ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
1987年6月某日。遠く離れた東京でクジTV杯が開かれていたその日、秋田市の中心地にほど近い県立武道館には、県下の高校の柔道部員のほとんどの者が集まっていた。それは、男女それぞれ5階級の全国高校柔道選手権大会の秋田県代表者と、男女別の団体戦の優勝高校を決めるために集まった学生達だった。
「ほら、小田! また腕が下がってきてるよ! ちゃんと腕を上げる!」
「はいっ、キャプテン!」
試合前に身体を解すため私を相手に打ち込みをしている2年生の小田を、そう叱咤する私。
「――よしっ、次! 成瀬、おいで!」
汗ばみ肩から湯気を立ち昇らせ始めた様子から彼が十分に温まったと感じた私は、同じく2年の成瀬に声をかける。緊張した様子だった成瀬は、「はいっ!」と気持ちのいい返事をして、後ろに下がった小田と場所を入れ替え私と組み合う。
投げ技を得意とする小田と異なり、成瀬の得意は大外刈りを中心とした足技。その成瀬が気持ちよく技をかけられるよう、私は立ち位置を修正すると同時に、幾分前傾姿勢で両足でぐっと踏ん張る。
武道館の隅で試合の近い部員達の相手をしている私に、一人黙々とストレッチをしていた真田が近づいてくる。
「桐生、お前も少しは身体を動かせ。部員の面倒をお前1人が見ていては、身体がいくつあっても足らないだろう」
「でも、この子達はいつも練習で組んでいる私がアップに付き合った方が、身体だけじゃなくて気もほぐれるでしょ? 私の方の調整はもう済んでいるから大丈夫、大丈夫」
その私の言葉に「まったく、本当に面倒見の良いやつだな」と呆れた様子で呟く真田。
「良いじゃない、私達3年はこの大会で引退なんだから。最後ぐらい、ちゃんとキャプテンらしい事をさせてよ」
「……お前はちゃんとキャプテンしてるよ。よしっ、皆! 日本一の女王が俺達のためにこれだけやってくれているんだ! 持てる力を出し尽くせ! キャプテンに顔向けできないような恥ずかしい試合はするなよ!」
真田の言葉に、周囲に集まっていた部員達が「「「ざすっ!」」」と声を揃えて応える。
むうっ、なによ、やっぱり私より真田の方がキャプテンらしいじゃない。私が一人口をとがらせているのに気づいたのか、私より頭二つ分ほど上背のある真田が私の頭にポンと手を置き、苦笑いを浮かべる。
「お前に全部任せていたら、俺の立つ瀬が無いんだよ。ほら、お前も試合の順番が近いんだ。身体ぐらいは温めておけ。今更お前が県予選程度で負けるとは思わんが、怪我だけは別だからな」
子ども扱いするなっ、と頭に置かれた真田の手を払った私は、あっかんべーをして一人アップを始めた。
「――そこで足出すッ!」
集中していた彼には、最初から私の声援など必要なかったのだろう。男子中量級に出場している小田が、私の言葉が終わる前からタイミング良く対戦相手に対して払い腰を繰り出し、対戦相手の背中を畳に叩きつけた。試合終了間際。文句の付けようの無い逆転の一本勝ちだった。
畳の上で目を細めてガッツポーズをする小田に、私は何度も頷く。うん、うん。嬉しいよねえ。相手は文武両道でならす秋田学芸高校の2年生。小田にとっては、長年目の上のたんこぶだった同世代の選手。そんな相手に初めて勝ったんだもんね。
私は、上気した様子で試合会場から戻ってきた小田を「よしよし、これでベスト4だねぇ。上出来、上出来」と、きれいに刈り揃えられた五分刈りの頭をじょりじょりと撫でながら迎える。私の手の動きに合わせて彼の短髪から汗が霧のように飛ぶ様が、先ほどの彼の熱戦を如実に物語っていた。
「うすっ! キャプテンの応援のおかげっす! それよりキャプテン、なんか向こうの会場でキャプテンの名前呼んでませんか?」
その小田の言葉に私が2つ隣の女子選手が行っている会場に視線を向けると、確かにスタッフらしきワイシャツ姿の男性が、「桐生選手、桐生選手はいませんか?」と声を張り上げていた。試合場の開始線には私の決勝の対戦相手が所在なげに立っている。
