ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
……時は少しだけ遡る。
~~~~東京 本阿弥邸 私設柔道場~~~~
「はっ! はっ!」
柔道着姿の本阿弥さやかが玉のような汗を流しながら、彼女のコーチである風祭に背負い投げの動作を何度も繰り返す。ただし、実際に背負うまでは行わない。それは“打ち込み”と呼ばれる、技の仕掛けの動作を反復する稽古だ。
その稽古を始めてどれほど時間が過ぎたのだろうか。本阿弥さやかは流れる汗と共に呼吸を乱しながら打ち込みを続けていたが、その彼女の肩に風祭が不意に「終わりです」と声をかけながら手を置いた。
その制止の声に本阿弥も与えられた回数の打ち込みを終えた事に気づいたのか、ようやく風祭の襟元と袖元をきつく握っていた手を離し、代わりにふらつく身体を支えるかのように自身の膝に手を添えた。
「良い動きでした。その動きが常にできれば、柔さんに二秒で投げられるという事はありません」
「はぁっ、はぁっ! お、思い出させないで下さいませ! あれは何かの間違いに決まっていますわ!」
とうに疲労はピークに達しているだろうに、風祭の言葉に血相を変えて詰め寄る本阿弥さやか。風祭はそんな彼女を「まあ、まあ」となだめた後、柔道場の片隅に顔を向けた。そこには、ビデオカメラとコードで接続された小さなモニターを直立したままじぃっと見つめている中肉中背の男が。
「いつまで見ているつもりかしら。私など、もう見飽きましたのに……」
自身が打ち込みを始める前からまるで変わっていないその男の立ち姿に、本阿弥さやかが呆れたような言葉を発する。
「いや、さやかさん。あのビデオはいくら見ても見飽きる事はありませんよ。よくあの試合の映像が残っていたものです」
首を振りながら発した風祭の言葉には、感嘆の感情と後悔の感情が複雑に入り混じっていた。感嘆は、あの猪熊柔と桐生茜の試合を記録した媒体を見つけ出し即断で入手した本阿弥グループの力に。そして後悔は、あの日、藤堂由貴との試合の直後に大学を去ってしまった愚行に対して。あの世紀の名勝負をこの目で見る機会を逸したとは……! それが風祭の偽らざる本心だった。
「しかしさやかさん。あの映像を入手できたからこそ、柔さんのお父さんである虎滋郎さんと知己を得る事が出来たのですから、良かったではありませんか」
風祭の言葉は、先日のクジTV杯の後帰路につく寸前、見知らぬ男から『娘が敗れた練習試合の映像はあるか?』と、問いかけられた事を指していた。
つまり、その時の見知らぬ男が、今ああしてあの日の映像を喰いつく様に見つめている猪熊虎滋郎その人だった。
本阿弥さやかはその風祭の言葉を聞いても、胡散臭そうな目で虎滋郎を見る事を止めない。
「いくら知己を得ても、あれでは何の役にも立っていないではありませんか。それより風祭さん。明後日からの海外遠征で着ていく服を選びに行きますわよ」
「えっ、ちょっ、ちょっと待ってください、さやかさん」
グイッと腕を取られ引っ張られた風祭は、慌てて猪熊虎滋郎に背を向けたが、そんな彼らに投げかけられる声が。
「……海外遠征に行く前に、君は秋田に行くべきだ」
「「――!?」」
これまで一言も言葉を発さずただひたすら映像に見入っていた猪熊虎滋郎から始めて投げかけられたその言葉に、畳から降りようとしていた二人は驚きの表情を浮かべながら振り返った。
「秋田……? あんな田舎に行って一体何をしろと……?」
本阿弥さやかは“秋田”という単語に思い当たる事が無いのか、訝し気な視線を男に向けるだけだったが、風祭は違った。
「秋田……。まさか虎滋郎さん、あなた、桐生茜に会うべきだと言っているのですか?」
「――!? 桐生茜ですって!?」
