ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「よしっ、桐生、時間だ。あと一回、しっかり勝ちきって、金メダルをもぎ取って来い!」
選手控室。柳澤監督が、私に気合を注入するかのように背中をバシッと叩く。
「はいっ、監督。反省レポートの枚数がかかっていますから、絶対に勝ってみせます!」
「馬鹿もんっ! かかっているのは、日本女子柔道の威信だ! それに明日以降に続く代表選手の士気にも関わっているんだ。いいか、桐生。確かにフルシチョワは強い。だが、お前の方がより強い。日本の女王から、世界の女王になって帰って来い! 負けて帰って来たら反省レポート100枚だからな!」
ちょっ!? レポートの枚数増えてない!? ……ま、いっか。どのみち勝てば良いんだし。
突然ガチャッと控室の扉が開き、ドイツ人の大会運営スタッフが顔を覗かせ、「キリュウさん。ジカンです」と告げる。
その声を受けて「よしっ、三上。後は任せたぞ!」と、付き人役をしてくれている三上だけを残して監督達は部屋から出ていく。
「さっ、それじゃあ行こうか、桐生さん。泣いても笑っても後一試合。悔いを残さないようにしましょう。それとね……」
三上は周囲に誰もいない事を確認して、私の耳にそっと口を寄せる。
「……優勝したら、西ドイツ一美味しいって噂のお店で、ソーセージ買って帰ってあげるね」
「――本当!? やった! 絶対ね、三上さん!」
先日のテレシコワとの一件で、ホテルとこのグラスホフ体育館以外の場所への外出を禁じられている私に、そのご褒美は思わず飛び上がりたくなるほど魅力的だった。ちなみに、調子に乗った私が地ビールの購入もお願いすると、三上にニコッと向日葵のような笑みを浮かべて『監督に言って反省レポートを増やしてもらうよ?』と宣告されたのは内緒の話だ。
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『さあ、山上さん。いよいよ本日最後の試合となりました。あっと、ちょうど桐生選手が試合会場に姿を見せましたね』
『そうですね。桐生とフルシチョワ。お互いここまで、対戦相手に一度もポイントを許さないまま勝ち上がってきていますが、やはり不気味なのはフルシチョワの方ですね』
『……と、言いますと?』と、アナウンサーが隣の山上に水を向ける。その山上は、舞台袖で屈伸をしたりしてストレッチを行っている桐生を見つめながら応える。
『桐生は、準決勝では、相手選手の内股を返しての内股返しで勝利を掴みましたが、2回戦、3回戦では彼女の代名詞である“桐生スペシャル”を隠す事なく使っています。対して、フルシチョワの方は……』
そこで山上が目の前に広げている書類の束に視線を落とすが、それをアナウンサーが引き継ぐ。
『フルシチョワ選手の方は、1回戦は背負い投げ、2回戦は払い腰、3回戦は大内刈り、そして先ほど行われた準決勝では足技からの関節技で勝利を掴んでいますね。この勝ち方に、山上さんは何か気になる事があるのですか?』
その問いに、今度は桐生とは別の入場口で待機しているフルシチョワに視線を投げかける山上。
『……いえ、気になる……というわけではありません。ただ、勘のようなものなんですが、どこか不気味だな、と……。ソビエトは、まだベールに包まれたままのテレシコワを含めて彼女達をこれまでひた隠してきたように思えます。
既に4度この体育館で試合をしているフルシチョワですが、果たして彼女が隠しているものがもう無いのか……。私としては、それが気になります』
『なるほど。何かを隠しているのか、隠していないのか。そこが山上さんとしては気になると。あっと、審判団が畳の上に上がりました。いよいよ、大会二日目。52kg以下級の女王を決める決勝戦が始まります!』
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「始めっ!」
主審の声で私は前に出る。フルシチョワもだ。2回戦以降、こういうふうに積極的に向かってくる選手はいなかったから、なんだか久しぶりに感じる。私は組手争いに執着しないが、フルシチョワは多少拘りがあるようだ。私に取られた場所が気に入らないようなら、即座に切ってくる。とりあえず私は、フルシチョワが許容する範囲で彼女と組み合う事を優先する。それには一つの目的があった。
