ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「――シドウッ!」
審判の発した言葉の意味を認識した瞬間、思わずふーと長い息を吐きながら私は天を仰いだ。視界の端に、観客席にある錆色の旗が大きく左右にはためく様子が映り、それからワンテンポ遅れて電光掲示板に表示されているフルシチョワの名前の隣に“効果”を示す赤い〇がポンと点灯した。
それは、国内の52kg以下級を制した日から数えて公式戦で初めて私が奪われたポイントだった。しかもそれがよりによって、消極的な柔道をしたことによる指導だったなんて……。
指導……か。いつ以来だろう。前世の事になるが、口の悪い海外選手と試合中に売り言葉に買い言葉で互いに罵り合った際に喧嘩両成敗的に反則行為で指導を取られた事はあったが、消極的柔道で指導を取られた記憶はついぞ無い。
「大丈夫よ、桐生さん! でも、そろそろ攻めていこう! 大丈夫、まだ時間はたくさんあるよ!」
――!
三上の声援を脳裏で咀嚼する前にフルシチョワがここぞとばかりに一気呵成に攻めてくる。それを迎え撃つ私の身体はやはり重い。
そうか……。うっすらと感じていたけれど、やはり今のこの私の状態は異常事態と言える。思えば、先程Tシャツが汗でびっしょりと濡れていた時に気づくべきだった。いくら綱渡りの攻防が続いたとは言え、あの程度の動きであれほど汗をかくはずが無かった。
「――お前如きがヤワラ・イノクマに勝っただとっ!? このぬけガラめ!! やる気がないならこれで終わりにしてやる!!」
罵声を発しながらフルシチョワが再び私の懐に飛び込んでくる。仕掛けて来た技は、先ほど同様『回転背負い』。
完全に舐められている。危機的状況だというのに、何故か私の頭は冷めていた。この異常事態の原因を探るための思考に身を委ねる私だが、同時に私の身体はほとんど条件反射のように仕掛けられた技に反応する。どれほど後手に回っていても、これまで柔道に打ち込んできた日々と、身体の芯に深く刻み込まれた技は、私を裏切らない。
飛び込んできたフルシチョワが私の左腕を固めつつ回転するが、咄嗟に一歩身体を引く事で私はその回転に巻き込まれる事を防いでいた。技の仕掛けに失敗した事を悟ったフルシチョワは、舌打ちしながら再び私と正対する。
そしてこの時、私はようやく自身の不調の原因に対する答えに辿り着いていた。それは、先ほど仕掛けられた回転背負いのお陰と言って良かった。
不調の原因。それはフルシチョワに後頭部から落とさんとする技を仕掛けられたためだ。それは、技こそ異なるものの、前世で頭部を強打し命を失った事を、私に嫌でも思い起こさせるトラウマのような技だった。
頭を打っていないというのに、何故かずきずきと鈍痛が頭の中を駆け巡っているように感じる。この痛みには覚えがある。あの、ここではなく、今でもないフランスはパリで、意識を失う直前に感じていた、脳の深い所に釘を金槌で打ちこまれるかのような痛み。
フルシチョワの体落としを躱し、反対に内股を仕掛ける。決まらない。再び組み合ったフルシチョワが私の襟元を取った拳を、顎にがしがしとぶつけてきて頭が揺れる。普段は気にもしないその動作が、今はとても煩わしい。現実の痛みなのか、空想の痛みなのか分からないでしょうがっ!
私の襟を取ったフルシチョワの釣り手をビリっと引きはがし、一瞬私達は足を止めて対峙する。
不調の原因は分かったんだ。原因が分かった以上、後はそれを克服すれば良いだけ。私は、再び組み付いてきたフルシチョワとの戦いに集中する。大丈夫、確かに私はあの技に過去のトラウマを呼び起こされてしまったけれど、柔道は怖いだけのものじゃ無い事を私は知っているじゃないか。
だから私はこの世界でも柔道を始めたんだ。恐れたままなら始めたりしなかった。つまり、この世界での私の柔道歴は、それ自体がトラウマを克服するために努力した時間に他ならない。中学1年生から数えてこれまでの6年間の私の柔道経験が、私を支えてくれている。
昨日、今日このトラウマに向き合い始めたわけじゃないのよっ!