桐生の名が出た事で、本阿弥さやかが風祭を凝視する。傲岸不遜を地でいく本阿弥さやかと言えど、桐生の名を無視する事は出来なかった。今年2月に東京で行われたスピリッツ杯で、初対面の自身に対して不遜な態度で接してきた赤毛の女。その上、まぐれに決まっているだろうが、自身が倒すべき対象と考えている猪熊柔に一足先に土を付けた泥棒猫。
「まさか、あなた……。この私に、その桐生と戦えとおっしゃるのではないでしょうね?」
「そうだ。君が本当に今より強くなりたいのならば、どれほど海外で武者修行を行うより、一戦でも彼女と多く試合をしてもらうべきだ」
「してもらうべき……ですって? 何故この私が下手に出る必要が――」
歯をギリギリと噛みしめながら猪熊虎滋郎を睨む本阿弥さやかだったが、風祭が彼女の言葉を遮って首を振る。
「……いえ、虎滋郎さんのおっしゃる通りです、さやかさん」
「――風祭さん!?」
驚きの声を上げる本阿弥さやかだが、その彼女の肩に手を置いた風祭が真剣な表情で彼女を見つめる。
「……現実を受け入れるべきです、さやかさん。猪熊柔は今のあなたの力で敵う柔道家ではありません。そして、練習試合とはいえ、その猪熊柔に勝った桐生茜の力もまた、推して知るべしでしょう」
「ぐっ……!」
悔しそうに顔を歪め、下を向く本阿弥さやか。そんな彼女を、風祭は優しく諭す。
「とは言っても、直接戦った事のある柔さんの力はともかく、一度も戦った事の無い桐生茜の力をさやかさんが実感するのは難しいでしょう。だから戦う必要があるのです。彼女の真の力を知り、自身の今の立ち位置を知る。それは海外遠征に旅立つ前にさやかさんが把握しておくべき、最優先事項です」
風祭の言葉に、ただ肩を震わせ下を向いていた本阿弥さやかだったが、数拍後に意を決したように顔を上げた。その彼女の瞳には、真っ赤な炎が宿っていた。
「……分かりましたわ。私もあの生意気な赤毛猿は気に入らなかった事ですし、海外遠征に行く前にあの女をしっかりしつけてあげるとしましょう。ほぉっほっほっほ! 今頃あの女は有頂天になっている事でしょうから、猪熊柔に勝った事などまぐれに過ぎなかったと身体の芯から分からせて上げますわ!」
風祭は、本阿弥さやかのその動機が自身の企図したもので無かった事に苦笑いを浮かべたが、結果として桐生茜と戦う事について了承は頂けたものと考え、ぎこちなく頷きを返していた。
~~~~秋田東工業高等学校 柔道場~~~~
「お待たせ、本阿弥さやか」
柔道着に着替えた私は、畳の前で一礼した後畳の上に上がる。準備運動は更衣室で終えてきていたが、それでも手足をふるふると軽く振りながら本阿弥さやかと対峙した。私と距離を挟んで対峙している本阿弥さやかは、顎を上げて皮肉気に私を挑発する。
「遅かったですわね。別に更衣室の窓から逃げ出しても良かったんですわよ?」と憎まれ口を叩く本阿弥さやかに、後輩達から「桐生先輩が逃げるわけ無いだろう!」などと言った声が飛ぶ。
「こらこら、いちいち反応しないの。ただでさえここは彼女にとってアウエーなんだから。風祭さん、審判をお願いしても良いですか?」
壁際に立つ後輩達に視線を投げた後畳の上の風祭に声をかけると、彼は「分かりました」と頷く。
「……なら俺は時間を計測しよう。山田、ストップウォッチを貸してくれないか?」
真田は近くにいた1年生からストップウォッチを受け取り私達から少し距離を取る。その様子を視界の端に収めた私は、ニヤッと笑みを浮かべて真田に視線を向ける。
「……ストップウォッチが必要になるほど時間をかけるつもりはないわよ、真田」
「いや、おそらく必要になる」
……? 真田の言葉の意味が理解できず首を傾げる私だったが、向かい合わせに立つ本阿弥さやかがまなじりを上げて私に挑戦的な言葉を発した事で、それを頭から締め出す。
「風祭さんが審判で良かったのかしら……? あそこの山猿達のうちの誰かを審判に指名した方が良かったのではなくて?」
