ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
~~~~猪熊邸 7日目~~~~
「ああ、そこはね、have been じゃなくて、仮定法過去だからhad been になるのよ」
「あ、そっか。じゃあ、この場合だと……」
「そうそう、柔ちゃん、出来るじゃない。あっと、私も教えてくれない? この三角関数って、どうやったら解いたら良いの?」
「あ、そこはね、三平方の定理を使ってこうすれば……」
「あー、疲れたぁ! もうげんかーい! 休憩しよ、休憩!」
「そうね、もうこんな時間。ちょっとお茶にしようか、茜さん」
私達がそんな会話を柔ちゃんの部屋で交わしていると、コンコンとドアをノックする音と共に、玉緒さんの声が聞こえてくる。
「柔、桐生さん。紅茶を入れたから、ちょっと休憩したらどう?」
「ありがとう、お母さん。ちょうど一休みしようとしていたところなの」
立ち上がった柔ちゃんがドアを開けると、そこにはお盆を手にした玉緒さんが笑みを浮かべて立っていた。私も「ありがとうございます、玉緒さん」とぺこりと頭を下げる。
「良いのよ、桐生さん」と、玉緒さんは参考書が置かれた机の隙間にティーカップを並べていく。そして私達の間にそっと腰を降ろした玉緒さんは、「明日には桐生さんは秋田に帰るのよね。寂しくなるわ」と零す。
「お世話になりました。でも、来年の4月にまた来ますよ、玉緒さん」
「そうね、そのためにこんなにお勉強を頑張っているのよね。ふふふ、二人そろって三葉女子短大に合格すると良いわね」
玉緒さんはふうっと溜息を吐きながら、もうすっかり夜の帳の降りた窓の向こうに視線を投げかける。
「……柔がこんなに頑張っているのに、あの人は今何処にいるのかしら?」
その誰に問いかけたわけでもない呟きを耳にした私は、虎滋郎さんの事をこれまで黙っていた事の罪悪感に包まれた。
「あら、邪魔をしてはいけないわね。頑張ってね、二人とも」の言葉を残し、玉緒さんがそっと立ち上がる。その所作を見つめていた私は、思わず玉緒さんの小さな背中に声を投げかけていた。
「――あの、玉緒さん!」
「……どうしたの、桐生さん?」
私の制止の言葉に玉緒さんが振り返る。そのまま私が二の句を告げずにいると、玉緒さんは首を傾げる。
「あの、虎滋郎さんの事で玉緒さんと、柔ちゃんに伝えておくことがあるんです。聞いていただけますか?」
私のその言葉に、玉緒さんと柔ちゃんは驚きのあまり目を大きく見開いた。
「……というわけで、夏休みに入る前に、秋田東工の柔道場に虎滋郎さんは現れました。本阿弥さやかと一緒に。伝えるのが遅くなってごめんなさい……」
先月の虎滋郎さんとの高校でのやり取りを説明しこれまで伝えなかった事を詫びた私は、肩を縮めながら二人の様子を上目遣いに見つめた。電話で話せる内容では無かったという事は理解してもらえるかもしれないが、ここでお世話になってもう7日。その間、いくらでも打ち明けられる機会はあったのに、打ち明けられなかった事は言い訳のしようがない。
実際私は、玉緒さんの虎滋郎さんを案じる姿を見るまで、打ち明ける事への決心がついていなかった。
だって、事が事だ。自分の父親が本阿弥さやかと行動を共にしていたなんて、どう考えても『虎滋郎さんは自分を倒すために家に帰って来ないんだ』と、家族思いの柔ちゃんなら考えてしまうだろう。
そして私のその想像は正しかった。柔ちゃんはそっと視線を膝に落とし、ポツリとこぼした。
「お父さん……、さやかさんのコーチをするなんて、そんなに私に投げられた事が許せないのかな。家族がこんな風にばらばらになるのなら、柔道なんてやらなかったら――」
「――それは違う!」
「――!」
思わず声を荒げた私に、柔ちゃんは俯いていた顔を上げて私を見つめる。私を見つめる柔ちゃんの目には、涙が滲んでいた。どう伝えたら良いだろう。どう伝えたら、分かってくれるだろう……。苦悩する私の視界の端に、柔ちゃんの部屋の隅に綺麗にたたんで置かれた柔道着が映る。
「柔ちゃんは……、ううん、柔ちゃんだけじゃない。滋悟郎さんも、虎滋郎さんも、玉緒さんも、猪熊家の皆は柔道で繋がっているのよ。まるで一本の柔道の帯を、皆がそれぞれ握っているみたいに」
「柔道の帯を皆が握っている……」
「そう、柔道が家族をばらばらにしたんじゃない。柔道が、家族がばらばらになるのを防いでいるんだよ」
