ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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32話 閑話③ 月見草 上

side 三上 杏

 

~~~~京都市武道センター(京都府内)~~~~

 

悠久の時を数える古都京都に今年初めての雪がちらつく1月某日。

 

私は、足裏から伝わる感触を確かめる様に、この日のためだけにフローリングの床一面に敷かれた畳の上にゆっくりと足を置いた。その途端、試合会場をぐるりと取り囲むようにあつらえられているここ京都市武道センター2階の観客席から大きな歓声が上がった。

 

え……? 突然の歓声の意味が分からず、私はキョロキョロと周囲を伺う。すると、縦に2面、それが横に3列並んだ計6面の試合会場のうち、今私の立っている左端の試合会場から最も遠い右端の対角線上にある一会場で、遠目からでも目立つ赤い髪の女の子がゆっくりと畳の上に上がろうとしている姿が、私の視界に入った。

 

その子も周囲の突然の歓声に驚いたのか視線を周囲にさ迷わせていたが、その彼女の視線が遠い会場にいる私の姿を捕えると、ぴたりと固定された。私と視線を合わせたまま、彼女は向日葵が咲くような笑みを顔に浮かべ、まるで子供がするかのように私に向かって右手を大きくぶんぶんと振った。

 

……全く、昨年の夏以来半年ぶりに会ったというのに、あの子はちっとも変っていない。世界女王である彼女の一挙手一投足に注目していた観客の視線や報道陣のカメラ。それらが、彼女のその行動を起因として、一瞬で私に移ったのを肌感覚で察知した私は、ぶるっとその肌を粟立たせた。

 

やめてー、桐生さん。絶対皆、(あの子誰?)って思ってるからっ!

 

胸の内で発した悲鳴を苦笑いで覆い隠しながら控えめに彼女に手を振り返した私は、ゆっくりと1回戦が行われる試合会場の開始線に向かう。途中、「三上先輩、がんばーー!」、「――先輩、平常心!」という私を応援してくれる大学の部員達からの声が届いた事で、突然視線が集中した事によりバクバクしていた胸の鼓動が徐々に落ち着いて行くのを感じる。

 

私の所属する京都府立京都東雲(しののめ)大学柔道部は、地元と言う事も有り、部員の皆が大挙してこの会場に足を運んでくれているようだ。お父さん、お母さんは……。視線を部員が集まっているあたりに投げかけると、……いた。家業である和菓子屋の方が忙しいだろうに、わざわざ私の応援のために会場に来てくれたんだ。

 

……ありがたいな。今日が私の現役最後の大会になるはずだから、両親が見に来てくれた事が嬉しくてたまらない。良い試合をしよう。高校、大学と、家業をろくに手伝いもせず好きな柔道をさせてくれた両親に、少しでも長く私が試合をしている姿を届けてあげたい。

 

『第17回 京都女子柔道選手権大会』

 

この大会は、今年で17回目を数える京都府主催の女子を対象とした柔道大会だ。国内に柔道の大会は数多あれど、この大会は他の大会とは異なる特徴をいくつか有している。

 

一つは、講道館が定めている女子柔道の階級が48kg以下級、52kg以下級、56kg以下級、61kg以下級、66kg以下級、72kg以下級、72kg超級であるのに対して、この大会は軽量級(48kg以下級と52kg以下級と56kg以下級)、中量級(61kg以下級と66kg以下級)、そして重量級(72kg以下級と72kg超級)の3階級のみの大会である点。

 そしてもう一つは、国内の中高大学あるいは実業団に所属していれば日本人以外の参加も可である点だ。