「誰が山猿だっ!?」とギャラリーから声が飛ぶが、本阿弥さやかは涼しい顔で「ほっほっほ。あなたと言い彼らと言い、ここは本当に赤毛猿がボスに君臨する猿山のねぐらのようですわね」と、口に手を当て私を嘲笑する。
しかし私は、その嘲笑には付き合わず、開始線の上で軽く跳躍しながら彼女に応える。
「別に良いよ、あなたの
「何ですってぇ……! 風祭さんっ、はやく試合開始をお告げなさって!」
そして風祭は私と本阿弥さやかに視線を向けられて、「はじめっ!」と大声を発した。
「きえぇぇっ!」
風祭の発した開始の声の余韻が消えないうちから、本阿弥さやかが気勢を上げながら私に向かってくる。もちろん私も彼女の動きに呼応する様に前に出る。
一瞬の組み際。彼女の前に出る力をそのまま利用し、私は彼女の懐に飛び込む。
「――!?」
彼女の口から声にならない悲鳴にも似た驚きの声が漏れた時、彼女の身体は私の放った袖釣り込み腰によって天地が逆さまになっていた。
ズダーーーーン!!
これでもかというほど彼女の背中を畳に叩きつけた事で、激しい振動が周囲に伝播するかのように伝わって行く。
ふーー。私は、茫然としたまま天井を見上げている彼女の身体を支点にして、ゆっくりと袖釣り込み腰の後の逆立ちにも似たフォロースローを行う。ふふふ、柔道家にとっては、これが最高のウイニングランってところね。そしてゆっくりと宙に弧を描きながら足を畳に付けた私は、まだ勝利の宣告がない事に気づく。
彼は私から視線を投げられたことでようやく自身の役割を思い出したのだろう。途端に金縛りから溶けたかのように右手を高々と上げて「一本!」と宣告した。
さあ、これで猪熊虎滋郎との約束は果たした。今度はあなたが約束を果たす番よ、と視線を彼に向けるが、その彼は何故かストップウォッチを手にした真田に顔を向けていた。
「タイムキーパーの君……名前は……」
「真田です」
「そうだ、真田君だ。何秒かな?」
「2秒です。ですので、後3分58秒残っています」
3分58秒残っている……? どういう会話をしているのよ、二人は。時間が残っているはずないじゃない。一本勝ちしたんだから。そんな疑問符を私は頭に張り付けていたが、どうやら猪熊虎滋郎と真田の間で認識の齟齬は無いようだった。
「ちょっ、二人して何を言っているのよ。一本勝ちしたんだから残りも何もないでしょ?」
私が二人の会話に割り込むと、猪熊虎滋郎は仏頂面を、真田は呆れ顔を私に向けた。
「私は君に1試合すれば良いとは言っていない。私は、本阿弥さやかと4分間戦えとだけ言ったはずだ」
「――なっ!? え、ちょっ、そ、それってまさか……」
あっ……。つい先ほどの猪熊虎滋郎との会話が私の脳裏に思い起こされる。
『……君が本阿弥さやかと
あ……、ああ! 欺かれた事に私が愕然としていると、真田がはーと、長い息を吐きながら続く。
「やはり気づいていなかったな。だからあの時忠告しようとしたのに、まったく……」
――! まさかあの時着替えに行こうとした私に真田が声をかけて来たのって……。茫然として私が真田の顔を見ると、彼は「引退したとはいえ、元副キャプテンの言葉は聞いておくべきだったな」と、肩を竦める。
「理解できたようだな。さあ、まだ時間は3分58秒残っている。開始線に戻ってもらおう、桐生茜。本阿弥さやか、少しでも彼女の間合い、足運び、技を仕掛けるタイミング、技の組み立てを学ぶと良い。彼女は君に足りない物の全てを持っている。……猪熊柔に勝ちたいのなら彼女に習うのだな」
猪熊虎滋郎にそう声をかけられた本阿弥さやかは、畳から上半身だけを起こした状態で私同様唖然とした表情を顔に浮かべている。それは風祭も同様。
ぐぬぬぬ……。全部あんたの計画か。ぎりぎりと歯を噛みしめながら猪熊虎滋郎を睨む私。まったく、どうしてあなたのような親から柔ちゃんみたいな良い娘が生まれてくるのよ……!