「でも……、でも……、お父さんは私を倒すために修業の旅に出たし、さやかさんにコーチだって――」
「ねえ、柔ちゃん」と、私は柔ちゃんの言葉を遮る。
「虎滋郎さんが修業の旅に出たのは、天才という存在に凡庸な人間がどう立ち向かうのかを、彼なりに突き詰めたかったからよ。それはある意味、柔ちゃんが虎滋郎さんを次のステージに登らせたとも言えるわ」
柔ちゃんが私の言葉になおも何かを言いたげに口を開きかけたが、私はそれを手で制止する。
うん、分かってるよ。それを一切家族に伝えずに、ある日ぱったりと家を出た虎滋郎さんを擁護してあげるつもりは、私にはさらさらない。『お前は天涯孤独の求道者か!?』って、本当に罵倒してやりたくなる愚行だ。
ただ、この場にはそんな虎滋郎さんに今でも変わらぬ愛情を注いでいる玉緒さんがいる。だから私は、心の奥底にあるその思いを幾分オブラートに包みながら、慎重に言葉を選ぶ。
「確かに虎滋郎さんは説明不足だったと思う。家庭を持つ身で軽率な行動だったのかもしれない。でも、柔ちゃんが虎滋郎さんを投げ飛ばしたあの経験が、虎滋郎さんの人生観を変えたの。それは虎滋郎さんに取っては天啓を得たように感じるほどの感動だったんじゃないかな」
私としては、柔ちゃんと玉緒さん双方の感情に配慮しながら言葉を尽くしたつもりだったのだが、もしかするとそれがいけなかったのかもしれない。
「――そんなのっ、そんなの勝手だわ!」
突然柔ちゃんは立ち上がり、私が止める間もなく、部屋から飛び出していってしまった。
「「柔っ!/柔ちゃん!」」
私と玉緒さんの言葉が重なるが、もう柔ちゃんの姿は私の視界に映っていなかった。
……ああ、失敗した。玉緒さんの心情を慮ったばかりに、柔ちゃんに対して適切なタイミングで切り出す事が出来なかった。やっぱりこれを口にするタイミングは今じゃ無かったか……。いや、そもそも根ががさつな事を多少は自認している私が、こんなセンシブルなやり取りが出来るはずがなかったのだ。
「柔……」と、制止のために伸ばしていた手をそっと胸元に引き戻し、部屋から飛び出していった柔ちゃんを気遣う素振りを見せる玉緒さん。そんな玉緒さんに私は頭を下げる。
「……ごめんなさい、玉緒さん。私が余計な事を言ってしまったばかりに……」
「いいえ、桐生さんのせいでは無いわ。それより、私は桐生さんに感謝しているのよ」
物憂げな表情で、階下に駆けて行った(階下の玄関の方から、扉が開く音が届いたのでおそらく家から飛び出したのだろう)柔ちゃんを見つめていた玉緒さんが、私を振り返りふるふると首を振る。
「桐生さんを通じてだけど、あの人が家を出て行った理由がはっきりと聞けて良かったわ。ずっとそうだろう、って思ってたんだけど、ようやく答え合わせが出来た気がするわ。ありがとう、桐生さん」
そしてうなだれる私の手を取って、玉緒さんは私の顔を覗き込むようにしながらもう一度「ありがとう、桐生さん」と優しく声をかけてくれる。
「でも……、柔ちゃんは……」と呟く私に、玉緒さんは笑顔で「大丈夫!」と太鼓判を押すように頷いた。
「柔も頭では分かっているのよ。それに、桐生さんからあの人が家を出て行った理由を聞かされて、ほっとしてもいると思うわ。ただ、今は突然の事に混乱しているのよ。頭を冷やしたら、きっと恥ずかしそうに帰ってくるわ」
そうなんだろうか……。本当にそうだと良いけど。またぞろ柔道をやめる、なんて言い出さなければ良いんだけど……。そんな事を考えていた私は、一つ思いついた事があり、ばっと顔を上げた。
「玉緒さんっ、電話をお借りしても良いですか!?」
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キィ……、キィ……。
砂場と水飲み場、そして2対のブランコだけがぽつんと置かれている、夜陰に染まった小さな公園。ブランコの側に佇む無機質な水銀灯の光だけが、その夜の公園の風景を青白く照らし出していた。
キィ……、キィ……
金属と金属がこすれあう規則正しい音。それは、錆びた鉄のブランコが揺れる音。そのブランコの一方に、一人の女性が俯き加減に腰かけていた。地面に視線を落とす彼女の足が時折その地面を蹴る度に、ブランコは鈍い音を立てながら僅かに前後に揺れる。その微かに揺れる振り子に似た動きは、まるで彼女の心の葛藤を現しているかのようだった。
