ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「フン、フーーン♪」
鼻歌を口ずさみながら蛇口から流れる水を止めた三上は、ハンカチで水気を拭き取り、女性用トイレを後にする。
「早く戻って桐生さんの相手をしないと……」
三上は、3歳年下の桐生が打ち込みの相手が不在で困ってないかと足早に通路を進むが、その通路には柔道選手ばかりか、大会の運営を手伝う西ドイツのボランティアスタッフが大勢ひしめいていて、思うように前に進めない。
ワーーー!
ちょうど階段の前を通った時に、上階から大きなどよめきの様な歓声が聞こえて来た。やってる、やってる。西ドイツは昔から熱烈な柔道ファンが多いと聞くから、盛り上がっているんだろうなぁ。三上は階段を仰ぎ見て、ふっと笑みを零す。
でも、目の肥えた西ドイツの柔道ファンが本当に盛り上がるのは明日だよ。明日になれば、日本代表の
三上は、桐生と同じ階級ゆえに彼女の強さをよく理解していた。強化選手は、代表選手の調整相手兼控え選手としての役割が与えられている。大会初日。世界選手権前に日本で行われた短い直前合宿での期間を含めても、まだ彼女の調整相手を長く務めたとは言えない。それでも、一度組めば分かる。彼女の技のキレと完成度は思わず目を見張るほどだ。52kg以下級は昨年まで山口かおる選手の独壇場だったが、その独断場を奪ったのも納得の実力。
それに……と彼女は思う。あの子は体育会系のスポーツ女子らしく竹を割ったような性格をしている。その性格は先輩にはかわいがられ、後輩には慕われる事だろう。三上は同階級である年下の桐生に嫉妬を抱くどころか、彼女のこれからの飛躍を心から願っていた。
そんな事を三上が考えていた時、血相を変えた様子の柔道着姿の選手が数名、通路の向こうから駆けてくる。
「監督は第2試合場だな!?」
「まったく、テレシコワめ。あんな小柄な選手と乱取りをして壊してしまったら、国際問題になるぞ! 相手は、正選手じゃないだろうなっ! フルシチョワはどうしている!?」
「フルシチョワは駄目です! 彼女はテレシコワの次は自分だとばかりに、二人の側で順番待ちをしている様子でした!」
「ええいっ! あの馬鹿どもめ! お前は階段を上がったら右から監督を探せ! 俺は左から探す!」
英語じゃない。中国語でもない。何語だろう……? テレシコワ? フルシチョワ? 出場選手の名前かしら? 何を急いでいるのか知らないけど、そんなに走ったら危ないですよぉ……。
ばたばたと慌ただしく階段を駆け上がって行く彼らの背中を怪訝そうな表情で見つめていた三上だったが、すぐに彼女は明日の試合に向けて調整中の桐生の事を思い出す。
「――! いけない。こんな事をしている場合じゃ無かったわ。早く戻らないと……!」
そして彼女はほどなくして日本代表に割り当てられている練習場に戻るが、足を踏み入れて直ぐに立ち止まる。
……? 何、この雰囲気? お手洗いに向かう前も、調整に余念のない選手達の熱気はこの練習場に充満していた。しかし、今はその熱気に異様なざわめきが加わっていた。周囲の人間の視線がある一点に集中している。何を見ているのかしら? 彼女がその視線の向かう先を追っていくと……。
「えっ!? 桐生さん!? な、何で!? 何してんの、あなた!?」
そう、三上の視線の先では、桐生が明らかに日本人ではなく、その上絶対に同じ階級ではないと断言できるほど大柄な選手と、激しい乱取りを繰り広げていた。
「あっ、三上! あんた、どこに行ってたのよ!?」
「と、藤堂さん! あれいったい何がどうなっているんですか!? 何してはるんですか、桐生さん!?」
パニックに陥り思わず地元の方言が出た三上に、藤堂が大声で怒鳴り返す。
「私だって、知らないわよ! 気が付いたら隣であの二人がやり合ってたんだから!」
「ええっ!?」
「そんな事より、三上! お前、女子チームの柳澤監督を呼んで来い! もう監督しかあいつらを止められん! 桐生は明日試合だろう! 怪我でもしたら大ごとだぞ!」
周囲にいた男子選手が三上に大声を張り上げる。その周りの選手達も「そうだ! 早くしろ!」と口々に声を上げる。
「は、はいぃ! す、すぐに――!」
かわいそうに、三上も先ほどばたばたと階段を駆け上がって行った数名の選手達と同様に、泡を食ったように階段を駆け上がっていくはめになるのだった。
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――! くっ。テレシコワが私をぐっと押し込んでくる。練習場の端で始まった戦いは、既に練習場の真ん中に移っていた。調整をしているだけの選手達と私達の纏う気配が明らかに異なるのを、一部の選手達も悟ったのだろう。何人かの選手が私達に驚いた顔を向ける。
「お前如きがヤワラ・イノクマに勝っただと? 信じられるか……!」
「何言ってんだか知らないけど、あんたがまだ私を見下しているのは分かったわ!」
ガシッ!
