ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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29話 閑話① とある新聞記者の日常

side 松田耕作

 

~~~~日刊エブリ―スポーツ 本社~~~~

 

「おい、誰だよ、これ撮ったカメラマン! 被写体ぼけてんじゃねぇか!」

 

「間に合わないだぁ!? 寝言言ってるんじゃねえぞ! 今すぐ送れって言ってんだよ!」

 

今は日が変わるか変わらないかと言った時間帯だったが、新聞社にとって、今から〆切である午前1時までの時間帯は1日の内で最も忙しいラッシュアワータイムと言って良かった。明日、いや、今日の朝刊に間に合わせるため、今俺の周囲には血走った目で机に向かっている記者達が。

 

そして、それはもちろん俺も同様だった。ちっ、鴨田め。何やってんだよ。ドイツから届くはずの写真がまだ届かない。もう原稿は出来ているが、肝心の写真が届かないと、輪転機に回せない。

 

ぐーー……。苛立ちが余計にエネルギーを消耗させたためか、何人かの記者がカップラーメンを食べ始めたためか、俺の腹の虫が不意に鳴ってしまう。そっと腹を抑えた俺の視界の端に、机の隅に置いていたラップで包まれたおにぎりが映る。

 

ああ、そうだ、これがあったんだ。

 

俺は、何度も推敲した原稿に目を落としながら、おもむろに机の脇に置いていたそれに手を伸ばし口に頬張る。うん、美味い。これは、昨日の夕刻に猪熊邸を辞する時に、これから仕事だという俺のために玉緒さんが手渡してくれたおにぎりだった。炊いた米に海苔を巻いただけのただのおにぎりだが、口に含むと白米がほろほろとほぐれ、海苔の風味とほんの少しの塩気が、疲れた身体を癒すように染み渡って行く。

 

指についた米の一粒までぺろりと舐めてすきっ腹を慰めた時、ようやく待っていた物が届いた。

 

「松田ぁ! 鴨田からFAXが届いたぞ! 直ぐに確認しろ!」

 

「はい、今すぐ!」

 

音を立てて席から立ち上がった俺は脇目もふらずFAXの前に駆けより、届いたばかりの写真に目を落とす。

 

おお……。鴨田め、相変わらず良い仕事をしやがる……。ちょうど向こうでカメラマンが足りていないからと、相棒である俺を差し置いて一人だけ西ドイツに渡っていた鴨田に思う所が無い訳ではなかったが、この写真は俺のそんな嫉妬心を払拭するほど見事な写真だった。

 

女子柔道世界選手権52kg以下級決勝戦。それは、日本代表の桐生茜とソビエト代表のフルシチョワの息迫る熱戦が凝縮されたかのような完璧な1枚。

彼女達の勝敗を決したのは、国内でもまずお目にかかる事の無いほど珍しい講道館柔道の隠し技とも言える『山嵐』。一見腰技の『払い腰』のように見えて、その肝は投げる瞬間に相手選手の足を払う『足技』にあり、それはかつて講道館四天王の一人と謳われた西郷四郎の編み出した絶技。

 

と、偉そうにうんちくを語っているが、実のところこれらの知識は、夕刻に猪熊邸で桐生茜の決勝戦を一緒にTV観戦していた滋悟郎さんからの受け売りである。あの技で彼女が優勝を決めた瞬間のあの滋悟郎さんの満足そうな表情と言ったら無かった。

 

「鴨田め……。また腕をあげたんじゃないか?」

 

俺は写真を見つめながらそう呟く。そう、鴨田が西ドイツから送ってきた一枚は、複雑な動作ゆえにカメラに捉える事が困難と思われる、『山嵐』を喰らってフルシチョワが完全に宙を飛んだその一瞬を、完璧に切り取っていた。

 

「よしっ! こいつを一面にバーンって乗せたら、今日一の売り上げは間違いなしだぜ!」

 

この写真に俺の記事が合わされば他社に負けるはずが無い、と俺が鼻息荒く自席に戻ろうとした時、ウィィーーンとくぐもった音を立てて再びFAXが動き始めた。

 

