。その母さんはこくりと頷き、優しい笑みを私に向けた。

 

「子供がお金の心配をしないの。私達は、最初からあなたがどの大学を目指しても援助できるよう貯えをしているわ」

 

「父さん……、母さん……」

 

二人の私に対する愛情に、私は感極まり涙ぐむ。ありがとう、父さん、母さん。前世の記憶を持って生まれた特異な私に、こんなにも愛情を注いでくれて。

 

だけど、私が「もう、泣かせないでよ」と瞳に浮かぶ涙をぬぐっていたら、父さんと母さんは顔を見合わせ言いにくそうに続けた。

 

「だ、だがな……茜。その、家政科というのは料理もするのだろう? 食べ物を扱う職業に就く事はその……再考してみてはどうだろうか?」

 

「そ、そうよ、茜。ほ、ほら。茜は、選手個人に個人に合ったトレーニング方法とかを考えるのは得意じゃない。体育教師とか、インストラクターとか、そういう職業を目指した方が良いんじゃないかと、母さんは思うわ」

 

「でも、私の受験する学科は家政科だから……。あ、相手の家を訪問して家事をする家政婦の仕事はどうかしら?」

 

「茜がよそ様の家を訪問して家事をする? 一家毒殺事件に発展するんじゃぁ……」

 

「防犯の心配だけはしなくて良くなる気がするわね……」

 

何故か、毒殺やら防犯やらと、家政婦の仕事としておよそ出てくるはずの無いキーワードを口にする両親。まったく、『家政婦のミタ』じゃあるまいし何を心配しているんだ、この二人は……。

 

その後私達は何でもない会話を交わし、最終的には将来の職業については棚上げして、とりあえず三葉女子短大を目指す事だけは了承してもらい話し合いを終えたのだった。

 

 

 

駅を出て学校に向かう大通りを、学生鞄を肩に引っかけてくてくと歩いていると、突然ポンと背後から肩を叩かれる。肩に置かれた手の大きさ、角度から相手の予想がついた私は、目線を上に向けながら背後を振り返る。

 

「おはよう、真田。今日も大きいね」

 

「身長は日によって伸びたり縮んだりしないからな。それより、桐生が音楽を聴きながら通学しているのは珍しいな」

 

私は左耳からイヤホンを引き抜きながら、真田に笑みを向ける。

 

「ふふ、良いでしょ。進級のお祝いに父さんが買ってくれたんだ。再生だけじゃなくて、レコーダー機能もついているのよ。ほい、お裾分け」

 

私が差し出したイヤホンの片方を受け取り、真田は歩きながら耳に装着する。そのまましばしイヤホンから流れてくる音楽に耳を澄ませていた真田はああ、と頷く。

 

「お前が好きなグループの曲か。確かに良い曲だな」

 

「でしょ? でも、来年にはこのグループ解散しちゃうんだよね。もったいない」

 

「何? そんな発表されていた覚えは無いけどな……?」

 

そう首を傾げながら私にイヤホンを返す真田。(もう良いの?)という私の視線に、真田は苦笑で返す。

 

「膝を曲げて歩くのは、練習の時だけで良い」

 

……ああ、そうか。真田は私よりずっと上背があるから、イヤホンを聞くために腰をかがめる様にして歩いていた。でも、それって真田の背が無駄にありすぎるのがいけないんだよ。私は鞄の中に入れていたポータブルオーディオ(前世で言う所の、いわゆるカセットテープ形式のウォークマンだ。ただし、メーカー名はSO●Yではなく、HONAMI電機と印字されている)のスイッチを切る。

 

そして私は隣を歩く真田に、先ほど家で交わされた話題を愚痴交じりに語る。

 

「何……? 食べ物を扱う職につくのを両親にそれとなく反対された?」

 

「そうなのよ、真田。失礼しちゃうわよね。そりゃあ、まだ私はチョコしか作った事が無いけど、料理だって自信あるのに……。ねえ、真田もそう思うでしょう?」

 

しかし真田は私の問いかけに首肯せず、逆に何故か呆れた表情で隣を歩く私を見下ろし溜息を付く。

 

「その根拠のない自信がどこから来ているのか、俺にはさっぱり分からないんだが……。ちなみに桐生は、両親にチョコを渡した事はあるのか?」

 

「もちろん! 去年は数が足りなくて渡せなかったけど、今年はいつもお世話になっているお礼って事でちゃんと父さんと母さんにもお裾分けしたけど、……それがどうかした?」

 

「いや……、ご両親はその後体調を崩したりはしていなかったか?」

 

「よく分かるね、真田! そうそう、なんか翌日からインフルエンザにかかったみたいで、二人して数日家で寝込んでたよ! インフルエンザって、私これまで罹った事ないけど、怖い病気だねぇ」

 

