ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side 猪熊柔
『でさあ、皆して酷いのよ。私に、それだけはやめておけっ、てしつこく言ってきてさ……』
「くすくすくす。でも、皆して試合の後にご飯を食べに行って打ち上げするなんて、部活動楽しそうね、茜さん。話を聞いていたら私も学生の時に、柔道部でなくても何か打ち込めるものを見つけたら良かったと思えてくるわ」
時刻は21時過ぎ。茜さんからの愚痴交じりの電話に、私は少しうらやむ思いで応える。ただ、口ではそう言いながらも、お爺ちゃんの稽古でそんな暇がなかった私が部活に励むのは無理だったでしょうね、とも考える。
『諦めるのは早いよ、柔ちゃん。一緒に三葉女子短大行くんでしょ? 行ったらさ、柔道部を作ったら良いのよ。きっと楽しいって!』
「三葉女子短大で柔道部……? でも、部員が集まるかしら? 私と茜さんだけじゃあ……」
『大丈夫、大丈夫。心配ないって。元プリマや吉永小百合みたいな名前の女子とかがきっと入部してくれるから!』
何故かずいぶんと具体的な名前が茜さんの口から出てきた事に、私は「何でそんな事が分かるのよ」と、くすくすと笑う。
『あっと、そんな事より、柔ちゃんこそクジTV杯の優勝おめでとう! 公式戦デビューでいきなり無差別の試合で優勝するなんてさすがね。本阿弥さやかに二秒で勝っちゃうなんて、凄いよ。もしかして風見鶏の件で鬱憤がたまってた?』
「風見鶏じゃ無くて、風祭さんっ。それに、私、鬱憤なんて別にたまっていません!」
鬱憤……。確かに風祭さんとさやかさんの練習風景を見た時には心が乱れた。私は松田さんに連れられて二人が練習しているあの海辺に行った時の事を思い出す。
夕日が沈もうとする中、海辺でさやかさんにコーチをつける風祭さんの真剣な表情を見て、確かに私の心は乱れた。あの真剣なまなざしを私に向けて欲しいと思ったのは事実だ。
でもあの光景を見た後、松田さんに連れ回したお詫び、と言う事で晩ご飯をごちそうになり、半ばやけ食いのようにご飯を食べて幾分私はすっきりしていた。
そうだ、いけない。色々あって気持ちが乱れてそれどころじゃ無かったけれど、あの日私は松田さんにろくにお礼も言えていない。柔道着のまま移動するのが嫌だと文句を言った私に、松田さんはお財布を気にしながらも服を買ってくれ、その上晩ご飯もごちそうになったというのに……。
今は自室のクローゼットの中に仕舞っている白いワンピースを脳裏に思い描き、今からでもお礼をしないと、と考えた私だったが、同時にその食事の席で松田さんから言われた言葉も思い出し、むむっと眉間にしわを寄せる。
『その食べっぷり。やっぱり滋悟郎さんのお孫さんだなぁ』と、私の気持ちも知らずに、さも感心したようにそう口にした松田さん。
あの時の、私の傷心を察しもせずうん、うんと頷いていた彼の表情を思い出した私は、やっぱりお礼は言わなくても良いかもしれない、と思い直す。
『もしもーし、どったの、柔ちゃん?』という受話器の向こうの声に、私は我に返る。そしてそのまま松田さんとのやりとりの事を茜さんに伝える。
『あははは、それは松田さんがいけないね。乙女の女心をなんと心得る、ってやつだよ。今度松田さんに会ったら、私からも一言言ってあげるよ。でもさ、柔ちゃん。もしかして男性から何かプレゼントを貰ったのって、その松田さんに買って貰った服が初めてなんじゃ無い? 大切にしなよ』
そう言われれば……。正直にそれを認めてしまうのが悔しくて、(だったら茜さんはどうなのよっ)と反論したい気持ちが無い事も無かったけれど、それは事実だった。
そっか。あの後も松田さんとは顔を会わせているし、今更お礼を伝えるのも機を逸した気がするけれど、今度松田さんと私服で会う機会があったら、あの買ってくれた服を着てみようかな。気づいてくれるかな、松田さん……。
――! そこまで考えた私は、首をぶんぶんと振る。何を考えているのよ、私は。あの服を着て松田さんに会う事を想像した私の胸に、ほんの僅かに温かな火が灯った気がしたのは錯覚よ、錯覚! だいたい、松田さんと私服で会う機会なんか、これから先有るかどうかも分からないのに……!
