ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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28話 桐生茜の置き土産

~~~~猪熊邸~~~~

 

「お帰り、柔ちゃん!」

 

柔ちゃんの突然の失踪からかれこれ2時間弱。猪熊邸の立派な門構えを潜って姿を現した柔ちゃんに、私は思わず飛びついていた。

 

「きゃっ! もうびっくりしたじゃない、茜さん。……ごめんね、茜さん。私……」

 

私が飛びついた事で少しだけ後ろに体重をかけた柔ちゃんだったが、そこは“天才”猪熊柔。直ぐに態勢を整え、柔ちゃんの胸に飛びついた私を軽く抱きしめてくれる。既にお風呂に入っていたためか、柔ちゃんの身体からふわっと石鹸に似た匂いが漂い、私の鼻腔をくすぐる。同じ入浴剤を使っているはずなのに、どうして私とこうまで異なるのか。これが隠しきれない女子力の違いか? いや、そんな事よりさっきの事を柔ちゃんに謝らないと。

 

「ううん、良いの。良いのよ、柔ちゃん。こちらこそごめんね、柔ちゃん。柔ちゃんの気持ちも考えずに突然の話で驚いたよね……」

 

「謝らないで、茜さん。私、茜さんには感謝してるの。本当よ。ただ、一度にいろんな話を聞いて、頭がこんがらがってしまって。だからつい飛び出しちゃったの。心配かけてごめんね、茜さん。それに……お母さんも」

 

柔ちゃんが私の後方に視線を投げた気配を感じた私は、柔ちゃんから身体を離し、彼女の母にその場を譲る。

 

「お帰りなさい、柔。もう気持ちの整理は出来た?」

 

「うん、もう大丈夫。お父さんの事も、まだ全部が納得できたわけじゃないけど、多分大丈夫……」

 

二人の抱擁を見つめながら、私はこんなことを考えていた。今回の件、私が拙速に事を運びすぎた事も駄目だったのだろう。だけど、一番の思い違いは、柔ちゃんが抱く父虎滋郎さんへの感情の読み違いだ。

 

私は、家庭を顧みず求道者のような行動を取る猪熊虎滋郎を明らかに“あんたが悪い。あんたが全ての元凶だ”と断罪できる。実際私は、家庭を育みながら好きな事に没頭する選手を今世でも前世でもたくさん見て来て知っている。それを、家庭を捨てるような真似をして、好きな事だけに没頭するなんて。

 

だけど、その私の想いは柔ちゃんとは共有しなかった。彼女は父である虎滋郎さんを責められないのだ。父への深い愛情ゆえに。だから彼女は別の所に原因を求めた。原因の無い所に原因を求めるから混乱するんだ。

 

「あの……お母さん。お爺ちゃんは……」

 

「ふふ。お義父さんなら、まだ源さんの家から戻ってきていないわ。だから今日の事は私と柔、それに桐生さんだけの秘密にしましょう」

 

良かった。心の奥底の部分ではまだ葛藤もあるんだろうけど、私の見る限りでは柔ちゃんは落ち着いているようだ。そんな事を私が考えていると、猪熊邸の立派な門構えの向こう側から控えめな声がかけられた。

 

「あの……柔さん。もう夜も遅いから、俺はこれで帰らせてもらうよ」

 

その声の正体は、松田さんだった。その声を聞いた私は、メダパニ状態に陥った柔ちゃんを回復させるのに一躍買った正体にようやく思い至った。

 

「待って、松田さん。私、ちゃんとお礼も言えていないので、入って来て下さい」

 

「まあ、松田さん! そんな事をおっしゃらずに、どうぞ入ってらして!」

 

二人に手を引かれて、及び腰で猪熊邸の敷居を跨ぐ松田。そんな松田さんに私は、思わず「松田さん、グッジョブ!」と飛びつく。

 

「えっ!? ちょっ!? ち、近いっ! 近いって、桐生さん!」

 

松田さんの狼狽する声が私の頭上から届く。何故なら私は、私より上背のある松田耕作の胸に飛びつき、その手を彼の背にぎゅうっと回していたからだ。ブラもつけず、猫の柄がプリントされた黒いTシャツの下で私のさほど大きくもない双丘がむぎゅッと形を変えている事に気づくが、喜びを表現するのにそんな事は些細な事だ。

 

「やっぱり柔ちゃんには松田さんだね! 偉い、偉い。私が誉めてつかわそう♪」

 

私は、どうにかして私から距離を取ろうとする松田さんの頭を今度は胸に抱きかかえて、その頭をなでなでする。この世界で彼は私より年上だが、前世から彼を知っている私には、彼は手のかかる弟のような存在だ。その弟が男を見せたのだ。姉である私が、彼を労ってあげるのは何もおかしなことではない。たとえその弟がヘッドロックされながら私の胸元で顔を赤くして「ちょっと! 桐生さん! 君も女性なんだからもう少し慎みを……!」と騒いでいてもだ。

 