そうして組み合った私は、彼女の襟元を取った手に力を入れぐっとフルシチョワの顔を引きつける。そしてそのまま、側にいる主審の耳に届かないほどの声量でボソッと呟く。
「……ウラナゲがお前にある事を私は知っている」
「――!?」
……良かった。初めて使うロシア語だったが、意味は伝わったようだ。私は、フルシチョワのこれまでの戦い方から、彼女が私に対して裏投げを隠し、その上でそれを決勝戦で使おうとしている事を悟っていた。
だけどその努力は無駄だ。何故なら、私は『YAWARA!』の原作知識で彼女がそれを習得している事を知っているから。
逆に彼女は知らない。私にそれを知られている事を。
私はそれが、無性に気に入らなかった。思えば猪熊柔との練習試合の時もそうだった。あの時は柔ちゃんがその手を取ってくるという事に事前に気づかなかったし、気づいても頭で考える前に身体が反応して躱していた。
いわゆる原作知識によるアドバンテージ。この世界に転生した以上、使える知識は使いたいと考えているが、そんな勝ち方は望んでいない。私は、この身体と培った技のみで彼女達に挑み、勝ちたいのだ。
だから、フルシチョワが私に裏投げを使おうとしていると察した私は、逆にそれを彼女に伝える事にした。伝えていなければ、私ならフルシチョワが裏投げを放った瞬間、返し技で彼女に勝つ事が出来る。
フルシチョワの動きが、幾分受け身から積極的な動きに変わってきた。私の言葉を正しく理解したのだろう。裏投げを読まれているのなら、返し技に繋がる動きをしても意味が無いと。猪熊柔という例外を除けば、間違いなくこの世界で私が目にする最速の動きをフルシチョワが取る。
目まぐるしく左右に動く彼女に合わせて私も動く。私の視界の端に、畳の下で真剣な目で声援を送る三上の顔が映る。
あのロシア語は三上が調べてくれた。インターネットも生成AIも無い世界だ。世界共通の公用語である英語でもない。『大学でロシア語を専攻している友人がいるから、電話して聞いてみる』、と首を傾げながらも私の願いを受け入れてくれた三上に、私はもう一度心の中で礼を言う。
「何をよそ見している、アカネ・キリュウ! 裏投げを読んだからと言って、もう私に勝ったつもりか!」
掃うというより、切れ味の落ちた
まさか私同様に片手で背負うつもり――いや、違う! これは“韓国背負い”だ!
韓国背負い。この投げ方は、2008年の北京オリンピックで韓国選手を中心に広まった事でそう呼ばれるようになったが、“回転背負い”あるいは“逆背負い落し”という名でも知られている。
通常の背負い投げは、本来右組みの場合は右の肩越しに相手選手を投げるが、韓国背負いはその逆で、右組の場合は左の肩越しに投げる、いや……、投げるというより墜とすのだ。
完璧に決まれば受け身も取れず後頭部から落ちる事必至という危険極まりない理由から、2024年パリオリンピックでは使った選手が指導を取られる事になった技。危険極まりない技のためそれ以前から日本の中学校以下では使えば一発退場となっていたこの技を、フルシチョワは私に対して使ってきた。
「――くっ!」
前世でこの技を受けた経験が皆無と言うわけでは無いが、その経験は片手で数えられるほどでしかなかった。ましてや、この世界で受けたのは初めてだ。
そのため、私はフルシチョワの技の始動への対応が僅かに遅れた。既に私の身体は半回転しており、私の背中とフルシチョワの背中が密着している。何もおかしなことではない。これが回転背負いの基本スタイルだ。
ここからは一瞬だ。フルシチョワは私を投げない。ただ背中を密着させたまま私を担ぎ、頭部を畳に垂直に堕とすだけ。
「――勝ったぞ、アカネ・キリュウ!!」
私の背中越しに、フルシチョワの勝利を確信した声が届く。
「――まだよッ!」
その時、私の左足は既に宙にあり死んでいた。だから私は、かろうじてまだ畳に接地している右足でドンッと畳を勢いよく蹴りつけた。そしてそのまま、フルシチョワと密着した背中を支点におぶさる様に宙返りする私。
フルシチョワの身体の上で回転する私に、彼女の「――何ッ!」と驚く声が届く。およそ柔道の試合で見る事のないだろうアクロバティックな私の動きに、グラスホフ体育館に詰めている大勢の観客から、「――Wow!!」と言うどよめきの様な声にならない声が上がる。
周囲のどよめきが収まらないまま、フルシチョワの背の上での回転を終えた私は、両足でダンっと畳に着地する。
ととっ。まずっ、宙がえりの勢いがつきすぎて身体が後ろに流れるっ!
