ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
~~~~1987年 大晦日~~~~
side 猪熊柔
「そう、やっぱり茜さんは三葉女子短の試験は仙台会場で受けるのね。東京会場に来てくれたら、心強かったけど仕方ないわね」
『うん、本当はそうしたかったんだけど、先月両親と柔ちゃんの家まで挨拶に行ったばかりだし、今回は秋田から一番近い仙台で受けるつもりなの。旅費も馬鹿にならないしね。4月に東京で会いましょう』
私は、自室に引いた電話の受話器から届く茜さんの言葉にうん、と返事をしながら、茜さんが今口にした先月の事を思い出した。夏休みに茜さんがこちらに立ち寄っていた時に提案していた4月から同居しないかと言うお誘いへの返事をするという名目で、彼女と彼女のご両親が我が家を尋ねて来たのだ。
ただ、おそらくあれは、ご両親が一人娘である茜さんを預けて良いのか確認する目的もあったように思える。茜さんのご両親は、二人ともとても優しそうな方達で、お爺ちゃん、お母さん、それに私に丁寧にあいさつをしていただき、別れ際に「娘をよろしくお願いします」と、深々と頭を下げてくれた。
茜さんが「お世話になりっぱなしは申し訳ないんで、私も料理するつもりなの」という私達からすれば卒倒しかねない発言をした際には、茜さんのご両親が血相を変えて「絶対にやめなさいっ! もしもの事があったらどうするの(んだ)!?」と止めていたから、茜さんの秋田の実家での取り扱いが分かろうと言うものだった。あの瞬間、私もお母さんもお爺ちゃんも同じ事を思ったはずだ。
『そのもしもの事は既に起こっているので、そんな自殺行為は絶対にさせません』と……。
ただ、不思議なのは、以前の私なら、友人の父親を見て胸がちくりと痛む事があったが、夏休みに茜さんからお父さんの事を聞いていたからか、そんな感情を抱く事が無かった。
『ごめんね、柔ちゃん。冬にスキーに来て、なんて言っておいて結局お誘いできなくて。本当に今受験勉強でそんな余裕が無くて……』
電話口の向こうで、茜さんが頭を下げている気配を感じ、私は慌てて首を振る。
「そんな……。仕方ないわよ、茜さん。スキーはいつでも行けるし、お互い今の一番の目標は、入試に受かる事なんだから。来年、同じ大学生として一緒に行ったら良いじゃない」
茜さんだけではない。私も、お爺ちゃんに課された柔道大会への出場と受験勉強で正直余裕は全く無かった。茜さんが夏にお爺ちゃんを説得してくれたから、幸いお爺ちゃんから受験勉強の邪魔をされる事は無かったけれど、私は密かにお爺ちゃんから言い渡されている事があった。それは、茜さんが三葉女子短大の試験に落ちて西海大学に行く事になった時は、私にも西海大学に行くように、という理不尽とも言える言いつけだった。
もちろん私は、茜さんに余計なプレッシャーをかけてはいけないから、そんな裏事情は彼女に話していないが、実のところ彼女が三葉女子短大に合格するかどうかは私の進路に密接にかかわっているので、他人ごとでは無かった。
『そうね、来年こそ絶対に行きましょう。そう言えば、柔ちゃんは例の風見鶏に家庭教師をしてもらったの?』
「風見鶏じゃなくて、風祭さんよ、茜さん。ううん、一度そんな誘いを受けたけど、お爺ちゃんも勉強の邪魔をしないし、英語で分からない所は茜さんが電話で教えてくれたから、その必要は無かったわ」
実を言うと、茜さんと受験勉強の分からない所を教え合うという名目で、頑なに部屋に引いてもらえなかった電話回線を部屋へ引く事を、私はお爺ちゃんに許してもらっていた。電話料金が増えているはずなのにお爺ちゃんが何も言ってこないのは、私と茜さんへのお爺ちゃんなりの応援なのかしら? そんな事を考えていた私は、ちょうど昼のニュースで東北地方に強い寒波が襲っているという報道があった事を思い出す。
「そんな事より、茜さん。秋田は今凄い寒波が襲っているってニュースでやっていたけど、体調とか大丈夫? 風邪とかひいたりしていない?」