だが、その何もおかしなことはないと考えていたのは、どうやら私だけだったようだ。

 

 

「もう! 茜さん、くっつきすぎ! 松田さんも離れて!」

 

微笑ましい姉弟のやり取りに突然乱入したのは柔ちゃんだった。彼女は、“どこにそんな力が?”と不思議に思うほどの力で松田さんの首に回した私の左腕のロックを力任せにほどくと同時に彼の腕を引き、私から松田さんの身体を引き剥がす。

 

「まあ、まあ。ほほほ……。若いって良いわねぇ。私の昔の頃を思い出すわ」

 

そんな玉緒さんのある意味空気を読まない笑い声が猪熊邸の敷地内に木霊する中、私は柔ちゃんに苦言を呈する。

 

「もうっ! せっかく柔ちゃんの白馬の王子様になった松田さんを誉めていたのに、何するのよ、柔ちゃん?」

 

「は、白馬の王子って……。ま、松田さんはそんなんじゃぁ……。――! そ、そんな事より、茜さん! 前から注意しよう、しようと思っていたけど、茜さん、ちょっと自分が女の子って言う自覚が無さすぎよ!」

 

私の言葉に頬を赤く染めていた柔ちゃんだったが、「――そんな事より!」と、私に血相を変えて食って掛かってくる。

 

「えー、そんな事無いよ? 私、トイレに入る時はちゃんと女子トイレに入るし、更衣室だってちゃんと女子用を使うよ?」

 

部活動中に男子用更衣室で着替えようとしていた事をおくびにも出さずに私は柔ちゃんに反論するが、それは彼女の望んでいた答えでは無いようだった。

 

「そんなレベルの事は言っていないわよ! だいたい、先週の世界選手権だって、茜さん、すっごくHな写真を撮られてたでしょ!?」

 

ああ、確かに……。国内に戻り猪熊邸で見せてもらうまで知らなかったが、私とフルシチョワの決勝が行われた翌日のスポーツ新聞の何誌かに、私が大きく柔道着をはだけていた姿を捉えた写真が掲載されていた。その中にはご丁寧に、カラー写真と共に『これが日本の誇る“赤毛の怪物”のたわわだ!』という見出しがついていた紙面もあった。

 

「……そう言えばあったね。怪物だなんて失礼しちゃうわよね。どうせなら“赤毛の妖精”とかにしてくれたら可愛いのに……」

 

私のその不満げな言葉に、松田さんからは「いや、問題はそこじゃないから」と突っ込まれ、柔ちゃんは「はー―」と深いため息をつきながら額に手をやり、私に呆れた表情を向けた。

 

「……良い、茜さん? 男の子は直ぐにそう言う所ばかりに目が行くんだから、もう少し慎みを持たないと駄目よ。いくら柔道着の下にTシャツを着ていても、この間みたいに無造作に隙を見せちゃ駄目。後、過剰なスキンシップも……

 

最後の辺りはよく聞き取れなかったが、その前の苦言はしっかりと耳にした私は「でも……」と反論する。

 

「でも、柔ちゃんはTシャツどころか、柔道着の下にブラのままで男子と試合をした事があるじゃない。それに比べたら、Tシャツを着ていた私は、まだ慎みがあったと言えるんじゃないかしら」

 

直接見聞きしたわけでもないが、きっと原作通り柔ちゃんはあの花園君達に巻き込まれたイベントはこなしていたはず(名前は忘れたが、西海大学でそれらしき学生もいたし……)だと当たりをつけた私の言葉は、間違っていなかったようだ。柔ちゃんは私の言葉に、ボンっと音を立てるかのように顔を真っ赤にする。

 

「――!? ど、どうして茜さんがそんな事を知っているのよ!?」

 

「えっ!? 柔さん、そんな事してたの!? くー、知っていれば俺も……!」

 

「――知っていれば俺も、何ですか、松田さん!?」

 

「あ、い、いや、な、何でもない!」

 

松田さんの失言に食って掛かる柔ちゃんの様子が可笑しく、私は玉緒さんと一緒になってクスクスと笑みを浮かべる。

 

ひとしきりそんなやり取りを猪熊邸の敷地内で行っていたが、突然玉緒さんがパンっと手を打ち鳴らして皆を見渡した。

 

「さあ、もう夜も遅いわ。ここでこうしていてお義父さんが帰って来たら大変だし、この辺りでおしゃべりもお終いにしましょう。松田さん、改めて柔をありがとうございました。今度お礼にお食事でも一緒にどうですか?」

 

「えっ、あ、い、いえ、どうぞお気になさらず! それじゃあ、俺はこれで帰ります。柔さん、桐生さん、それじゃあ、また明日! お休みなさい!」

 

明日秋田に帰る私を柔ちゃんと一緒に東京駅まで見送りに来てくれる事になっている松田さんはそう皆に挨拶し、踵を返して去って行く。柔ちゃんは一瞬引き留めるような素振りをしたが、すぐにその手を引っ込め、去って行く松田さんに一人ペコリと頭を下げて見送った。

 

 

 