私のその言葉に、真田は何故か遠い目をして「俺はインフルエンザよりお前の方が怖いよ」

と呟く。私はその言葉の意味が分からず首を傾げるが、進路の話が話題に出た事で、真田に尋ねてみる。

 

「真田は将来どうしたいの? 成績良いんだから、大学に進んだ後家業を継ぐつもり?」

 

真田の家は、秋田県内でも大手の建設機械を取り扱う会社『真田建機』を営んでいる。そして真田家の一人息子である彼は機械科を専攻しているから、私としては当然将来はその道に進むのだろうと考えて尋ねていたのだが、その真田は何故か言葉を濁した。

 

「ん……、俺はまあ、その……いろいろ考え中って所だな」

 

……? 真田は何故か左手首に巻いた腕時計に視線を落としながらそう応える。

 

「……ふーん、そっか。まあ、真田は真田なんだから、別に無理して家業に縛られなくても良いよね。一度しかない人生、真田のやりたい事をやると良いよ。私は真田の決断を応援するよ」

 

私の言葉に真田は立ち止まり一瞬きょとんとした後、苦笑いしながら私に微笑む。

 

「まったく、桐生はいつもそうやって俺の背を押すな。ありがとうな、キャプテン」

 

「どういたしまして、副キャプテン。ふふ、もし真田が来年上京するのなら、私達東京で会えるかもしれないね。そうなったら嬉しいなぁ。私、真田が側にいてくれたら前だけ見て進める気がするんだよね」

 

「……なんで卒業してまで桐生の面倒を見ないといけないんだ。だいたい、その前に桐生が三葉女子短大に受かる必要があると思うんだが? あそこはなかなか難しいと聞くぞ。英語以外の科目の勉強は大丈夫か? 何だったら、俺が教師役をしてやっても良いが?」

 

その願ってもない申し出に、私は再び歩き出した真田に背中から飛び着いて喜びを表現する。

 

「さっすが、真田大明神様! 感謝感激、雨あられだよ!」

 

「こ、こら! わ、分かった、分かった。だから飛びつくな! お前は猫か!」

 

首に腕を回しておんぶする格好になった私を真田は振りほどこうとするが、私は両手をしっかりと交差して離されまいと抵抗する。面倒だ、もうこのまま学校まで真田におぶさって登校してやれ。普段、私の体重以上のベンチプレスを上げている真田なら苦でも何でもないだろう。周囲の登校中の学生達がちらちらとこちらを見ているが、真田ももう諦めたのか、私を背負ったまま歩き始める。

 

「いやー、やっぱ持つべき者は優秀な副キャプテンね。そうそう、もうすぐ柔道選手権の県予選が始まるよね? 今年こそ一緒に全国いけたら良いね」

 

私は、来月に迫った全国高校柔道選手権の事を口にするが、真田は苦笑いを浮かべる。

 

「簡単に言うなよ。まあ、桐生は天地がひっくり返っても県代表になるだろうから、問題は俺の方だな。後、今年は2年も育ってきているから、団体戦も良い所まで残りたいんだけどな」

 

「ふふふ、皆、去年は東京まで応援に来てくれたから、今度は私が皆を全力で応援するよ! 何だったら、変装して男子に混ざって団体戦に出ても良いし!」

 

「一目で桐生だとばれて失格になるんだから、頼むからそれだけはやめてくれ」

 

「……赤毛が目立つなら丸坊主にして出るのはどう?」

 

「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ。たとえ赤毛じゃなくてもお前ほど顔が売れていたら絶対にばれるんだから、やめろ。それより、いい加減に降りろ」

 

真田が身体を横に振った事で、私の足が歩道につく。うーん、もう少しこのままでいたかったんだけど仕方ないか。真田ってこう見えて女子にモテるんだから、あのままの恰好で学校に着いたら付き合っているのか、なんて変な勘繰りを真田がされかねない。私は彼の首に回していた手をほどき、再び彼の隣を歩き始める。

 

「……何を考えているのか知らないが、変な勘繰りをされて困るのはお前の方だからな。お前はもう少し自分を客観視できるようになれ」

 

「どういう意味よ?」

 

私達はそんな他愛も無い会話を交わしながら、学校へと続く大通りを歩いて行く。途中、自転車通学の後輩が「――ざすっ!」と私達に挨拶しながら追い越していく。

 

ふふふ、皆と部活動に励む事ができるのも、後数か月かぁ。そして卒業までも1年を切っている。

 

柔ちゃんも、高校の柔道部の面々とたくさんの思い出を築くんだろうな。私は、東京へと続いているはずの南の空を見上げて、そんな事を考えていた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

side 猪熊柔

 

 

「そうなんだ……。茜さんは、クジTV杯柔道選手権に出ないのね」

 

私がほんの少し残念に思って発したその言葉に、受話器の向こうの茜さんがやはり残念そうに答える。

 