『ああ、雪は凄い事になっているわね。でも、大丈夫。私、かれこれ三十年以上、風邪ひいた事ない程の健康体だから。柔ちゃんこそ、大丈夫なの? この間の東京都知事杯、体調不良で欠場したって言ってたけど……』
(三十年って、先月18歳になったばかりの茜さんが何を言っているのやら)と、私は茜さんの言葉に乾いた笑いを返しながら、彼女の問いに応える。
「うん、もう大丈夫。お爺ちゃんには、『体調管理も出来んで、オリンピックに行けると思っておるのか!』って叱られちゃったけど」
『あはは、まあ、どだい過密スケジュールだったんだから、一つくらい欠場しても仕方ないわよ。本阿弥さやかには気の毒だったけど』
さやかさんの事を言われて、私は苦笑いを浮かべる。茜さんの言葉の通り、あの大会を欠場した事で、私はさやかさんからTVを通じてとても口汚く罵られてしまった。別に私は、さやかさんと試合するためにお爺ちゃんの言った大会に出続けている訳じゃないのに……。
その後も私達は束の間お喋りを楽しんだ。私の、「受験勉強の気晴らしに何かお勧めの恋愛映画は無いか」、という問いかけに、受話器の向こうの茜さんからこんな返事が。
『うーん、一番のお勧めはRRRっていうインド映画だけど、あれはまだ上映されていないから駄目よね。あっ、ちょっと待って』
そう断って、電話口の向こうからがさがさと新聞を捲る音が聞こえてくる。RRRって何だろう? インド映画って言ってたけど、インドに映画なんてあったのかな? そんな事を考えていると、それほど時を置かずに電話口の向こうから「お待たせ!」という茜さんの元気な声が再び聞こえてくる。
『今映画欄を見たら“
今やっている映画なのに、どうして随分前に観たなんて言えるのかな? 一瞬そんな疑問が脳裏をよぎったが、その疑問は直ぐに立ち消えていく。
「フライ? 空を飛ぶような素敵な恋愛って意味なのかしら? 教えてくれてありがとう、茜さん。冬休みの間に行ってみるわね」
『そうそう、まさに空を飛ぶ奴なのよ。あ、柔ちゃんったら、もしかして松田さんと見に行くつもり?』
「――ち、違うわよ! 私はただ気晴らしに良い映画を見に行こうって思っただけで……!」
不意に身体が火照ってきた気がした私は、机の上のリモコンに手を伸ばし、部屋のエアコンの温度を下げる。電話口の向こうから聞こえる茜さんの楽しそうな笑い声に私は文句を言いながら、何故だか一向に身体を冷やしてくれないエアコンを恨めし気に見つめていた。
~~~~1988年1月1日~~~~
「なるほど! 桐生さんは、それほど三葉女子短大に合格する見込みが無いと!」
「当り前ぢゃ! あ奴の作った菓子で、儂は危うく死ぬところぢゃったのじゃぞ! カネコが三途の川の向こうで手を振っておったのが、はっきりと見えたわ!」
「……そ、それは災難でしたね。しかし、桐生さんが受験に失敗すれば、柔さんが我が西海大学に入っていただく約束を取り付けているとは、いや、さすがは猪熊先生! 祐天寺、先生の深慮遠謀に頭が下がります!」
「わっはっは! まあ、食え、食え! この栗きんとんがまた格別じゃ!」
晴着を着て友達と初詣に行って戻って来たら、居間からお爺ちゃんと祐天寺監督らしき人の賑やかな声が漏れ聞こえて来た。お爺ちゃんったら、またあんな事言って。そりゃあ、お爺ちゃんからしたらあんな経験したわけだから、茜さんが三葉女子短大の家政科に合格するはずが無いと考えるのも無理はない。
でも、別に入試は実技があるわけじゃないから、料理の腕は関係ない。もし三葉女子短大の入試に実技があれば、私はお爺ちゃんとあんな約束は決して交わしていない。
その後私は、祐天寺監督にある事ない事を吹き込んでいたお爺ちゃんを止めようと居間に足を踏み入れるが、私から本当の事を祐天寺監督に言われるのを嫌ったのだろう。私は、何かをしゃべる前に、お爺ちゃんに家から追い出される形で再び外に押し出されてしまった。
「ほんとにもう、お爺ちゃんったら……!」
家から追い出された私は、今日3度目となる初詣(もはや初では無い)をしようと、とぼとぼと歩き始める。もう一度茜さんの作ったお菓子を食べさせてやりたいわ。あの事件の後お爺ちゃんはしばらく甘い食べ物を口に出来なくなり、日頃のうるさい程の元気が影を潜めていたけど、今ではあの時期の分を取り戻すかのように元気いっぱいだ。