~~~~猪熊邸 柔の自室~~~~

 

「ごめんね、柔ちゃん。聞きたくなかった事を聞かせちゃって……」

 

「ううん、こちらこそごめんなさい。私、茜さんには感謝しているの。本当よ。さっきは混乱しちゃったけど、今では、お父さんの言葉を聞かせてくれて、本当に嬉しく思っているわ」

 

柔ちゃんの部屋に敷かれたカーペットの上に布団を敷き、そこにごろんと横になっていた私がそう言葉を投げかけると、ベッド上から柔ちゃんの声が届く。そのシチュエーションは、4月に柔ちゃんと初邂逅したあの日の夜と全く同じだった。

 

「でも、あのさやかさんが本当にお父さんに師事しているのかしら? お父さん、あまり女性の気持ちが分かるタイプじゃないと思うんだけど……」

 

「どうかしら? あのお嬢さん、見た目より根性があったから、案外うまくやっているのかもしれないわよ。何よりあの子、打倒猪熊柔に燃えているから」

 

私の言葉に、柔ちゃんは顔をしかめて「えぇ……」と心底嫌そうな声を出す。うん、嫌がる気持ちはよく分かる。だけど、彼女は原作では間違いなく国内における猪熊柔の最大のライバルだった。もうあの執着は諦めてもらうしかないだろう。

 

そして私はそのまま、先ほど詳しく説明できなかった秋田東工での彼らとのやり取りを口にする。

 

「え、お父さん、時々私の様子を見に来てくれていたの?」

 

「うん、虎滋郎さんはそんな事を言っていたよ」

 

私の肯定の言葉に、柔ちゃんは嬉しそうに「そうなんだ……。お父さん、来てたんだ。声をかけてくれたら良かったのに……」と、はにかむ様な笑みを、オレンジ色の常夜灯に照らされた薄暗い部屋の中で浮かべる。その様子を見ていた私は、いつぞやの虎滋郎さんとのやり取りを思い出し、胸の内にどす黒い炎が灯ったのを自覚しながら言葉を続けた。

 

「柔ちゃん、虎滋郎さんを見ているはずだよ。ほら、学校からの帰り道、友達と後ろを振り返ったら、電柱の影で立ちションしていたおじさんがいた記憶が無い?」

 

「た、立ちション……って……。え……。もしかして、そのおじさんって、ベレー帽みたいな帽子を被った?」

 

「そう、それ! そのベレー帽を被った立ちションおじさんが、虎滋郎さんだよ! ほら、柔ちゃん、ちゃんと見てるじゃない! サイテーって言葉まで虎滋郎さんに投げかけてたらしいし、これはもう会話を交わしているのと一緒よ!」

 

私の言葉に柔ちゃんは虚無を見つめる様に天井に視線をさ迷わせた後、茫然と呟いた。

 

「そ……そうなんだ……。あれがお父さん……。ごめん、茜さん。さすがにそれは聞きたくなかったわ……。ていうか、どうしてそれを私に?」

 

