ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
7月のある日の土曜日。前世で土曜と言えば休日だったが、この時代の土曜は午前中だけ授業がある、いわゆる半ドンという奴だ。部活動をしていない学生はそのまま昼前に家路につくのだが、部活動をしている生徒はお弁当なり、学食なりで昼食を取って午後から部活動に励む。
この昭和ならではの光景は、最初こそ慣れなかったものの、実は私は今では結構気に入っている。部活動をしていなければ、平日とは異なりまだ日の明るい時間に友人と過ごすまとまった時間が取れる。それこそカップルはデートに勤しんだり……やめよう、私に縁の無い例を挙げるのは。
っと、とにかく、部活動をしていても、部活の後に部室で皆と漫画を回し読んだり、帰りにおやつ代わりにお好み焼きを皆と食べに行ったりと、とにかく平日より友人と過ごす自由な時間が取れるという事を、私は言いたいのだ。
え、1日フリーの日曜日で良いじゃないかって? うふふ、分かってないなぁ。面倒な授業が午前にある分、自由に過ごせる午後がその反動で開放的に感じるのが、半ドンである土曜日の良い所なのよ。
「はいよ、茜ちゃん。今日もこれから練習なんでしょ? 炒飯、大盛にしといたよ!」
「やった! いつもありがとう、おばちゃん!」
学食を受け取るための列に並んでいた私の前に、顔見知りの配膳係のおばちゃんがドンっと、『A麺セット(ラーメン+半炒飯』を載せたおぼんを置く。おばちゃんの言葉通り、煮干しの香りと共に湯気の立つ醤油ラーメンの隣に添えられた半炒飯が、“半”どころか皿から溢れるほどの“特盛”で盛られているのを見て、私は思わずニカッと笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
「さて、どこが空いているかな?」と、おぼんを両手に抱えたまま、秋田東工の広い学生食堂を見渡す。
うーん、どのテーブルも満席ねえ、とキョロキョロと空いている席を探していると、折よく食事を終えて立ち上がる生徒を見つけた私。ラッキーと、その席に近づいて行くと、良く見知った男子がテーブルを挟んだ向かい側で食事している事に気づいた。
「よっす、真田。今日もバイト?」
「よう、桐生。ああ、夕方からだから、学校で時間を潰そうと思って。お前はまた道場に顔を出すのか?」
真田は部活を引退してから、とある目的のためにファミレスでバイトを始めている。私は「当然」と、リュックサックのチャックの隙間から覗かせている柔道着をチラッと真田に見せる。
「相変わらずお前は柔道一筋だな。この間小田に廊下で会ったが、『桐生キャプテンは引退してもほとんど毎日道場に顔を出すから、以前とあんまり変わったように思えない』と愚痴を零していたぞ」
「ええ、そんなこと無いよ。私は隅っこでちょっと練習に参加させてもらってるだけで、別に小田の練習方針に口出ししたりしてないよ」
私が真田の向かい側の席に腰を降ろしながら「心外な」と口にすると、食後のお茶を飲んでいた真田が苦笑する。
「分かってるよ。冗談さ。お前が引退してからも練習に参加してくれるから、助かるとも言っていたよ。それより、いよいよ来月だな、世界柔道選手権は。どうだ、調子は?」
「そりゃあもう絶好調よ。私より強い相手に会いに行けるんだから、今からワクワクして夜も寝られないくらいよ」
「……全く、桐生らしいな。そう言えば記事を読んだが、お前がご執心の猪熊柔は、クジTV杯で4試合合わせて10秒かからなかったらしいが、お前が全国大会で秒殺に拘っていた理由はそれだな?」
元副キャプテンからのその指摘に私は「バレたか」と首を竦めると、彼は当たり前だ、と呆れたような顔で私を見つめる。
「だって、柔ちゃんが日本一を決める無差別級で全試合合わせて10秒を達成しているのよ。彼女のライバルを自認している私としては負けてられないって思ったのよ」
「お前と言い、その猪熊柔と言い、どこかねじがぶっ飛んでいるな。普通はそんな事狙わないし、狙ったとしても達成できないんだよ。俺なんてベスト8が精々だったというのに……」
ラーメンをちゅるんっと啜った私は、真田をむっとねめつける。
「そうやっていちいち私と比べないの。あんたはあんたの得意分野があるんだから良いじゃない。ふふふ、この時計調子いいよ」
私は、左手首に巻いている機械式の腕時計を真田に掲げて見せる。その時計は背面がスケルトン仕様になっていて、大きさの異なる4枚の歯車が一つのムーブメントを構成し、それが小さな円形の枠内に収まり小刻みに、かつ正確に動いていた。
それを見てフッと笑みを浮かべた真田は、ちょっと見せてみろ、と私の手首からその腕時計を外し、裏返したりゼンマイを巻いたりして、動きに異常が無いかつぶさに確認を始める。その慣れた手つきは素直に凄いなと思うが、大きな身体をすぼめて小さな腕時計のリューズをちまちまといじっている様は、なんだか可愛らしい。
「ふふふ。でも、まさか真田にこんな特技があったとは知らなかったよ。確か、家にあった壊れた機械式時計を直したんだっけ?」
私は、東京で開催された高校柔道選手権大会の後、真田から「優勝祝いにやるよ」とこの時計をプレゼントされていた。それまでスウォッチしか持っていなかった私は、その美しいムーブメントの動きと、どこか不便さを感じる手巻き機構の機械式時計に一瞬で心を奪われた。
「壊れていたのを直すような腕は無いさ。祖父が残したコレクションの中から状態の良さそうな奴を選んで、ちょっと手を入れただけだ」
その手を入れられる、っていうのが、そもおかしいのよね。真田家ってお爺さんが細かな機械いじりが得意で、お父さんが大きな重機の扱いが得意。一周回って真田がお爺さんの才能を受け継いだのは、隔世遺伝って奴なのかしら?