 京都らしい独自性かつ国際色を打ち出しているこの大会だが、それでもオリンピックイヤーの年でなければこれほどこの武道センターに国内の有力選手が集う事も、また、その有力選手を目当てとした大勢の観客や報道陣が集う事は、まずない大会だった。

 

私が把握しているだけでも、女子52kg以下級の世界女王である桐生茜を筆頭に、桜宮女子中央高校の高辺陽子、大阪産業大学の薬師寺みかと、今年のオリンピックの代表候補選手がごろごろ出場しているものだから、その注目度の高さは知れようというものだった。

 

ただし、この大会には桐生さんと並んで名が売れている48kg以下級の猪熊柔選手は出場していない。彼女は、何かの縛りプレイでもしているのか、出場する大会は一貫して無差別級ばかりで、この大会程度の中途半端な階級分けの大会では食指が動かないのだろう。まったく、最軽量級の選手でありながら無差別級に出続けて、その上負け知らずだなんて、どうかしている。だけど、その実力は紛れもなく本物だ。私も、昨年の秋に監督の指示で一度だけ出場した無差別級の大会で彼女と対戦したが、何もさせてもらえないうちに一本負けを喫してしまった。

 

 

 

「三上、足技からペースを握っていけよ! 相手は神戸女子大のブラジル留学生だ。リズムに飲まれるな!」

 

所属している柔道部の監督からそんなアドバイスが飛ぶ。私は、試合会場袖で真剣な表情でこちらを見つめている監督に視線を投げかけ、こくりと頷く。大丈夫、相手選手は本来48kg以下級の選手だから私よりは動きが速いだろうけど、私には彼女以上に速い選手と相対した経験がある。

 

「はじめっ!」の審判の声で、さっと私は腰だめに構える。南米選手と対戦する際にまず警戒すべきは、双手刈りなどのタックル系の技だ。褐色の肌をした相手選手は南米出身らしく開始線の上で独特のリズムで小刻みにステップを踏みながら、少しずつ近づいて来る。――と思ったら、突然そのリズムに変化をつけ、一瞬で私に組み付いてきた。

 

――くっ! 良い所取られた。共にこの大会の軽量級クラスに出場しているとはいえ、

本来なら私より1階級下のはずなのに力も十分だ。彼女は私の奥襟を取り、上から私の頭を押さえつける様にしながら、左右に私の身体を振り回す。

 

監督が大声で何かを叫んでいる事が口の動きで分かったが、一瞬会場で発生したどよめきの様な歓声に遮られ、その言葉は私の耳に届かなかった。その歓声が、私の今いる試合会場から離れた対角線上から聞こえてきた事で、その理由を察する。

 

気にしちゃ駄目よ、杏。彼女は彼女。私は私なんだから。そう心の中で呟く事で徐々に頭が冷めていくのを感じる。少し面食らってしまったけど、彼女の動きにも徐々に慣れてきた。頭を下げられた事で、彼女の足さばきに自然と私の視線が向かう。落ち着いて見てみれば、彼女のそれは隙だらけだった。

 

柔道選手を一流と二流に分けようとするならば、一番分かりやすい判断基準はその足さばきを見る事だった。一流の選手は自身の体幹をまず自分から崩さないし、一時的に崩したとしても体重をどちらの足にかけているのかをまず相手に悟らせたりしない。

 

対して、二流の選手は相手に技を仕掛けられるまでもなく自分から体幹を崩し、その上一目で足への体重のかけ具合が分かる。もちろん私が一流の選手だなんて言うつもりはないけれど、こと足技に関してだけは多少のうんちくを語らせてもらっても良いだろう。

 

「――やぁっ!」

 

相手選手の力の掛け具合から、彼女の体重が右足に移った事を察した私は、咄嗟にその右足に足払いを掛ける。

 

「――&□△◇□!?」

 