軽快に動き回るフルシチョワの動きをよく見て私は、パンっと足を飛ばす。接地しようとしていた足を刈られた事で、フルシチョワの身体がぐらっとよろめく。いつの間にか私はフルシチョワの動きに慣れてきていた。いや、慣れて来た、というより、感覚が戻ってきたと言った方が良いかもしれない。
「――何を笑っている、キリュウ!」
笑っている……? あれ、今私ロシア語を理解した? いや、そんな事より、今私は笑えているのか。そうか、笑えているか。
私が連続して放つ小内刈りを嫌ったフルシチョワが後ろに下がる。それでも攻撃的姿勢を崩さない彼女は、下がりながら絶妙のタイミングで体落としを放ってくるが、それは食わない。足を引っかける様に出された彼女の足を躱しながら、さらにフルシチョワを押し込んでいく私。
「桐生さん、良いよ、いつもの動きが戻ってきた! まだ時間は
一番近くにいる私の最大の応援者からそんな声が耳朶に届く。逆転……? ああ、そうだった。私はまだフルシチョワにポイントで負けていたんだ。フルシチョワの動きに集中していて、そんな事すっかり忘れていたよ。
感謝するよ、フルシチョワ。私に克服すべき課題があった事を教えてくれて。そして、その課題を克服する機会を私にくれた事にも。
左手でフルシチョワの右袖を掴んだ私は、次いで右手を彼女の襟に伸ばす。しかしフルシチョワは咄嗟に半身を後ろに引き、私に襟を、つまり引き手を取らせなかった。必然的に彼女も私の片袖しか取れていない事になるが、彼女にはその態勢からでも十分に勝ちをもぎ取る勝算があるのだろう。
その勝算の根拠は筋力か。否定はしない。これまでの戦いで彼女の筋力が私を上回っている事は、私も気付いていた。
……だけど、甘いよフルシチョワ。
たとえ筋力で劣っていても、私には培ってきた技がある。経験がある。
私は咄嗟にフルシチョワの右片袖を両手で掴んだ。苦し紛れの行動と捉えたのか、フルシチョワの顔に怪訝な表情が浮かぶ。今の私は、不格好な事にフルシチョワの身体の半身を両手で掴んでいるのだから。
だけど、私にはこれで十分――、いや、これがいい!
「いっけーー! 桐生さん!」
――行くともさ! 相手の片袖を両手で取ったこの攻撃に偏重した歪な組手は、古来より読んで字の如く『片袖』と呼ばれている。『片袖』の状態で6秒が経過すると私に反則の指導が与えられるんだから、後はもう時間との勝負。先ほどの三上の声援は、それを理解していたからこそだ。
見てて、三上! だからソーセージよろしく!
下がるフルシチョワ以上のスピードで私は彼女の懐に飛び込んでいく。身体の回転は反時計回り!
「――カイテンセオイ!?」
「You’re wrong!(外れッ!)」
受け身の取れない投げ技の危険性を誰よりも熟知している私が、それを放つはずがないでしょ!
背負い投げ系統の技は、相手の懐で両足を揃え、そこから両の足で畳をしっかり踏みしめた上で膝のバネを利かせながら相手を背負う技だ。しかし、フルシチョワの懐に飛び込んだこの時の私の両足は、揃っていなかった。接地しているのは左足のみ。
では、右足は――?