「良いわよ、分かったわよ! やってやろうじゃない! 覚悟しなさい、本阿弥さやか。4分間みっちり、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしてあげる! 泣いたって許してやらないんだから!」
「――何ですって! 二度もまぐれは続きません事よ、赤毛猿! 風祭さん、早くお始めになって!」
「え、あ、ああ、分かりました。それでは第2戦、始め!」
そして再び私と本阿弥さやかの試合が始まった。
「ぜぇっ、ぜぇっ! こ、この程度で終わりですの? まったくせっかくこの私が付き合ってあげているというのに、拍子抜けですわ!」
「はぁっ、はぁっ! よ、よく言うわよ! あなた、私にいったい何回投げられたと思っているのよ。い、いい加減にしなさいよ!」
約4分後。私が放った桐生スペシャルで畳に背を付けていた本阿弥さやかだったが、それでも彼女は肩肘を付きながらなおも立ち上がろうとしている。よく手入れされていたはずの彼女の髪はさんざんに乱れ、その髪が額に浮かんだ汗でべっとりと顔に張り付いているが、それでもその目はまだ死んでおらず、私をはたと見据えていた(ちなみに開始早々零した差し歯は、風祭がそっと人目に触れないよう回収していた)。そして私も、痙攣し始めた右足のふくらはぎを手で押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
「ちょうど4分だ。この勝負、28勝0敗で桐生の勝ちだ」
28勝……。よく数えていたわね、真田。10回目辺りまでは自分でも数える事が出来ていたけど、そうか、最終的に投げた回数は28回になったか。これを少ないとみるか、多いとみるかは人それぞれだろう。ただ、少なくとも私は、1本目の時のように2秒に一度投げ飛ばすという頻度を最後まで維持する事は出来なかった。最後など、本阿弥さやかは私とがっしり組み合って30秒弱もの間私の攻撃を耐えきっていた。それゆえの桐生スペシャルだったのだ。
「ふ、ふふふ。命拾い……しましたね。後……2分、いえ、……後1分あれば私は逆にあなたを……投げ飛ばしていました事……よ……」
畳に両膝をついたままそこまで口にした本阿弥さやかだったが、さすがに体力の限界が来たのか、彼女はそのまま白目をむき、どたっと前のめりに倒れた。……無理もない。たった4分の間に28回も投げられるなんて、平均したら、平均したら……うん?
