ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side 三上 杏
「三上先輩、ファイトォ!」
「三上、ぼさっとするな! 来るぞ!」
後輩達の激励の言葉と監督の言葉が重なる。審判の「――始め」の合図と共に二回戦の対戦相手である筑紫大学2年の神崎選手が組み付いて来る。右組手の私に対して、神崎選手は左組手。つまり、互いに組手を譲らない限りケンカ四つという、相容れない組み手争いが発生する。
当然私は得意な右で組みたがるが、相手も得意な左で組むことを望んでいる。しかし、神崎選手の本来の階級は、56kg以下級。力と上背のある神崎選手が主導権を握るのは当然だった。彼女は体格に物を言わせて強引に得意な左組手で私の襟と袖を掴む。組み手争いに敗れた私は、効果的な襟と袖を掴む事が出来ず、技の選択肢が制限された。こうなると、私としてはどうしても後手に回らざるを得なくなる。
足技はかけられる。神崎選手の技の応酬の合間に私も足技を飛ばして、タイミングよくかかった時は彼女の身体がぐらりとよろめく。しかし、足技で相手を倒すには、上半身の連動が必須だ。つまりそれは、襟と袖口をしっかり取っている必要があるのだが、今の私にはどだい無理な話だった。
「――くっ!」
神崎選手の放った内股をけんけんでかろうじて躱す。筑波大学も柔道の名門だ。惜しい攻めをする神崎選手に、筑波大学の応援団が集う観客席の一隅から歓声が飛び、同時に私の応援団が集う一隅からは悲鳴のような声が飛ぶ。
左足がもう少しで宙に浮かされる! もって、私の足! 私はつま先立ちでこらえながら、場外を示す赤い線が引かれた畳までの距離を測り、なんとかそこまでは、と片足で跳ねるようにしながら逃げていく。
「――待てっ!」
神崎選手の足が赤い線を越えたのを見た審判が私達に制止の言葉を投げ返る。悔しそうにしかめ面で開始線に戻って行く神崎選手の後ろを、ほっと安堵の息を吐きながら私も続く。互いに開始線に戻った事を確認した審判が、再び「はじめっ!」と、試合開始の声を上げた。
審判の言葉が終わる前から一気呵成に飛びかかってくる神崎選手。先ほど際どい所を仕留めきれなかった事で、気持ちが逸っているのだろう。
チャンスッ!
勝利を焦ったのか、足さばきに乱れが見える神崎選手。彼女は再び左組手で私の動きを掣肘しようとするが、それで制限されるのは上半身だけ。私は自身の得意技である足払いを、彼女の足が重なった瞬間に仕掛けた。
「――しまっ!」
神崎選手の体幹が乱れた一瞬を逃さず、不十分な組手なりにどうにか彼女の身体を宙で制御し、畳の上に叩きつける。
「――効果!」
頭上からかけられたその声を聞いて、私は一瞬笑みを浮かべた。技有はもちろん、有効にも満たない、指導一つで並ばれる程度の小さなポイントだけど、それでもポイントはポイントだ。
だけど、私のその笑みは長く続かなかった。直ぐに審判は、先ほど宣告した『効果』を取り下げたのだ。寝技の攻防に意識を移していた私からは見えなかったけれど、おそらく副審のうちのどちらかが、効果は無いとジェスチャーで示したのだろう。
表情と行動には出さないけれど、内心でがくり、と肩を落とす私。試合経過時間はもうすぐ2分30秒に差し掛かろうとしている。ここで効果を取れれば、残り1分30秒守り切れるだろうと考えていた私の考えは潰えた。
その後も互いに極め手を欠きながら続けた私達の戦いを、残り30秒を切った段階で審判が止める。……? 不審に思い審判に顔を向けた私と、その審判の視線が交錯する。そして審判は私の顔に視線をとどめたまま、「指導っ!」と教育的指導を与えてきた。
