ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
~~~~東京都内 猪熊邸~~~~
「あ、お爺ちゃん、どこ行ってたの? もうすぐ始まるわよ、茜さんの試合」
「おお、もうそんな時間か。柔、桐生は電話ではどのような調子ぢゃった?」
リビングにあるTVの前で随分前から視聴する体勢で見守っていた柔が、縁側をゆっくりと歩きながら現れた滋悟郎を「はやく、はやく」と手招きする。
「いつもの様子だったわよ。国際電話でお金がかかるからちょっとしか話せなかったけど、絶対に金メダルを取って帰ってくるって自信満々で言っていたわ。なんでも、そのために世界選手権の間はホテルと体育館しか行き来しない事を自分に課しているって言ってたし、凄く気合入ってるみたい」
「ほう、それはあっぱれな心構えぢゃ。あ奴のことぢゃから、やれソーセージだの、やれビールだの浮ついた事を言うておるかと思っておったのぢゃが」
「お爺ちゃんったら。いくら茜さんでも、初めての国際試合でそんな事を考えている余裕は無いわよ」
その言葉に柔は苦笑しながら、今度は奥の台所の方に視線を投げかける。
「ほら、お母さんも。もうっ、洗い物なんて後にして一緒に見ましょうよ」
その言葉に、パタパタとスリッパの音を響かせながら玉緒が現れる。
「はい、はい。ふふふ、桐生さんとジョディさんといい、柔と仲の良い友達が二人も世界選手権に出るなんて、なんだか凄いわね」
「ほっほっほ。玉緒さん、何が凄いものか。直に柔もその中に殴り込みをかけに行くわ! のう、柔!」
「私、殴り込みなんかかけませんっ!」
べーっと、滋悟郎に舌を出す柔だったが、その時TVから流れた音声に意識が向く。
『いかがですか、山上さん? もうすぐ桐生茜選手の1回戦が始まりますが?』
『そうですね。既に国内では敵無しの彼女ですが、その彼女にとっても世界戦は初めての舞台ですからね。大事な初戦。まずは慎重に入って欲しいですね』
「ふむ、もうすぐ出番の様じゃな。玉緒さん、冷たいお茶をくれんか!」
孫娘の隣に腰を降ろしながら、滋悟郎が玉緒にそう声を投げかける。
「ふふふ、分かりました、お義父さん。苺大福もありますが、お茶うけにいかがですか?」
「うむ、もらおうか」と頷く滋悟郎から視線を剥がした玉緒は、娘にも尋ねる。
「柔、あなたもどう? 祐天寺監督の持って来てくれた苺大福、とっても美味しいわよ」
「いらない。あの人の持ってきたお菓子を食べちゃったら、それだけで西海大学に入らされそうだもん。あっ、お母さん、今TVに茜さんが映ったわ。苺大福なんか良いから、早く早く」
柔の言葉の通り、TV画面には、胸元に日の丸の刺繍された白い柔道着を身に着けた赤い髪の少女が会場にゆっくりと入場してくるところが、映し出されていた。
~~~~西ドイツ エッセン グラスホフ体育館~~~~
『あっ、山上さん。今、桐生選手が会場に姿を現しましたよ。どうですか、彼女の表情は?』
報道席のアナウンサーが、元柔道男子無差別級の大きな身体を縮こませるようにして椅子に腰かけている山上に水を向ける。既に放送が始まっている事を示す赤いランプが彼らの前でチカチカと点灯していた。
山上は、グラスホフ体育館の2階席の中ほどに設けられた報道席から身を乗り出すようにして、会場入りした桐生を見下ろす。
『ええ、ここから見る限り特に緊張している様子は見うけられませんね。あ、ほら、彼女の補助についている選手と足を止めて談笑していますよ』
『本当ですね。桐生選手、高校生らしい屈託のない笑みを浮かべています。昨日は練習場での調整を早々に切り上げたと聞いておりましたから、怪我をしたのではと心配する声もありましたが、どうやらその心配は無さそうですね』
『ええ、動きを見ても特に問題は無いように見えます。後は先ほど言ったように試合への入り方ですね。特に桐生選手の一回戦の相手は、ベネズエラのヴァレンチーナですからね。昨年の世界選手権ベスト4の実力もさることながら、その南米選手特有のリズムに惑わされない事が大事ですね』
山上の視線は、桐生と試合会場を挟んで反対側で、まるで踊るかのようにストレッチしているざんばら髪の黒人選手に向けられていた。
