ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side 三上 杏
互いにゆっくりと開始線に向かう私達。主審の元に集まっていた二人の副審がそれぞれ対角線上の所定の位置に戻って行く間、私は彼女の爛々と光る視線と真正面から対峙していた。
桐生さんとは昨年西ドイツでの世界選手権で何度も何度も組み合ったけれど、こうして観衆が見守る公式戦で直接対峙するのは初めてだった。もちろん練習では何度も対戦している。昨年の世界選手権前の強化合宿中には、乱取りはもちろん寝技の稽古もした事がある。それらの練習で私は一度も桐生さんに土を付けた事が無い。立ち技でも、寝技でもだ。
あれから私はどれほど成長したのか。あと数秒もすれば、その答えが出るだろう。桐生さんの真剣な表情は、友人を見つめるそれでは無く、もちろん先ほど控室で見せていたような可愛らしい表情でもない。それは、視線が可視化されると肌が切れるのではないかと思わず感じてしまうほどの、“柔道家 桐生茜”の本気の視線。
ありがたい。彼女は今この瞬間、私を友人としてではなく、倒すべき対戦相手として見てくれている。
恥ずかしくない試合をしよう。それがどのような結果になろうと、決してこれからの私の人生にとってマイナスにはならないはずだ。
主審が私達に交互に視線を投げかけた後、「始めっ!」の声を武道館全体に響き渡るように上げた。
互いに右組手の私達だったが、先に良い所を取ったのは私だった。というより、桐生さんは基本的に組手争いをしないので、私が良い所を譲ってもらっただけだ。そのくせ、私は桐生さんにベストポジションを取られたくなくて、桐生さんの伸ばした手を払うのだから、我ながら情けない。
でも、これぐらいは私と彼女の実力差に対するハンディと思ってもらおう……、と考えていた私は、すぐにとんでもない思い違いをしていた事に気づく。
――くあっ!
意識の外から急に飛ばされたように感じるほど突然に払われた出足払いに、昨日まで足技しか取り柄の無かった私の身体がぐらつく。
「――しっ!」
私の身体が後ろに流れたのを見て、桐生さんが一足飛びに私の懐に飛び込んでくる。仕掛けられているのは、大内刈り。私の左足を彼女の右足が内側から刈ってくる。
彼女が十分な釣り手と引き手を取れていれば、私はこの大内刈りに抗う事は出来なかっただろう。それほど完璧なタイミングで放たれた大内刈りだったが、組手が彼女にとって不十分だった事と、彼女より上背があった事で(後おそらく体重も……)、かろうじて私はその大内刈りを受け止め、逆に大内返しを仕掛けようとする。
大内返しとは、大内刈りの返し技であり、後の先の技の一種。形としては、大内刈りで内側から刈りに来た脚をそのまま払い上げ、左後方に投げる小外掛に近い形になる。前のめりになって大きく
……しかし、私は大内返しを掛けながら気づいた。
確かに彼女の体幹は崩れている! でも、これは……!
二流の選手は、相手に崩されるまでもなく自ら体幹を崩す。一流の選手は、自身が技を仕掛けても体幹を崩さないし、たとえ崩れたとしてもそれを容易に相手に悟らせない。
しかし、彼女は……。一流のその先の領域に足を踏み込んでいる彼女は、あえて体幹を崩しそこに罠を張る!
小外掛けを仕掛けようとして今度は私の方が前のめりになる。その私の眼前で、桐生さんが半時計回りに身体を回転させている。気づけば、いつの間にか私の袖口は彼女によって高く釣り上げられていた。
いけないっ! これは彼女の――!
ドンッと、まるで突然真下に象が出現し体当たりしてきたような圧力と衝撃を感じ、先ほどまで確かに私の両足裏から感じていた畳の感触が一瞬で消え失せる。ばたばたばた……、と私の柔道着の裾が凄まじい遠心力によって波打つ音まで何故か鮮明に耳朶に張り付いてくる。
駄目だ……。負けた……! ごめん、皆! ごめん、お父さん、お母さん!