「やばっ、私の試合だ! あっと、小田! 組んで横移動する時の足運びが雑になっていたよ。あそこは足が重ならないように慎重に移動しないと、出足払いにやられ――」
「わ、分かりました! 分かりましたから、早くキャプテンは試合に! 不戦敗になってしまいますよ!」
私は、小田に背中を押されながら自身の試合会場へ駆けていった。
「――一本!」
試合の決着を告げるその言葉を耳にし、私はゆっくりと畳から起き上がる。私の下には、他校の女子部員が、何が起こったのか分からないと言いたげに大きく目を見開いたまま、天井を見上げていた。
開始11秒。決勝の私の対戦相手は、最初から私に対して腰が引けていた。私の柔道着の袖と襟を取ろうとせず、同時に私からもそれらを取らせようとはしない。私が前に進むと、同じだけ後ろに下がる。そんな柔道。そのような相手に対して、私が執る手段はいつもこれだった。
「……あれが桐生スペシャル。初めて見たぜ」
「凄え……。本当に片手一本で投げたぜ。いったいどんなバランス感覚してたら、あれで投げられるんだ?」
「袖を取られただけで投げられたら、どう対応したら良いのか分からないわ……」
男女問わず、思いのほか私の試合は注目されていたようだ。私が片手袖釣り込み腰で対戦相手を畳に叩きつけた瞬間、武道場全体から大きなどよめきの声が上がった。今日はもちろん、公式戦でこの技を使ったのは初めてのはずなのに、皆よく知っているなあ。意外に2ヵ月前の柔ちゃんとの試合結果を伝えた記事は、皆目にしていたようだ。
片手袖釣り込み腰。前世で私の得意としていたこの技を、この身体でも使いこなせるようになったのは、それこそ2ヶ月前の柔ちゃんとの試合のおかげだ。あの試合の最中、私の中でずっと技と体の一体感に違和感を覚えていた部分が無くなった。
理想としている技の形は脳裏に浮かぶのに、何故か体がついていかない。そういうもどかしい微細な感覚の狂いが、先日の柔ちゃんとの試合を契機にアジャストできた気がする。
私は、未だ呆然と畳に横たわったまま試合会場の天井を見上げている対戦相手を見下ろす。柔ちゃんとの試合では、技の仕掛けの最中に片手袖釣りに移行したけれど、本来この技は仕掛けの段階から片手で放つ技だ。
片手で放てるから、今回のように逃げ腰になった相手にも仕掛ける事が出来る。逃げ腰の選手は襟を取られる事を防ぐ事は出来ても、長い腕先の袖を取られる事まで防ぐ事は困難だ。つまりこの技は、強敵相手にも、弱腰相手にも有効と言う訳だ。
審判の勝ち名乗りを受け、試合会場の畳にぺこりと一礼して畳を降りた途端、私は大勢の地方紙の記者さん達に囲まれた。
「桐生選手、52kg以下級の県予選大会優勝おめでとうございます。最後の技は、2ヵ月前にあの猪熊選手に勝った際に放った『桐生スペシャル』で間違いなかったでしょうか?」
「え、ええ。そうです」と答える私に、記者さん達から二の矢、三の矢が次々と飛んでくる。
「猪熊選手は本日東京でクジTV杯に出場しておりますが、桐生さんは優勝者をどのように予想されていますか?」
「東ドイツで開催される世界選手権大会への出場が内定しましたが、大会にかける意気込みを聞かせて下さい」
「ちょ、ちょっと待って下さい。ま、まだ部員の試合が終わってないので――」
その記者さん達の囲み取材はそれからも長い時間続き、私が男子の試合会場に駆けつけられたのは、それから数十分が過ぎてからだった。
「おっ、桐生。優勝、おめでとさん」
「サンキュ、溝っち」と、同じ3年の柔道部員である溝渕に返事をしながら、私は目の前で行われている試合に視線を投げかける。
男子81kg以下級決勝戦。片方は我が柔道部の頼れる副キャプテン真田。相手は、猪苗代工業のエース藪田。試合はまだ始まったばかりのようだ。その試合から視線を剥がさないまま、私は周囲で声援を送っている部員達にそれぞれの試合結果を尋ねる。