右足はフルシチョワの懐に飛び込んだ勢いのまま、彼女の足を刈り取るように高く跳ね上げていた。
「――どういう技だ、これは!?」
フルシチョワがそう発した時、既に彼女の身体は、畳よりはるかに高い地点で天地が逆さになっていた。
そう、この時私が彼女に仕掛けた技は『山嵐』。この技は、相手選手の片方の襟(と襟)を掴み、上半身は背負って前に投げる動作、下半身は後ろに足を払う動作を組み合わせた変形技。この技は、よく漫画や小説で柔道における『最強の技』や奥義のように扱われる事があるが、私から言わせれば、『山嵐』は柔道の数ある手技の内の一つに過ぎない。
それがあたかも『幻の技』のように現代に伝わっているのは、小説『姿三四郎』のモデルとなったこの技の創始者“西郷四郎”が特別だったからに他ならない。何故なら、この技が真の力を発揮するのは、かの“西郷四郎”のように
ズダーーーン!
「――一本!」
その審判の声を耳にしながら、ゆっくりと立ち上がる。フルシチョワは未だ茫然と天井を見上げたままだ。試合時間は、3分27秒で停止していた。
『幻の技』……とまでいかなくても、山嵐の使い手はそう多くない。だからフルシチョワも、おそらく初めてこの技を喰らった事でなすすべなく一本を取られたのだ。外部にその情報が漏れないよう秘匿されていた事が仇になったわね。試合相手が国内選手に限定されていたあなたが、
つまりあなたが、今そうして敗北に打ちひしがれているのは、決して私の放った山嵐が講道館四天王の一人と謳われた西郷四郎のそれの威力に匹敵したからではなく、ただ単にその技の存在を知らなかったから。
『西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし』
この言葉の通り私の放った山嵐は、西郷四郎の山嵐、言わば『西郷スペシャル』の威力に遠く及ばない。何故なら、私の足は蛸足ではないから。こればかりは、努力で身に付くものではなく純然たる才能だ。そして、かの猪熊柔も蛸足ではない。組んだからこそ分かる。
前世で、最もその才能の片鱗があったと私が考えているのは、2004年アテネオリンピックの日本男子100kg超級代表として出場し、見事に金メダルを獲ったあの選手。あの選手が山嵐を使った記録は残っていなかったが、修練次第では、私は彼ならあの西郷四郎に限りなく近いレベルに至ったのではないかと密かに思っていた。そしてこの世界では――。
「おめでとう、桐生さん! とうとうやったね!」
畳を降りた途端に三上が私に飛びつくように抱き着いてくる。
「あはは。ありがとうございます、三上さん。私の山嵐、見てくれていましたか?」
「もちろん……! でも、最後の決め技が『山嵐』だなんて、想像もしていなかったよ! いつから考えていたの?」
「いえ、咄嗟に思いついたんです。フルシチョワの右袖しか取れなかったから、そのまま行っちゃえって思って。うまく意表をつけたようで良かったです」
あれほど私の頭部を襲っていた鈍痛は、それが幻覚だったかのように霧散していた。
「……アカネ・キリュウ」
三上との会話の最中、背後から私を呼ぶ声。振り返ると、そこには先ほど私が下したフルシチョワと、その彼女のサポートについていたテレシコワの姿が……。
「この雪辱は、ソウルの地で必ず……」
ロシア語のためはっきりとは分からないが、“ソウル”という単語が含まれていたため、その意味はなんとなく理解できた。だから私はこくりと頷き、「ソウルで会いましょう」と返事をする。
私の言葉が理解できたのか、出来なかったのか、フルシチョワとテレシコワは私としばし視線を交わした後、無言のまま踵を返して控室に下がって行く。
その背中をじっと見つめていたこの時の私には、確信めいた予感があった。それは、翌年、私達がソウルの地で互いに国の威信を背負った激闘を、彼女達との間で繰り広げる事になるだろうという事だった。
