ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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26話 帰国

~~~~日本 成田空港~~~~

 

「あ、いたいた! おーい、桐生さーん! こっちこっち!」

 

「お帰りなさい、茜さん!」

 

ドイツから日本への約13時間のフライトを終え、保安検査場を出た私の耳にそんな声が届く。今はちょうど昼時で、成田空港は大勢の旅行客でごった返していた。私がその声の方に顔を向けると、そこには柔ちゃんと、いつもの日刊エブリ―コンビの二人が私に笑顔を浮かべて手を振っている姿があった。

 

「ふふ。お迎えもいるようだし、それじゃあ桐生さん。私は関空行きの便に乗り換えるから、ここでお別れね。またいつか畳の上で会いましょう」

 

私が振り返ると、入退場ゲートの手前で足を止めた三上が私に手を振っていた。

 

「はいっ、三上さん。今回のドイツ遠征ではお世話になりました! お互い、来年のオリンピックに向けて頑張りましょう!」

 

「桐生さんと同じ階級じゃあ、私がソウルの畳の上に立つ事は無さそうだけどね。でも、桐生さんからストレッチのやり方とか払い腰の仕掛け方も教わったし、せめて国内で2番くらいにはなれる様に頑張るわ」

 

「私も負けるつもりはありませんが、誰にでもチャンスはあります。オリンピックまで、お互い悔いの無いように過ごしましょう。それじゃあ、三上さん、また!」

 

そして私は、乗り換えゲートに向かう三上の背中をしばし見送った後、柔ちゃん達の方へと足を進めた。

 

 

 

ブロロロ……。

 

日刊エブリ―スポーツの鴨田カメラマンの愛車で私達は猪熊邸に向かっている。運転席にはもちろん鴨田さん、そしてその助手席には松田さんが。そして柔ちゃんと私は、仲良く後部座席に収まっていた。

 

「柔ちゃん。それに松田さんに鴨田さんも、わざわざ空港まで迎えに来てくれてありがとうございます」

 

「良いのよ、茜さん。松田さん達、茜さんに取材したいからって車を出してくれているんだから。電話では良いって言ってたけど、本当に良かったの、茜さん? 長旅で疲れているんじゃない?」

 

柔ちゃんはそんな事を言ってくれているが、助手席で手帳とペンを手に持って今か今かと取材のタイミングを計っている松田さんの顔を見ては、断れるはずもなかった。

 

「全然大丈夫よ。フライト中はずっと寝てたし。あっ、ドイツのお土産たくさん買ってきているから、柔ちゃんにもだけど、後で松田さんと鴨田さんにも差し上げますね。自由行動を許してくれたのが、デュッセルドルフ空港でフライトを待つ短い間だけだったから、あまり変わったのは無いんだけど……」

 

「デュッセルドルフ空港でフライトを待つ間だけって……、桐生さん、大会3日目からは自由に行動できたんじゃあ?」

 

「そう言えば、俺カメラマンとしてドイツに派遣されていたけど、日本の柔道陣の中で桐生さんだけやけにガードが固くて、直接言葉を交わす機会も無かったですよ」

 

後ろを振り返って私にそう問いかける松田さんと、バックミラー越しに私に視線を投げかける鴨田さん。

 

「鴨田さん、ドイツに来ていたんですか? じゃあ、一緒の飛行機に乗って帰ってきたって事ですか?」

 

「いやいや、俺の方は世界選手権の最終戦の後、その日の最終便で日本に戻ってきたっす。試合が終わってからも宿泊させてくれるような会社じゃないんで」

 

鴨田さんの言葉になるほど、と頷きながら、私は自由行動が制限されていた『聞くも涙、語るも涙の出来事』を彼らに語る。

 

「テ……、テレシコワと戦ったの、桐生さん!? そ、それで結果は!? 結果はどうなったの!?」

 

「結果って言っても、別に審判がいたわけじゃなくてただの乱取りだから、勝ち負けはつかなかったですよ。だからそんな風にメモを取っても記事にはならないですよ、松田さん?」

 

手元の手帳に何やら書き込んでいる松田さんにそう釘を刺すが、その松田さんは「いやいや!」と首を左右に振る。

 

「今回は記事にならなくても、いつか桐生さんがテレシコワと公式戦で戦った時の事を記事にする際に、深い物語が生まれるんだよ!」

 