ふむふむ。そうか、小田は惜しくもあの後準決勝で負けたか。他の3年生、2年生、1年生ももう試合は終わっているようだ。3年の溝渕と田代は共にそれぞれの階級で3位、2年生も小田を含めた2人がベスト4。1年生の4人は3回戦に進んだのが最高……か。うん、1年生も白帯二人がきちんと1回戦は突破しているし、2年、3年も皆自己最高記録を更新しているし、皆立派だよ。よく頑張った。
私は側にいた白帯を締めた初々しい1年生の頭を撫でながら、「上出来、上出来。さ、後は副キャプテンの応援だよ。皆、声出していこう!」と発破をかける。
「――待てっ!」
主審が、激しい技の掛け合いの末場外に足を踏み出した真田達の試合を止める。ぜえ、ぜえと、荒い息を吐き帯を締め直しながら開始線に戻る真田が、一瞬こちらを見た。
「真田先輩、ファイトです!」、「副キャプテン、攻めてます、その調子!」と投げかけられる部員達の声援。それをいつものように表情を変えずに受けとめる真田。負けじと私も声を張り上げる。
「真田、がんば! あんたの培ったこれまでの全部を出し切れ!」
中学1年からになる真田との付き合いも、いい加減6年目だ。中学時代も含めて、これまで真田が全国に足を進めた事は無い。最高で県下2位、最低で県ベスト8。それが真田の県内81kg以下級のこれまでの立ち位置だった。
中学の時は真田がキャプテンを務めていて、私は副キャプテンだった。高校ではその関係が逆転しているが、私と真田の部における役割はさほど変わっていない。私が細かな調整などを大の苦手としているから、真田はいつも私の背中を支え尻拭いばかりしている。
私の声援に真田は一瞬こちらを振り返った。いつもの黒縁スクエアの眼鏡を外しているから私がどこにいるか分からないだろうに、何故か真田は私の方を見て小さく頷いた気がした。
「――おおうっ!」
猪苗代の藪田が放った内股で、真田の身体が半身となる。「危ない、先輩!」という小田の声が飛ぶが、右足だけでケンケンをするように堪えていた真田の我慢の限界が来る。後少しで場外という所で、真田の身体が横倒しに倒れ、審判の手が真横を指す。この試合初めての『有効』を相手が先取した。
待て、の合図で開始線に戻る両者。時計の針はちょうど残り1分を指していた。
「大丈夫、大丈夫。60秒あったら、相手を30回は投げられるって!」という私の檄に、3年の田代から「いや、いくらなんでもそれが可能なのはお前だけだ」と突っ込みが入る。
むっ、心外な。それこそ、今日東京で行われている柔ちゃんと本阿弥さやかの決勝戦は2秒で決着がつくはずなんだから、あながち私の求めているレベルはおかしくないはずだ。
そんな事を考えている間にも残り時間は刻一刻と減っていく。上背があり肩幅の広いがっちりとした体型の真田に対して、相手はいわゆるお相撲さんのようなあんこ型の選手。有効一つ分リードしているためなのか、先ほどまでとは違い途端に積極的に出なくなった。真田の仕掛けた内股を潰し、寝技を仕掛けるふりをして時間を稼ぐ、私の一番嫌いな柔道。
「審判、早く時間止めてってば!」
しかし審判は藪田の寝技をしかけるふりを見てもそのまま時間を止めない。ようやく『待て』の声がかかったのは、残り試合時間が18秒になったタイミングだった。
ふーっ、と大きな息を吐きながら開始線に戻る真田。対戦相手の藪田はもう勝利を確信しているのか、私達とは試合会場の対角線にあたる場所で応援している猪苗代高の部員達に右拳を突きつけながら笑みを浮かべている。
あいつぅ……。まだ試合中だと言うのに対戦相手へのリスペクトの感じられないその舐めくさった態度に、思わず私は(今すぐ畳の上に上がって行って、桐生スペシャルを喰らわせてやろうかっ!)と、藪田を睨み付けていた。
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side 真田 廉
やれやれ……。眼鏡をかけていないため遠方が朧気にしか見えないが、今桐生がどのような形相で俺を応援しているか、手に取るように分かる。全く単純な奴だ。あいつは昔からそうだ。中学1年生の時に武道場で出会ってからその付き合いはもう6年になるが、あいつほどからっとした性格の女にはこれまで出会った事が無い。