「……うん、問題ないようだな。ほら、返すよ。機械式は時々調整しないといけないから、4、5年経ったらちゃんと専門の店で見て貰えよ」
「じゃあ、その時は真田時計店に預けるよ。卒業したらスイスで時計職人になるための修業を積むんでしょ?」
「……一人前になるまで日本に帰るつもりはないから、いつになるか分からないぞ」と、明後日の方を見てそう呟く真田。そんな彼に私は「いつまでも待つよ」と、ニシシと笑みを浮かべる。
「全く……、お前は俺が時計職人になれると信じて疑わないんだな。親父には、無理に決まっているから大人しく家業を継げ、と大反対されたのに」
「でも、最後は認めてくれたんでしょ? それって多分、真田の事を信じているからだし、真田が中途半端な覚悟で口にしないって知っているからよ。ふふふ、私と一緒」
私達は高校3年生。真田だけではない。田代は警察官になる事を目指して公務員試験勉強を始めているし、みぞっちは大学に進学する事を目指している。皆、動き出している。私も置いて行かれるわけにはいかない。
私は返してもらった時計を再び手首に巻きながら、拝む様な素振りをする。
「ごめんね、真田。バイトで忙しい所悪いんだけど、来週も時間のある時に勉強を教えてもらえると嬉しい。あと、西ドイツでも勉強したいから、向こうに持って行く参考書の相談にも乗って欲しいんだけど……」
「別に迷惑とは思っていないさ。俺の方もお前に英会話を習っているんだからお互い様だ。参考書か。なら、来週のどこかで学校帰りに書店に寄って一緒に見てみよう」
「サンキュー」と笑みを浮かべながら、皿に残った炒飯をがつがつと掻き込む私。さあ、腹ごしらえもしたし、柔道場に行って身体を動かそう、と考えていたら食堂に白帯を締めた柔道着姿の生徒が飛び込んできた。
1年の西内だ。そのまま彼は誰かを探しているのか食堂の入り口でキョロキョロと周囲を見回していたので、もしかして私を探しているのかも、と思った私は「おーい、こっち、こっち」と手を上げる。
すると、やはり彼の探していた人間は私だったようで、私を見つけた彼は「ちょっとすいませんっ!」と食堂に集まった学生の間をかき分けながらこちらまで駆けてきた。
「桐生キャプテン、じゃなかった、桐生先輩。あ、真田先輩も。ザ、ザス!」
「ああ、そのおかしな挨拶は良いから、どうしたんだ? 桐生を探していたんじゃないのか?」
「そ、そうでした! 桐生先輩! 先輩を訪ねて、高飛車な女の人が道場に来ているんです。小田キャプテンがすぐに桐生先輩を呼んで来いって!」
高飛車な女の人が私を訪ねてきている……? 私は、目の前の真田と思わず顔を見合わせていた。
状況がよく分からなかったが、どのみち私も昼食後に道場に行くつもりだった。だから、何かもめ事だったらまずいから、と付いてきた真田と私は、連れだって西内の案内で道場に向かった。途中、道場の隣にある来客用の駐車場に秋田ではなかなかお目にかかれない黒塗りのロールスロイスが止まっているのを見て、私は嫌な予感が頭をよぎった。
そして私の嫌な予感は直ぐに的中する事になる。道場の畳の上で腰に手を当てて私を待っていたのは、スピリッツ杯で顔を合わせた本阿弥さやかだった。
後で知った事だが、奇しくもそれは、柔ちゃんの自宅にあの昨年の世界選手権無差別級の覇者 ジョディ・ロックウェルが押し掛けた日と同日だったらしい。
「全く、猪熊柔の高校の道場と言い、ここと言い、どうして皆わざわざこんな狭い道場で柔道をなさるのかしら? これなら我が家の愛犬チャールズの寝室の方が広いではありませんか」
「さようでございますね」
「いやいや、さやかさん。本阿弥邸の柔道場が特別なだけで、公立高校の柔道場はどこもこんなものですよ」
「……悪かったわね、こんなもので。不法侵入で訴えてやるわよ、あなた達」