「うん……? 西ドイツから? あいつ、まだ写真を送って来てんのか?」

 

俺はFAXに表示されている発信元を見て首を傾げながらも、新たに送信されてきた写真に手を伸ばす。そしてそれを見た瞬間、俺は固まってしまった。それは、柔道着を大胆にはだけた事で、肌に直接身に着けている下着の形までくっきりとTシャツに現れた桐生茜の写真だった。

 

「あの馬鹿、何を考えてこれを送ってきてんだ……」

 

カラーFAXはモノクロに比べて通信料が阿保みたいにかかる。ましてや西ドイツからだ。当然、価値の無い写真を送ってくれば上司から雷が落とされる事は必至だ。

 

たく……、編集長がこれを見つけたら、日本に戻るなりあいつのパイナップル頭に編集長の拳骨が落ちるぞ。俺は、鴨田の命のためにその2枚目の写真を俺以外の奴の目に触れないように内ポケットに仕舞おうとしたが、一歩遅かった。左手に掴んでいたその煽情的な写真をさっとかすめ取ったのは、副編集長だ。

 

「あっ、副編集長……。あ、いや、その写真は違うんです……」

 

俺が要求した訳でもないのに、勝手にそんな卑猥な写真を送ってきた鴨田に代わって副編集長に弁解する俺。たく、鴨田め。覚えてろよ……! しかし、俺のその心配は杞憂だったようだ。なぜなら……。

 

「良いじゃないか、この写真! もともとの素材が良い上に、彼女の肌に張り付いた汗がまた色っぽいし、野暮ったい柔道着とのコンストラクトも逆に良い味を出している! 松田、明日の紙面の一面はこれでいったらどうだ?」

 

正気か? 俺は副編集長が冗談を言っているのではないか、と訝し気に、顎のつき出た副編集長の顔を伺ったが、どうやら正気の様だ。

 

「な、何を言っているんですか。そんなの駄目に決まっているじゃないですか。彼女はグラビアアイドルじゃないんですよ。アスリートなんです。それより、こっちの写真を見て下さいよ。絶対にこっちの方が良いですって!」

 

俺は鴨田から送られてきた1枚目の写真を副編集長に見せるが、彼は2枚の写真を見比べて「うーーん」と唸りながら、ごま塩頭に手をやる。

 

「確かに1枚目も良いが、ちょっと色気が足りないんじゃないか? 桐生茜はルックスも良いんだから、これを一面にバーンと載せたら若い娘に目が無いおっさん連中が手に取ってくれると思うんだがな」

 

「……」

 

副編集長の言葉に俺は思わず絶句する。俺に死ねと言っているのか、副編集長は。日刊エブリ―スポーツの紙面にこんな写真を載せたら、俺は今度桐生さんに会った時、彼女に『桐生スペシャル』を掛けられて殺されるか、無理やり彼女の手料理を喰わされ毒殺されるかのどちらかの未来しか想像できないぜ。

 

ぶるぶるぶる……。俺は首を左右に振って、その嫌な未来予想図を頭から振り払い、副編集長を説得する。そして俺の泣き落とし交じりの説得が功を奏し、ようやく副編集長は折れてくれたのだった。

 

「分かった、分かった。まあ、桐生茜と一番強いコネクションを持っているのは我が社であり、お前だ。そのお前が言うからには、これは使わんほうが良いんだろう。その代わり、明日はこの写真で絶対に売り上げ№1を取れよ!」

 

「もちろんです!」と返し、精神的に疲労した身体を引きずりながら席に戻ると、ちょうど国際線で鴨田から電話が入る。

 

『どもどもです、松田さん! どうでした、俺の撮った写真? 我ながら完璧な写真だと思ったんですけど、松田さんはどっちが良いですか? 個人的には、2枚目が俺は桐生さんのファンが増えそうで良いかと――』

 

「――ばっきゃろぉっ! お前、日本に帰って来たら覚えてろよ!!」

 

……と、電話口の向こうの鴨田に怒鳴りつけた俺は決して悪くないはずだ。

 

 

 