どうして私に? そんなの決まっている。あの日猪熊虎滋郎にしてやられた事に対する、私の彼に対する意趣返しに他ならない。もちろん猪熊虎滋郎は私に対して立ちションをする振りをして娘の視線をやり過ごしたなんて事は言っていない。言っていないが、知っているんだ。うふふ、これは原作知識がある私だけが出来る彼に対するちょっとした復讐だ。

 

「あの立ちションおじさんが……お父さん……。立ちション……。お父さん……」

 

まだショックから立ち直れていない様子の柔ちゃんはベッドの上で呻くようにそう呟いてる。その様子を見て私は、ようやく猪熊虎滋郎にしてやられた事に対する溜飲が下がる思いでいた。

 

 

 

~~~~翌朝の東京駅~~~~

 

「桐生さん、奥羽本線は12番ホームからみたいだ」

 

「12番って事はあの改札口を通って右に行った所ですね。ありがとうございます、松田さん」

 

ひと騒動があった翌日、私は松田さんと柔ちゃんと一緒に東京駅まで来ていた。もちろん彼らの目的は私の見送りだ。私は見送りなんて別に良いって言ったのに、二人ともそれぐらいさせて、とここまで付いてきてくれた。

 

今はもうすぐ学生にとっての夏休みが終わりを迎える8月の下旬。もうすぐ昼時になる平日の東京駅は、周囲を行き交うサラリーマンや家族連れでごった返していた。

 

「はい、茜さん。お土産、忘れないように渡しておくね」

 

大きな旅行鞄を抱えた私に代わってお土産のたくさん詰まった紙袋を持っていてくれていた柔ちゃんから手渡されたそれを、礼を言いながら受け取る。今日の柔ちゃんは可愛らしい白を基調としたワンピースで決めている。柔ちゃんは私を見送った後、昨日のお礼という理由をつけて松田さんにお昼ご飯をごちそうするつもりらしい。

 

(やっぱりこの間買ってもらったこの服が良いかしら……?)とぶつぶつ呟きながら、外行きの洋服を選ぶのに時間をかけていた様子から、柔ちゃんがそれを密かに楽しみにしている事に私は気付いていた。

 

ふふふ、良い傾向ね。聞けば柔ちゃん、まだ風祭に家庭教師をしてもらってないみたいだし、このままこの二人の関係が進展してくれると、私としてもとても嬉しい。

 

「ほら、松田さん。いい大人なんだから、学生の柔ちゃんに食事をご馳走になっているようじゃ駄目なんだからね。いつもみたいに柔道の事ばかり話題にするんじゃなくて、きちんとエスコートしなきゃ」

 

「わ、分かっているよ、桐生さん。ていうか、桐生さん、最近俺に対する態度がなんか年下を相手にしていると言うか、まるで手のかかる弟を相手にしているような態度に変わってきてないか?」

 

「松田さん、鋭い! あ、手のかかる弟が嫌なら、百歩譲って手のかかる兄でもいいですよ?」

 

「手のかかるっていう所は変わらないんだ……」

 

からからと笑う私と、ふてくされて腕を組む松田さん。そんな私達のやり取りを苦笑いしながら見つめていた柔ちゃんが「そう言えば……」と私に声をかけて来た。

 

「そう言えば、茜さん。今日朝早く起きて台所に立っていたみたいだけど、何をしていたの?」

 

その問いかけに、私はよくぞ聞いてくれました、とばかりに鼻息荒く答える。

 

「ああ、ちょっと滋悟郎さんにお菓子を作っていたの。滋悟郎さん、私が三葉女子短大の家政科に合格出来るのか不安に思っていたみたいだから、料理上手な所を披露してその不安を払拭してあげようと思って。その方が柔ちゃんも助かるでしょ?」

 

「茜さん……。ありがとう、茜さん。私の事をそこまで考えてくれて。絶対来年一緒に三葉女子短大に入学しよう――「ちょ、ちょっと待った、桐生さん!」」

 

良い雰囲気だった私達の仲をぶった切るように血相を変えた松田さんが飛び込んでくる。こら、手のかかる弟、いや、この際手のかかる兄でも良いよ。妹とその友人の友諠の邪魔をするんじゃないよ。

 

「松田さん……?」と首を傾げる柔ちゃんを無視して、松田さんは私の両肩に手を置き、何やら真剣な表情で唾を飛ばす。

 

「い、今、なんて――」

 

「何って、どうしたんですか? そんなにお腹が減っているんなら、たくさん作ったから後で猪熊邸に行って滋悟郎さんに分けてもらったら良いですよ?」

 

私の言葉に松田さんは何か嫌な事を思い出したのか、クラっとよろめきながら後ずさり「な、なんて恐ろしい事を言うんだ……。やめてくれ、もう俺は思い出したくないんだ」と呻くように口にする。

 

その挙動不審な行動に首を傾げながら、私は左手首に巻いた腕時計に一瞬視線を落とす。あ、まず、そろそろ時間だ。

 

「やばっ! もう行かなきゃ! それじゃあ、柔ちゃん、松田さん! ここまでありがとう! 柔ちゃん、また電話しようね!」

 

私は二人にそう声をかけながら足早に改札口を通り、12番ホームに続く階段を駆け上って行った。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「行っちゃいましたね……。ふふ、茜さんって、本当に台風みたいに元気いっぱいで、側にいるだけで力を貰えますね。……? 松田さん?」

 

両手にたくさんの荷物を抱えたまま階段をものすごい速さで駆け登って行く桐生茜の背中を見つめながら、猪熊柔は隣にいるはずの男性に声をかけるが、その男性からの返事がない事に首を傾げ隣に視線を向ける。

 

そこには、何故か周囲をキョロキョロと伺っている松田耕作の姿が。

 

「松田さん、どうかしたんですか? ふふふ、お昼ご飯を食べに行く店を探しているんですか? 私、ちゃんと調べて来たんですよ。駅地下にお洒落な洋食店があるんですって」

 

「ごめん、柔さん。食事よりまず先に生存確認をしなきゃならないんだ! あ、あった、あそこだ!」

 

松田耕作はきょとんとした表情の猪熊柔をその場に残し、壁際に設置されている緑色の電話機に駆けて行った。

 

「あっ、松田さん、どうしたんですか、一体? 生存確認って、どういう事ですか?」

 

訝しげにしながらもその松田の背中を追った猪熊柔は、「柔さん、家の電話番号は!?」とダイヤルに指を添わせ振り返った松田に咄嗟に「……ですけど」と応える。

 

直ぐにその番号をプッシュした松田は受話器を耳にしたまま、もどかし気に声を上げる。

 

「ああ、出ないな! まずい、まずいぞ、これは……」

 

「何がまずいんですか……? あ、もしかして松田さん、お爺ちゃんに茜さんの作ったお菓子を残しておいて欲しいって伝えるために電話しているんですか? くすくすくす。松田さんったら子供みたいですよ。それじゃあ、お爺ちゃんに私の分も残しておいて欲しいって伝えていただけますか?」

 

猪熊柔が何気なく口にしたその言葉に、未だ受話器を耳に充てたままだった松田耕作は「絶対に駄目だ!」と、これまで彼女が見た事の無いような怖い顔で告げたのだった。

 

 

 