神聖な畳の上で不愉快な会話を交わしていた本阿弥さやか、その執事の徳永、そして彼女のコーチの風祭。そんな彼らの背後からかけた私の言葉に、彼女達は振り返る。
「「桐生茜(さん)!」」
「「「「桐生先輩!」」」」
同じく道場に現れた私を見て声を上げる2年生と1年生。真田は、柔道着を身に着けた本阿弥さやかを知っているのか、「おい、桐生。彼女はまさか……」と耳打ちする。
「ええ、本阿弥グループのお嬢様、本阿弥さやかよ。久しぶりね、さやかさん。ううん、あんたが私を呼び捨てにするのなら、私も呼び捨てにさせてもらうわね」
本阿弥さやかは眼光鋭く私を睨みつけ、腕組みをしながらふんっと鼻を鳴らす。
「ふんっ。威勢だけは良いわね。この間は私を恐れて戦いを避けたくせに」
「この間……? ああ、クジTV杯の事? あんな急な招待に応えられるわけ無いじゃない。それに、私はあの日別の大会があったからあなたの相手は出来なかったのよ」
「そ、そうだ、そうだ。桐生先輩がお前なんかを恐れるわけが無いだろう!」
私達を遠巻きに見つめていた部員の一人がそう声を上げるが、本阿弥さやかはそれには取り合わず、私だけに視線を固定する。
「まったく、これだから程度の低い学校は……。臭いわ、うるさいわ、嫌になりますわ。風祭さん」
「はい、さやかさん」と、本阿弥さやかに水を向けられた風祭が一歩前に出る。いつぞやのように手を取られて手の甲に口づけされては適わぬと私は後ずさるが、彼はそれを意に介さず、一見してさわやかな笑顔を私に向けてくる。
「桐生さん、お久しぶりです。お元気でしたか? 今日は突然の訪問で驚かれたでしょう。このとおりお詫びします。あっ、これ、東京土産です。良かったら皆さんでどうぞ」
低姿勢で風祭は、何やら高級そうな紙袋を私に差し出す。中に入っているのはおそらく高級洋菓子。ふむ……。まあ、良いでしょう。頂けるというのなら頂いておきましょう。お菓子に罪は無い事だし。紙袋を受け取りながら、私は風祭に尋ねる。
「……それで? 今日は一体何の用で来られたんですか? 彼女のあの恰好からなんとなく想像はつきますが……」
私が柔道着を身に着けた本阿弥さやかを顎で指し示すと、風祭はこくりと頷き、やはり柔和な笑顔を顔に張り付けたまま応えた。
「はい。今日は桐生さんに是非、さやかさんと試合をして頂きたく、こうして参りました。桐生さん、さやかさんと試合をしていただけませんか?」
ふーん、まあ、想像通りね。おおかた、先月のクジTV杯で柔ちゃんに二秒で負けた事でなりふり構っていられず、って所なんでしょうね。私が本阿弥さやかに視線を移すと、その彼女はいらいらした様子で腕組みをして私を横目で見つめていた。
「桐生さん、いかがでしょうか? 受けていただけませんか?」
品の良いスーツを着込み、甘いコロンの匂いを振りまきながら風祭がにこやかに尋ねてくる。
だから私は、そんな彼に「嫌よ」と、はっきり応えてやった。
「い、嫌……ですか。そ、それは何故でしょう?」
私の答えが予想外だったのか、風祭が大きく目を見開いて問いかける。
「だって本阿弥さやかと試合をしても、私には何のメリットもないじゃない」
「何のメリットもない……。い、いやいや、そんな事はありません。記事は読みました。あなたは、練習試合とはいえ、あの柔さんに勝った選手です。そんなあなたと試合をする事で、さやかさんは今以上に強くなれる。そしてあなたも今以上に強く――」
「――ならないわよ」
風祭の言葉を遮り、私は否定の言葉を口にする。
「今あなたが言った通り、私は猪熊柔と試合をした事で強くなれた。そしてそれは、おそらく猪熊柔も同じ。だけどそれは、互いの実力が伯仲していたからの話。私とそこの本阿弥さやかの力は伯仲していない。利があるのは本阿弥さやかだけ。私には何の利も無いわ」