~~~~猪熊邸~~~~

 

ズダーーーン。

 

畳を打つ激しい音が俺の耳朶を打つのと同時に、道場の片隅で正座している俺の脛をくすぐるような小刻みな振動が届く。猪熊家の離れにある道場の軒先では、先ほどまで数羽の雀が朝の訪れを歓迎するかのように囀っていたが、目の前の二人の練習が熱を帯び始めると、直ぐに空に飛び立ってしまっていた。

 

「大丈夫、茜さん?」と、畳に背中をつけている桐生さんに柔さんがそう声をかける。その桐生さんは受け身を完璧に取っていたのか、ぴんぴんとした様子で再び立ち上がる。

 

「うん、大丈夫、大丈夫。でも、綺麗にやられちゃったわ。その前の背負いは、今の技の布石だったわけね」

 

そんな風に言葉を交わしながら白い柔道着を身に纏った二人の少女は再び組み合う。

 

「桐生、お主の柔道が攻め中心なのは結構ぢゃが、時には受けに回る事も必要ぢゃ。()(せん)を取るという事をも少し意識せよ。そして柔。お主は技をかけた後の寝技に対する警戒が薄い。今のは、本番では一本を取れておらんし、これが乱取りで無ければ、投げた後お主の右肘は桐生に一瞬で決められておったぞ」

 

二人の早朝稽古を指導している滋悟郎さんからそんな声が飛ぶ。俺にはさっぱり分からないが、その指摘が的を射ていたのは本人達が一番分かっているのだろう。二人は互いにけん制し合いながら、滋悟郎さんの言葉に対して小さく頷きを返している。

 

今日は、桐生さんが帰国して4日目の朝だった。桐生さんは学校が夏休み中なのを利用して、西ドイツから戻って来てそのまま東京の猪熊家に滞在し勉強合宿に勤しむ傍ら、毎日のように柔さんの早朝練習にも付き合っていた。いや、付き合っていたというより、彼女の方から望んで飛び込んできている。

 

そして俺は、今日の早朝練習の後、桐生さんにインタビューさせてもらえる約束を取り付けていた事から、このように早朝からお邪魔して彼女達の練習風景を眺めていた。

 

スパーーン。今度は柔さんが桐生さんの鋭い足払いに足を刈られ、横倒しに倒される。本番だったとしたら、あれも一本は無いだろう。俺の目から見て、せいぜい有効と言う所だろうか。直ぐに柔さんは置き上がり、再び桐生さんと組み合う。

 

本当に二人の力は拮抗している。桐生さんの力が紛れもなく世界一である事は、先日の女子柔道世界選手権52kg以下級を制した事で証明されている。対して柔さんの方は、現在最も大きな大会を制した記録と言えば、第1回クジTV杯女子柔道選手権大会になる。

ただ、あれは第1回と言う回数が示すように、歴史のある大会では無い。柔道と言う競技は、長い伝統のある国技にも近い競技ゆえに、良い悪いは別にしてそれぞれの大会に格付けと言うものが暗黙の裡に存在する。それは、たとえ力のある選手が集った大会で優勝しても、大会毎にランク付けされている格と言う目に見えないフィルター越しにその成績を語られるという事だ。

 

そう言う意味では、いくら拮抗した実力の持ち主同士とは言え、片や柔道世界選手権の女王と、片や第1回大会の女王である二人の立ち位置は大きく異なる。

 

恐らく桐生茜は、今後無理に大会に出場しなくても、大きな怪我や醜聞沙汰さえ起こさない限り、来年のソウルオリンピック女子52kg以下級の日本代表に満場一致で内定するだろう。先日、世界選手権を制した事で、国内の52kg以下級で彼女は名実ともに飛びぬけた存在となった。

 

しかし、猪熊柔は違う。彼女には実はあってもまだ名が足りていない。こればかりは、地道にこれまでずっと講道館柔道を続けて来た桐生茜と、滋悟郎さんが周囲から秘匿してきた猪熊柔との埋めようのない差だ。

 

 

激しい乱取りの攻防の最中、桐生さんの放った桐生スペシャルを柔さんが空中でかろうじて躱す。直後、柔さんが桐生さんの懐に電光石火の速度で潜り込み、一本背負い一閃――。……が、人間離れした反応速度で桐生さんはそれを軸をずらすようにして躱し、逆に体落としを放つ。

 

「――せいっ!」

「――やぁっ!」

 