そう興奮気味にまくし立てる松田さんと、「深い物語が生まれるかどうかは分かりませんが、今の話しの何処に聞くも涙、語るも涙の要素があったんですか? それを言うなら、桐生さんに巻き込まれる形で自由時間が削られたその三上さんと言う女性の方では?」とのたまう鴨田さん。

 

取り敢えず鴨田さんの言葉は華麗にスルーして、松田さんの言葉に(そんなものかなー、)と思っていた私に、今度は柔ちゃんが声を荒げる。

 

「でも、試合の前日にあの人と戦うなんて、どうしてそんな危ない事を! あの人、ジョディにも怪我をさせたし、もしかしたら桐生さんも怪我をさせられてたかもしれないのよ!?」

 

おおっ? 珍しく柔ちゃんの優し気な瞳の中で、怒りの炎が揺れ動いている。もちろん、その怒りはテレシコワに向けられたものだ。ジョディの怪我は原作より抑えられていたし、どうしてそんなにテレシコワに怒りの感情を向けるんだろう、と思っていた私だったが、次の瞬間はたと膝を打つ。

 

ああ、そっか。柔ちゃんは、本当ならジョディが全治8カ月の怪我を負う事を知らないんだ。だから、全治2カ月でも十分許せないと思うのか。それに、テレシコワはジョディの痛めた足をしきりに攻撃していたし……。だけど……。

 

「うーん、でも柔ちゃん、柔道に限らないけれど、どんなスポーツでも怪我は付き物だよ。私はテレシコワと組み合ったけど、少なくとも彼女は私に対して故意に怪我をさせようという動きはしなかったよ?」

 

「でも、あの人、怪我をしたジョディの足をしきりに狙って……」

 

「あー、その試合は私も間近で見ていたけど、あれは仕方ないよ。あえて誰が悪いかって話をするなら、それは戦いの最中に怪我をしたジョディの方だよ。だって、戦いの最中に怪我なんかされて弱点を知っちゃったら、格闘技をやっている一人のアスリートとして、そこを狙わないでいられないもん。もし私が同じ立場だったら、私だって同じ攻め方をするよ?」

 

「そんなっ! 茜さんはそんな事――」

 

「いや、するよ。だって、そうしないと相手に失礼だもん。逆に私が怪我をした時、相手が手加減なんてしてきたら、私は自分から敗北を宣告するぐらい屈辱を感じると思うよ。それにね、柔ちゃん。TVでは試合の終わった後まで映していなかったと思うけど……」

 

そして私は、無差別級の決勝戦の後、畳から降りたジョディがテレシコワに歩み寄って握手を求めていた事を伝える。実のところ私は、連日グラスホフ体育館でナディアに出稽古をしてやっていた関係で、この時にはもうカナダチームの中に完全に溶け込んでいた。だから、畳から降りたジョディに肩を貸して、テレシコワの所まで連れて行ってあげたのは実は私だ。そしてジョディは、開口一番テレシコワにこう言ったのだ。

 

『試合を壊してすまなかったね、テレシコワ。この続きはソウルでやるだわさ』

 

 

「ジョディが謝った……。……それで、あの人はなんて?」

 

「ロシア語だったからその時は分からなかったんだけどね、後で確認したらテレシコワはこう言っていたみたいよ」

 

『ソウルまでにその怪我を治せ、ロックウェル。ソウルで私は、万全のお前より強い事を証明する』

 

「……だってさ。ふふふ。万全のお前より強い事を証明するなんて、かっこいい事言うよね、テレシコワ」

 

ちなみに、ジョディにそんな言葉を返した後、テレシコワが私に視線を投げかけて、これも後で分かった事だが『お前もだ、アカネ・キリュウ。ソウルで待っているぞ』と言っていたのは黙っておこう。

 

「ああ、本当にそうだね。桐生さん、それって記事には……」

 

「もちろん、駄目ー! これは当事者同士だけが知っていたらいい情報だから、オフレコでお願いしまーす!」

 

やっぱりかー、と表面上は残念そうに苦笑いをする松田さんだったが、不意に柔ちゃんが窓の向こうに広がる景色に視線を投げかけながら、溜息と共に呟いた。

 

「ソウル……か。凄いね、皆。自分の全てをかけて走り出しているんだから。茜さんも、ジョディも、その……テレシコワさんも。私なんか……」

 

「くすくす、何を言っているのよ、柔ちゃん。柔ちゃんは、今あなたが口にした皆の誰よりも早く走り出しているじゃない。5歳の時からでしょ? 本人が何処を目指して走っていたのか知らなくても、走り出していた事実は変わらないわよ」

 