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時は少しだけ遡る。
東京都は世田谷区西松原。往来の激しい雑多な繁華街から外れ、閑静な住宅が立ち並ぶ住宅街の中に一軒の立派な門構えの家があった。猪熊邸だ。その猪熊邸では、20代前半の朴訥とした青年が、猪熊邸の住人に対して身を縮ませる様にしながら頭を下げていたところだった。
「す、すいません。家に上げてもらったばかりか、一緒に桐生さんの決勝戦を見せてもらえるなんて……」
「良いんですよ、松田さん。外は暑かったでしょう? さあ、冷たい麦茶でもどうぞ」
猪熊柔の母である玉緒から、見るからに涼しげな氷の浮いた麦茶のグラスを差し出された松田は、「すみません、何から何まで……」と恐縮した素振りでそれを受け取る。つい先ほどまでじりじりと肌を焼くほどの炎昼にその身を置いていた彼は、それを喉を鳴らしながら流し込み、破顔する。
「いやー、生き返りました。私も桐生さんの試合が気になっていたのですが、会社の人使いが荒いものですから、こちらで見せてもらえるのは助かります。あ、柔さん、今日の朝桐生さんから電話があったって言ってたけど、桐生さんはなんて?」
ものの数秒で空になった松田のグラスに新たに麦茶を注いであげながら、柔が朝の会話を思い出すように首を傾げる。
「別に記事にできるような事は言ってなかったですよ。優勝目指すから、良かったらTV見てねって。私からは、ジョディが出場しているはずだから良かったら会ってみてって」
「なるほど。桐生さんの事だから、試合前に嬉々としてロックウェル選手と試合していたりして」
松田の言葉に「そんなまさか」と猪熊柔が苦笑するが、ちょうどその時TVのモニターにグラスホフ体育館の試合会場に現れた桐生の姿が映り込み、猪熊柔が「あ、茜さんだわ」と声を上げる。その声に居間に集まった皆がモニターに注目するが、すぐにモニターは彼女の決勝戦の対戦相手であるソビエトの選手を映し出す。
「ふむ、日刊エブリ―。このソビエトの選手は名の知れた選手か?」
まるで男子のように短く髪を切り揃えたソビエト選手に視線を投げかけたままの猪熊滋悟郎からそう尋ねられた松田は、うーんと眉間に皺を寄せる。
「いえ、この大会まで全く知られていなかった選手ですね。この52kg以下級のフルシチョワと、無差別級に出場する予定のテレシコワの二人は、ソビエトがこれまで秘匿してきた選手と言って間違いないと思います」
「なるほどのう。これはジョデーも桐生も容易くは優勝できんかもしれんな」と、何故か面白そうに片眉を上げて独りごちる猪熊滋悟郎。
「そんな事無いわよ。茜さんも、ジョディもきっと優勝するわ」
不吉な事を口にする祖父をねめつける猪熊柔に同意するように、松田が深く頷く。
「うん、ロックウェル選手も桐生さんも知っている俺からすれば、いくらソビエトの隠し玉が相手だとしても彼女達が負ける所が想像できないよ。あっ、もうすぐ始まりそうだ。いやー、楽しみだなぁ」
松田の言葉の通り、TVのモニターには、主審に促された桐生とソビエトの選手が開始線に向かっている姿が映っていた。
『ああ、危ないっ!』
TVの向こうから届くアナウンサーの張り上げた声に、猪熊柔の身体が一瞬硬直する。同時に、その隣で孫娘同様にTVの画面を注視していた猪熊滋悟郎の片眉がぴくっと痙攣するように反応した。
『――あっ、いや、おおっ!?』
全く解説になっていない驚愕の声を上げるアナウンサーだったが、それを責めるのは酷と言ったものだろう。何故なら、桐生茜がフルシチョワの背中の上で、まるで後方宙がえりをするように一回転したのだから。
『――いや、まだですよッ! 桐生、
解説者である山上が桐生に注意を促す。回転背負いを思いもよらない避け方で躱されたフルシチョワが、桐生に追撃をかけたのだ。あわや一本負けかと思われたその怒涛の攻めを桐生はかろうじて躱し、ようやく審判から『待て』の言葉がかかる。