……利は無くても、興味はあるけどね。でも、今戦っても確実に勝てると分かっている相手と戦っても面白くない。どうせやるなら、もっと強くなった本阿弥さやかとやりたいものだわ。たとえば、原作通り彼女が寝技のスペシャリストになってからなら、私も前世で習得したガチンコの寝技で相手をしてやってもいい。いや、是非相手をして欲しい。
「い、いや、ですが……」と風祭はなおも続けようとすうが、肝心要の本阿弥さやかがそれを止める。
「もう結構ですわ。結局あなたは、四の五のと理由を付けて私と対峙しようとしないんですから。私、明日から世界を廻る武者修行の旅に出ますのよ。世界にはあなた以上の強者がいる事でしょう。何もここで、まぐれで猪熊柔に勝っただけで浮かれているような相手と無理に戦う必要もございませんわ」
「そう。ならお帰りはあちらよ。ばいばい、本阿弥さやか。武者修行の旅、せいぜい頑張ってね」
彼女はギリッと歯を噛みしめ私を睨んだ後、「行きますわよ、徳永」と声をかけ一歩足を踏み出す。しかしそこで彼女を制止する声が道場隅から飛んだ。
「……待て。お前はその娘と戦う必要がある。猪熊柔に勝ちたいのならばな」
――! 本阿弥さやかをお前と呼ぶ野太い声。風祭ではない。もちろん執事の徳永のはずもない。その声は、道場の反対側の壁際から発せられていた。そこには、色あせたベレー帽とジャンパーを身に着けた中肉中背の男性が一人立っていた。口元が小さくもぐもぐと動いている所を見ると、何かを食べているのだろうか。
まさか……。まさか……。ありえない。彼が本阿弥さやかと行動を共にするのは、まだずっとずっと先だったはずだ。そう、私の記憶が正しければ、それは少なくともソウルオリンピックより後だったはず。
なのに何故、あなたが今ここでこうして本阿弥さやかと行動を共にしている……!
猪熊
私の視線の先には、『YAWARA!』の世界のキーパーソンの一人であり、猪熊滋悟郎の息子にして、猪熊柔の父親の姿があった。
「ようやく言葉らしい言葉を発したかと思えば、いったい何を言っているのやら。こんな赤毛猿と無理に戦わなくても、世界にはこの女以上の強者が――」
「いや、いない。軽中量級以下に限定すれば、現時点で彼女が世界一だ。もう一度言う。猪熊柔に勝ちたいのなら、彼女と戦うべきだ」
その言葉に、本阿弥さやかが歯をギリギリと噛みしめる。
「どうしてそこまで私とこの女を――「お話し中失礼」」
二人の会話をぶった切り、私はつかつかと彼の前まで移動し正対する。
「あなたは、猪熊虎滋郎さん、ですよね。柔ちゃんのお父さんで、滋悟郎さんの息子の」
「そうだ」と、本阿弥さやかから視線を剥がし、私を眼光鋭く見つめる虎滋郎。
まったく、あなたの行動でどれほど柔ちゃんが柔道に対して屈折した思いを抱いたのか、分かっているのかしら……。
「なら、聞かせて下さい。あなたはどうして柔ちゃんの前から姿を消したんですか? あなたの目的は一体何なんですか?」
当然原作を最後まで読破している私は、その答えを知っている。だけど、それを今しっかりと彼から聞き出す事で、私の口から虎滋郎さんの答えを柔ちゃんに伝える事ができる。武道場にいる全員が、私と虎滋郎さんのやり取りを息を潜めて見守っている。静寂の中、虎滋郎さんがフッと笑みを浮かべた。
「……なら、君が彼女……、本阿弥さやかと4分間戦ったら、その答えを聞きたいという君の望みを叶えよう。それなら、君にも利が生まれるのではないかね?」
バチバチっと火花が飛ぶかのように、私と虎滋郎さんの視線が交錯する。
「……良いわ。交渉成立ね。着替えてくるから、ちょっと待ってて」
そして私は踵を返し、柔道着に着替えるために剣道部の更衣室に向かう。途中、真田が「おい、桐生。今のは……」と声をかけてくるが、彼が部外者である本阿弥さやかと勝手に試合する事を咎めようとしている事を察した私は、「ごめんね、ちょっとだけお目こぼししてくれると嬉しい」と応え、足早にその場を後にした。