抗いようもない程の強烈な遠心力で、私は自身の背が畳に叩きつけられる前から敗北を悟り、この後襲ってくる衝撃に備える様に目を固く瞑る。同時に、せめて完璧な受け身を取ろうと顎を引く。
ダダーーーン!
来たっ! もはや私に出来る事は後頭部を打たないよう受け身を取る事だけだった。直ぐに審判の試合の終了を告げる宣告が、高らかと告げられる事だろう。
「――技有ぃっ!!」
ほら、終わった……。ん……? 今、何て……? 私は畳に仰向けに横たわったまま審判を見上げる。間違いない。一本なら審判の腕は高く天を指しているはずなのに、その審判の腕は今、肩程の高さに挙げるにとどまっている。
「――ぼやっとするなぁっ、三上! 寝技が来るぞ!」
――! そうだった! 犬がへそ天をするような無防備な態勢で畳に横たわってなどいたら、寝技の恰好の餌食だ。監督の声で我に返った私は咄嗟にうつ伏せになり硬く身体を丸める。そこまでしてようやく私は気付いた。桐生さんが一向に寝技を仕掛けてこない事に。私は、亀の態勢を崩さないまま、ちらっと側にいるはずの桐生さんを横目で見る。
すると、何故か桐生さんは、片膝を畳についた態勢のまま茫然と私を見つめていた。
……? どうしたの……? どうして攻めてこないの? ううん、攻めてこないどころか、今私が桐生さんに飛びかかったら逆に私が抑え込みできそうなほど、今の桐生さんは隙だらけだった。
さきほど桐生さんに罠を仕掛けられた事の自覚のある私はもちろん、そんな誘惑には乗らなかったが、それでも桐生さんの行動の意味が理解できない。
そうだ、そもそもどうして私は先ほど一本を取られなかったんだろう。回転しすぎた……? 思えば、先ほど投げられた時の衝撃は背中全体から感じたわけでは無かった。どちらかと言えば背中の右半身からだ。つまり、完全に畳に背を付いたわけでは無かった。それゆえに、審判も一本を宣告しなかったのだろう。
では、何故そんな事が起こったのだろう。袖釣り込み腰と言う名の凄まじい
では、桐生さんがミスをした? この、投げ技の鬼であり、世界で最も袖釣り込み腰を得意としていると言っても過言でない桐生さんが……?
私がそんな疑念を胸に抱きながら彼女を見つめていると、私達が寝技の攻防に移らない事を見て取った審判が「待て」と声をかけた。
「くっ! これも……!?」
体重が乗りすぎていた桐生さんの右足に飛ばした私の出足払いだったが、さきほどの大内刈り同様これも誘いだったようだ。どっしりと畳に根が張ったようにびくともしなかった足の手ごたえからそれを悟った私は、引き気味だった腰を更に引いて彼女から距離をとる。しかし、彼女はそんな私に大技の体落としをしかけ、それをかろうじて躱した私に、今度は小技を効かせて小内刈りを仕掛けてくる。
前後に振られた私は、かろうじて彼女の引き手を切って、うつ伏せに畳に倒れ込む事でその猛攻から逃れる。
どうやらこの試合、彼女は寝技での決着を望んでいないらしく、寝技の攻防を警戒して亀のように丸まった私を無視して、一人開始線に戻って行く。その様子を見て私もゆっくりと立ち上がり、開始線に向かう。
再び開始線に戻った私達だったが、審判が私の方を指差して柔道着の乱れを指摘した。そこで初めて私は、自身の柔道着が乱れて帯が解けかかっている事に気づく。おそらく、先ほど彼女の引き手をむりやり切った時に乱れたのだろう。
私はこれ幸いと、緩んだ帯をほどき柔道着を整える間に息を整える。桐生さんの連続技を受ける事に必死だったけれど、気づけば柔道着の中に着込んだ真新しいTシャツが汗でびっしょりと濡れていた。