「……約8.5秒だ、桐生」と真田。
……そうそう。約8.5秒に一度私に投げられていた事になる。早々に根を上げるかと思っていたが、きっちり4分間耐え切るとは大したもんだ。平々凡々とした深窓のお嬢様とは一線を画す女だという事は認めるよ、本阿弥さやか。
「さ、さやかさん!? 大丈夫ですか!」
すぐに風祭がうつぶせに倒れた本阿弥さやかに駆け寄り、その身体を抱き起こす。柔ちゃんが目にしたらまた不機嫌になりそうな光景だな、と思いながら、私も両足に力を入れ立ち上がる。立ち上がった瞬間、ふらっとめまいがしてよろめくが、それをどうにか両足に力を入れ踏ん張る事で、耐える事が出来た。いや、違う。耐えられたのは、いつの間に側に来ていたのか、私の肩を支えてくれていた真田のお陰だった。
「……真田」
「大丈夫か? まったく無茶をする。いくら4分戦うと約束していても、お前ならもっと賢いやり方を取れただろうに……」
真田の言いたい事は分かる。猪熊虎滋郎に嵌められ丸々4分間戦う事になったが、別に4分間技をかけ続ける必要は無かった。本阿弥さやかの技を受けるだけの受け身の柔道をしても良かったし、何なら寝技に引きずり込んで抑え込みを5,6回漫然と繰り返すだけで体力の消耗はずいぶんと抑えられたはずだ。
でも私は、時間内に技をかけ続ける事を選択した。何故……。自分の胸にそう問いかけると、いくつかの答えらしきものが自然と浮かんでくる。
単に本阿弥さやかとの戦いが楽しかったから? それとも、私との戦いの中で確実に成長していく本阿弥さやかの限界を知りたくなった? 私を嵌めた猪熊虎滋郎に対する当てつけ? それとも彼に対する力の誇示?
……分からない。どれかが正解のようでいて、正解でない気がする。いや、あるいはそのどれもが正解なのか。
まあ良い。それよりようやく勝ち取った権利なんだ。私は真田に視線だけで礼を伝え、こちらを静かに見つめている猪熊虎滋郎の元へゆっくりと近づいて行った。
「……見ての通り、きっちりと約束は果たしたわよ。あなたも約束を守ってよね」
「ああ、君の質問に応える、と言うのが望みだったな。何でも聞くがいい」
「ううん、その前にまず、叶えてもらえる望みを百にして、と希望するわ」
と口にした瞬間、真田を含めたその場にいた全員から「「「――子供か!?」」」と、まるで一斉唱和したように揃った声が飛んだ。やはり駄目らしい。猪熊虎滋郎は表情を変えないまま私のその言葉を無視していたが、私では無く畳の中央で気を失った本阿弥さやかを介抱している風祭に視線を投げた。
「風祭君。それに徳永さん。彼女を車へ。私も直に向かう。いつまでも彼らの練習の邪魔をしていてはいけない。そうだね、桐生君、真田君」
ああ、確かにそうだ。これ以上部活動を引退した選手が畳の上を占有して、現役の部員の練習時間を奪うのは駄目だ。私は猪熊虎滋郎に小さく頷いた後、側の真田に顔を向けた。
「ごめん、真田。皆に練習を始める様に言っておいて。私のせいで、ずいぶん皆の練習時間を奪っちゃったから」
「別にお前だけのせいではないだろう。それに、昨年度の女子48kg以下級と52kg以下級の女王同士の試合だったんだ。あいつらにも良い勉強になったさ。まあ良い。それほど疲弊するまで勝ち取った権利なんだ。ちゃんと聞きたい事を聞いておけ」
猪熊虎滋郎の言葉で、本阿弥さやかを背に背負いながら風祭が武道場から退出し、徳永も車を回すためなのか足早にその場を立ち去った。そして誰もいなくなった畳の上で後輩達が練習を開始する声が武道場内に響くようになる。真田も、せっかく来たのだからと1年生達にせがまれたらしく、技の掛け方を指導し始めた。
そんな彼らを横目に、私は武道場の隅で猪熊虎滋郎と正対していた。
「さあ、もう良いでしょう? 最初に質問した通り柔ちゃんからあなたが――「本当にその質問で良いのか?」」