『私の所にも出場案内状が届いたんだけどね、その日は全国高校柔道選手権の県予選と重なっているのよ。私だけならそっちを優先しても良いんだけど、これでも一応キャプテンやらしてもらっているから、皆の力にならないとね』

 

そうか。そう言えば、こちらも花園君達が出場する全国高校柔道選手権の東京予選と重なっているし、全国で同じ日程が組まれているのだろう。

 

「それなら仕方ないわね。茜さんの学校の皆の活躍を祈っているわ。もちろん茜さんも!」

 

『ありがとう、柔ちゃん! ねえねえ、一つだけ聞かせてくれない?』

 

そして茜さんは、私が明日出場する予定のクジTV杯柔道選手権大会にどうして出場する事を決めたのか尋ねてくる。

 

……どうして、か。

 

……どうしてなのかな。風祭さんから『柔道をやっている時の君が一番輝いているから』と言われたから? それともお母さんからお父さんの話を聞いたから……? それとも……。

 

『……柔ちゃん?』

 

受話器の向こうから聞こえる茜さんの声。その声を聞いて、私はようやく自分の気持ちに気づいた。

 

私は、もう一度茜さんとあの時のような試合が出来る事をどこかで期待していたんだ。それが嘘偽りのない私の気持ちだった。

 

「……私、茜さんともう一度試合がしたかったな」

 

気付けば私は、まるで子供のように桐生さんにそんなわがままを言ってしまっていた。受話器の向こうの茜さんは私のその言葉に沈黙したまま。だけど、一拍置いて心底嬉しそうな笑い声が聞こえてくる。

 

『あはははは。そうかー、柔ちゃんったら、そんな事を思ってくれてたんだぁ。くすくすくす、嬉しいなぁ、ほんと、嬉しいよ』

 

その笑い声に、私は思わず眉間に皺を寄せる。何よ、まるで私だけが試合がしたかったみたいに。これじゃあ、私だけが片思いしているみたいじゃない……! そう考えた私が一言文句を言おうと受話器に口を当てた時、私の耳朶に届く茜さんの声。

 

『うん、私も柔ちゃんと試合がしたかったよ。楽しかったよね、あの試合』

 

その言葉に私が「うん……」と頷くと、茜さんは『でもね……』と続けた。

 

『でもね……、柔ちゃん。明日のその試合は私には繋がっていないけれど、まだ見ぬ世界の強豪とは確実に繋がっているから。滋悟郎さんの味方をするわけじゃないけど、一緒にオリンピックに行こうよ。オリンピックには、きっと私以上に強い選手がいるよ』

 

茜さん以上に強い選手……? 茜さんの強さは、今思い返しても震えがくるほどのものだった。思い切りのいい大胆な技の仕掛けと、まるで針の穴に糸を通すような技の精度が信じられない次元で両立している。立ち技だけの話ではない。寝技でも、無駄のない流れるような身のこなしで、私は後手に回ってばかりだった。茜さんに腕を極められそうになった瞬間に感じた寒気は、今でもはっきりと覚えている。

 

本当に立ち技も寝技も、同い年とは思えないほどの技の引き出しの多さとその組み立てには思わず舌を巻くほどだった。その茜さんより……?

 

『ふふふ、もっとも、私は一足早くその世界の強豪とやり合ってくるけどね』

 

「……世界? どういう事、茜さん?」

 

『ドイツで開かれる世界柔道選手権大会よ! この間、日本女子柔道チームの監督から女子52kg以下級の日本代表に内定したって、連絡があったの!』

 

「凄い! おめでとう、茜さん!」と思わず手を叩いて私は喜んだが、どこか茜さんが遠い所に行ってしまうように感じて、わずかに胸が痛んだ。

 

『うん、ありがとう、柔ちゃん。今回は私だけでドイツに行ってくるけど、来年は絶対に一緒に韓国に行こうよ! きっと楽しいって!』

 

「う、うん。……頑張ってみる」

 

 

後になって私は思い出す。思えばこの時が初めて、私が自分の意思でオリンピックを目指したいと思った瞬間だったと。

 




本当に申し訳ありません。1,2か月の休載と宣言しておきながら半年以上の休載。待っていてくれた方には心よりお詫びします。

でも、下書きはずっと続けていてようやく最後まで書ける目途が着いたので投稿を再開しようと思います。概要欄の注意書きの①もそのつもりで修正しました。まだ最後の大事な部分が白紙の状態ですが、そこを書くためにも投稿を再開して皆様の反応を伺い良い意味でテンション高めにして仕上げたいなと思い、再開に踏み切りました。

再開したからには今回ほど長期の休載とならないよう、できるだけ定期的に投稿していきたいので、目標としては毎週末投稿を目指していきますが、加筆修正、推敲が間に合わなければ隔週になる可能性もございます。

もしよろしければお付き合いくださいませ。
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