ちらっと桐生さんに視線を投げかけると、桐生さんの柔道着はほとんど着崩れていなかった。その差が、これまでの私達の攻防の優勢を物語っているように感じられた。
……強いな。ほんと、思わず笑いたくなるくらいに彼女は強い。今日も含めてこれまで私が対戦した国内外の選手の中には、桐生さんより動きの速い選手や、桐生さんより力の強い選手が皆無だったわけではない。でも、強いのは桐生さんだ。それだけははっきり言える。
ただ、その比較対象にかつて1分と持たずに投げ飛ばされた猪熊選手が加わると果たしてどうだろう。二人と対戦した経験のある私としては、速さと力に関しては甲乙つけがたい気がする。あえて差をつけるなら、技のキレ味は猪熊選手に、技の組み立てを含めた試合運びでは桐生さんに軍配が上がるだろうか。反射神経、技の完成度、柔道センスなども含めだすと、もう私などでは判別できないほど両者の力は拮抗している。
ただ、唯一明確に異なると確信を持っているのは、試合に臨む際の互いの心持ちだ。今はどうか知らないけれど、私と対戦した時の猪熊選手はただ淡々とノルマをこなすというか、勝てばいいんでしょ、という彼女の投げやりな思考が、彼女と組み合った瞬間私に伝わった。
対して桐生さんの方はと言えば、これは明確。彼女は柔道の試合を心から楽しんでいる。この決勝戦までも彼女は他の一般枠の選手と同様にシード枠を使わず1回戦から戦っているし、どういうわけか彼女の入ったトーナメントの山には、階級・国籍を問わず輝かしい実績を有する強豪選手がごろごろいた。
その事に気づいていたのは私だけでは無かったようで、数時間前には、廊下で知らない柔道選手達が、
「桐生って、もしかして●奥圓明流の継承者って線は無い? だって、いくら何でもあのトーナメント表の位置はおかしいでしょう!?」
「ねえ、
などと噂している所に出くわしていた。
シード枠を行使しなかったのは百歩譲って真実だとしても、さすがに目玉選手とは言え一柔道選手が、出たいトーナメント枠を選ぶ事は不可能だろう。そもそもそれを言い出したら、私のいたトーナメントの山には彼女が最後に戦いたいと望む選手がいて、今頃はその選手が決勝戦で彼女と戦っていたはずなんだから。私に代わって。
そんなくだらない事を考えている間に、乱れた柔道着を整え終わった私は最後に帯をギュッと締めて、口角を上げてこちらを見つめてる桐生さんの視線を真っ向から受け止める。桐生さんがこの階級の最後の試合で誰と戦う事を望んでいたのかは分からないけれど、今この決勝戦の場に立っているのは私! 桐生さんを失望させない試合をしないと、彼女にも、この会場で私を応援してくれている数少ない観客達にも申し訳が立たない。
行くわよっ、“世界女王 桐生茜”! 時計の針は、試合開始51秒が過ぎた事を示していた。残り3分強。後悔しないよう、私の全てを彼女にぶつけてやる!
そして、私と桐生さんとの戦いの第2幕が切って落とされた。
先に釣り手と引き手の両方を取ったのは私だった。桐生さんには引き手である袖は取られているけど、釣り手である襟はまだ取られていない。これは、桐生さんが組手争いを苦手としているのではなく、彼女の悪癖と言って良い。
猪熊選手と桐生さんの違いに、試合を楽しむかどうかのスタンスの違いがあると私は感じているが、相手に良い所を取らせて相手が最も得意とする技を出させようとする試合運びは、その彼女の性格がもろに表に出た戦い方だ。
この悪癖は、後で彼女に伝えて矯正しなければならない。ソウルまでには必ず。でも、今この瞬間だけは、彼女のこの悪癖を利用させてもらう!