言葉の意味は分からないが、私の足払いが効果的に彼女に作用したのは、彼女の表情と大きく崩れた体幹で分かる。ここぞっ、とばかりに私は引手を利かせつつ、彼女の身体を足の無い方向に押し込み、その背を畳に押し付ける様にしながら倒れ込んだ。

 

「――有効!」

 

審判の声が上がった瞬間、2階席にいる部員仲間達からの大きな歓声が背中から聞こえてくる。きっと両親も私の試合を見てくれている事だろう。有効は想定内。どれだけ綺麗に相手の背中を畳に付けても、なかなか足払いだけでは審判は一本を取ってくれない事は、これまでの経験から分かっている。

 

そのまま私は、腹ばいになった相手選手に対して寝技を仕掛けようとするが、彼女は寝技に自信が無いのだろう。絶対に寝技勝負には付き合わないといわんばかりの亀のように手足を縮こませた姿勢を取られては、寝技勝負に持ち込むのは困難だった。

 

結局、私は寝技に引き込む隙を見出す事が出来ず、審判の「待てっ!」の言葉で寝技の態勢を解き、ふーと長い息を付いた。

 

「こらえろ、マルティン! 有効などいくらもらっても構わん! 一本を取られさえしなければ、お前にもきっとチャンスは来る!」

 

私を応援してくれている監督と対角に位置している、おそらく相手側の監督だろうが、開始線に戻ろうとしているマルティンと呼ばれている選手にそんな声が投げかけられる。マルティンは、頬に垂れる汗を柔道着の袖で拭いながらその監督の言葉に何度も何度も頷く。

 

有効などいくらもらっても構わん……か。おそらく私の得意な勝ちパターンは、相手サイドに研究されつくしているんだろう。桐生さんとは比べるべくもないけれど、私だって曲りなりとも国内の52kg以下級の大会でベスト8以上には常に顔を出す常連だし、めぐりあわせが良い時は準決勝、いやいや決勝戦まで勝ち進むことだって過去にはあった。伊達に桐生さんの補欠兼強化選手として昨年西ドイツで行われた世界選手権に付いて行ったわけでは無いのだ。

 

互いに開始線に戻った私達は、審判の再開の言葉で再び組み合う。先ほどの有効で、私の足技に対して警戒心を抱いたのか、隙だらけだった飛び跳ねるような足さばきが影を潜め、一転してすり足へと変わっている。

 

しかし、攻撃的な動き自体に変化が無いのは、向こうの監督が言ったように有効如き気にするな、と指示に従っているからだろう。有効如き……、それはつまり私に一本を取れるような技が無いと言っている事と同義だろう。

 

……確かにそうだ。私は正直、この足技だけで高校、大学と一貫して52kg以下級の戦場で戦い抜いてきたと言っても過言ではない。しかし、まるで蛸のようにくっついて離れないと評判の足技ではあるものの、その足技で一本を取った試合は片手で数えられる程でしかなく、ほとんどの試合を私は優勢勝ちで勝ち上がっていた。

 

攻め手を挫く様に、相手が無造作に踏み込んできた足を再び出足払いでスパンっと刈る。今度の足技は吸い付くような足技ではなく、強く弾くような足技だった。そのため、一瞬で相手選手の身体が宙に浮く。

 

チャンスっと感じた私は、そのままマルティンの身体を宙で制御し態勢十分な姿勢で畳に叩きつけた。

 

「――技有りぃ!」という頭上から届く審判の声を聞いた私は、少しだけ口角を上げる。有効は何回取っても一本にはならないが、技有は2回取れば一本になる。これで、後1回技有を取れば一本勝ちだ。その笑みは、そんな皮算用を弾いた笑みだった。

 