――! そんなっ! 私は一縷の望みを兼ねて審判が次に対戦相手の神崎選手の方を見て同じ宣告をすることを期待したが、彼はそのまま試合を再開させた。つまり、審判の教育的指導は、私にだけ与えられたものだったわけだ。
途端に私の大学の部員が集う観客席の一隅からブーイングが飛ぶ。それは、「審判、どこ見てんのよ、ちゃんと三上は攻めていたじゃない!」、「相手だってかけ逃げばかりなのに、どうして!」などというものだった。
皆の言葉も分かる。だけど私は、この時にはもう審判の判断に一定の理解を示していた。だって、これまでにもこういう形での負け方は何度も経験があるから。皆の言葉の通り、私も受けてばかりだったわけでは無く、足技で対抗していた。その足技の中には、相手をよろめかしたものも確かにあった。だけど、いかんせん足技それも小内系だけでは十分に技を仕掛けたと評価されないのもまた事実だ。これが足技使いの弱点の一つ。
残り時間が少しづつ目減りしていく。神崎選手は、自身が教育指導を取られない程度の腰が引けた技を時折形ばかりに仕掛けてくる。そんな彼女を相手に、私には残り時間で逆転できるほどの大技が無い。これが桐生さんだったなら、きっと誰もが目を奪われるような一撃必殺の大技で大逆転勝利を掴むだろうに。
……ここまでかな。いくら一階級上の選手が相手だったとはいえ、二回戦で沈んでいてはソウルオリンピックの補欠選手に選ばれる可能性は皆無だろう。残り時間が15秒を切る。もう早く時間が過ぎてくれ、と半ば私が諦めの境地に至っていた時、その声は届いた。
「杏、がんばれぇっ! 諦めるな!」
「杏っ! あなたの柔道を最後まで貫きなさい!」
――! その声を私が聞き間違えるはずが無い。紛れもなくそれは、両親の張り上げた声。馬鹿だ、私は! 私にとっての最後の大会なのに、こんなみっともない姿を両親に見せるなんて! そんな事を考えていた時、私の瞳に、試合会場の隅で「三上さんっ! 三上さんなら出来る!」と声を張り上げている桐生さんの姿が映った。
桐生さん……。私より3歳も年下なのに、誰よりも柔道に対して真摯に向き合い、ただひたすらに強くなるための努力を怠らない、私が心から尊敬する柔道家。嫌だ、私は彼女と一緒にソウルに行きたい。国の威信を背負って、全国民が注目する畳の上に立ちたいなんておこがましい事は言わない。思ったりもしない。ただ、私に桐生さんが金メダルを獲るお手伝いをさせて欲しい。それだけで良い。
――そのためには、こんな所で負けてはいられない!
パンっと足を飛ばす私。その足は、鎌のような切れ味で神崎選手のバランスを一瞬で崩した。その一瞬の隙に、私は彼女の懐に深く飛び込んでいた。
何を仕掛けようとしているの、私は。
何を考えているの、私は。
彼女が出来るからと言って、私が出来るとは限らないじゃない。でも、少しでも桐生さんに近づきたいと思っていた私の脳裏には、何故か西ドイツの地で彼女が私の目前で仕掛けた幻の技がありありと浮かんでいた。
「――こんのぉっ!!」
上半身は一見して背負い投げのような動き。しかし、背負い投げなら両足はそろえて膝の力で相手を投げ飛ばす。この時の私は、当然のように足を揃えていなかった。それどころか、片足をまるで内股のように相手の足に飛ばし、私の右足が神崎選手の右の脛を跳ね上げる。
「――こんなッ!?」
相手も名門筑紫大学のエース。ここに来て神崎選手の体幹が戻る。跳ね上げられた足が宙で逃げようともがく。
――逃がすかっ! 蛸足。誰にどれほど教えて欲しいと請われても、説明のしようのない不思議な能力。私にはこれしかないんだ。だったらこれを極めよう。そう思って柔道を続けて来た6年間だった。そして、私にしては十分な武器になったと思っていた私だけの足技。
だけど、その足技にはまだ続きがあった。……それを、私はこの日知った。
ズダーーンッ!