俺の専攻している機械科は、他のクラスと比べて何故か女子比率が高い。そのクラスの女子が、気に入った男子の前だけ猫なで声で接してくるのを度々目撃して知っている俺は、あいつのそんな裏表の無い竹を割ったような性格は、俺にとって実に好ましいものだった。
今もあいつは、自分が優勝した事など二の次で俺の応援に力を入れている。先ほどもそうだった。危うく自分の試合が不戦敗になりそうなほど部員の試合に熱を入れて応援する。そんなあいつだから、俺は前キャプテンに次のキャプテンになる事を打診されながらも、あいつを推薦していた。中学時代はその判断が出来なかったが、あいつがキャプテン、俺が副キャプテンになった方が、きっと秋田東工の柔道部は飛躍できる、という確信が俺にはあった。
そして、そう考えた俺の判断は間違っていなかった。私の背中を見てついてこいっと言わんばかりの彼女のリーダーシップに、俺達同級生ばかりか後輩達まで皆が心酔している。これまで決して強豪校とは言えなかった秋田東工が、あいつがキャプテンになってから一目置かれ始めたのはそのためだ。
だけど、そんな俺達の関係ももう終わりだ。3年の俺達は試合に負けた時点で部活動を引退するし、桐生も全国大会優勝をもって部活動は引退となる。その後は、次のキャプテンの元で新体制がスタートするだろう。
皆、それを痛いほどよく分かっているから、少しでも桐生と過ごす時間を延ばしたいと必死で練習し、試合に臨んだんだ。皆が自己ベストを更新出来たのはその理由が一番大きかったはずだ。
「大丈夫、大丈夫。60秒あったら、相手を30回は投げられるって!」
開始線に戻りながら柔道着の乱れを直していると、俺の背中にそんな言葉が投げかけられる。まったく、あの馬鹿……。俺をお前と一緒にするんじゃない。俺はお前とは出来が違うんだ。おそらくお前は、今年の夏に行われる世界選手権大会で優勝し、世界女王になるだろう。俺がお前の縁の下の力持ちのような真似事が出来るのも、学生の間だけ。
有効を取った事で時間切れを狙い始めた藪田を追いかける俺。同学年の藪田とはこれまで3度対戦し、一度も勝った事が無い。内股はもう藪田に読まれていて、通用しない。桐生のように袖釣り込み腰を習得していれば良かったが、無い物ねだりしても仕方ない。俺は俺のやるべき事を愚直に実行するだけ。
くっ。内股を潰された俺に、藪田が形だけの寝技を仕掛けようと、俺に背中から覆いかぶさってくる。こんな意味の無い攻防で、時間だけが減っていく。畳に這いつくばる俺に、桐生の「審判、早く時間止めてってば!」という悲壮な声が届く。
残り時間18秒。負ければあいつとの腐れ縁も終わり。勝てば、共に全国大会に出場し、あと少しこの学生時代だけに許された特別な関係が続く。
……続けば良い。
審判の再開の言葉が終わるのももどかしいと、がむしゃらに前に出る俺。防戦一方だった藪田が、俺の向かう勢いを利用して形だけの背負い投げを仕掛けてくる。おそらくそれは審判に対するアピールだったのだろうが、それを認識した瞬間、考えるより先に俺の身体が反応していた。
左足を残しながら、背負い投げを仕掛けて来た薮田とするっと身体を入れ替えた俺は、その足で薮田の両足を背後から引っかけて後方に引き倒す。それは、変形の小外刈り。ぐらっと、薮田の巨体が背後に泳ぐ。
「――技有りぃ!」
かろうじて左ひじをついて完全に畳に背中を付ける事を防いだ薮田だったが、それでも審判は『技有り』を宣告する。唖然とする薮田だったが、時すでに遅かった。一転して泡を喰った様子で攻めかかってくる薮田だが、残り時間はほとんど無いも同然だった。
顔を真っ赤にした薮田が強引に俺の柔道着を掴みかかってくるが、そこで時間切れ。俺は逆転勝ちで秋田県予選大会81kg級を制する事が出来た。
「やったー!」と、両手を突き上げてピョンピョンと飛び跳ねる桐生の姿が朧げに見える。彼女の周囲の部員達も、皆がそれぞれのやり方で喜びを表現していた。