引き手を取られていないという事は、今桐生さんの力は半減しているという事だ。その間に攻める!
桐生さんの袖と襟を取った釣り手と引き手を上下に振って、彼女に引き手を取らせる隙を作らせないと同時に、桐生さんの身体を激しく揺り動かす。そうしないと、桐生さんクラスの選手の体幹を乱す事などできない。私の揺り動かしによって、桐生さんの完璧なすり足が僅かに乱れる。その乱れた足を狙って出足払いを仕掛ける私。
ぐらっ……。桐生さんの身体がよろめく。
――今だっ!
桐生さんの右足のくるぶしに吸い付いたままの私の左足裏。彼女の右足が宙に浮く。そのまま私は桐生さんの右袖を引き付け、足ばかりか彼女の身体全てを宙に浮かせる事に成功する。
「――三上、SM!」
私の必勝パターンである事を知っている観客席の部員達から飛んだ声が私の耳朶を打つ。常なら(やめてっ!)と赤面するその呼称だが、今この時に限っては、私の胸中とそれは完全に一致していた。
――言われなくても分かってる! いくよ、SM固め!
こんな好機は二度と巡って来ないかもしれない。この私有利な態勢は、今度こそ誘いで無いと信じたい。いや、信じる事にする! 私は足技と袈裟固めの合わせ技であるSM固めに捉えようと、宙にある桐生さんの身体を制御し始める。
しかし、桐生さんは私などに制御できる人ではやはり無かった。なんと彼女は、私が蛸足を駆使して彼女の下半身を崩している間に、自身の下半身を捨てて上半身に活路を見出していたのだ。
知らぬ間に緩まされていた、彼女の襟元を取った私の釣り手。釣り手を外された私はSM固めを諦め、せめて彼女の背中をほんの僅かでも畳に叩きつけようとする動きに切り替える。
ズダーーン! ほとんど互いに横倒しの恰好で倒れた私達。頭上から「効果ッ!」の声が上がり、やった、と私が笑みを浮かべる前に、観客席から『どおおっ!』と津波のようなどよめきが起こった。
後から知った事だが、桐生さんが国内52kg以下級の女王となって以来、公式戦で指導などではなく技を受けてのポイントを取られたのは、これが初めてだったらしい。
そのまま「待てっ!」の主審の声がかけられ、膝立ちだった私はゆっくりと立ち上がる。そして私のすぐ隣でやはり立ち上がろうとしていた桐生さんに、私は自然と手を差し出していた。その行動に一瞬桐生さんの動きが止まったが、すぐに私の差し出した手を取って立ち上がる。彼女の顔が私に最接近した時、桐生さんの唇が僅かに動き私に耳打ちする。
(くすっ。もう少しで『三上杏 桐生茜をSM固めで降す』っていう記事が紙面に載るところでしたね)
「――やめてっ!?」
思わず大声を上げた私は、審判から私語は控えるように注意されるのだった。
「――腰を絶対に引くな、三上!」
桐生さんの仕掛けた背負い投げから小内刈りの連携技を、たたらを踏みながらかろうじて堪えた直後、監督からそんな声が投げかけられる。私は『分かってます!』と、胸のうちで激しく同意する。
投げ技の達人である桐生さんに対して腰を引けば、それはまな板の上の鯉も同様だ。こちらからはろくに攻撃できず、ただ一方的に嬲られるだけ。恐怖でしかないけれど、こちらの技も届く間合いで彼女と対峙し続ける事だけが唯一の勝機だ。ましてや、桐生さんは技有、私は効果と、ポイントで負けている!