「――フルシチョワ、追え!!」
恐らくテレシコワと思われる声が、私の背後から投げかけられる。その声は確実にフルシチョワにも届いたようだ。投げるどころか逆に私にのし掛かられるという想定外の事態に驚愕の表情を顔に浮かべていたフルシチョワが、私に体当たりする勢いで突っ込んできた。
――いけないっ!
そのため私は、背中が畳に着くまでの僅かな時間に、取られていない引き手方向に身体を捩じる。
ズダーーン!
私とフルシチョワ二人分の体重が畳の一点にかかり、激しい打撃音と振動が響く。線審が、場外で無い事を示すジェスチャーを取ると同時に、錆色の旗を左右に振る気の早い応援団から歓声が上がる。
しかし、審判の声は上がっていない。
……当然ね。私は宙でしっかり姿勢を制御して腹ばいで倒れたからポイントは無い。観客席で日の丸を振っている応援団から揃ったようにほうっと安堵の息が漏れるのを、私の耳が拾った。
ポイントは取られなかったが、マウントを取っているのはフルシチョワ。私より早く立ち上がったフルシチョワは、そのまま私にのし掛かり寝技を仕掛けてくる。その攻めに対して、脇をしっかり締めた私は決して彼女に付け入る隙を与えない。そうこうしていると、攻めあぐねたフルシチョワに対して審判が「――待てっ!」と宣言し、ようやく私はほぉっと息を吐き、力を抜いた。
フルシチョワは「――ちっ!」と舌打ちし、偶然当たったように装いながら畳に寝そべる私の脇腹に軽く蹴りを入れ、開始線に戻って行く。私に対して頭上から見下したような笑みを残して。
あんにゃろう……。海外の選手と戦っているとこんな事は日常茶飯事だったが、十数年ぶりに手荒い洗礼を受けた私は、去って行くフルシチョワの背中を見つめて、ニヤッと笑みを浮かべる。
……良いね。これぞ国際試合、これぞ真剣勝負。互いに国の威信を背負って戦っているからこその、意地と意地のぶつかり合いだ。
フルシチョワの回転背負いを激しい動きで躱した事で、気づかぬうちに道着が乱れていたのだろう。先ほどしたたかに蹴りを入れられた脇腹をさすりながら開始線についた私に、審判が道着の乱れを正すよう指示する。私はそれに頷き、おもむろに帯をほどき、道着の襟元を一度はだける様にばさっと広げる。
途端に、観客席のあちらこちらから瞬くフラッシュの嵐。
……? 何だろう、と首を傾げている私に、試合会場袖にいる三上の声が届く。
「桐生さん、もう少し慎みを持って! 女の子がそんな風に、大胆に道着をはだけないの!」
いや、はだけないのって、いくら私だって性別的に女と言う認識はある。別に男子のように柔道着の下に何も着ていないわけじゃないし。私は自身の胸元に視線を落とす。そこには、学ランを着てヤンキー座りでガンをつけているトラ柄の猫がプリントされた白いTシャツが。
あ……、回転背負いから大外刈り、そして寝技の攻防と激しい動きが続いたためか、いつの間にやらべったりと汗をかいていたようで、Tシャツの下に付けていたブラがうっすらと透けていた……。
なるほど……。さっきのフラッシュはそう言う事か。まったく柔ちゃんじゃあるまいし、私の透けたブラを撮った所で需要なんてないでしょうに……。そんな事を考えながら道着の乱れを直した私だったが、審判の「――始め!」の声が終わる前からフルシチョワが積極的に攻めてくる。
今度はがっしりと両者良い所を取り合う。側の電光掲示板が一瞬視界に入る。試合開始から1分13秒が過ぎていた。
……変だ。不思議と身体が重い。フルシチョワも速いが、私はもっと速く動けるはずだ。なのに、先ほどから私はフルシチョワを相手に後手に回ってばかりだ。ろくに技を仕掛けさせてもらえないまま、矢継ぎ早に繰り出されてくるフルシチョワの技への対処に忙殺される。
フルシチョワの勢いに押される形で、私の身体は場外を示す赤いラインが引かれた畳を割る。線審の場外を示すジェスチャーに主審が「待て」を告げ、私達を試合会場の中央に戻るように促した。
開始線に戻った私は、今度こそフルシチョワに対して先手を取ろうと足を踏み出すが、審判は私達、いや……、私に対して開始線から動かないよう留める。
え、まさか……。嫌な予感がした私が顔を歪めるのと、しっかりと私の顔を見つめた審判が「――シドウ!」と宣告するのは同時だった。
学ランを着た猫Tシャツ。知っている人がどれほどいるか。いや、自分も厳密には世代では無いんですけどね。。