テレシコワが私の首の後ろの襟、いわゆる奥襟を掴む。これほど体格差のある選手同士の戦いでは、上背のある方が相手の奥襟を掴んでくるのは定石中の定石だ。これをされると、やられた方の頭は自然と下がって行く。それはもちろん私も例外ではない。上からぐっと押さえつけてくるテレシコワの腕力に、私の頭が次第に下がっていく。
「フッ……」
見えないはずなのに見える。テレシコワが私を冷笑している姿が脳裏にありありと。だったらまずはその冷笑、崩してやろうかしら……!
「――しっ!」
「――!?」
私はテレシコワの踏み出した足を小内刈りでパンっと刈る。重心をかけようとしていた足をタイミングよく刈られた事でテレシコワの足がバタつく。テレシコワの意識が足に行った隙に、私はがっしりと捉えられた奥襟から彼女の手をべりっと引き剥がす。
「――無駄な事を!」
再びテレシコワの左手が私の奥襟に伸ばされる。その瞬間私は、長く伸ばされたテレシコワの左手の袖を掴みながら、身体を縮めて反時計回りに回転する。彼女の懐に飛び込む必要は無かった。テレシコワの押し込んでくる力をそのまま利用していたから。
「――!? ソデツリ!?」
「――ご名答!」
相手より上背がある時にその相手の奥襟を取りに来るというのは、極めて有効な戦術。だけど、袖釣り込み腰を得意とする選手に対してそれを行うのは、時に悪手となる。何故なら、一流の袖釣り込み腰の使い手は、その取りに来る腕をそのまま吊り上げるからだ。
柔良く剛を制す。言うは易しだが、実際にそれが成立するにはいくつかのクリアすべき条件がある。技の完成度はもちろんだが、それ以上に大事なのは、相手の力を自身の力へ取り込む絶好のタイミングを捉える事。
そして、この一瞬、私は確かにその条件をクリアしていた。一瞬にしてテレシコワの身体が上下逆転する。
ズダーーーン!
畳を打つ激しい打撃音と共に、テレシコワの大きな背が畳につく。だが、浅かった。彼女は、天地が逆転した態勢から素晴らしい反応速度で僅かに身体を捩じらせ、その広い背中の全てが畳に押し付けられる事を免れていた。投げられたダメージなど感じていないかのように即座に立ち上がったテレシコワが、再び私と組み合う。
組み合いながら私は、彼女に日本語で語り掛ける。
「……“ワザアリ”かしら?」
「馬鹿な。……“ユウコウ”だ」
ふふふ。柔道の国際共通用語さえあれば、言葉は通じなくても十分意思疎通が図れ――。
――!