『でもさぁ、その日の松田さんの言動はアウトだったとしても、今日に限って言えば松田さんは柔ちゃんのために動き回ってくれたわけでしょ? なかなか出来ないよ。取材対象だって沢山いる中で、仕事をほっぽり出してまで柔ちゃんのためだけに日本武道館と高校の柔道会場を行ったり来たりしてくれたんでしょ? 多分後で相当会社から叱られたんじゃ無いかなぁ』
茜さんのその言葉に私ははっとした。確かにそうだ。別会場で行われていた花園君達の東京都予選の試合内容を教えて貰ったり、私の試合が終わった後送って貰ったりしたのは完全に私のわがまま。松田さんは、私のそのわがままに文句一つ言わず付き合ってくれた。普通の記者さん達ならそんな事してくれないはずなのに。ううん、そもそも私は、どうして松田さんにそんなわがままなお願いをしたんだろう……。他の記者さん達には絶対に頼めないようなお願いを。
どうして……?
そんな疑念が頭の中をぐるぐると渦を巻いて回っていたが、不意に私は今日の事で松田さんに何のお礼も伝えていない事に気づく。負けてばかりだった花園君達が辛い練習を乗り越えて団体戦初勝利に喜ぶ光景を見る事ができ、一生懸命やる事の素晴らしを知って、私自身も涙が出るほど嬉しかったのに……。
「あっ、ご、ごめんなさい、茜さん! 私、急に用事を思い出したわ! 今日はこれで切るね。また今度、私から電話するから!」
『え、ちょっ、急にどうしたのよ、柔ちゃん!?』
突然の事に驚いている茜さんの声が受話器の向こうから聞こえてくる。それに対して私はもう一度「ごめんなさいっ!」とだけ伝えて電話を切った。
そして私は手に持っていた受話器を戻し、自分の部屋にパタパタと駆けて行った。前に貰っていた名刺、どこに置いていたかしら、と考えながら。
~~~~日刊エブリースポーツ 本社~~~~
side 松田 耕作
「おーい、松田ぁ! 3番に電話! まーた女だったぞ。ちゃんと仕事してんのか、お前?」
少し離れたデスクで外線を受けた同僚の記者が、俺をうさんくさそうな目で見る。その声が聞こえたのか、先ほどまで俺を叱っていた編集長がじろっと俺を睨む。
まいったな、まったく。ただでさえ、今日のクジTV杯ではまともな記事を書けなくてさっきまで編集長に雷を落とされていたというのに。まあ、それでも柔さんのあの涙をこぼす笑顔を捉えた写真の現像を鴨田が間に合わせてくれて、それを1面にもってくる事が出来たのは良かったが。
他の写真が全然撮れていないじゃないか、という意見も上がったが、そんな事は関係ない。どれだけ沢山の写真を揃えても、被写体の一瞬の感情を捉えた一枚の写真には適わない。あの鴨田も現像室から出てくるなり「良い写真ですねぇ、松田さん」としきりに唸っていたし、俺からその写真を見せられた編集長もそれまでの怒りの形相を収め、「ふん、一面に持って行ってやる」と小さく呟いた。
もっとも、「借りたカメラで撮った!? 馬鹿か、お前は!? なんでもっと良いカメラで撮らないんだよ!」という至極真っ当な言葉に俺は何も反論できず、首を竦める事しか出来なかったが……。
「はい、松田です。どちら様ですか?」
3番のスイッチを押し、受話器を肩と頬でぞんざいに挟みながらペンを素早く動かす俺。写真は決まった。後は早く記事を仕上げて、校了の時間までに印刷部に回さないといけない。正直、誰かも分からない電話の対応をしている時間は今の俺には無かった。女と聞いたから、もしかして桐生さんかもしれないと思ったから俺は電話に出たまでだ。
「……あの、夜分遅くすいません。松田さんですか?」
「はいはい、松田ですよ。どちらさま――。――! もしかして、柔さん!?」
どちらさまと問おうとして、その声から電話の向こうの人間を推測した俺は、思わず椅子から立ち上げり大声で叫んでいた。その俺の大声に、周囲で仕事をしている同僚達がジロッと睨んでくる。
その咎めるような視線を「ははは……」と苦笑いでやり過ごし、今度は丁寧に受話器を握り直す。そして声が外に漏れないように口に手を当てながら、もう一度そっと問いかける。
「え……柔さん、で間違いないのかな?」
「あ、はい。柔……、猪熊柔です。松田さんですね?」