その言葉を耳にし、猪熊邸の居間に集まっていた面々は緊張に息をする事も忘れていたのか、ようやく「ふーーー」と長く深い息を吐く。皆と同様にTVを食い入るように見つめていた玉緒が、ようやく肩の力を抜いた後、感心したように首を振る。
「凄いですねぇ、お義父さん。柔道ではあんな動きをされることもあるんですね」
「いいやっ! あのような動きは柔道のそれでは無いわ! あんな曲芸師のような真似をせんといかんほど追い込まれたあ奴が未熟だったと言うだけの事ぢゃっ!」
その猪熊滋悟郎は、ようやく麦茶の入ったグラスを長い時間握りしめていた事に気づいたのか、ばつの悪い顔をしながら一気にそれを飲み干す。
「もうっ、お爺ちゃんったら。でも、お爺ちゃん。あのソビエトの選手が仕掛けた技って、前にお爺ちゃんが教えてくれた技よね?」
猪熊柔は、かつて祖父から「使う必要は無い。ぢゃが、その存在は知っておく必要がある」と指南された回転背負いの事を思い出す。
「そうじゃ。“回転背負い”、またの名を“逆背負い落し”。柔道の立派な技の一つではあるが、受け身が取りづらく危険な技ぢゃ。しかし、通常あの技は、背負い投げが崩れた時に結果としてあの形になる事が多い技じゃが、あのソビエトの選手は違ったの」
「どういう事?」と首を傾げて祖父に顔を向ける猪熊柔。その隣で松田は、ポケットから手帳を慌ただしく取り出し、猪熊滋悟郎の解説をふんふん、と頷きながら書き付けている。
「あやつは、“回転背負い”を技の掛けそこないとしてかけたのではなく、最初から企図して仕掛けたのよ。なかなかに食えん選手じゃな。これは桐生も苦戦するやもしれんぞ」
「そんな……」と、画面に映る桐生に心配そうな顔を投げかける猪熊柔だったが、突然その隣の猪熊滋悟郎が「――こ、これはっ!」と鼻息荒く画面に食いつく。その顔は明らかに赤らんでいた。
「――! ちょっ、お爺ちゃん、見ないの!」
画面の先で大胆に柔道着をはだける桐生の姿を確認した猪熊柔は、祖父に抗議の声を上げる。突然沸き起こったその騒動に、手帳に目を落としていた松田が、「え……、どうしたの?」と顔を上げるが、その顔がTVを向く前に、猪熊柔がテーブルの上にあった自身のグラスをさっと手に取り、松田の顔に引っかけた。
「わっ!? 冷たっ! な、何するんだよ、柔さん!」
「あ、ご、ごめんなさい。つい、手が滑っちゃって……」
猪熊柔はそう松田に応えながら、自分自身でも今の行動の意味が理解できなかったのか、手の中の空になったグラスを茫然と見つめる。
そんな娘の様子を見て何故か玉緒は笑いをかみ殺しながら、傍にあったタオルを松田に手渡す。
「はい、松田さん。これで拭いてくださいな」
「あっ、これはすいません、玉緒さん」
そんな和やかな空気が漂っていた猪熊邸だったが、試合が再開されると、皆がTVに視線を集中させる。
「いったいどうしたんだろう、桐生さん。いつものような積極的な柔道が出来ていないようだけど……」
「うん、どこか変だわ。茜さん、体調でも崩しているのかしら?」
「うんにゃ。桐生は、決勝まではいつもの動きが出来ておった。おかしくなったのは先ほどの回転背負いを受けてからじゃ。もしかするとあのような派手な躱し方をしたせいで、どこか怪我をしたのやもしれぬな」
猪熊滋悟郎のその見解に、松田と猪熊柔の表情が気づかわし気な表情に変わる。そして、同じ懸念の言葉がTV画面から漏れ聞こえてきた事で、更に彼らの表情が曇った。
『いけませんね、桐生。この決勝戦では、これまでの試合で見せていたような積極的な姿勢が見られません』
『そうですね。これは山上さん、桐生選手はどこか怪我をしたのでしょうか?』
『いや、怪我……ではないように見えるのですが……。国内では敵無しと言っても、桐生もまだ17歳。優勝が手に届くところまできて、今更ながらに世界戦のプレッシャーを感じ始めたのかもしれませんね』