何……? 私は、言葉を遮った猪熊虎滋郎を不審の目で見つめる。
「君の力は十分に分かった。正直に言って、君は本当に17歳なのか、と思わず問いかけたくなるほど技が洗練されているな。それだけではない。状況に応じた技の引き出しが実に正確だ。まるで長い間世界の頂点に立ち続けていたかのような凄みを何故か君には感じる。私の娘に勝ったのも頷ける実力だ。
……だが、そんな君にも弱点が全く無いわけではない。その弱点を聞きたくはないか?」
弱点……? そんな弱点、あるわけが無い……なんてここで口にするほど私は傲慢ではないつもりだ。ていうか、弱点だらけだろう。上背のある相手への対処法の引き出しを増やす事、仕掛けられた技を受け流す技能の向上、技と技の連携の向上、一つ一つの技の精度の向上……、私に足りていない部分、やるべき部分はたくさんある。
それを指摘してくれるというの? それとも、私が認識していない弱点が私にある? 先ほどは腹立たしい事に一杯食わされたが、それでも、こと柔道という一点に限れば猪熊虎滋郎の言葉を疑うという選択肢はない。彼は猪熊滋悟郎の息子にして、猪熊柔の父であり、原作では本阿弥さやかとフランスのマルソーを超一流選手の高みまで引き上げた名指導者でもある。
だから私は、彼のその提案にこう答えた。
「それはとても魅力的な提案ですが、私の質問は変わりません。あなたはどうして柔ちゃんの前から姿を消したんですか? 柔ちゃんに投げられたのがショックだった……、からでは無いですよね?」
私のその質問に猪熊虎滋郎の片眉がぴくりと動く。……意外だった? おあいにく様。私の弱点は私が克服する問題だから、自力で何とでもなるのよ。それより今は、私の力で克服できない問題への対処が優先される。
原作知識で答えが分かっているだろうって? 確かに分かっている。だけど、実際に猪熊虎滋郎の言葉を彼の口から直接聞いて柔ちゃんに伝えるのと、ふわふわと前世の知識だけでごまかしごまかししながら柔ちゃんに伝えるのでは、受け取る側の重みが違う。発する方の言葉に宿る説得力も違う。……違うはずだ。少なくとも私はそう信じている。
私の目をじっと見つめていた猪熊虎滋郎だったが、根負けしたようにふっと息を吐き私の質問に答え始めた。それは私の知っていた内容とほぼ同じものだった。
「ああ、柔に投げられたからではない。私はあの瞬間、娘に本当の天才を見て……感動したのだ」
「感動……」
「そうだ。音楽家のモーツァルトは5歳にして世間を瞠目させるような協奏曲を作曲し、6歳で既に天才という名を欲しいままにしていたという。私は、まだ5歳だった我が娘の小さな体にそれら天才と同様の輝きが宿っている事に気づき、ただただ感動したのだ。
だが、そう言った天賦の才を持って生まれる人間は本当にまれな存在だ。では、そういった才を持たざる凡人はどうすれば良い?」
その問いかけに私は、「……天才以上の努力をするしかないでしょうね」と応える。現に私がそうしている。私のその答えに、猪熊虎滋郎はこくりと頷く。
「そうだ。そういう天才が成し遂げる偉業に凡人が追いつくには、天才の百倍、いや、千倍、万倍の修業が必要なのだ……!!」
「だからあなたはその真理を掴むために一人修業の旅に出た……。そしてそれに飽き足らず今度は、天賦の才を持たざる凡人を鍛えて、天才たる娘がさらに成長するための高い壁にしようとしている……。そんな所ですか?」
私の言葉に、猪熊虎滋郎は武道場を風祭に背負われながら出て行った本阿弥さやかがいるであろう場所に顔を向けた。