『そうですね。昨日は48kg級の木下が惜しくも3回戦で敗北しましたからね。桐生選手には、彼女の分まで頑張って欲しいですね』
彼らの見ている前で、紺色のスーツを身に着けた審判と二人の線審が会場に現れ、ゆっくりと畳の上に上がる。隣の会場でも同時に女子52kg以下級の試合が始まろうとしているが、日本クルーが撮っているTVカメラはそちらに首を振らない。
審判団がそれぞれの持ち場に着いてほどなく、大会スタッフに促され桐生とヴァレンチーナも畳の上に上がる。桐生は、試合会場を囲む様に張られている場外を示す赤い畳の外で一度ぺこりと頭を下げた後、ゆっくりと開始線に向かう。既にヴァレンチーナは開始線についていて、小刻みに跳躍しながら桐生を待っていた。
『さあ、いよいよ桐生選手の一回戦が始まります! ここグラスホフ体育館には、現地の柔道ファンに加えて、はるばる日本からやって来た日本の応援団がたくさん詰めかけています。桐生選手は、彼らの期待に応える事が出来るのでしょうか!?』
「はじめっ!」
『今、始まりました! ヴァレンチーナ選手、桐生選手に向かっていきます。桐生選手、これをどう迎え撃つ――。あ、ああっ!?』
ズダァァァァーーーン!
それは開始わずか2秒という早業だった。無造作に組んできたヴァレンチーナの懐に一瞬で潜り込んだ桐生は、そのまま彼女を投げ飛ばしていた。
「――一本!!」
主審の手が高々と掲げられる。……と同時に、満員の観客席から割れんばかりの歓声が広がって行く。
『これは驚きました。き、桐生選手、開始早々投げ技で一本勝ちです! 山上さん、今のは?』
『背負い投げですね。まさに電光石火。いやー、鳥肌立ちましたよ。彼女を初めて見た時から強い、強いとは思っていましたが、まさか昨年の世界選手権ベスト4を相手に、これほど格の違いを見せつける試合をするとは!』
報道席と観客席の熱狂をよそに、桐生は顔色一つ変える事無く相手選手に礼をした後、試合会場から降りていく。畳の上から降りて補助についている選手と軽く抱擁し、ようやく桐生の顔に笑みが浮かんだ。
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「やったね、桐生さん」
「ありがとう、三上さん」と返しながら、私は彼女から手渡されたタオルで顔の汗をぬぐう。汗と言っても試合は一瞬で終わったから、これは試合前のアップでかいた汗と言っても良かった。
「さぁ、次の試合まで間があるから、一度控室まで戻って身体が冷めないように軽く調整しよ」
三上のその言葉に軽く頷き、控室に戻ろうとした時だった。試合開始早々に放った私の背負い投げで興奮状態だった観客席のざわめきがようやく収まった時、再び彼らを熱狂させるような激しい打撃音が会場中に響いた。
「――一本!」
その声が発せられた第2試合場に私が視線を向けると、今しがた相手選手を投げ飛ばした選手がのっそりと起き上がるところだった。その選手は、自身が放り投げた選手ではなく何故か私の方を挑発するように、笑みを浮かべて見つめていた。
「フルシチョワ! フルシチョワ!」
その声と共に、無数の錆色の旗が激しく観客席で振られる。
「えっ、もしかしてあっちの会場、優勝候補筆頭だったリッセンが負けたの?」
三上が私同様隣の会場に視線を投げて、呆けたように言葉を発する。負けたんだろう……な。その証拠にリッセンの母国の旗であるトリコロールの旗を振っていた一団が意気消沈している。
何のつもりか、隣の会場での試合を終えたフルシチョワが私に近づいて来るので、私は彼女を待つ。彼女も私ほどではないが、両手で数えられるほどの時間しか試合をしていないので、特に疲労困憊した様子は見受けられない。
「……見ていたか、アカネ・キリュウ? 昨日はテレシコワが世話になったな」
「ふふふ。さすがに西ドイツにはおしるこを提供している店は無いわよ」
開口一番フルシチョワが、ロシア語で私におしるこを提供している店を尋ねてくるので、ロシア語を話せない私は日本語で応える。あれ、私ったらロシア語なのに、どうして理解できるんだろう?