解説者である山上がそう口にした時、ちょうど主審が開始線に立つ桐生に対して、消極的姿勢を咎める『指導』を与える。
『あっ、今、桐生に『指導』が出ました! これは山上さん。私どもが把握している限り、桐生は公式戦で初めてポイントを取られた事になるのでは?』
その言葉の通り、開始線に立つ二人の中央奥に設置されている大きな電光掲示板に、“効果”を獲得した事を示す赤い〇がフルシチョワの方に点灯する。
『ええ……。おそらくそうでしょう。それに、もしかすると桐生がこれまでの公式戦で打ち立てた『3分の壁』も、この西ドイツの地で崩れる事になるかもしれませんよ』
山上の言葉に、アナウンサーはこの試合を日本で視聴している柔道ファンにも分かるように応える。
『確かにそうですね。今、試合時間は2分を超えた所ですが、これまで桐生が最も長い時間試合をしたのは、昨年末の『全日本柔道体重別選手権』決勝戦の山口かおるとの試合で、その時が2分53秒でした。今日のこれまでの試合でも、全て30秒以内で試合を決めていますからね』
TVの向こうから届くその言葉に、滋悟郎は不機嫌そうにテーブルの上に置かれたせんべいに手に伸ばし、それをガリガリとかみ砕く。
「ふんっ! 3分の壁だか、ベルリンの壁だか知らんが、そんなものはいつか砕けるもんぢゃ! それより桐生! 柔に勝ったお前は、容易く負ける事が許されん立場ぢゃぞ! プレッシャー!? そんなものに潰されるお主では無かろうが!」
「そ、そうだよ、桐生さん! 頑張れっ! プレッシャーに負けるなんて、君らしくないぞ!」
「頑張って、茜さん! あっ、またあの技を! ――許せないっ!」
猪熊柔が、再び受け身の取りにくい危険な技を友人である桐生に仕掛けたフルシチョワに抗議の声を上げるが、何故かその技を受けてから桐生の動きが徐々に変わってきた事に気づく。
「お、お爺ちゃん! 茜さんの動きが……!」
「うむっ! 桐生め。ようやく目を覚ましおったな! 遅いわ、馬鹿もん!」
「――上手いっ! その調子だ、桐生さん!」
TV画面越しであっても、桐生の動きが変わってきた事に気づく彼ら。いつしか息をするのも忘れたようにTV画面に釘付けになる彼らだったが、桐生が最後に放った技に皆が身を乗り出して膝立ちになる。
『――一本!』
その審判の宣告に、思わず見つめ合う松田と猪熊柔。次の瞬間二人は、「やったー!」と抱き合い喜びを爆発させた。
「あははは、やった、やったぞぉ! さすが桐生さんだ!」
「凄い、凄いわ、茜さん!」
そんな彼らの側で玉緒はパチパチとTVに向かって手を叩いていたが、不意に抱き合う松田と娘の様子を見て、彼女はくすくすと笑みを零した。
「まあ、まあ。あなた達ったら、いつの間にそんな関係に」
その揶揄するような声に二人は思わず顔を見つめ合う。まるでキスをするかのように顔を密着させている事を最初に認識したのは、反射神経に優れた猪熊柔の方だった。
「きゃーーー!」という甲高い声を発しドンっと相手を突き飛ばす猪熊柔と、ぐえっと潰れたカエルのような声を出してひっくり返る松田。
猪熊柔は、ぞぞぞっと鳥肌が立った肌を抑える様に両手で自身の身体を抱きしめていたが、不意に祖父の発した「しかし桐生め。よりによってあの技を放つとは……」という言葉に振り返る。
「あの技……。そう言えばあの技は何て技なの、お爺ちゃん?」
祖父から教わっていない技だったのだろうか。首を傾げてそう尋ねる孫娘に、滋悟郎は応える。
「ふんっ。あの技は、かの講道館四天王の一人“西郷四郎”先生の編み出した山嵐という技よ」
「山嵐……。そんな技があったんだ。私、お爺ちゃんに柔道のほとんどの技を教えてもらったと思っていたけど、まだ知らない技があったのね」
「お前は蛸足ではないからな。蛸足で無い以上、西郷先生の放ったような威力の山嵐にはならん。ぢゃから柔には教えなんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください、滋悟郎さん。その山嵐と蛸足について詳しく……」