突然、踏み込み鋭くテレシコワが大外刈りを仕掛けて来た。そんな大技喰らうか! 大外刈りは、自分の脚の外側で相手の脚の外側を刈って後方に倒す、柔道の投技の足技21本の内の一つ。この技の成否は、振り上げた脚を振り子の様にして刈りとる最終段階にあるのではなく、そこに至るまでに引き手を効かせて相手の重心をいかに崩せるかにかかっている。
もちろん私は、自身の重心をそう簡単に崩させはしない。引き手を取られている右手を引き戻し、テレシコワの大外刈りの間合いから距離を取る。来い、テレシコワ! この間合いから足を刈りに来ても私は余裕を持って躱せる。躱した後は、空振りして一本立ちになっている彼女の左足を、こちらが逆に刈り取ってやる。
そう考えていた私だったが、テレシコワは大きく振り上げていた右足を最後まで振り抜くのではなく、その右足が畳に接地した途端ピタッとその動きを止めた。
――!
――しまった! 後の先を取るつもりで身構えていた私の足と足の間に、急停止したテレシコワの長い右脚が軌道を変えて飛んでくる。その長い脚は、私の左内腿を刈り、高く跳ね上がった。
まずい、内股をもろに喰らった! 下半身は完全に持って行かれている。逃れるなら上半身! 畳に叩きつけられるまでの僅かな時間でそう判断した私は、全ての力を私の右袖を掴んでいるテレシコワの左手を引き剥がす事に注力する。
「――離しなさいよ!」
――外れた! そのまま身体を捩じり、かろうじてその背中の全てを畳に付ける事から逃れた私。鈍い痛みが、私の背中から全身を駆け抜ける。
「“ワザアリ”……」
「――甘いッ! おしるこより甘いわよ! せいぜい“ユウコウ”ってとこでしょう!」
即座に立ち上がった私は再び彼女と組み合う。互いに寝技の攻防は頭にない。だって、周囲には私達に興味を持たず乱取りをしている選手がたくさんいる。そんな中で寝技などやっていては、タイヤの下敷きになったカエルのように踏みつけられてしまうだけだ。
テレシコワは、積極的には私の奥襟を狙ってこない。袖釣り込み腰を使った脅しが効果を発揮しているのかもしれない。逆に私もテレシコワの間合いに踏み込む事を躊躇する。あの引きつけの強さは、尋常じゃない。
線じゃない。円の動きだ。無差別級のテレシコワを相手に、足を止めてやりすぎた。私はこれまでのように縦に動くのでは無く、テレシコワを中心に円を描く様な動きを取り始める。同時に、右手、つまり釣り手でテレシコワの左腕を封じる。柔道の組み手において、釣り手は特に重要だ。それは、『釣り手を制する者は世界を制す』という格言があるほどに。
それを嫌がったテレシコワは力に任せて私を振り回そうとするが、その振り回す力をも利用して私は足を次々と飛ばす。大技はいらない。小技を積み重ねて。テレシコワの間合いには決して飛び込まず、遠方から足を小刻みに飛ばす。
執拗に放つ足技にぐらっとよろめいたテレシコワ。そこを見逃さずに飛び込んだ私だったが、よろめいていたはずのテレシコワが突然体幹を取り戻したかのように、カウンター気味に鋭い振り足を私の内股に飛ばした。
また内股! 先ほど危ない所を躱したこの技は、背負投げ、大外刈り、巴投げと並び最もポピュラーな技の一つであり、決まれば確実に一本が狙える特別派手な技である。だけど、この技には致命的な弱点がある。
それは躱された時の隙が大きいって事よ!
ごぉっという風切音が聞こえそうなほどの速さで高く跳ね上げられたテレシコワの右足。だが、その足は今回ばかりは完全に空を切っていた。
「――!?」
はっ、バレバレなのよ! あんたの誘いは!
そう、最初からテレシコワの狙いを察していた私は、それを食い破るつもりで懐に飛び込んでいた。この茜姉さんを相手に、
――もらったッ!
だが次の瞬間、私の視界の端に、側で乱取りをしていた選手が横倒しに倒れる光景が映った。いけない、このタイミングで投げてはあの選手に当たる!
そう判断した私は、ほんの一呼吸分だけタイミングを外して技を継続する。それは本当に一瞬だったが、さすがはテレシコワ。もう少しで彼女の身体を転がせられる、と思った所で、空を切っていたはずの足が戻って来て、なんとか踏みとどまる。――返しが早い!