~~~~猪熊邸~~~~

 

「ただいま戻りました、お義父さん。お昼ごはん、すぐに用意しますから、待ってくださいね」

 

買い物に行っていたのだろうか。右肩に担いだバッグから野菜や果物と言った生鮮食品を覗かせながら猪熊玉緒が縁側を足早に歩く。

 

「お義父さん……? いらっしゃらないのですか?」

 

玄関の叩きに猪熊滋悟郎愛用の下駄があった事から外出はしていないはずなのに返事が無い事を訝し気に感じながら、玉緒がパタパタとスリッパの音を響かせながら歩く。

 

玉緒がガラガラと音を立てながら縁側と居間を仕切る曇りガラスの扉を開くと、なんとそこには口から泡を吐きながら倒れている義父の姿が。

 

「お義父さん!? どうされたんですか!? 大丈夫ですか!?」

 

あまりに動転した玉緒の耳には、階段下に備え付けられている黒電話がけたたましく鳴る音は届いていなかった。

 

 

 

3日後。ようやく体調の回復した滋悟郎は、孫娘の顔を一瞥するや第一声でこう声を張り上げた。

 

「――柔ぁ! 桐生は本当に三葉女子短大に行けるんじゃろうな!? あいつはそこで矯正させねば、いつか人を殺しかねんぞ!?」

 

あの日松田と共に急ぎ猪熊邸に戻りその惨状を目にしていた彼女は、祖父のそのもっともな言葉に、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。

 

 




この後は、閑話が2つほど続きます。
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