「……違う。彼女に力を貸そうと思ったのは、彼女が私と同じ志の持ち主だったからだ。私と同じく凡人が天才に追いつこうと、必死に天才の背に手を伸ばしている。彼女が本気でそれをしようとしているのなら、力を貸してやりたい。そう思った……。君の言った、天才たる娘の更なる成長のため、というのは……傲慢な考えだ。彼女にも、我が娘にも……。彼女がただの壁で終わるか、我が娘がその壁を越えられるかどうかは、誰にも分からぬよ」
なるほど……。ちなみに凡人たる私があなたの娘さんに勝ったのは、練習試合だからノーカンって所なのだろうか? まあ良い。聞きたかった事の大半は、彼の口から聞く事が出来た。
「……以上が、あなたが柔ちゃんや玉緒さんの前から姿を消した理由ですか?」
「そうだ」と彼が応えた瞬間、私は仏頂面をした彼の右頬を引っ叩いて……いなかった。風を切って放たれた私の右手が彼の頬に触れる寸前、その右手首を彼はがっしりと掴んでいた。
「柔道と同じで手が早いな」と口にしながら、猪熊虎滋郎は私の右手を掴んでいた手を離す。
「……娘さんも大概ですよ?」
奇襲が失敗した事で、私はもう彼をひっぱたく事を今は諦めておく。あくまで今はね。いつか畳の上で渾身の桐生スペシャルをお見舞いしてやるんだから。
まったく、自己中も甚だしい。今私に語った言葉を一言でも、いやせめて手紙ででも残して置いたら、玉緒さんがあれほど気に病むことなく、柔ちゃんも柔道に対する屈折した感情を抱かずに済んだ事だろうに。これだから、この手の自己完結型男は
「確かにな……。だから君達はうまが合うのかもしれないな。これからも娘の良い友達でいてやって欲しい」
「今の虎滋郎さんの言葉、柔ちゃんに伝えますよ。良いですね?」
「君が勝ち取った権利だ。好きにするがいい」
そう言いながら、猪熊虎滋郎は武道場から足早に出て行った。そしてそのまま近くで待機していた黒塗りのロールスロイスに乗車し、すぐにそれも私の視界から消えていく。武道場の扉の近くでその様子を見ていた私の背後から言葉が投げかけられる。
「聞きたかった事は聞けたのか……?」
「……まあね。ねえ、真田。あなたは、私の前から突然消えたりしないよね?」
私がロールスロイスの消えていった方を見つめながらそう呟くように発すると、真田はくすっと噴き出したように笑う。
「お前、それ、まるで恋人同士の間で交わされる言葉みたいだぞ。俺が突然お前の前から消えたら、お前はそれほどショックを受けるのか?」
その問いに、私はちらっと横目で真田を見る。
「そりゃー、受けるわよ。真田がいなくなったら、誰があの腕時計の調整をしてくれるのよ。だからあなたは私の目の届くところに、とまでは言わないけれど、せめてポケベルで連絡が付く距離にいてよ。分かった?」
「そっちか。たく、分かったよ。女王の仰せのままに……なんて言う訳ないだろう。早く戻って来い。かわいい後輩がお前の指導を待っているぞ」
真田に耳を摘ままれた私は、へいへい、と言葉を残し武道場に戻って行った。
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品の良い木目調の内装で整えられたロールスロイスの車内。ハンドルを握っている徳永は、後部座席で横になったまま未だ目を覚まさない本阿弥さやかを気にして、バックミラーでちらちらとその様子を頻繁に確認する。
「風祭様、お嬢様は……」
「大丈夫ですよ、徳永さん。受け身などはきちんと取れていましたから、体力を使い切って眠っているだけだと思いますよ」
風祭は、本阿弥さやかに膝枕をしながら徳永にそう返事をする。その答えに満足したのか、徳永が「さようでございますか……」と安堵の息を吐く。そんなやり取りを彼らがしていた時、助手席に座っていた猪熊虎滋郎が後部座席を振り返りながら、手に持った紙片を風祭に差し出す。
「風祭君、いつでもいい。これを君がいつか桐生茜に会った時にでも渡しておいてくれないだろうか」