しかし、結局のところそれは必要なかったかもしれない。何故なら、マルティンは今私に完璧な袈裟固めを決められ、必死にその拘束から逃れようとしている所だったからだ。袈裟固めとは、柔道を始めた初心者が最初に習う寝技と言って良い、相手の首に腕を回し、相手の体を自分の上半身で抑える技の事だ。基本故に、完璧に決まればその拘束から逃れるのは極めて難しい。

 

「%$! %#&!!」

 

唯一自由に動く足をばたつかせて、必死の形相で私の袈裟固めから逃れようとするマルティン。この様子では、マルティンは、畳に背中が着いてからいったいいつ私に寝技を極められたのかも分かっていないだろう。分かるはずが無い。その疑問は根底から間違っているのだから。

 

何故なら、私がマルティンに寝技を仕掛けたのは彼女の身体がまだ宙にあるタイミングだったから。いや、正確には、私はマルティンの背中が畳につくと同時に、それがそのまま寝技の態勢になっているようにマルティンと私自身の態勢を宙で整えてから、彼女の身体を畳に叩きつけていたのだ。

 

これが、口の悪い柔道部の友人がつけたShortcut(ショートカット)Maximum(マキシマム)固め、略して『SM固め』だった。これがせめて、桐生さんのように自分の名前を冠した『三上スペシャル』だったらまだ良かったのに……。もっとも、そうなったらそうなったで、やはり恥ずかしくていたたまらなかったと思うけれど……

 

私がこの技にこんな名前を付けているなんて事が表に出たら、私はもうお嫁にいけない事間違いなしだから、この技の名を私の口から発した事はこれまでに一度も無かった。

それにこの技、いつでも使えるという訳ではなく、よっぽど完璧に技が決まらないと、空中で相手ばかりか自分の態勢まで整える余裕が生まれず発動できないのだから、やっぱり地味の一言に尽きる。

 

しかし、今日この時ばかりはこの技は完璧に決まっていた。私は、SM固め、もとい、袈裟固めの態勢を維持したまま、審判の方をちらっと見上げた。そろそろ25秒になるのでは、という私の脳内秒読みは正しかったようで、時計係の方に一瞬視線を投げた審判は、すぐに「技有! 合わせ技一本!」と宣告してくれた。

 

その宣告を聞いたのは私だけでは無かったのだろう。それまでばたばたと足を動かしていたマルティンの動きがピタッと止まり、だらんと足が畳に投げ出される。それを確認した私は、ようやく袈裟固めの拘束をほどき、ゆっくりと立ち上がる。途端に観客席の一角を占めている柔道部員達から歓声が上がった。父さん、母さんも手を叩いて喜んでくれている。

 

ただ、「よくやった」という歓声の中に、時折「SM固め炸裂!」という思わず耳を覆いたくなるような単語が飛んでいるのは、もう諦めるしかないのだろうか……。

 

審判に促されるまま相手選手に礼をした私は、ゆっくりと試合会場を後にして監督の立ち入りが許されたエリアまで戻る。しかし、初戦に快勝した私を最初に出迎えたのは、監督では無かった。

 

「三上さん、おめでとう! もうっ、前にあの技の名前を聞いた時、名前なんて無いって、言ってたのに、ちゃんとあるじゃないっ! 『SM固め』! くー、かっこいい!」

 

突然、どんっと胸に飛びついてきた、私より少し背丈の低い赤毛の少女。

 

「き、桐生さん……。あ、ありがとう。見ていてくれたんだ」

 

「もちろんっ! まさに三上節全開の快勝だったね。ああ、早く三上さんと当たらないかなぁ」

 

「い、嫌よ、桐生さんと当たったら負け確じゃない。もう少し勝ち上がらせてよ」

 

確か、桐生さんは私とは違う山のはずだから、決勝戦までは当たらないはず。もちろん、桐生さんはともかく、その前に私が負けてしまう可能性もあるんだけど。……ん、あれ? 桐生さん、さっき何て言った?