(まあでも、お爺ちゃんに追い出されるまでもなく、もともと私は3度目の初詣(だからもはや初では無い)に行くつもりではあったんだけどね)、と一人呟きながら一向に慣れない草履を履いて神社に向かう。
あれ、あの車、風祭さんの車に似ているな……。信号待ちで止まっている見慣れた車に気づいた私は、横目でそっと運転席を覗く。女性……? あ、そうか、左ハンドルなんだ。私は首を伸ばしてその女性の向こうにいるはずの運転席を覗こうとするが、ちょうど信号が青になったのか、その車はあまり耳にしないエンジン音を響かせて走り去っていった。
まあ、良いか。さやかさんじゃなかったし、多分違う車だろう。いくら外車とは言っても、東京には同じ車がたくさんあるだろうし。私は、徐々に視界から消えていく車から視線を剥がし、再び歩き出す。
『そういうわけで、明日は友達と初詣にいくつもりだったのに、お爺ちゃんにも付き合わないといけなくて。フフフ、2度もお祈りするなんて、バチが当たっちゃうかも』
『ああ、それは当たるよ。間違いないって、柔ちゃん』
『えっ!? 本当に?』
『うん、秋田では、二社参りはよくないって聞くよ。二回行くのなら、三社参りにしないと』
『まあ、一部の地域で言われているだけだから迷信かもしれないけど、オリンピックイヤーだからね。そう言う縁起の悪い事は出来るだけ潰しておいた方が良くない?』という茜さんの言葉を思い出しながら、本日三度目となる神社の境内に至る長い石段を見上げる私。
すると、見知ったジャンパー姿の男性がその石段を駆け上がっている事に私は気づいた。その男性から少し遅れる様にカメラを肩にかけた小太りの男性の姿も。
「――松田さん!」
私の声が届いたのか、その男性が石段を登る足を止め背後を振り返る。やっぱり松田さんだ。私は直ぐにそう分かったのに、何故か松田さんは私の姿を石段の上から唖然とした様子で見つめるだけだった。普段身に着ける事の無い晴着なんか着ているから、私だって分からないのかな? 私は、少しでも晴着の見栄えがよくなるよう晴着の裾を気づかれないように整え、精一杯の笑みを浮かべる。
「明けましておめでとうございます、松田さん、鴨田さん」
ぺこりと頭を下げると、ようやく松田さん達が私に気づいたのか、石段の上から転がり落ちる様に駆けてくる。
「あ、明けましておめでとう、柔さん! いやー、そんな恰好しているから、一瞬分からなかったよ。いつもは制服か、ほら……」
「柔道着……ですか?」
「そう、それ!」
「もう、いくら私でも、お正月から柔道着なんて着ませんよ!」
……嘘だ。「正月だからと怠けておっては、オリンピックで金メダルなぞ夢のまた夢ぢゃっ!」と、今日もお爺ちゃんに無理やり早朝練習をさせられた事をおくびにも出さず松田さんに応える私。
「柔さん、晴着姿を撮っても良いかな?」
「え……? い、嫌ですよ、恥ずかしい」と、私はカメラを構える鴨田さんから手で顔を隠す。
「馬鹿、鴨田。神聖な境内前で何してるんだよ。それより、柔さん。初詣に来たんだろう? 俺も参拝する所だったんだ。一緒に行こうよ」
「そんな事言って松田さん、神社見つけるたびにお参りして、これで8回目じゃないですか」
「え、松田さん、8回もお祈りしているんですか?」
驚いた。私の3回なんか比較にならないくらいお参りに来ているんだ。「あ、あはは……」と、頭を掻きながら晴着姿の私の歩幅に合わせる様に石段を登る松田さん。鴨田さんは、石段の昇り降りがよほどつらかったのか、膝をさすりながら「これ以上付き合いきれないんで、俺はここで待ってますよ。ごゆっくり」と、下から手を振っている。
大きな鳥居をくぐり境内に上がった私達は、参拝の列の最後尾に並ぶ。午前に来た時は家族連れの参拝客が多かったが、今の時間は恋人同士と思わしき人達が目立つ。寒さをしのぐように抱き合いながら列に並ぶ彼ら彼女達の様子が否応なく目に入り、私は赤面している事を自覚しながら松田さんに視線を向ける。