家を出た父への想い……。かつて自身が父に取ってしまった行動への後悔……。自身を想ってくれる友人の言葉……。その友人と出会う機会を与えてくれた柔道への鬱積した想い……。
その感情はとても一つの方向に向かっていかない。右へ行ったかと思うと、左へ。前へ進んだかと思うと、後ろに戻る。彼女の心は今、千々に乱れていた。
どれほど時が過ぎただろうか……。乱れる心を落ち着かせようとするかのように、彼女は視線を落としたまま首を左右に振った。はらっと落ちた髪のひと房が彼女の耳をそっと凪いだ時、その耳が彼女の名を呼ぶ声をはっきりと捉えた。
「柔さん……」
視線を上げた彼女の朧げな瞳に映っていたのは、彼女の良く知る大人の男性の姿だった。
「松田さん……」
彼女にそう言葉を投げかけられた松田耕作は、案じていた女性の無事な姿を見て、「はぁーーー」と深い深い息を吐きながら、両手を膝について彼女に笑顔を向けた。
「良かった……。心配したんだよ、柔さん……」
その自身に向けられた心から安堵したかのような感情を顔に浮かべた松田耕作を見つめた猪熊柔は、千々に乱れていた感情がどういうわけか、束の間その動きを鈍化したように感じていた。
「桐生さんから事情は聞いたよ、柔さん……」
猪熊柔同様に隣のブランコに腰かけた松田耕作は、明後日の方向に視線をやりながらそう口にした。猪熊柔はその言葉に直接的には言葉を返さず、無言のままさきほどまでより少しだけ強く地面を蹴った。
キィ……、キィ……。
そして、錆びたブランコの発する金属音で心をカモフラージュした猪熊柔は小さな声で呟く様に、その重い口を開いた。
「私……自分の気持ちが分からなくなったんです……」
松田耕作は顔を右隣の猪熊柔に向けるが、言葉は発さずただ彼女の言葉の続きを待つ。
「茜さんの言葉は頭では理解出来ているんです。でも、でも……っ! 全部、全部、柔道が中心なのが納得できなくて! お父さんが出て行ったのも、お母さんがそれを追いかけて家を空けてばかりなのも! お爺ちゃんが私に修業をつけるのも! ――私が普通の生活を送れないのも!」
「柔さん……」
気づかわし気な視線を投げかける松田耕作に、猪熊柔は頭を振って再び声を荒げる。
「分かっているんです。柔道が悪い事だけを運んできたわけじゃ無いって事は! 茜さんに会えたのも、ジョディに会えたのも、私が柔道をしていたから。花園君達柔道部の皆と一緒になって笑えたのも、柔道があったから! だけど……、だけど……!」
再び視線を落とした猪熊柔の足元の地面に、ぽつ、ぽつと黒い染みが沁み込んでいく。その様子をそっと見つめていた松田耕作は、視線を星が瞬く夜空に投げかけた。
「そうだね……。良くも悪くも、柔さんの家は柔道とは切っても切り離せないんだろうね。……だけど柔さん、俺はこれまで記者として多くのアスリートと接してきた。そのアスリートの中には、成績が伸びない、過酷なトレーニングに根を上げる選手もいたし、中には重い怪我を負って日常生活にも支障が出るような選手もいた……」
その朴訥とした松田耕作の言葉に、猪熊柔は顔を覆っていた手を剥がし、彼の方に視線を向ける。
「だけど、そんな彼らは俺が『それでは、あなたはその競技に人生を捧げた事を後悔していますか?』という問いに、決まって首を振るんだ」
「……」
無言のまま続きを促す猪熊柔を横目に見ながら、松田耕作は続ける。
「皆……、少なくとも俺が取材をしてきた彼らは皆、俺のその問いに首を振りながら続けるんだ。『確かに辛い。だけど、自分の人生からこの競技が無くなる方がもっと辛い』って。皆口にする言葉はそれぞれ違うけれど、言っている事はだいたいそんな感じだな」
「……どうして? どうして、その人達はそう言えるの?」
猪熊柔の問いに、松田耕作はそのやり取りを思い出すかのように、顎に手をやった。
「ある人は、もう自分の血肉に等しいからだ、と笑っていたな。またある人は、辛い練習のその先にある感動を知ってしまうともう戻れないとも言っていた。多分その人達は……」
そこで言葉を区切り、松田耕作は猪熊柔と視線を合わせて続ける。
「多分その人達は、
松田耕作の言葉に、猪熊柔は再び視線を足元に落とす。
「……それじゃあ、私にはその人達の気持ちは分かりませんね。私は、柔道に真摯に向き合っていませんから」
「いや、柔さん以上に柔道に真摯に向き合っている人なんていないだろう」
「え……?」と、再び顔を上げた猪熊柔に、松田耕作は朴訥と彼女に寄り添うように語りかける。