「これは……?」と疑問符を脳裏に浮かべながらもそれを受け取る風祭。その風祭を無視し、猪熊虎滋郎は徳永に声をかける。
「あの辺りで止めてくれないか。そう、そこで良い」
猪熊虎滋郎の指示で、ロールスロイスはハザードランプを点灯させながら路肩に車を寄せ、静かに停車した。
「ちょっ、どうするつもりなんですか、虎滋郎さん! 私達の武者修行の旅に同行していただけるのでは無かったのですか!?」
風祭がそう前席の猪熊虎滋郎に声をかけた時、すでに彼はドアを開き、身体の半ばを外に置いていた。
「私はこのまま青森の恐山に籠る。君達の武者修行の旅とやらには同行しない」
「そんなッ!?」
もう完全に車から降りた猪熊虎滋郎は、頭だけを車内に戻し告げる。
「私の指導を受けるには、今はまだ彼女の力が足りていない。彼女がその段階に到達した時、彼女がそれを望むのなら君達の前に姿を現わしても良い」
それだけを言って猪熊虎滋郎は今度こそ背後を振り返ることなく、町の雑踏の中に消えていった。
ドロロロロ……。
重厚なV型12気筒のエンジン音を響かせながら、ロールスロイスは空港を目指して高速道路を駆けていた。彼らは今日このまま本阿弥グループのプライベートジェットで日本を発つ予定だった。
「ええ、ですから三人が二人になって……。えっ、ホテル? ホテルも一人分キャンセルで。ええ、はい、それでお願いします」
車載電話を戻し、「ふう……」とため息交じりに発した風祭は、深くシートに身体を埋める。窓から外に目を移せば、西の海に半ば沈みかけている夕日が目に入る。その夕日をしばし物憂げに見つめていた風祭だったが、不意に先ほど猪熊虎滋郎から手渡された紙片の事を思い出す。
「そう言えば、あれにはいったい何が……」と一人呟きながらイタリア製のオーダーメイドのスーツの内ポケットからその紙片を取り出す風祭。彼がその折りたたまれた紙片を開こうとした時だった。横合いから細い手がすっと伸ばされ、その紙片を奪い取った。
本阿弥さやかだ。
「えっ!? さやかさん!? 気が付かれたのですか!?」
「お嬢様!? 体のお加減はいかがですか?」
驚く風祭と徳永に返事もせず、本阿弥さやかは二つ折りになった紙片をさっと開き、それに素早く目を走らせる。手のひらサイズの紙片に短い文字が殴り書きされたメモだ。理解するのにさほどの時間も必要ない。彼女はそれを一瞥しただけで、すぐに車の窓を開き、そこからその紙片を放り捨てた。
「ああっ!? さやかさん、何をっ……!」
咄嗟に風祭が背後を振り返るが、高速道路上をハイスピードで走る車だ。小さな紙片が彼の視界に映るはずもなかった。
「ふんっ! 教養の足りていないあの赤毛猿には、どうせ文字など読めませんわ! 見てなさい、今に猪熊柔も、桐生茜も私の前に這いつくばらせてさし上げますわ!」
そう気炎を上げる本阿弥さやかを乗せて、ロールスロイスは一路空港へと向かって行った。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :17さい
れべる :29
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :89
すばやさ :199
たいりょく:141
かしこさ :194
わざ :201
こうげき力:232
しゅび力 :204
E じゅうどうぎ
【本阿弥 さやか ステータス】
なまえ :ほんあみ さやか
せいべつ :おんな
ねんれい :18さい
れべる :23
くらす :じょし48kgいかきゅう
ちから :76
すばやさ :168
たいりょく:104
かしこさ :142
わざ :143
こうげき力:171
しゅび力 :156
E じゅうどうぎ(しゃねる)
来週の投稿は、お盆休みという事でお休みさせていただくと思います。皆さま、良い夏休みをお過ごしください。