……良かった。我ながらみっともない程の泥臭い試合をしてしまったが、これで秋田県の代表になれる。世界一に手が届きかけている桐生とは比べるべくもないが、これで俺も少しはあいつの隣で胸を張れるかもしれない。
そして俺は、膝に手を添えながらゆっくりと立ち上がった。
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「それじゃあ、皆ドリンクはいき渡ったかな? じゃあ、いくよ! おっ疲れ様――! かんぱーい!!」
「「「「かんぱーーい!」」」」
私の乾杯の音頭で、それぞれが手に持ったグラスがうち重なり、途端に賑やかな声が方々から聞こえ始める。ここは、私達、秋田東工柔道部が大会後に良く利用する焼き肉食べ放題の店だった。質はともかく、格安料金でお腹いっぱい肉を食べられて、その上デザートまで食べ放題で提供されている実に学生向けのお店。
「でも、団体戦は惜しかったよねぇ。もう少しで優勝できたのに!」
「仕方ないさ。それでも準優勝なんだ。これまでの最高だったベスト8からすれば上出来と言えるさ。来年はきっとこいつらが全国に進んでくれるさ。なあ、小田」
真田に急に話題を振られた小田は、口いっぱいに頬張った肉をゴクン、と飲み込み「任せて下さい! 桐生キャプテンや真田副キャプテン達3年生がいなくなって弱体化したなんて、絶対に言わせませんから!」と、良い笑顔でサムズアップする。
「でも、桐生キャプテンは女子の人数が集まらなかったので、結局中学から高校まで一度も団体戦に出場できませんでしたね。俺、それが残念で残念で仕方ないですよ」
「あはは、まあそればかりは私の一存でどうにかできる事じゃないから仕方ないわよ。せめて団体戦が総当たり戦じゃなくて、勝ち抜き戦だったら良かったんだけどね。それなら、もしかしたら私一人で県予選を優勝出来たりしちゃったかも?」
私のその冗談交じりの言葉に、真田が苦笑いを浮かべながら「おい、よせ。お前なら本当に実現しそうで怖いぞ」と応える。そしてどこからか「……県予選どころか全国優勝するのでは?」という声も上がる。
「でも、これで3年生の皆さんは引退なんですね。僕達、寂しいですよ」
2年の高杉がそう寂し気に言うものだから、私を含めた3年生は肩を竦めてその言葉を受け止める。仕方ないよ。部活動を楽しめるのは、学生だけに許された特権だもん。我が秋田東工だけじゃない。柔道部だけに限った話でもない。世の部活動に励んだ高校3年生皆が、こんな風に後輩にそれぞれの伝統を引き継いでいくんだから。
「まあ、私と真田はこれから全国大会というボーナスステージに進むわけだけど、それはあくまで個人戦で、部としてはこれで終わりだもんね。仕方ないわよ」
「秋田東工伝統の『ザス・サイ・サ!』の掛け声は残していくっす!」と山田が嬉しい事を言ってくれたものだから、私は「よく言った!」と満面の笑みを浮かべて、網の上でほどよく焼けた肉に箸を伸ばす。
「あれは秋田東工の伝統というより、桐生が勝手に始めた事で……、いや、まあいいか。もうお前自身がうちの伝説というか、伝統になったようなものだしな。それより、桐生。そろそろ……」
真田にそう水を向けられた私は、そうだった、そうだったと、口に詰め込んでいた肉をごくんっと飲み込み、おもむろに立ち上がる。肉の焼ける香しい匂いともうもうとした白煙が一帯に漂う中、私は皆を見回す。その行動に、2年生は昨年経験しているから居住まいを正すけれど、1年生は初めての経験で戸惑っている。
「それじゃあ、次の秋田東工柔道部のキャプテンを指名するね。……小田、立って」
「えっ、お、俺ですか!? あ、は、はい……」
まさか自分が指名されるとは夢にも思っていなかったんだろう。泡を食ったように立ち上がり、そのまま直立不動の姿勢を取る小田。その小田の目を見つめて私は続ける。
「私は、次のキャプテンに小田を指名します。これは副キャプテンの真田とも事前に相談して決めた事です」
私がちらっと真田に目配せすると、その真田はこくりと頷く。