やっぱり柔さんだ。不思議だ。もう夜の10時を回ろうかという時刻。流石に疲れもピークに達していると言うのに、柔さんの涼しげな声を聞くだけでその疲れがどこかに飛んでいってしまうように感じるのは、どうしてだろう……。やっぱり俺って、彼女の事を……。
「良かったです、まだ会社にいらして。あ、ごめんなさい、お仕事忙しいですよね? お邪魔してしまったんじゃあ……」
「邪魔だなんて! 全然! 暇すぎて、困っていたぐらいだよ」
「すいません、お忙しいでしょうから手短にお伝えしますね。あの、松田さん。今日は本当にありがとうございました。私のわがままで世田谷の道場と日本武道館を行き来してもらって。あの、クジTV杯の試合をほとんど取材できなかったと思いますが、大丈夫でしたか?」
「大丈夫、大丈夫。全然問題ないよ」と、先ほどまでその件で編集長に叱られていた事をおくびにも出さずに口にする俺。
「良かったです。私のせいで松田さんに迷惑をかけたんじゃあ、と気が気じゃ無くて。すいません、お仕事中に。それじゃあ、私これで切りますね。お仕事がんばって下さい。今日は本当にありがとうございました」
そう言って電話を切ろうとしていた柔ちゃんが「あっ、そうそう」と続けた。
「あの、茜さんですけど、高校柔道選手権大会の秋田県予選で優勝したそうですよ。さっき電話がかかってきていました。それじゃあ、これで本当に切りますね」
柔さんからの電話はそれで切れた。受話器の向こう側からは「プー、プー」という無機質な電子音が聞こえてくるが、俺はしばし受話器を耳に当てたまま立ち尽くしていた。
お仕事がんばって下さい……。こんな言葉をかけられたのは、初めてだった。それを柔さんからかけられるなんて……。
俄然やる気が沸いてきた俺は、思わず大声で叫んでいた。
「よーし、やるぞぉっ! この最高の写真に最高の記事を当ててやる!!」
「うるせえぞ、松田ぁ!!」という同僚達の声を無視して、俺はペンを走らせていた。
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side ●●●●
「……お聞きしたいのだが、4月12日に西海大学で行われた猪熊柔の試合のビデオはそちらに残っているだろうか? ……いや、違う。藤堂由貴選手との試合ではなく、桐生茜と言う名前の選手との試合の方だ。……無い。そうか、分かった。仕事の邪魔をしてすまなかったね」
ガチャン、と音を立てて受話器を所定の場所に戻す。これで8社目だ。最も詳細な記事を残していた日刊エブリ―スポーツを皮切りに主要な新聞社に続けざまに電話をかけてみたが、どの社も動画を残してはいなかった。
もう少し早くその記事に気づいていれば、伝手を頼りに探す手もあったかもしれないが、あれから既に2カ月以上の月日が経っている。久方振りに山籠もりから麓に降りた時に偶然目にした処分寸前の古い新聞記事。その記事に、柔と桐生茜なる人物の対戦結果の記事が載っていた。
驚いた私はそこから最も近い図書館に足を運び、その日行われた試合結果について記された記事の隅から隅まで目を通した。最も詳細に記されていたのは日刊エブリ―スポーツだった。
読むだけで戦いの情景が頭に浮かんでくるような熱量に溢れた素晴らしい記事だった。記事を書いた者の名前は松田耕作。その時、覚えておく価値がある名前として、私は彼の名前を脳裏に刻み込んだ。
しかし、どれほど詳細に記されていても実際の映像をこの目で見ない事には分からない事もある。柔の方は良い。猪熊滋悟郎が手塩にかけて育てており、あの日家を出て以来彼女の事を考えなかった日は、一日として無い。それに、何度か人目を忍んで様子を伺いに行った事もあるため、彼女の力量は概ね掴んでいる。
分からないのは、この延長戦の末に柔を降したという“桐生茜”なる少女だ。あの天才を相手に、いったいどういう柔道をすれば互角以上の勝負ができるのだ。見てみたい、天才を降した試合を。
報道関係者ではそれを望めなかった。では、会場提供という形で協力していたらしい西海大学は? おそらくあの場には報道関係者だけでなく、大学の柔道関係者も多数いたのではないだろうか。それも目の肥えた柔道部の面々が。大学柔道界の名門と名高い西海大学ならば、部員の誰かが二人の試合内容をビデオカメラで撮っていたとしてもおかしくはない。