自分から仕掛けたくせに、自分でも驚くほどの勢いで神崎選手を投げ飛ばしてしまった。相手選手の背中を畳に叩きつけるどころか、さらにそこから背中を回転させてしまい、満足に彼女の背中を畳に付ける事が出来なかった。
そのため、審判は斜め上に手を上げ、「――技有ぃ!」と高らかに宣告した。わ、技有……。もちろんいくら私でも一本勝ちで勝利を収めた事ぐらいある。でも、手に残るしびれ、足元から伝わる振動はこれまでで最も強く感じていた。これを私が……? 初めてと言って良い試合での経験に、私は先ほど仕掛けた『
「――三上さん、集中!!」
「――!?」
桐生さんの声で我に返った私は、試合時間終了間直に逆転された事で、焦ったように起き上がって私に寝技を仕掛けてきた神崎選手に気づく。
咄嗟に腹ばいになってその寝技に対抗する私だったが、さほど我慢する必要は無かった。直ぐに、審判から「それまでっ!」というタイムアップの言葉と、割れんばかりの大歓声が腹ばいになった私の頭上から届いた。
神崎選手も悔しかったのだろう。彼女は畳に腹ばいになった私の道着を一瞬悔しそうに叩き、その後肩を落として開始線に戻って行った。
……やった。勝った。もう少し、もう少しだけ、夢を見続けていられる。そして、両親に夢を見ている私の姿を見せてあげられる。その事が何よりも嬉しかった私は、畳に顔をおしつけたまま思わず涙ぐんでいた。
「――一本!」
二度目ともなると、山嵐で投げ飛ばした相手の身体を宙で整える事はさほど難しくなくなった。三回戦。開始2分と40秒。同階級の選手を二回戦の時と同じパターンで仕留めた私は、あまりにあっけなく決まったその試合に、我ながら拍子抜けする思いだった。
何度も言うが、私が4分間みっちり試合をせずに勝つ事など、めったにない。それも、こんな豪快な投げ技で勝つ事なんて本当にこれまで数えるほどしか無かった。
「三上、まさかお前に合う投げ技が、高難度の山嵐だったとはなぁ。もっと早くそれに気づいてやれていたら……。指導者失格だ。すまん、三上」
「監督……。そんな、頭を上げて下さい。監督の教えがあったから、辿り着いたんです」
試合場から降りた私に対して監督が頭を下げるものだから、私は思わず監督にそう声をかけて頭を上げてもらう。私の言葉は嘘偽りない本心だった。高校時代は全く無名だった私の足の珍しい特性を見出してくれて、それ一本だけで戦える程足技を鍛えてくれた。もちろんそれだけではなく、投げ技の苦手な私に背負い投げ、内股、払い腰と様々な技まで伝授してくれた。覚えの悪い私は、そのどの技もスペシャルと言う程の練度まで至る事は無かったけれど、山嵐という、私の足技とそれらの投げ技を組み合わせた技に昇華する事が出来た。
私達が会場の隅でそんな会話を交わしていると、突然試合会場を包み込む空気がピンと張り詰めたように感じた。自然と私の視線は、遠い対角線上の試合会場に向かう。
その畳の上にいたのは、つい先ほどまで側で私を激励してくれていた赤毛の少女と、彼女より二回りほど大きな体格の女性選手。赤毛の少女はもとより、彼女より更に大きな体格の選手の事も私は知っていた。その女性選手は、国内56kg以下級の大会でも優勝経験のある久留米東大学の垣内みのり。
遠くて聞こえないが、審判から始めの合図がかかったのだろう。先手必勝とばかりにその垣内選手が桐生さんに向かって一直線に仕掛けていく。52kg以下級でありながら、一見して48kg以下級に間違ってしまいそうなほど小柄な桐生さん。56kg以下級でも長身の選手で知られる垣内選手にとっては、彼女の奥襟をいち早く取ってその動きをコントロールするつもりなのだろう。
だけど、袖釣り込み腰の使い手である彼女にとって、それはまさに悪手だった。自身の頭越しに伸ばされたその手に釣り針を引っかける様にして高く吊り上げる桐生さん。そのまま彼女は垣内選手の飛び込んでくる勢いを殺さないまま、反時計回りに回転し一瞬で彼女の身体の下に隠れる。一呼吸の間も無かった。ほんの一瞬で長身の垣内選手の身体が宙に浮く。
ズダーーーン!