「小田は高校からうちの学校に編入してきたから、そんな資格は無いって思っていたかもしれないけど、そんな事は関係ありません。君は柔道に対して真摯だし、部員一人一人に至るまでしっかり目配りが出来ている。柔道初心者の1年生につきっきりで受け身を教えてあげていた姿を、私はちゃんと見ていたわ」
私の言葉に、小田が照れたように頭に手をやりながら「そんなの、キャプテンの方が……」と呟く。まるでクマのプーさんのような愛らしいその素振りに、思わず私の頬が緩む。
「君になら、安心して秋田東工柔道部キャプテンという役割を引き渡す事が出来る。……受けてくれないかなぁ?」
私が首を傾げながら尋ねると、煮え切らない様子のプーさんを、他の2年生が「おい、桐生キャプテンのご指名だぞ! 何黙りこくってんだよ!」、「こんなの受ける以外無いだろうが!」と弄る。その様子を見ていた真田も口添えする。
「小田、お前が戸惑う気持ちも分かる。なんせこいつの後だからな。不安にもなろうと言うものだろう」
……どういう意味だろう。私の後なら何故不安になるというのか。真田は私のその疑念の視線を無視して、うん、うんと激しく頷いている小田に続ける。
「だけど、何もこいつと同じ事をしようとしなくても良いさ。お前は、お前の思い描くキャプテン像を目指せばいい。逆に、こいつの真似をしようと考えるな。そうやって色々な血が混じる事で、秋田東工の柔道部は変わっていくんだ。変わって行って良いんだ。お前が決めた事なら、皆もその変化についてきてくれるさ」
む……。やっぱり真田は凄い。真田はいつもこうやって、言葉足らずな私を補ってくれる。ああ、こんな風に真田が私をフォローしてくれるのも、今日が最後なのかな……。これから先も、私の側で支えてくれたら安心できるんだけどな……。
そして小田は、私達の説得と同級生たちの言葉が背中を押したのか、最終的には新キャプテンの指名を受けてくれた。
「いやー、堅苦しい伝達式も終わったし、お姉さん! とりあえず、生一つ!!」
「な、生……?」
私が空になった大ジョッキを掲げて店員さんを呼ぶと、その店員さんはきょとんとした顔で首を傾げる。だからぁ、と私が続けようとすると、突然真田が私の頭をテーブルに押しつけるようにして上から抑えつける。
「ちょっ、馬鹿、お前! いきなり秋田東工の柔道部を潰すような真似をするんじゃない!」
「あ、店員さん、ごめんなさい。さっきのこいつの注文、生しぼりグレープフルーツジュースの事です。は、ははは……」
頭上から真田に続いて聞こえる溝っちのその声で、私も今の自分の発言が失言だった事に気づく。そうだ、そうだ。つい気が緩んで、素が出てしまった。
店員さんが、「ああ……、承知しました。少々お待ちくださいね」と応え、厨房の方に消えていく。その様子をそっと仰ぎ見た私は、「あ、あはは……」と引きつった笑いを浮かべる。
「ごめん、ごめん、皆。つい、癖で」
「おい、その癖という発言も止めろ。マジで」と、同学年の田代が怖い顔を向ける。
「なあ、真田。お前、今日で副キャプテンじゃなくなるのかもしれんが、こいつの面倒を見るのはこれからもお前の役目だからな。分かっているんだろうな?」
「勘弁してくれ、田代。そいつはいったいどんな苦行だよ……」
「えー、面倒見てよぉ、真田。何なら一生でも良いからさぁ」と、私が冗談めいて真田の肩に手を回すと、その真田は心底嫌そうに私の手を払い、「断固として断る」と口にする。
「きゃ、キャプテン! 自分がキャプテンの面倒を一生見るっす! 安心してください!」
隣のテーブルから私達の会話に耳をそばだてていたのだろう。2年の鳴瀬が突然席を立ち、そんな嬉しい事を言ってくれる。彼はマネージャーでもないのに、練習終わりにわざわざタオルやスポドリを率先して持って来てくれるかわいい後輩だ。
「ほんと? じゃあ、お返しに私が毎日料理を作ってあげるね」
「あ、それは大丈夫です。早死にしたくないんで」
「――どういう意味よ!?」
私の秋田東工柔道部のキャプテンとしての最後の時間は、こうして過ぎていった。