熱の入った二人の稽古に、膝の上に置いていた拳を固く握りしめ、食い入るように見つめる俺。静謐な柔道場に、畳を擦る二人の足さばきの音と、二人の激しい息遣いだけが響く。

 

何かの拍子にぶつかったのだろう。柔さんの唇の端から血の跡が僅かに見える。柔さんの柔道着を掴む桐生さんの指の先が赤い。もしかすると爪が割れたのかもしれないが、彼女はそれを気にする素振りを一切見せない。もちろん柔さんも。

 

二人は共に17歳。本来なら、少し背伸びをして唇に口紅を、指の爪を綺麗に伸ばし男性とデートをしていても何もおかしい事はない。しかし、飾り気の無い白い柔道着を身に纏った彼女達は化粧などしておらず、指の爪は手足とも極端に短く切り揃えられている。当然だ。爪がほんの少しでも指の先より伸びている状態で固い柔道着を掴んだ手を払われたり、素早い足技を受けたりすると、すぐに手足の生爪が剥がれる事になる。

 

彼女達の年齢で享受出来る様々な事を犠牲にして、彼女達はただ一途にソウルを目指している。まだ桐生さんは良い。彼女はそれを承知の上で、ずっとそれを目指して自分の意思で柔道を続けてきている。

 

対して柔さんはどうか。彼女も柔道にかけて来た年月は決して桐生さんに劣らない。むしろ、中学から柔道を始めた桐生さん以上と言っても良い。だけど、それが彼女の意思だったかどうか。彼女はこれまでそれが当たり前と感じるほど生活の一部として柔道を続けて来たが、明確な目標を持って柔道を続けてきたわけでは無い。

 

……柔さんにソウルへ行ってもらいたい。世界女王である桐生さんと一進一退の攻防ができているんだ。実力はもはや疑う余地もない。滋悟郎さんが計画している大小さまざまな大会への出場は無茶だと思うが、実績がほとんどない柔さんがソウルに行くためには、それが一番の近道なのもまた事実だ。

 

頑張れ、柔さん。ソウルに行けばきっと、桐生さんと戦った時に君が感じたような戦いが出来る選手がいるはずなんだ。他の誰のためでもない。自分自身のために頑張ってくれ、柔さん。俺はこうして外で見守っている事しか出来ないけれど、君がソウルの地で晴れ晴れとした表情で柔道を取っている姿を、俺は見たいんだ。

 

束の間俺は、アスリートの姿を多くのファンに届ける記者としてではなく、一人の猪熊柔のファンとして、桐生茜と対峙する彼女の必死な表情に魅入られてしまっていた……。

 

 

気付けばいつの間にか二人の朝練は終わり、今二人は互いに協力しあいながらクールダウンをしている。このクールダウンは、滋悟郎さんがこれまで柔さんに施していたやり方に、桐生さんのやり方を組み合わせた独自の手法のようだった。

 

「ふふふ、柔ちゃん、私この後、松田さんと約束があるから先にお風呂入っちゃってよ。私に7回も投げられたから、身体の節々が痛むでしょ? ちゃんと熱いお湯に浸かってケアした方が良いよ」

 

「むっ、茜さんだって私に8回投げられたじゃない。それより数えてたの、茜さん? もう、本当に負けず嫌いなんだから」

 

「チッチッチ。その8回うちの4回は技有り程度だったから、私の方が一本取られた回数は少なかったはずよ。ていうか、柔ちゃんだってちゃんと数えてるじゃない。人の事言えないわよ」

 

「それを言うなら私だって一本取られたのは――」

 

ふふふ、本当に二人は仲が良い。遠距離ゆえに顔を合わせ言葉を交わした時間は短いだろうに、真剣勝負をしたからか、二人は自然と深い所で繋がっているように見える。互いに背中を合わせて交互に伸びをしながらそうやって言い合っている二人を見ていると、似た者同士という言葉が一番しっくりくると俺は考えていた。

 

二人の所作でそのクールダウンも終わろうとしている事を察した俺は、側に置いてあった鞄から手帳とペン、それに愛用の録音機を取り出し、この後予定されている取材の準備を始めた。

 

 

 

「生爪が剥げた経験? そんなの、何度だってありますよ。え、松田さんが想像されるほどの痛みはありませんよ? だって、爪が剥げる時は一気にビリっていきますから、痛みなんか一瞬です。ていうか、気が付かないくらいです。確かにテレビなんかでよく生爪を剥ぐ拷問の様子がありますけど、あれはゆっくりやるから辛いんですよ。むしろ、新しく爪が生えて来る時の方がむずがゆくて、私は苦手ですね」

 

――なるほど。では、先日の柔道世界選手権の事についてお聞きします。決勝戦の前半では、それまでの試合と違い、桐生選手の持ち味である積極性があまり見られなかったように見えましたが、何か理由があったんでしょうか?