……やるねぇ、テレシコワ。偶然が味方をしたとはいえ、持って生まれた天性の才能に加えて、たゆまぬ努力の跡がかいま見られる。相手にとって不足は無い。
柔ちゃんと対戦した時以来の興奮に、思わず口角が上がるのを私は止められなかった。やっぱり来てよかった。早速強い相手に出会えたんだから……! 私より強いかどうかはまだ分からないけどねっ!
「――アカネ・キリュウ!」
「――Let's continue!(さあ、続けましょう!)」
この戦いが公式戦で無い事は、私達にとってある意味幸運だったのかもしれない。だって、この戦いには時間制限がないから。あはっ、気が済むまで出来るわねぇ、テレシコワ! 私は、テレシコワの道着を掴んだ釣り手と引き手をぶんぶんと上下左右に振り回しながら、彼女を右に左に動かす。
もちろんテレシコワも自身のペースに引き込もうと、力に任せて私を引き付けてくるが、それを体に染みついた勘で裁き、決して私は彼女の間合いの内側には入らない。
しかし、この至福の時間にも突然終わりが訪れる。
「「何をやっておるか、桐生!/やめないか、テレシコワ!」」
その理由。それは、共に私達が属するチームの監督の雷が落ちたために他ならなかった。
~~~~~~~~西ドイツ エッセン 柔道日本代表 宿泊ホテル~~~~
コン、コン。
「柳澤監督。三上です。桐生さんを連れてきました」
1日目に予定されていた全試合が終わり、ホテルに戻り夕食を頂いた私は、私が食事を終えるのを待ち構えていた三上に連行されるように、全日本女子柔道チームの監督である柳澤の部屋の前まで連れて来られていた。
「ああ、入りなさい。三上、君もだ」
扉の向こう側から投げかけられたその言葉に、三上が心底嫌そうに顔をしかめるのが分かった。私はそんな三上を慰めようと、彼女が着ているトレーナの裾をちょいちょいと引っ張り顔をそっとよせる。
(大丈夫だよ、三上さん。私が付いているから)
(言葉の意味がさっぱり分からないんだけど……。はぁ、もう良いわ。行きましょう、桐生さん)
そして私達は「失礼します」と声をかけて扉を開いた。
「さて、昼間はばたばたしていてじっくりと話を聞けなかったが、どうしてあのような事になっていたんだね?」
柳澤監督は、部屋に入った私達を窓際に置かれた椅子に座って迎える。その監督の前で、直立不動で精一杯ピシッと背を伸ばして立つ私。三上は薄情にも、巻き込まれたくないと言わんばかりに、私から距離を取って立っている。
「はい、せっかく海外に来たのですから、めったに手合わせできない海外選手と国際交流を図りたいと思いまして」
「ふむ……国際交流。物は言いようだな、桐生。向こうの監督は、お前の方から先に喧嘩を売ってきたようだ、と言っていたが?」
「あ、それは違います。私はただ、テレシコワの襟元を掴んで、こうぐっと引き寄せてメンチを切っただけで――」
「――それを喧嘩を売ったというのだ、馬鹿者!!」
――ひんっ! 突然声を荒げた監督に、私は思わず身を縮こませる。
「体格差があったから向こうも負い目を感じたのだろう。お互い今日の事は水に流そうと言ってくれたが、最悪の場合明日の試合が出場停止になるところだったぞ」
「すみません……」と、そこは素直に謝罪する。
「全く、初めての世界戦だというのに、物怖じしないばかりか他国の選手に喧嘩を売るような真似までしおって……。軽量級のくせに、あんな重量級の選手と組み合って怪我でもしたらどうするつもりだったんだ」
あ、重量級と組み合ったから駄目だったのかな……?