……行ってみるか。私は、電話ボックスの重たい扉を押し開き、関東行きのバス乗り場の方へと一歩を踏み出した。
「猪熊柔と桐生茜と試合……? ああ、見ていましたよ。え、試合内容? そりゃあ、もう凄かったっすよ。……どう凄かったと言われても、凄かったとしか」
……駄目だ。西海大学ならばと、キャンパス内の武道場の前にやってきた私は、ちょうど柔道着を羽織った学生の一人を見つけて声をかけていたが、この学生では私の求めている答えは頂けないようだ。
気付かれないようそっと息を吐く私を胡散臭そうに見つめていた学生が、私の肩越しに背後から近づいてきた学生に声をかけた。
「あっ、稲垣先輩! このおっさんが――、じゃなかった。この人が2か月前のあの試合の事を聞きたいって来ているんですけど……」
「何……?」と言葉を返しながら私を誰何する、先ほどまで私と会話していた学生より年上のように見える学生。
ふむ……。背後を振り返りその学生を見た私は新たに現れた学生を値踏みする。階級は95kg超級といった所か。もう少し絞って一つ下の階級に転向した方が良いな。十分な上背と腕力がある事は見て取れるが、技はキレないと見た。技のキレは天性のものだ。それは試合中でなくとも、常日頃からの所作である程度推測が出来る。
「誰だ、あんた? ここは当大学の学生以外立ち入り禁止だぞ。怪我をしないうちに出ていくんだな」
稲垣と呼ばれた学生は、私の上着の襟元に手を伸ばし、力を入れる。
「むっ……! お、お前、どうして――!」
「……稲垣先輩?」
私を軽く威圧するつもりだったのだろう。右腕の筋肉の盛り上がりで分かる。だが、私の両足は地面に接したまま微動だにしない。当然だ。この程度のレベルの学生に
「ぐ、ぐぐ……ぐ……」
襟を掴んだまま私の身体を浮かそうと更に力を込める彼。しかし、私の体勢は変わらないまま。このままこうしていても埒が明かない。私はこの大学の学生とこのようなやり取りをするためにわざわざ山籠もりを中断してまで東京に戻ってきた訳ではない。彼の無駄な行動を制するように、私は襟を掴んだ彼の拳に手をそっと添えながら口を開く。
「私は怪しいものでは無い。講道館の山上君、彼の紹介でこちらに伺っている。これがその証拠だ」
「や、山上……? 山上ってロス五輪で金メダルを取った山上先輩かっ!? ほ、本当だ、山上先輩の名刺だ」
私が、こんな時のためにと、かつて山上君と
さすがだよ、山上君。君に敗れて以降私は自分自身のためだけに柔道の神髄を極めようとしていたが、君は柔道を愛する皆のために粉骨砕身の覚悟で柔道界の発展に寄与している。おそらくは君と直接的な先輩後輩の関係では無いだろうこの学生が君の名に驚き、私の渡した名刺を恭しく手にしているのが、その何よりの証拠だ。
「山上君から二カ月前の試合の事を聞いてね。詳しい話を聞かせて欲しくてここまで来たんだ。もし良ければ話を聞かせてくれないか」
「……分かりました。山上先輩のお知り合いなら。それに、あなたもそうとう出来るんでしょう?」
先ほど私をこの場から排除できなかった事を言っているのだろうが、私はその問いかけにフッと笑みを浮かべるだけに留める。
「……良いでしょう。あの試合は俺も間近で見ていましたから。近藤、お前は行って良いぞ。監督には少し遅れると言っておいてくれ」
「はい!」と勢い良く返事を返した後輩から視線を剥がし、稲垣君は私に視線を合わせ語ってくれた。あの日の試合の詳細を。
「……それで、桐生は寝技を誘っていたんですけど、それを嫌った猪熊柔が立ち上がった事で『待て』がかかりました」
ほう……。柔が寝技を嫌う。猪熊滋悟郎が柔に寝技の技術を習得させていないとは考えられず、間違いなく立ち技と同じレベルで柔は寝技が使えるはずだ。その彼女をして、寝技勝負で後手に回らせるか。
ふむ……、確かスポーツ紙には桐生茜なる少女は秋田の出身とあったが、もしかすると彼女はかじっているのだろうか? 私が思考に耽っている間にも稲垣君の解説が続く。
「……で、猪熊の膝付背負いを躱した桐生が裏投げでポイントを取ったと思ったんですけど、どうやら浅かったみたいで試合はそのまま続きました。最後は、桐生の片手袖釣り込み腰が見事に決まって一本勝ちです」