 

「あ、あの……、桐生さん、今、エ……、SM固めって言った?」

 

「うん、言った。あそこで三上さんを応援していた人達がそう呼んでたから」

 

そう言って、こてんと首を傾げる桐生さんと、一番知られたくない子に知られちゃったかぁ、と頭を抱える私だったが、突然私達の周囲がガヤガヤと騒がしくなる。

 

「あ、こんな所にいた。桐生選手、開始早々見事な一本背負いで一回戦を突破しましたね」

「オリンピックイヤーの今年にかける意気込みを聞かせて下さい、桐生選手!」

 

私達を、いや、桐生さんを追いかけてきた報道陣が私達を取り囲んだのだ。

 

「……桐生さん、ろくにインタビューに答えずにこっちへ来たわね?」と、完全に貰い事故の様な形で桐生さんと一緒に報道陣に取り囲まれた私は、彼女にジト目を送る。

 

「あ、あはは……。だってインタビューなんかを受けていたら、三上さんの試合が終わってしまうと思ったから」

 

「おっ、三上選手じゃないですか。昨年のドイツで行われた世界選手権では柳澤監督の大抜擢で強化選手に選ばれておりましたが、やはりオリンピック出場に向けた最大のライバルは桐生選手ですか?」

 

私の事なんて無視してくれて良いのに目ざとく気が付いた一人の記者が、私にマイクを向ける。

 

「え、い、いえ、そんなライバルだなんておこがましい。ソウルオリンピックの52kg以下級は、もうほとんど桐生選手で決まっているようなものですから、私なんてとてもとても……」

 

「えぇぇっ! そんな事無いって! オリンピック代表なんてまだ決まってないし、この大会で私が三上さんに負けたら、三上さんが選ばれる事だってあるわ。だって、三上さんにはSM固めがあるんだしっ! あれ、足さばきと寝技があんまり得意でない外国人選手にはきっとよく効くわよ」

 

記者の言葉を否定する私に、突然横合いから桐生さんが口を挟む。

 

「え、今なんて名前の技って言いました、桐生選手?」

 

「だからぁ、エ――「わぁぁぁっ!! き、桐生さん!」」

 

恥ずかしい技名を報道陣の前で暴露されそうになった私は、必死で桐生さんの口を閉ざそうと両手で彼女の口を覆う。桐生さんは抗議するように、「も、もがっ?」とくぐもった声を上げるが、私は必死だった。

 

「ほ、ほら、桐生さん、世界選手権に持って行ったうちの家の苺大福、気に入っていたでしょう? 今日もたくさん持って来ているのよ。む、向こうで一緒に食べない?」

 

「ほんとっ!? うん、食べる食べるぅ♪ 三上餡本舗のお餅って柔らかくて、美味しいんだよねぇ。私、あれから時々、苺大福を山ほど食べる夢見るくらいだよ」

 

甘いものに目の無い桐生さんを思惑通り釣れた事で、私は内心でほっと息を吐く。

 

「で、でしょっ? じゃ、じゃあ、控室に行こう。今日はみたらし団子もあるんだよ」

 

「やった! 早く、早く行こう、三上さん!」

 

「えっ、ちょ、ちょっと桐生選手。少しで良いですからオリンピックに向けた意気込みを……」

 

記者さん達の間をかき分けて控室に向かい始めた私達を、何人かの記者が焦った様子で追いすがってくる。そんな記者さん達に対して桐生さんは、「まだオリンピックの代表選手に決まった訳じゃないですから、何も言えませんよ。ふんふーん、み、た、ら、し、団子♪ 楽しみだなぁ」と、鼻歌を歌いながら私の後ろを付いてきた。

 

 

 

「お、美味しい……。幸せ……」

 

左右のほっぺをぷくりと膨らませてお菓子を頬張っている今の桐生さんの姿からは、女子52kg以下級の世界最強女王の貫録は微塵も感じず、ただの食いしん坊のリスと言った方が良いありさまだった。控室には私達以外の出場選手も大勢いるが、世界女王のそんな姿が意外なのか、少なくない興味の視線が私達に集まっているのを感じる。

 

「はい、温かい宇治抹茶もどうぞ」

 