 

「あはは、お恥ずかしいです。実は私、以前に試合で受け身を取り損ねて頭を強打した事があって、フルシチョワ選手の回転背負いを受けて思わずその事を思い出しちゃって、足が竦んじゃったんです」

 

――なるほど。しかし、試合の後半では桐生選手らしい積極性が戻ってきたように思えますが、そうすると試合の中でそれを克服したという事ですね?

 

「そうですね。上手く言えないんですけど、同じ技をフルシチョワ選手に二度も無造作にかけられて、“私、なめられてる”って思った瞬間から身体が普段通りに動く様になった気がします」

 

――なめられている、ですか。実に桐生選手らしい感じ方ですね。それが最後の決め技になった『山嵐』に繋がる訳ですね。もはや桐生選手の代名詞となった『桐生スペシャル』では無かったのは、何か意味があったのですか?

 

「代名詞と言われるのは光栄ですけど、私は『桐生スペシャル』も『山嵐』も私の持ち技の一つとしか考えていません。その時々の試合の流れの中で、より有効と思われる技を選択しているだけですね。あの決勝戦では、フルシチョワ選手に対して恐らく彼女が知らないだろうと思われる技を仕掛ける事が最も勝率が高いと思ったから選んだ、と言うのが理由の一つですね」

 

――理由の一つという事は、他にも理由があったと?

 

「ふふふ。それ以上は秘密です」

 

――秘密では仕方ないですね。では、これも聞かせて下さい。桐生選手はグラスホフ体育館の地下練習場でフルシチョワ選手と同じソビエト出身のテレシコワ選手と組み合ったという噂もありますが、それは事実ですか?

 

「はい、事実ですね。そのおかげで、後でえらい目にあいましたから、あまり思い出したくない話ですけど(笑)」

 

――ふふふ。そのえらい目と言うのは後でレコーダーが回っていない場所で聞かせていただきましょう。それで、テレシコワ選手の力をどう捉えましたか? 彼女は同じ世界選手権の無差別級で昨年の覇者であったジョディ・ロックウェル選手を破って優勝しましたが、当面彼女の時代が続くと、桐生選手は思われますか? 

 

「テレシコワ選手の時代? さあ、それはどうでしょうね。無差別級は文字通りどの階級の選手も挑戦できる何でもありな修羅の階級ですから、その階級で絶対女王として長期に渡って君臨するのは、いくら彼女でも厳しいんじゃないでしょうか」

 

――では、桐生選手がそこに名乗りを上げる予定は無いのですか? 桐生選手は公式戦で無いとは言え、そのテレシコワ選手と実力伯仲の勝負をしていたとも聞いていますが、52kg以下級に加えて無差別級も主戦場にしようという考えはありませんか?

 

「私が無差別級ですか? その考えが全くないとは言いませんが、52kg以下級ならいざ知らず、無差別級となると私には猪熊選手以上に実績が足りませんから、難しいのではないでしょうか」

 

――それは無差別級の大会への出場経験の事を言われている?

 

「はい。私の公式戦の記録は全て52kg以下級に限定されています。既に無差別級も視野に入れて走り始めている重量級の国内選手達、ああ、例外として猪熊選手もいますよね。そんな彼女達に対して今から私がその選考レースに飛び込んでも、到底間に合うとは思えません」

 

――しかし、来年には国内の無差別級大会では最高峰と言っていい『全日本女子柔道選手権』があります。桐生選手ならその大会への出場資格は問題なく頂けるでしょうし、その大会で優勝すれば、来年予定されているソウルオリンピックの無差別級代表に内定するという事もありうるのでは?