「君は幼い頃から柔道に打ち込み、皆が根を上げるような稽古をしてきたじゃないか」
「でも、あれはお爺ちゃんに無理やり――」と応える猪熊柔の言葉を遮り、松田耕作は続ける。
「本当に……? 本当にそれだけで多感な10代の時期に柔道に打ち込んでいられるものかい? 本当は、柔さんも分かってたんじゃないのかい?」
「……私が、何を分かっていたというんですか?」
「柔道が、……柔道こそが、ばらばらになりかけている猪熊家を繋いでくれているって。違うかい?」
違う、と言いかけて、猪熊柔は口ごもる。本当に……? 本当に違うのだろうか。猪熊柔はそう自問する。その様子を静かに見つめていた松田耕作は、彼女の自問に対する答えにスポットライトを与えようとする。
「柔さんが本当に柔道が家族をばらばらにした原因だと思っていたのなら、物心がついたら柔道から距離を取るんじゃないかい? いくらお爺さんに言われたとしてもね……。だけど君は柔道を続けた。それは、本当は心の奥底で分かっていたからじゃないのかい?」
松田耕作は、猪熊柔の自問に対する答えは示さない。あくまで決めるのは彼女だと考えているから。ただ、彼は猪熊柔が答えを探しやすいよう彼女の思考の先を照らそうと、彼女の隣に寄り添っていた。そして、その照らされた先に、彼女は自身でも気づいてなかった、いや、とうに気づいていたが意図して光を当てず隠していた答えを見つけた気がした。
再び彼女の足元に黒い染みが生じる。しかし、その染みは先ほどのものとは意味を違えていた。
「……そう、だったんですね。私、とっくに分かっていたんですね。どうして……どうしてそんな大切な事を、私は忘れていたんでしょう……。茜さんや松田さんに示されて気づくなんて……」
「……俺や桐生さんがいくら示しても、意味が無いんだと思うよ」
「え……?」と、涙で滲んだ瞳を松田耕作に向ける猪熊柔。その瞳を正面から受け止め、松田耕作は続ける。
「大事なのは、柔さん自身が答えを掴み取る事だったんじゃないかな。俺や桐生さんがどれだけ言葉を尽くしても、柔さんが自分自身に問いかけて導き出した答えこそが全てなんだよ。だって、その問いは柔さんでなければ、絶対に解けない問いなんだから」
猪熊柔は、松田耕作の言葉を噛みしめる様に、胸に手を置きそっと瞼を閉じた。この時、彼女の胸中には様々な感情が入り乱れていた。私を信じて真実を告げてくれた友人への感謝と謝罪の想い、不器用な父に対する憤りの想い。
そしてまだ小さい灯ながら、子供扱いするのでなく、自分自身の手で答えに辿り着くまで側で見守ってくれていた男性に対する感謝の想い、私もいつかその男性が悩んでいる時に寄り添ってあげたいという想い。その役割を誰にも譲りたくないというとても小さな想いもあったのかもしれないが、その想いはまだ彼女自身気づいていなかった。いや、これも気づいていながら、現時点では無意識に光を当てていないだけなのかもしれない。
溢れる思いを飲み込み、猪熊柔は先ほど松田耕作がしていたのと同じように、星が瞬く夜空を見上げた。そうして一度深く深呼吸をした彼女は、隣で気づかわし気な視線を投げかけている松田耕作に対して、今の彼女に出来る精一杯の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、松田さん。私、やっと自分の気持ちに気づけたような気がします。松田さんのお陰です。……本当にありがとうございました」
心配そうな表情を顔に浮かべていた松田だが、どこか吹っ切れた様子の彼女にようやく安堵の笑みを浮かべる。
「俺は……何もしてないよ、柔さん。最初から柔さんは分かってたんだよ。でも、気持ちの整理がついたのなら、そろそろ戻らないかい? 桐生さんも玉緒さんも、きっと柔さんの事を心配しているよ」
「はいっ!」
猪熊柔は勢いよく地面を蹴り込み、彼女の乗ったブランコが最も高い位置に達した瞬間に、エイっとばかりに飛び降りた。その様子を見ていた松田耕作も彼女と同じ事をしようとしたが、生来の運動神経の差なのか彼は思わず前のめりに倒れそうになる。
咄嗟に「大丈夫ですか?」と、今にも転がりそうだった松田耕作の身体を支える猪熊柔だったが、その後至近で顔を合わせた二人は、どちらからとなく声に出して笑い合うのだった。
狙っていたわけではありませんが、今日はバレンタイン。二人に幸あれ。