愛用のマグカップから湯気の立つ抹茶をカップに注ぎ、簡素なパイプ椅子に腰かけてお団子に舌鼓を打っている桐生さんに手渡す。

 

「わぁっ、ありがとう! ドイツでも頂いたけど、このお茶がまた美味しいのよねぇ。良いなぁ、三上さん、こんなに美味しいお菓子を毎日食べられて……」

 

「いくら家の家業と言っても、さすがに毎日は食べないわよ」と言いつつ、私も初戦で失った体力を少しでも回復させようと、パックの中の苺大福に手を伸ばしそれを口に運ぶ。途端に苺の甘酸っぱい酸味と母さんが絶妙な火加減で焚いた小豆の甘い味が口中にふわっと広がり、桐生さんじゃないけど思わず私の頬も緩んだ。

 

「三上さん、来年大学卒業ですよね? 卒業したら実家の和菓子屋さんを継ぐんですか?」

 

お茶で喉を湿らせていた桐生さんが私に顔を向ける。

 

「ええ、そのつもりよ。そんな約束で大学まで通わせてもらったし、そのつもりで在学中に製菓衛生師の資格も取ったしね」

 

「そっかぁ。じゃあ、どのみちソウルオリンピックが最後のオリンピックになるんですね。もったいないなぁ……」

 

「ふふふ、何言っているのよ。ソウルの52kg以下級の代表は桐生さんで決まりでしょ。良くて私は、昨年の世界選手権と同じように控え兼強化選手止まりよ」

 

実際の所、それがもっとも現実的な夢だろう。先ほどの報道陣の様子を見て分かるように、誰も、桐生さん以外の人間が52kg以下級の代表を射止めるなんて事を想像もしていないし、その想像は圧倒的に正しい。万が一その想像が外れると、日本中から悲鳴が上がるはずだ。

 

だから私は、この大会を決勝戦までどうにかして勝ち上がり、52kg以下級二位と言う実績で桐生さんの控え選手兼調整相手を目指している。それで彼女が金メダルを獲ってくれたら、私も彼女の役に立つためにこれまで努力してきたって胸を張る事ができる。

 

「そんなの、やってみないと分からないじゃないですか。私、三上さんと本気の戦いがしたくてこの大会に出場を決めたようなものなのに……」

 

「え……? 今、何て言ったの、桐生さん?」

 

「何でもありません。さ、お腹にたくさんエネルギーを蓄えたから、少し体を動かしてそれを全身に行きわたらせなくちゃ。三上さん、私、ちょっと一人で打ち込みしてくるから、もう行きますね」

 

「打ち込み……? 打ち込みなら、私が相手をしてあげようか、桐生さん?」

 

一人で打ち込みをするというのは、一人で壁を相手に型をなぞる調整の事だ。当然、一人でやるより相手がいた方がより効率的な調整が出来る。私が昨年、西ドイツで桐生さんの調整相手を務めていたように。

 

「駄目ですよ、三上さん。三上さんはもう私の調整相手じゃなくて、試合相手なんですから。それに、三上さんには三上さんの調整相手が来てくれているじゃないですか」

 

そう言って桐生さんが控室の扉に顎を振ると、扉の向こうから柔道着を着た大学の後輩がひょこっと顔を覗かせていた。いけない、地元だから来やすいんで、と私の調整相手を買って出てくれた後輩が、待ち合わせ場所の踊り場に私がいつまで経っても現れないので、こんな所まで様子を見に来てしまったようだった。

 

後輩の脇をすり抜けるようにして控室から退出した桐生さんは、最後に外から顔だけを覗かせて、彼女にしてはいつになく真剣な表情を私に向ける。

 

「……三上さん、一つだけ。独特の足技とSM固めが三上さんの得意技だという事は知っていますけど、それだけじゃあ、私には勝てませんよ。決勝戦で、一皮むけた三上さんと戦えることを私は期待しています。それじゃあ」

 

そして今度こそ桐生さんは控室から去っていった。右手に苺大福、左手にみたらし団子をしっかりと握り締めて。

 

 

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