「テレシコワはヤワラ・イノクマに執心だが、私は日本でのお前の試合のビデオを見て以来、お前と戦う事を目標にしてきた。頼むから私と戦うまで負けてくれるなよ」
「え、テレシコワも甘党? うん、うん、知ってた。畳の上から降りたら同じ柔道を愛する者同士だもんね。いつか日本に来たら二人においしい店を紹介するよ」
私の答えに満足したのか、フルシチョワは目を細めた後、背を向けてソビエトの選手控室の方に去って行った。その背中を見つめていると、私達の会話を黙って見守っていた三上が不審そうに声をかけてくる。
「ね、ねえ、桐生さん。私、ロシア語はさっぱりなんだけど、どうみても彼女、おしるこの店を桐生さんに聞いている雰囲気じゃ無かったと思うんだけど……」
「……え? そんなはずないですよ。テレシコワも甘いものが好きだから、是非いい店を教えてくれって――」
「絶対違うって! あんな、敵意むき出しで甘味処の場所を聞いて来る人、世界中探してもいないから!」
私に詰め寄るようにして熱弁をふるう三上。
……。『外国人と試合をすると相手の母国語を習得できる』という転生特典を貰っているのかもしれないと思い始めていた私だったが、この三上の様子を見ると、どうやら私にそんな特典は与えられていないようだった。
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『もうすぐ桐生選手の二回戦が始まりますね。おっと、隣の会場ではソビエトのフルシチョワ選手が一足先に三回戦進出を決めたようです。山上さん、やはり桐生選手の前に立ちはだかるのはフルシチョワ選手でしょうかね?』
『その可能性は高いですね。直近のヨーロッパ選手権を制して優勝候補筆頭と呼ばれていたリッセンに加えて、今しがた南米選手権準優勝のオーラを降した所を見ると、彼女が桐生が優勝するための最大の障壁と言っても良いのではないでしょうか』
山上の解説に頷いたアナウンサーは、これから始まる桐生の試合会場の側で足を止め、間近でその試合を見る姿勢を見せているフルシチョワを見下ろす。
『最終日の無差別級にエントリーされているテレシコワ選手と言い、どうやらソビエトはあの二人をこれまで国外試合に出さずに秘匿していたように思えますね。やはり来年に迫ったソウルオリンピックに向けて……、でしょうかね?』
『おそらくそうでしょう。ソビエトはオリンピックでの無差別級と52kg以下級で確実に金メダルを狙って来ていますよ。当然桐生もソウルオリンピックの事は頭にあるでしょう。どちらがソウルに良いイメージを持っていけるか。そういう意味では、この世界選手権の結果は重要になってきますよ』
『なるほど。もうソウルに向けた前哨戦は始まっているという事ですね。このまま勝ち進めば、桐生選手がフルシチョワ選手と対戦するのは決勝戦です。さあ、桐生選手が今開始線に足を進めます。二回戦の相手は昨年のヨーロッパ選手権 準優勝のリューイット・マーセナル選手。桐生選手、一回戦のように目の覚めるような一本を決める事が出来るのでしょうか!』
「始めっ!」の審判の声で桐生が前に出る。対戦相手のリューイットは前に出てこない。組もうとする桐生に対して、リューイットは取られた腕を即座に後ろに引いて後退する。
『イタリアの52kg以下級の女王リューイット選手、組んできませんね、山上さん』
『ええ、明らかに桐生を警戒していますね。リューイットはおそらく、先ほどの桐生の一回戦を見ていたのでしょう。桐生はこれから先、このように引いて来る相手に対してどう対応していくかが求められますよ。追う立場から追われる立場になる者の宿命ですね』