猪熊滋悟郎の言葉に、起き上がった松田が手帳とペンを手に持って身構える。そんな彼に、滋悟郎は蛸足が限られた選手にしか備わっていない特別な才能である事を伝える。
「なるほど、勉強になります。しかし、山嵐を使ったという事は、桐生さんにはその蛸足の才能があったと?」
「うんにゃ。あの娘に蛸足の才能は無い。それは間違いない。あの娘も完全な山嵐が使えると思って仕掛けたわけでは無かろう。それでもあれを使った理由は別にあるのじゃろう」
「別に……ですか。それはいったい……」
「日刊エブリ―、お前が自分で言っておったではないか。あのフルシチョワと言う選手はソビエト内で秘匿されていたと」
「た、確かに言いました。で、ですが、それがいったいどう関係するんですか?」
そう更に問いかける松田に、滋悟郎はまだ分からんのか、と言いたげな表情を投げかける。
「ぢゃから、秘匿されていたという事は、言い換えれば、逆に他国の選手と試合をした経験が少ないという事ぢゃろう。だとすれば、ただでさえ使い手の少ない山嵐という技の存在を、あのソビエトの選手が知っていたとは思えん。桐生の狙いは、おそらくそんな所だったのぢゃろう」
ようやく得心が言ったのか、松田が「なるほど……!」と頷き、その滋悟郎の見解を手帳に書き留める。その様子をふんっと鼻を鳴らしながら見つめていた滋悟郎だが、彼は更に言葉を続ける。
「……もっとも、抜け目の無いあやつの事ぢゃ。あるいは別の目的も……」
「え……、あるいは別の目的……なんですか、滋悟郎さん――「そうだわ!」」
滋悟郎の呟きを拾った松田がその先を伺おうとするが、突然玉緒がパンっと手を打ち鳴らす。
「桐生さん、日本に帰って来たら家に寄らせてもらうって言ってたでしょう? その時にお祝いしましょうよ、柔、お義父さん!」
「うむっ! そうじゃな、ふがいない試合ではあったが、優勝は優勝。秘蔵の地獄車で祝ってやるとするか!」
「うん、そうしましょう! あ、でもお爺ちゃん、茜さんにお酒を勧めたら駄目よ!」
「えっ!? 桐生さん、日本に戻ったらこちらに立ち寄る事になっているの!? や、柔さん! 取材、取材させてくれないか、桐生さんに聞いてみてくれないかな!」
「日刊エブリ―! お前は呼んでおらんぞ!」
喜色を浮かべていた松田は猪熊滋悟郎から叱責され思わず首を竦めるが、そこに玉緒がにこにこと笑みを浮かべながら助け舟を出す。
「良いじゃないですか、お義父さん。松田さんが来てくれたら柔も喜ぶわ」
「どうして私が喜ぶのよ、お母さん!」
バンッと机に両手を付いて声を張り上げる猪熊柔。西ドイツから遠く離れた東京の猪熊邸では、穏やかな時間が流れていた。
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【桐生 茜 ステータス(*能力低下デバフ中)】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :17さい
れべる :29
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :81
すばやさ :178
たいりょく:138
かしこさ :188
わざ :193
こうげき力:211
しゅび力 :193
E じゅうどうぎ
【フルシチョワ ステータス】
なまえ :ふるしちょわ さはのびっち
せいべつ :おんな
ねんれい :21さい
れべる :26
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :86
すばやさ :181
たいりょく:140
かしこさ :172
わざ :178
こうげき力:202
しゅび力 :189
E じゅうどうぎ
次回、『カナダの浮沈艦』です。活動報告で報告している通り、毎週水曜と土曜の21時に更新します。