「走り出していた事実は変わらない……」

 

「そうだよ、柔さん! 今、世界の強豪は皆柔さんの背中を追い求めて走っているようなものなんだ。くー、来年が待ち遠しいなぁ! 今回の世界選手権は行けなかったけど、来年こそは行くぞ!」

 

ふふふ。松田さんも期待しているし、何よりテレシコワにジョディが待っている。これは私も、やる事やらないとなぁ。

 

「……やっぱり時計の針を進めないといけないかなぁ」

 

「時計の針……? ああ、時差の事ね。ふふふ、今は午後1時38分よ、桐生さん」

 

私は柔ちゃんの言葉に「ありがとう」と返事をしながら、左手首に巻いていた機械式時計のヒューズに手を伸ばす。

 

そうして、時にインタビューに応えながら、時に世間話を交えながら、鴨田さんの運転する車は猪熊邸に向かって走っていた。

 

 

 

「いらっしゃい、桐生さん! さあ、入って、入って。あ、松田さんも良かったら一緒にどうですか?」

 

「いや、すいません、玉緒さん。俺はこれから会社に戻って桐生さんのインタビュー記事を纏めないといけないんで。桐生さん、しばらく東京にいるんだよね? 取材料はちゃんと払うから、良かったらまたどこかで時間取ってくれないかな。来年のソウルに向けた意気込みなんかも聞かせて貰いたいし」

 

猪熊邸の立派な門構えの前にハザードランプを灯して停車した鴨田さんの車から降りた私は、背後を振り返り「もちろん。1週間ほどはこちらでお世話になるつもりなので、いつでも連絡してください」と応える。

 

「松田さん、取材でしたらきちんと電話してから来てくださいね。ジョディの時みたいに、勝手に家に忍び込んできたら、今度こそ警察呼びますよ!」

 

なるほど、どうやらジョディが来日した際、松田さんは原作通り猪熊邸に不法侵入していたようだ。人差し指をぴんと立てて松田さんに釘を刺す柔ちゃんと、平身低頭の松田さんの二人を見て、私はくすくすと笑う。

 

「あはは。松田さん、私に連絡してくれたら、柔ちゃんがお風呂に入っている時に、お風呂場の窓までこっそり案内してあげますよ。取材料はきっちり貰いますけど!」

 

「――茜さん!」

 

顔を赤らめて声を荒げる柔ちゃんに、私は首を竦めながらペロッと舌を出す。松田さんは私の言葉に苦笑いを浮かべながら、それじゃあ、と皆に声をかけ鴨田さんの車に乗り込んだ。

 

 

 

「それでは、茜さんの世界選手権優勝を祝って、かんぱーい!」

 

高らかにグラスを掲げた柔ちゃんに、私も自分のグラスを掲げて重ねる。玉緒さんと柔ちゃんによる手の込んだ料理が並んだテーブルの向かい側では、滋悟郎さんが初手から秘蔵の地獄車の注がれたグラスを口に運ぶ。それをきゅー、と実に美味しそうに喉に流し込んた滋悟郎さんは、タンっと空になったグラスをテーブルに置くやいなや、私に赤ら顔を向けた。

 

「ふむ、『良くやった、桐生』、と言ってやりたいところぢゃが、桐生! あの決勝戦の体たらくは何じゃ! あのような腑抜けた柔道をしておっては、ソウルで金メダルなぞ夢のまた夢ぢゃぞっ!」

 

あいたたた……。痛い所を突かれたな。私も試合後にあの決勝戦の様子をビデオで確認したが、思わず“誰よ、こいつ?”、と頭を抱えたくなるようなひどい試合内容だった。

 

「お爺ちゃん、おめでたい席なんだから、そんな事言わなくても良いじゃない!」、「甘いわっ、柔!」というやり取りを眺めていると、玉緒さんがくすくすと笑みを浮かべながらそっと私に囁いた。

 

「ふふふ。お義父さんったら、あんな事を言っているけど、桐生さんが優勝してからずっとはしゃいでいて大変だったのよ。今日も町内会の懇親会があったのを断って、桐生さんのお祝いをするんだって言って家でずっと待ってたの」

 

「た、玉緒さん!? わ、儂はそんな事は……!」

 

滋悟郎さんがしどろもどろになって口を挟んでくる。その様子を柔ちゃんと顔を見合わせて、共に含み笑いする私達。

 

「さっ、食べて、茜さん。このブリ大根はお母さんが作ったのよ。お母さん、料理得意なんだから」

 

私は柔ちゃんに勧められた煮付けに箸を伸ばす。わっ、このブリ、ほろほろ! 大根、味しみしみ!