桐生が前へ前へと出るのに対して、リューイットは後退に次ぐ後退で、とうとう場外を示す赤い畳の外に足を踏み出す。線審が身振りで場外を示した事で審判が「待て!」を宣告する。日の丸を振って応援している日本の応援団からは、消極的な柔道を取るリューイットに向けて「組み合えー!」という声が飛ぶ。
開始線に戻る二人。審判はちらりとリューイットに視線を投げるが、まだ序盤。消極的な姿勢に対する注意は出さない。
再び「始め!」の声がかかり、桐生が前に出る。リューイットはやはり桐生と組もうとせず腰が引けている。その組み手争いの最中、桐生の右手がリューイットの左袖の先端をはっしと掴んだ。左手は掴めていない。しかし、桐生にはそれだけで十分だった。
『桐生選手、なかなか組ませてもらえ――』
『――あっ、いった!』
アナウンサーの言葉を遮り山上が叫んだ。
桐生が一瞬だけ掴んだリューイットの左袖を高く天に掲げている。同時にその身体はリューイットの懐に飛び込んでいる。山上が椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった時には、既にリューイットの両足は畳に接していなかった。
おぉっと観客席からどよめきの様な声が漏れる前に、勝敗はついていた。審判の手が高く掲げられ、「一本!」を宣告する。自身が投げられた事が理解できない様子で畳に仰向けに横たわるリューイットと、何ほどの事も無いと言った様子でゆっくりと立ち上がる桐生。
国際大会で初めて繰り出された技に、その日グラスホフ体育館に詰めかけた観客が沸き立った。
『山上さん、今のがもしや?』
『はい、公式戦ではありませんが、先日日本で開催されたクジTV杯を制した猪熊選手を投げたと言われる片手袖釣り込み腰、いわゆる“桐生スペシャル”で間違いないでしょう。いやー、とんでもない技を見せてもらいました』
『なるほど、やはりあれが“桐生スペシャル”ですか。袖釣り込み腰自体は比較的ポピュラーな技ですが、やはり片手と言う所がポイントですか』
『そうですね。両手でなく片手だけで投げられるという事は、同格の相手に対してだけでなく、あのように逃げ腰の選手に対しても効果を発揮しますよね。どんなに逃げ腰でも袖を取られる事を防ぐのは困難ですからね。“桐生スペシャル”、あれは一躍追われる立場になった彼女の一つの答えと言えそうですね』
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「お疲れ様、桐生さん。はい、タオル」
私は畳から降りて直ぐに三上にタオルを手渡され、「ありがとう」と応えながら舞台袖に視線を投げる。フルシチョワ。私の試合の前に二回戦を終えていたのにまだそこにいたという事は、私の試合を見ていたのだろう。
フルシチョワと私の視線が一瞬交錯するが、彼女は不敵な笑みを浮かべたまま、今度は私に近づいて来ることなくそのまま背を向けて控室に下がって行った。
これでベスト8。後2回勝てば決勝戦。隣の山で勝ち上がってくるのはおそらく彼女だろう。ふふ、昨日は思わぬ幸運でテレシコワと乱取りが出来たし、その上いると思ってもいなかったフルシチョワと戦う事が出来るなんて、最高の世界選手権ね。
私はフルシチョワから視線を剥がし、声を枯らして応援してくれている日本の応援団に手を振りながら控室に戻って行った。
そしてその後も、私は危なげなく3回戦、4回戦と一本勝ちで勝ち上がり、決勝戦へと駒を進めた。隣の山から勝ち上がってきたのは、やはりフルシチョワだった。彼女もやはり3回戦、4回戦ともに圧倒的な力で勝ち上がり、槌と鎌の描かれた錆色の国旗がグラスホフ体育館で所狭しと踊る。
世界柔道選手権 二日目。その日まで国際的にはほとんど無名と言って良かった私達二人が共に圧倒的な戦績で並み居る優勝候補を破って勝ち上がったためだろうか。私達の直接対決を間近に控え、グラスホフ体育館は異様な雰囲気に包まれているかのようだった。