「え……? という事は、軽量級とは組み合っても良いって事ですか? 実はあの後、彼女と同じソビエトのフルシチョワという選手から「次は私とやろう」、って誘われてるんですが、やっても良いですか?」
「――良いわけがあるか、馬鹿もの!」
再び落とされた雷に、再度身体を縮こませる。視界の隅に、呆れた表情で私を見つめる三上の姿が映る。
「だいたい、フルシチョワとは明日の試合で当たるかもしれんだろうが!」
「えっ!? フルシチョワって、48kg以下級じゃないんですか!?」
……驚いた。フルシチョワ。原作では小テレシコワのような立ち位置で、ソウルオリンピック後の世界選手権の決勝で柔ちゃんと48kg以下級優勝の座をかけて争ったソビエトの選手。
今日、柳澤監督に首根っこを引っ掴まれて練習場を離れる際に彼女の存在に気づき驚いたものだが、まさか彼女がエントリーしている階級が52kg以下級だった事も驚きだ。
「それで……どうだった?」
不意に柳澤監督が怒りを鎮め、私に面白そうな顔を向けてくる。どうだった……? 何の事だろう? 私が首を傾げている様子を見て、柳澤監督がじれったそうに続ける。
「だから、テレシコワだよ。お前、あいつはソビエトの秘密兵器と言われているんだぞ。現時点で国外であいつとやり合ったのはお前だけじゃないのか? 聞いたぞ、体格差を物ともせずに、なかなかいい勝負をしていたようじゃないか?」
くすっ。なんだ、監督ったら、私を呼び出したのはこれを聞きたかったからじゃないかしら。
「そうですねぇ。良い勝負をしていたように見えたかもしれませんが、結局のところ私もテレシコワも本気じゃ無かったですからね。それに寝技もしてませんし、公式戦で戦ったらどうなるか分かりませんよ」
本気じゃ無かったと言うと語弊があるが、結局のところあれは練習の域を出ない乱取りでしかない。私達アスリートには、本番にしか発揮しえないプラスαの力がある。そのプラスαの力が宿っていない状態で比べても、そこに意味はあまり無い。そしてそれは、長年日本女子柔道チームの監督を務めている柳澤監督も十分に理解している。
「ふむ……。まあ、桐生の言いたい事も分かるが、ならどうだ? テレシコワに、藤堂は勝てそうか?」
むむ……。これはまた答えにくい質問を……。まあ、今回の世界選手権では無差別級にエントリーしている藤堂が彼女に勝てそうかどうかというのは、監督として気になるところなのだろう。
だけどなぁ……。藤堂はあの柔ちゃんから『この人、……弱いわ!!』という評価で、テレシコワはその柔ちゃんから危うく一本勝ちしそうなほどの強者。うーん、プラスαの力が無くても、ちょっと藤堂があのテレシコワに勝つ姿が想像出来ない……。
私の表情で答えを悟ったのだろう。柳澤監督は、「いや、いい……。十分だ」と、手で私を制止する。
「まあいい。お前は明日が本番だ。反省レポートの提出は明後日まで待ってやるから、早めに休んでおけ」
「――げっ!?」
噂で耳にしていた柳澤監督の代名詞である反省レポートの提出を求められ、私はがっくりと肩を落とす。
「安心しろ、桐生。お前が明日52kg以下級で優勝したら、反省レポートは5枚にまけてやる」
「……ちなみに負けたら?」
「その時は50枚だな」と物騒な笑みを浮かべた柳澤。そして柳澤は、私と三上に順に視線を投げかける。
「桐生、お前には大会期間中、体育館以外の場所への外出を禁じる。三上、お前は明日から最終日までこいつの一挙一投足から目を離すな。こいつを野放しにすると、何をしでかすか分からん。良いな?」
「はい、監督!」
悲しいかな。どうやら私には、この海外遠征中の自由は無くなったようだ……。プリっと弾ける肉質のソーセージとシュワッと泡の出る飲み物が手の届かない所に行ってしまった。
……おのれ、テレシコワ。食べ物の恨みは怖いわよ。いつか公式戦であなたをぎゃふんと言わせて上げるんだから……!