 

「ほんと、美味しいっ! ――! こっちの餃子も!」

 

ブリ大根に続き、テーブルの上にあった餃子と春巻きの中間のような見た目の料理に箸を伸ばした私は、そちらにも舌鼓を打つ。しかし餃子と口にした私に、柔ちゃんは苦笑いを浮かべて「……えっと、それは餃子じゃなくて、ラビオリね」と訂正する。

 

「ラビオリ? ああ、これがあの時松田さんが食べていた……」

 

「松田さんが食べた……?」

 

首を傾げる柔ちゃんに私は手をばたばたと振って、先ほどの自身の言葉を打ち消す。まずい、まずい、この世界ではまだ柔ちゃんと松田さんの仲は、ラビオリをご馳走する程までには進展していないんだった。

 

「何でもない、何でもない。気にしないで、柔ちゃん。うん、初めて聞く名前の料理だけど、美味しいわ! さすが柔ちゃん。三葉女子短大の家政科を目指しているだけの事はあるわね」

 

「そんな、私なんてまだまだよ。お母さんから和食も教わっているけど、なかなか上達しないし……」

 

「そう言えば、桐生さんも柔と同じ短大を目指しているんだったわね。受験勉強の方は順調かしら?」

 

玉緒さんのその問いに、私はふるふると首を振りながら応える。

 

「それが全然で……。だから、明日からはしばらくこちらで柔ちゃんと一緒に勉強できたらって思ってるんです。あーあ、三葉女子短大の試験に実技があったらもっと簡単に合格できたのに……」

 

「まあっ! 桐生さんは料理も得意なのかしら?」

 

「はいっ! と言っても得意なのはお菓子作りで、ちゃんとした料理はまだなんですよ! でも、同じ口に入る物だから、きっと得意だと思います」

 

こんなやり取りをしながら、楽しい食事の時間は過ぎていく。

 

そしてひとしきり団欒の時間を過ごしていた時、柔ちゃんが滋悟郎さんをねめつけながら口を尖らせる。

 

「でも、お爺ちゃんったら、私を西海大学に行かすんだって、私の受験勉強の邪魔ばっかりするのよ!」

 

「当然じゃ! 三葉女子短大などに行っては、オリンピックで金メダルなど夢のまた夢よ! お前の事は祐天寺にしっかりと言っておる。大船に乗ったつもりで、西海大学に行くがよい!」

 

料理をガフ、ガフと口に運ぶ滋悟郎さんと、その滋悟郎さんにイーっとしかめ面を向ける柔ちゃん。ああ、これは良い機会かもしれない。今回猪熊邸にお邪魔する事にした目的の内の一つをここで果たそう。そう考えた私は、お箸を箸置きに戻し、幾分姿勢を正して滋悟郎さんを直視する。

 

「茜さん……?」

 

突然姿勢を改めた私を見て不思議そうに問いかける柔ちゃんに私は言葉を返さず、ただ滋悟郎さんの目だけを見て口を開く。

 

「……なるほど、確かに西海大学は日本有数の機材とコーチ陣が揃った、柔道選手にとって最高の環境と言えるかもしれません」

 

「うむ……、その通り! 大切な孫娘を預けるのぢゃ。儂もこの目でそれを確認しておる! ぢゃからこそ儂は――」

 

「……ですが、そこには私はいませんよ、滋悟郎さん?」

 

「――!」

 

滋悟郎さんの言葉を遮り放った私の言葉に、滋悟郎さんは目を大きく見開いた。

 

「先ほどまでの会話で分かるように、私も西海大学に進学するつもりはありません。私が進学を考えているのは、柔ちゃんと同じ三葉女子短大です」

 

「……」

 

無言のままの滋悟郎さんに、私はたたみかける。

 

「西海大学の最新の機材に優秀なコーチ陣。対して、三葉女子短大で柔ちゃんと肩を並べて切磋琢磨する私。滋悟郎さんは、“柔道家 猪熊柔”にとって、どちらがより優れた環境だとお思いですか?」

 

「むうっ……」

「茜さん……」

「桐生さん……」

 

滋悟郎さんが唸り声を上げる。そして、柔ちゃんと玉緒さんが私に顔を向けて、茫然としたように私に呼び掛けるが、私は滋悟郎さんから目を逸らさない。私と彼の視線が交錯する。それは、両者の間で激しい火花がぶつかっているのが見えるかのようだった。

 

……が、不意にその火花は、滋悟郎さんの口から漏れた深いため息によってかき消されて収まる。私から視線を剥がした彼は首を左右に振りながら腕を組んだ。

 

「ふーー。『自他共栄』を胸の内に刻んでおりながら、それを指摘されるまで気づかんとは。儂も耄碌したかの」

 