 

「確かにその可能性はありますね。でも、今の所私は自身の主戦場である52kg以下級の事を第一に考えているので、現時点ではその大会に出場する事は考えていません」

 

――なるほど、よく分かりました。それでは、取材は以上となります。桐生選手、ありがとうございました。

 

「とんでもないです。うん、それじゃあ、松田さん、今度は約束通り、こちらからの逆取材を受けてもらいますよ。良いですね?」

 

録音していたレコーダーを止めた俺の手からそのレコーダーを掻っ攫って、自身の柔道着の襟元に留めていた小さなピンマイクを逆に俺の襟元に留める桐生選手、いや、桐生さん。

そうして逆取材の準備を整えた彼女は、「ここからは、私の番」と言わんばかりに、柔さんから透けて見えるから脱いじゃ駄目と言われていたはずの柔道着の上着を脱ぎ、特攻服を纏った猫の姿がプリントされた黒いTシャツ姿になる。

 

「ああ、もちろん良いよ。それが条件だったからね。何でも聞いてよ、桐生さん」と、今度は俺が幾分背筋を伸ばして彼女の取材を受ける立場になる。しかし、初めて会った時もそうだったが、何の取柄もない一記者の俺に取材して一体、彼女にどんなメリットがあるんだろう……。

 

――もちろんそのつもりですよ。それじゃあ、松田さん、まずはジャブがてら最初の質問です。柔道にも造詣の深いスポーツ記者 松田耕作から見て、柔道家 桐生茜の弱点って何だと思いますか?

 

「え、桐生さんの弱点? そんなのあったっけ? いやー、世界女王になった桐生さんに弱点らしい弱点なんて、無いように思えるけど……。何か気になる事でもあった?」

 

――いえ、特には。色々な選手を見ている松田さんなら、私が気付いていない弱点に気づいているかな、と思っただけです。まあ、これは自分で掴まないといけない事なんで、良いですよ。それじゃあ、二つ目の質問! 松田さんの好みの女性のタイプは?

 

「いいっ!? なんて質問するんだよ、桐生さん!?」

 

――えー、だって気になるじゃないですか。

 

「気になるって……どうしてまた……」

 

――だって、私本当の記者じゃないし、女子高生らしい質問だと思いません?

 

「い、いや、確かに女子高生らしいけど……それにしたって」

 

――まあ、まあ。で、どうなんですか? 誰か知っている人で例えても良いですよ。あ、もしかして私だったりして!?

 

「あ、それは無いかな」

 

――はやっ! 少しは考えて下さいよ、松田さん! 

 

桐生さんは拳をぶんぶんと振りかざし、俺に文句をぶつける。いや、だって、桐生さんって最近ではなんというか……そう、俺にとって手のかかる妹のような存在に思える時があるんだよな。口にすれば彼女にぶん投げられる事必至な事を俺が脳裏で考えていると、まだ先ほどの問いかけを続けるつもりなのか、桐生さんはまるでマイクを俺に突き付けるかのように、拳を俺の口元に突き付ける。

 

――で、私じゃないとすれば誰が好みなんですか? ほら、白状すれば楽になりますよ?

 

「い、いや、そ、それは……」

 

――それは?

 

俺の脳裏に彼女の姿がくっきりと浮かび上がる。そうだ、俺が好きなのは……。だけど、ようやく自分の意思で夢に向かって駆け出した彼女に、よけいな重荷を背負わせるわけにはいかない。

 

「桐生さん、俺はね――」

 

と俺が口を開いた時、突然道場の扉がガラッと開き部屋着に着替えた柔さんが姿を現した。

 

「あ、まだやってる。松田さん、茜さんも汗かいてるんだんからそろそろ取材から解放して、お風呂に入らせてあげて下さい……って、松田さん、どうかしたんですか?」

 

「な、何でもないよっ、柔さん!」

 

先ほどまで脳裏に描いていた女性が突然目の前に現れた事で狼狽える俺に、柔さんが首を傾げる。

 

「あはは、松田さん、取材する方は慣れていても、される方は慣れてないみたい。松田さん、取材の続きはまた今度ねっ!」

 

桐生さんは、俺にしゅたっと片手を上げながら立ち上がる。そして、柔さんの脇をするっと駆け抜け、母屋の方に向かって行った。

 