「あの、松田さん。そんなにお祈りして、一体何を願っていたんですか?」
「え……? 何って、そりゃあ、何と言っても今年はオリンピックイヤーなんだから、柔さんと桐生さんがオリンピックで金メダルを獲れるようにって祈ってるのさ」
「もう、松田さんったらいつも柔道の事ばかりなんですから。たまには柔道以外の事も考えたらどうですか?」
口を開けば柔道の事ばかり口にする松田さんに抗議するように口を尖らせる。あれから4カ月以上経つのに、結局私は松田さんにあの日のお礼代わりにご馳走するという約束を果たせていなかった。あの日……。誰もいない公園で一人打ちひしがれていた私を、松田さんの言葉が救ってくれた。
「(一応、君ともう少し仲良くさせて下さいっていうのも頼んでるんだけどな……)」
「え、今何か言いました?」
松田さんが明後日の方に視線を投げながら何かを呟いたようだったが、周囲の雑踏に紛れて、それは意味を成した言葉として私の耳に届かなかった。
「あ、い、いや、何でもない、何でもない。それより柔さん。あそこが空いたみたいだ。行こう」
何故か松田さんは慌てる様にして、横に並んだ鈴の内、鈴の先の紐を握る人の途絶えた場所を指差しながら、私をそう促す。
ジャラン、ジャラン……。
鈴を鳴らしてお賽銭を入れた私は、手を合わせてこの日三度目のお祈りをする。一度目はお爺ちゃんに無理やり『柔道の必勝祈願』のお祈りをさせられた。二度目は友達と一緒に『受験の合格祈願』を。
三度目は……。私は、隣で目を瞑って一心に神様に手を合わせている松田さんに、一瞬視線を投げかける。この真剣な表情。柔道しか頭にない松田さんのことだから、どうせ私と茜さんがオリンピックで金メダルが獲れるように、って祈っているんだろう。
ほんの少しだけ胸の内がざわめいた私は、荒れた気を静めようと目を閉じたまま軽く深呼吸して、神様にこの日三度目のお祈りをする。そのお祈りは、『柔道の必勝祈願』はもちろん、『受験の合格祈願』すら凌ぐほどの時間をかけたものになった。
……ふんだ、もう少し仲良くなりたい、なんて祈ってるのは、どうぜ私だけですよ。
「あ、松田さん。おみくじがありますよ。やっていきませんか?」
お祈りを終えた私は、境内の片隅にちょこんと置かれているおみくじの無人販売機を指差す。
「ああ、そう言えばおみくじはまだやっていなかったな。良いね、やってみようか、柔さん」
そして私達はおみくじの販売機にお金を入れて、それぞれ出て来たおみくじを手にする。お互いに含み笑いするように見つめ合った私達は、同時に手に持ったおみくじを開き内容に目を通す。最初に声を上げたのは、松田さんだった。
「あちゃーー。『末吉』かぁ。元旦なんだから、もう少し良いのが出て欲しかったなぁ」
「あ、私は『小吉』でした」
「どれどれ……? 本当だ、俺はともかく柔さんこそ『大吉』が出て欲しかったのになぁ。オリンピックイヤーだぜ。神様も分かってないなぁ」
私の手にあるおみくじを覗き込みながら、松田さんがそうぼやく。くすくすくす。確かに『大吉』でなかった分、“勝負事”や“学業”の欄には成功を完全に約束する言葉は無かった。
それでも、私は十分満足していた。
だって、“恋愛”の欄には、『待ち人来るたよりあり』とあったから。待ち人、誰だろう……。ふふふ、想像が合っていたら良いな。
「松田さんの方には、何が書いてあったんですか?」
私は、ひょこッと背伸びをして松田さんの手にあるおみくじを覗き見る。“健康”は『身体の不調に注意』……か。松田さん、いつも夜遅くまで仕事しているようだし、大丈夫かな? 去年の夏に、お母さんが松田さんに「夜食にどうぞ」と、お握りを渡していたけれど、今度私もしてみようかな? 食べてくれるだろうか?
そんな事を考えながら松田さんの手の中にあるおみくじに視線を投げていると、最も気になる項目でその視線は否応なく制止する。
その項目、つまり“恋愛”の方なわけだが、そこには『待ち人おとづれなく来る』と記載されていた。
……? 松田さんの方にも、待ち人か。あれ、待ち人って恋人の事じゃ無いのかな?