片手袖釣り込み腰……か。勝負を決したその技の事は、日刊エブリ―スポーツの記事で知っていた。袖釣り込み腰という技は、背負い投げや一本背負いのように誰もが使う技では無く、その習得には相応の修練を必要とする高難度の技だ。
難度が高い理由は、背負い投げや一本背負いが相手を自分の背中に乗せて投げる技であるのに対し、袖釣り込み腰は相手を自分の腰に乗せて投げる技であるため。相手に対する接地面積が背中より腰の方が少なく、かつ安定しない部位であるため技が不発に終わる事も珍しくない。
そのただでさえ高難度の袖釣り込み腰を片手でやってのけるとは。やはり見てみたい。あの天才を降したというその技を。その少女を。
「ところで、その試合を誰かがビデオに撮っていたりはしないのだろうか? もしそのビデオが残っているようなら、是非見せて貰いたいのだが……」
私の問いに、稲垣君は痛い所を突かれたような顔をしながら応える。
「それが、うちの映像係がその試合を撮っていたのですが……」
「撮っていたが……?」 稲垣君に先を促すように私は問いかける。
「あの記事が出たその日のうちに本阿弥グループの人間がやってきて、そのビデオテープをカメラ毎買い取って行ってしまったんです。そいつもダビングしてから渡せば良いものを、目の前に札束積まれて思わず反射的に売ってしまったと。そいつ、後で知った監督にめちゃくちゃ説教されていましたよ」
ふむ……。という事は、そのビデオテープは今ここには無い……と。しかし、私は気落ちしてはいなかった。少なくとも、あの日の二人の試合を撮ったビデオテープが存在する事は確認出来たのだから。
問題は、本阿弥……か。いかに私とは言え、警護の厳重な本阿弥の人間に近づくのは容易ではない。いや、待てよ。おそらくそのビデオテープを欲したのは、本阿弥は本阿弥でも、本阿弥さやかに他ならないだろう。図書館で柔と桐生茜に関する記事を調べていると、嫌でも本阿弥さやかが柔に執心している事を示す記事は目に入っていた。
そう言えば、来週本阿弥さやかと柔が出場する大会が東京であったか。確か、クジTV杯と言っただろうか。そこへ行けば、本阿弥さやかに接触できるかもしれない。
「ありがとう、稲垣君。良い話を聞かせてくれたお礼に一つだけ忠告を。先ほどのやり取りで感じたのだが、君は上半身に比べて下半身が弱いように思える。これからはその改善を念頭に入れて稽古に励むと良い。では、これで失礼する」
「は……はあ……、どうも……」
そして私は、茫然とした表情の稲垣君をその場に残し、その場を立ち去った。
後日。
駐車場に止まっている黒いロールスロイスに、私はゆっくりと近づいて行く。目当ての女性が後部座席に収まっているのは確認している。やはりここで待っていて正解だった。私は後部座席の窓に手をかけ、中にいる女性に話しかけた。
「試合見せて貰いました。あなた、もっと強くなります」
つい今しがた行われていたクジTV杯の決勝戦で柔に負けた事が尾を引いているのだろう。その女性は私の方を見もせずに「当り前ですわ!」と仏頂面で応える。ふっ、あの天才をライバル視しているのだ。2秒で負けたと言うのに、いささかも心が折れていないように見えるのは立派なものだ。天才を追いかけるスタートラインに立つ資格はあると言っても良い。
「君が、4月に行われた
「ふん、どうして私がそのような事をしなければならないのです? 徳永、出しなさい」
「はい、お嬢様」
後部座席のウインドウが閉まり車がゆっくりと動き出す。私は徐々に小さくなるその車をじっと見つめていたが、不意にその車が停止する。そして、後部座席の扉が開き、一人の青年と先ほどの女性が泡を喰ったように飛び出してきて、こちらを凝視した。
どうやらここまで足を運んだ甲斐があったようだ。私は、何やら叫びながらこちらに駆けてくる二人を見つめていた。
別に隠すつもりは無いのですが、なんとなく●●●●とさせていただきました。後、山上さんはあの山〇さんです。YAWARAの原作では本名で登場しておりましたが、二次創作でそれが許されるかどうか分からなかったので、手を加えさせていただきました。