「松田さんへの取材……? どういう意味ですか、松田さん? 取材をしていたのは松田さんじゃあ?」と、きょとんとする柔さんに、俺は「さ、さあ……」と曖昧な返事を返しながら、慌ててレコーダーなどの取材道具一式を鞄の中に突っ込み、立ち上がる。

 

「あ、松田さん。お母さんが朝ごはんを一緒にどうか、って……」

 

「あ、いや、とてもありがたいけど、俺、これから取材に行かなきゃいけないから。玉緒さんによろしく言っておいて! そ、それじゃあっ!」

 

実を言うと食事を頂く時間ぐらいならまだあったが、先ほどの桐生さんとのやり取りで柔さんの顔を直視する事が出来なかった俺は、彼女から顔を背けながら慌ただしく靴をつっかける。

 

「松田さん……?」

 

柔さんに赤面した顔を彼女に見られまいと、転ぶようにしながら俺は猪熊邸の門構えに駆けて行った。

 

 

 

~~~~日刊エブリ―スポーツ 本社~~~~

 

 

時刻は21時を過ぎた頃か。今日の締め切りの原稿の作成を既に終えていた俺は、自席の引き出しの中から小さなレコーダーを取り出し、イヤホンを耳に付けながらそのスイッチを入れる。就職祝いだと、田舎の父から贈られたその小さなレコーダーは、ジィィ……っとくぐもった機械音を発しながら、ゆっくりと動き始める。

 

 

『……私がその選考レースに飛び込んでも、到底間に合うとは思えません』

 

3日前に行った桐生さんへの取材記録をイヤホン越しに聞きながら原稿にペンを走らせていた俺だったが、「――松田っ! 電話だ、3番!」という同僚の声に、イヤホンをいったん耳から外し受話器に手を伸ばす。

 

こんな時間に誰だろう……、と俺が不審に思いながら電話を取ると、その声は俺がつい今しがたまでレコーダーで聞いていた声の主だった。

 

「――松田さんっ! 柔ちゃんが、柔ちゃんが飛び出して行っちゃったの!」

 

「き、桐生さん!? ちょ、ちょっと落ち着いて! 柔さんが飛び出して行ったって、いったい何が……」

 

 

桐生茜は、その天真爛漫然とした見かけからはちょっと想像が出来無いが、その実、オン・オフの切り替えが上手な人間だ。いや、正確には、彼女の素が男勝りで典型的な体育会系な人間である事は間違いないが、彼女は必要に応じてそれにフィルターを掛ける事の出来る女性と言った方が良いか。だから、自然体の彼女は柔さんよりずっと子供っぽく見えるのに、そのフィルターがかかると途端に一見大人っぽい女性の姿に変貌する。

 

そのフィルターは彼女が周囲の大人と会話をする時には概ねかかっているのだが、今の電話口の彼女はそのフィルターが外れていた。そう感じるほど、電話口の向こうから聞こえてくる彼女の声は切迫していた。

 

「そ、それが……」

 

そして俺は、桐生さんから柔さんが家を飛び出して行った理由を聞き、驚きのあまり思わずペンを取りこぼすのだった。

 

 

 

「はあ、はあ。柔さん、一体何処に……」

 

桐生さんから事情を聞いた俺は会社を飛び出し、猪熊邸の周囲で柔さんを探していた。どれほど柔道が強くても、こんな時間に女の子が一人でうろついて良いはずがない。桐生さんは猪熊邸の北側を探すと言っていたから、俺は南側だ。

 

あの通りを曲がれば、確か小さな公園があったはず。ほんの僅かな期待を胸に俺は角を曲がる。

 

いない……。そう考えた俺に、金属の軋む音が僅かに届く。今の音は……。確信が無いまま俺は、公園の入り口に設置されている車止めのバリカーを潜り、公園内に足を踏み入れる。

 

いた……。小さな身体をより縮こませるようにして、俺のよく知った女性がブランコに腰かけていた。その姿は、彼女が類まれな柔道の才能の持ち主でありながらも、ただの傷つきやすい父親と母親思いの女性であることを、俺に否応も無く悟らせていた。

 

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