「自他共栄……。たしか、嘉納十段が生前に残された言葉ですね」

 

「そうじゃ。『自他共栄』。互いに信頼し、助け合う事ができれば、自分も他者も共に栄えることができるという意味じゃ。 まさに今のお主と柔の関係と言って良いぢゃろう」

 

滋悟郎さんは私から視線を剥がし柔ちゃんに顔を向ける。

 

「……柔よ。良い友人を持ったな。その娘と共に柔道に励むのであれば、三葉女子短大に行くのを許可してやらんでもない」

 

「ほんとっ、お爺ちゃん!?」と喜色を浮かべる柔ちゃんに滋悟郎さんは、「――ただしっ!」と続ける。

 

「ただしっ! 条件がある! まず、三葉女子短大に入学した暁には、柔道部を設立しその部に所属する事!」

 

「何よそれっ――「異議なし!」」

 

元よりそのつもりだった私は、抗議の声を上げようとした柔ちゃんの言葉を遮り、ばっと右手を上げて賛同する。柔ちゃんはそんな私をしばし凝視した後、最後には諦めたのか、「ははは……」と乾いた笑いを浮かべた。柔ちゃんが同意した事で、滋悟郎さんは更に続ける。

 

「そして、もう一つ! 桐生よ、時にお主、東京での住まいは決まっておるのか?」

 

「え……、住まいですか? いやー、正直な所、今は受験勉強に必死でそんな事を考えている余裕が無いですね。まあ、合格発表を確認してから、大学の寮か何処かを探すつもりでいましたが……、それが何か?」

 

滋悟郎さんの問いかけの意味が分からず首を傾げながら問い直す私。そんな私に、滋悟郎さんは「ふふふ」と笑みを浮かべる。

 

「探す必要なぞ無いわ。桐生、お主、ここに住めばよいでは無いか」

 

「ここって……。――! え、まさか、私に猪熊邸に寄宿しろって言っているんですか!?」

 

私の言葉に、滋悟郎さんは「然り」とばかりに深く頷く。え、良いの、それ? そりゃあ、私からすれば猪熊邸にお世話になるのはメリットしかない。プライベート道場もあるし、衣食住が確保されている。そして何より、あの猪熊柔と毎日練習に勤しむ事ができる。

 

そこまで考えた時、私は滋悟郎さんの狙いに気づいた。私が滋悟郎さんに顔を向けると、彼はニマッと悪い笑みを浮かべていた。

 

「そう言う事ぢゃ。お主がここに住んでおれば、家でも大学でも柔の良い練習相手になるではないか。どうぢゃ、柔。それに玉緒さんや?」

 

滋悟郎さんに水を向けられた二人は、しばし見つめ合った後それぞれ口を開いた。

 

「わ、私は茜さんさえ良いのなら良いけど……。でも、なんだかお爺ちゃんに上手く丸め込まれたみたいでちょっと……」

 

「お義父さん、私は桐生さんさえ良かったら反対しませんよ。柔の事をこんなに想ってくれる友人ですもの。私としては柔の良い友人が近くにいてくれることは、願っても無い事と思います。ですが、大切なお嬢様を預かるのですから、こんな大事な話、私達だけで決めるわけにはいきませんよ。一度桐生さんにはご両親に相談していただいて、その上でご両親の承諾を貰ってから、この話は進める事にしませんか」

 

「うむっ、玉緒さんの言う事、もっともぢゃな。では、桐生。秋田に帰ったら両親に確認しておくという事でよいな?」

 

「はいっ! ご好意ありがとうございます。両親に許可を貰いましたら、改めてご連絡します」

 

「ふふふ。それも良いけど、まずは桐生さんもお勉強を頑張らないとね。明日から柔と一緒に勉強するんでしょう? 二人仲良く合格するように、頑張ってね」

 

そうだった。合格する事前提で話を進めていたが、柔ちゃんはともかくとして、私の合格にはまだまだ黄色信号が点滅しているのだ。

 

「……柔ちゃん。参考書持って来てるんだけど、分からない所教えてくれる?」

 

「もちろん! 私も英語の文法で分からない所があるの。一緒に勉強しましょう」

 

 

 

そうして私達は、短い時間だが束の間の勉強合宿を、ここ猪熊邸で行うのだった。

 




ラビオリ。原作で松田さんが柔ちゃんの手料理を美味しそうに食べるシーン。すごく好きでした。あのシーン、もう少し続けばよかったのに。
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