それは、瞬き一つで見逃してしまいそうになるほどの高速の『桐生スペシャル』だった。桐生さんは、片手袖釣り込み腰で相手を投げ飛ばした後のフォロースルーなのか、片手を畳に付きながらゆっくりと一回転した後、立ち上がった。
「「「「「「うぉぉぉぉーーーー!!」」」」」」
その瞬間、時が止まったようだった武道場の空気が一転して激しく荒れ狂った。観客席から上がったどよめきの声が、まるで地鳴りのように武道場を包み込む。
「ふー、やれやれ。何もあの子と同じ時期に同じ階級でやり合う事など無かっただろうになぁ。柔道の神様も意地が悪い。……三上、超えるべき頂きは高いぞ。準備は出来ているか?」
「はい、監督……!」
私に遅れてベスト8入りを決めた彼女は、悠然と畳から降りて行った。
その後私は続く2試合もどうにか勝利を収める事ができ、当初の目標であった決勝戦まで勝ち進む事が出来た。もちろん、決勝戦の相手は彼女だ。
私が緊張の面持ちと共に試合会場に足を踏み入れた時、試合会場である畳の反対側には既に桐生さんが待機していた。彼女は、瞑目したまま足を肩幅あたりまで広げて仁王立ちしており、何故か彼女の右手は自身の右耳に添えられていた。何かを聞いて精神集中している? それはまるで、貝殻を耳に充てて波の音を聞いているような素振りだった。……? 昨年の世界選手権ではあのような精神集中は行っておらず、せいぜい控室で彼女のお気に入りのロックバンドの曲をカセットレコーダーで聞いているだけだったのだけど。
「三上、相手の事は気にするな。いいか、桐生は引くという事を知らん。どれほど有利な状況でも彼女は決して手を緩めない。それは、激しい竜巻の中に身を置くという事を意味するが、攻めてくる以上リスクとリターンは表裏一体だ。
幸い、お前は昨年の世界選手権で彼女の調整相手を務めている。彼女がどんなタイミングで一息つくか、隙を見せる場所はどこか、お前なら見極められるはずだ。いや、お前以外にそれを見極める事が出来る者はおらん!
勝負である以上、絶対なんてものは無い。応援してくれているご両親にも、女王に真っ向から立ち向かう姿を見せてやれ!」
監督の言葉に、私は観客席の一角に視線を投げかける。そこには部員の仲間達と、真剣な表情でこちらを見つめている両親がいた。そして私は、そのまま観客席全体を見渡す。皆、これから始まる決勝戦を見届けようと、食い入るように私達を見つめていた。既に重量級と中量級の決勝戦は終わっている。つまり、これから始まる軽量級の決勝戦がこの日最後の試合という事になる。
「はい、監督。彼女は私が最も尊敬して憧れる柔道家です。でも、これからの4分間だけはその憧れを捨てます。私の持てる全力で下剋上を起こしてみせます!」
「その意気だ! さあ、行ってこい! そして、新女王として帰って来い!」
そして私は監督に背を押され、畳の上にゆっくりと上がって行った。