ちなみに、柳澤監督が日本女子柔道の監督を退任するまでの間、彼に最も多くの反省レポートの提出を求められた選手という不名誉な記録を私が将来樹立する事になるのだが、それはまた別の物語である。
~~~~同時刻 エッセンコングレスホテル(ソビエト連邦選手団宿泊先)~~~~
「よう、テレシコワ。今頃食事かい?」
ひとけの無い食堂で独り食事中だったテレシコワのテーブルに、一人の女性が近づく。その女性を一瞥したテレシコワは表情を変えないまま、スープをすくったスプーンを口元に運ぶ。その反応を予想していたのか、彼女は「監督の小言がよほど長引いたと見える」と、皮肉気に笑いながらテレシコワの向かい側に腰を降ろした。彼女は、テレシコワと同じく錆色の国旗を胸元に刺繍した白いジャージを身に着けていた。
「……何か用か、フルシチョワ?」
ようやく口を開いたテレシコワに、フルシチョワと呼ばれた小柄な女性がテーブルに頬杖をついてねめつける。
「分かっているだろう? アカネ・キリュウはどうだった? ヤワラ・イノクマを倒したと言われる力は本物だったかい?」
その問いにテレシコワはスプーンを置き、相変わらず感情の伺えない能面のような表情でフルシチョワを見据える。
「……お前も見ていたのでは無いのか? 短時間とはいえ、私とあれほどやり合える柔道家がソビエトにどれほどいる? しかも、あの体格で……」
そのテレシコワの返しに、フルシチョワは降参と言いたげに肩を竦める。
「まあ、本物だと言うのは疑いようも無いだろうね。あんたが投げ技で一本を取られたところを見たのは初めてだしね」
その言葉が不満だったのだろう。能面のようだったテレシコワは眉間に皺をよせ、氷のような瞳でフルシチョワを見据える。
「……一本ではない。技有……、いや有効だ」
「はいはい、有効ね。そう言う事にしておこう」と取り合わないフルシチョワ。そして彼女は身を乗り出すようにして「それで……?」と更に問いかける。
目の前の女性が、今話題にしている日本の少女と戦いたいがためにこの地まで来ている事を知っているテレシコワは、少しだけ沈黙した後、朴訥とだが口を開いた。
「……技に切れがあった。精度も。速さは見ての通り。力はお前の方が上と感じた……」
「ふむ……。他には?」
「右手……釣り手の使い方が素晴らしかった。リーチは私の方が上のはずなのに、上手く使われて、動きを制限された。力ではない。あれは……、あれは……」
言葉を探すテレシコワにフルシチョワは首を傾げる。ようやく適当な言葉を見つけたのか、しかしそれでいて何処か釈然としない様子でテレシコワが言葉を紡ぐ。
「あれは……経験だ。技術の高さを、長い経験が裏打ちしている……」
「長い経験って……、おいおい、テレシコワ。あいつはまだ高校生じゃないか? 経験を言うなら私達の方が上だろう?」
フルシチョワが呆れた目でテレシコワを見つめる。その通りだ。そんな事は分かっている。分かっていながら、そうとしか適当な言葉を見つける事が出来なかった。
「ああ……そうだな。忘れてくれ。いずれにしても、フルシチョワ。あの女は、明日お前が優勝するための最大の壁となるはずだ。気をつけるんだな」
「へえ、心配してくれるのかい? いつも他人に無頓着なあんたにしちゃあ、珍しいじゃないか。あんたこそ、カナダのロックウェルに勝てるのかい? あいつは強いよ?」
「……問題ない」
「そうかい」と応えながら、フルシチョワは聞きたい事は聞けたと言わんばかりに席を立つ。
「邪魔をしたね。私の優勝祝いは、エッセン名物のシュタウダービールで良いよ」
そしてフルシチョワは、テレシコワを残してその場を去って行った。
テレシコワと並ぶソビエト連邦の秘蔵っ子 フルシチョワ・サハノヴィッチと『秋田の爆弾娘』桐生茜の直接対決は、今より10時間28分後に実現するのだった。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :17さい
れべる :29
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :89
すばやさ :199
たいりょく:141
かしこさ :194
わざ :201
こうげき力:232
しゅび力 :204
E じゅうどうぎ
なまえ アンナ・テレシコワ
せいべつ :おんな
ねんれい :22さい
れべる :28
くらす :むさべつきゅう
ちから :213
すばやさ :147
たいりょく:193
かしこさ :176
わざ :173
こうげき力:222
しゅび力 :206
E じゅうどうぎ