「そうなんですか、これからラグビーの取材。お正月も休めないなんて、大変なお仕事ですね。松田さんは実家に帰ったりしないんですか?」
「ああ、俺の実家は山形だけど、就職してからこれまで年末年始に帰った事は無いなぁ。年末年始は箱根駅伝やラグビーにサッカーと、大きなスポーツ大会が目白押しだから」
私達は今、境内を後にしてゆっくりと石段を降りていた。不思議ね。登る時はずいぶん長く感じたのに、降る時はとても短く感じるなんて。
「そう……ですか。家に寄る時間があったら、お母さんが作ったおせち料理をおすそ分けできると思ったんですが――。きゃっ!」
「――危ない!」
慣れない草履を履いていたためか、あるいは、石畳の微細な段差のためか、私はふいによろめき前につんのめりかけるが、その私の手を咄嗟に握ってくれた人の手が。松田さんだ。松田さんに掴まれた左手だけが冷たい外気から遮られ、ほんの少し熱を帯びる。
「あ、と、ご、ごめん」
謝る必要などないのに、私が松田さんの握ってくれた左手を支えにして体勢を整えたのを見て取った松田さんは、掴んでいた私の手をそっと離す。その顔が少し赤らんでいるように見えるのは、私の気のせいかしら?
「あ、いえ……、ありがとうございました……」と、恥ずかしさから言葉少なにお礼をした私達は、しばし言葉を交わすことなく石段を降りていく。
「――あ、あのっ!/――あのさっ!」
不意に重なる私達の言葉。慌てた私達は、「あ、ど、どうぞ」、「そ、そちらからどうぞ」と再び声が重なった。何故かそれが可笑しくて、石段の中ほどで足を止めた私達は、互いに顔を見合わせた後「ふふふ」、「ははは」と笑い合う。
「ああ、いや、柔さん、最近柔道の大会やら受験勉強やらで大変じゃないかな、と思ってさ。三が日は難しいけど、その後にでも良かったら気分転換にどこか行かないかい。受験勉強でそれどころじゃないのなら、無理には言わないけど……」
その私の反応を伺う様な控えめな問いかけに、私は思わず松田さんの言葉にかぶせるように返事をする。
「はい、是非! ちょうど茜さんからお勧めの恋愛映画を聞いたんです。松田さん、映画が嫌いじゃ無かったら、一緒に見に行きませんか? いつかのお食事も遅くなりましたけど、ご馳走しますから」
「いやいや、御馳走は良いよ。そこは俺に出させてよ、柔さん。映画、良いじゃないか。気分転換にぴったりだ。よし、お年玉代わりに映画代と食事代は俺がもつよ。柔さん、学校は7日までは休みだったよね? それじゃあ、4日か5日あたりでどうかな?」
その後私達は穏やかに会話を交わしながら石段を降りた。そして、正月だというのに休む暇もない様子で鴨田さんと共に仕事に戻って行く松田さんの背中を見送り、私は家路についた。
……後日。
「あ、あはは……。恋愛映画と言って良いのか分からないけど、凄い映画だったね。ああいうのが柔さんの趣味だったとは、ちょっと意外だったけど……」
「――違います! 私、あんな趣味じゃありませんっ! うっ、げほっ」
「だ、大丈夫かい、柔さん?」
ショッキングなシーンが連続した映画の光景が脳裏にフラッシュバックして、私は思わず口元を抑えて顔をそむける。そんな私の様子を気遣って松田さんが背後から声をかけてくれるが、それを気にする余裕もなく、私の脳裏には後悔の文字がありありと浮かんでいた。
ほんっとに、もう、茜さんったら! 何が恋愛映画よ。FLYって、全然意味が違うじゃない! まさかFLYはFLYでも、生物的なFLYだったなんて! せっかくのデ……もとい、息抜きなんだから予備知識を得ずに見た方が楽しめるかも、と考えた私が馬鹿だったわ。
うっ……。まさにFLYの姿へと化したあの最後の主人公の姿が脳裏に浮かんだ私は、再び吐き気がこみ上げ、咄嗟に口元をハンカチで覆う。
結局その日の私は、またしても松田さんと一緒に食事に行くという約束を果たすことなく、ふらふらとよろけながら家路につく羽目になったのだった。
1987年公開『THE FLY』 名作なんですけどね。恋愛映画と言えなくもないし……。いや、さすがに言えないか。
次回、『卒業式』。本章最終話です。