仕掛けを躱された事で桐生さんが身を翻し、互いの間合いの重なった空間に何もない空白の時間が発生する。負けている方から仕掛けないと! その空白の間合いに真っ先に飛び込んだのは私。仕掛けるのは、まだこの試合で一度も放っていない大技『山嵐』。
しかし、攻撃の手を緩めない桐生さんも同時に仕掛けていた。彼女はおそらく一本背負い。互いに前掛かりの技を仕掛けようとしたため、私と桐生さんの肩がぶつかり合い、互いの技の初動がキャンセルされる。先に激突の衝撃から立ち直ったのは、私より遥かに反射神経に優れる桐生さんだった。
よろめく私を尻目に、桐生さんは前置きは必要ないとばかりに再び懐に飛び込んでくる。というより、先ほどの激突も彼女なりに狙った上での戦略だったのかもしれない。彼女の柔道IQの高さを肌身で知っている私はそう思い返しながら、仕掛けられている技へ必死に抗う。
彼女の引き手が気付いたら釣り手に代わっているのみならず、その片袖が高く釣りあげられている事から、掛けられようとしている技の正体に嫌でも察しがついた。
二度目……! 一度目は『弘法も筆の誤り』と言うべきか、桐生さんのミスで命拾いした。でも、彼女は同じミスを二度犯したりしない。畳から身体を浮かされないよう、がくんと腰を落としつつ、両足の指で必至で畳を掴もうとする私。
しかし、再び私を下方から襲う強烈な突き上げ。私の両足の指が畳から引きはがされまいと、必死に抗う。
――!
畳の上に一つの“気づき”だけを残し、再び私の身体は宙を舞った。
「――くはっ!」
背中から感じる衝撃。しかし私は、審判の宣告を聞く前から行動に移していた。瞬時に立ち上がった私は、再度私を仕留めそこなった桐生さんに対し加速する。遅れて「――有効!」の言葉が私の背中から届くが、それは私の予想と一致していた。
およそ使えない技など無いのでは、と思える程の数多の技を使いこなす桐生さんにとって最も習熟度が高いと言って良い袖釣り込み腰。その袖釣り込み腰を完璧なタイミングで二度放ち、二度仕留めそこなった。誰よりもその事に動揺しているのは桐生さんだった。
組んだだけで分かる。桐生さんの反応がいつもより鈍い。まだ彼女は分かっていない。でも、私は分かっていた。いや、一度目は分からなかった。私はただ彼女が袖釣り込み腰の制御にミスをしたと理解していた。
しかし、違ったのだ。一度目も二度目も桐生さんはミスをしていない。袖釣り込み腰で一本を取れなかった理由。それは、桐生さんの方ではなく、私の方にあった。
――蛸足。それが二度も彼女の
だけど私は、まだ蛸足を攻撃面でしか使っていなかった。馬鹿だ、私は。守備面でも蛸足は有効じゃないか。それは、自覚しないまま桐生さんの吊り上げに抗っていた両足の指使いからも明らか。
桐生さんに比べて実力の大きく劣る私には、攻防一体のこの特技を活かす事でしか彼女に勝つ手段は無い……!
いくわよっ、三上杏! 女は度胸!
私は勇気を胸に一足飛びに桐生さんの懐に飛び込む。狙うはもちろん“山嵐”。自力に劣り、現状負けている私が試合を制するには短期決戦を挑むしかないのだから、これは必然だった。
背負い投げの動きを取る上半身と、払い腰を想起させる動きを取る下半身を連動させ、桐生さんを“山嵐”という名の
「――せぇぇぇいっ!!」
空振っても構わぬ、と言う決意と共に右足を跳ね上げ、桐生さんの両足を高く、高く刈り上げる。ジャァァッという畳を擦る摩擦音と、指先から伝わる確かな摩擦熱が、私の感覚をより鋭敏にしていく。
「――くっ! 離せぇぇっ!」
――絶対に離さないっ! 私の右足は、桐生さんの右足にぴったりと張り付いたまま彼女の身体を最高到達点まで導いていく。
お願い、もう少し、もう少しだけ……! 桐生さんの勝利を信じて疑いもしていなかっただろうほとんどの観客から悲鳴のような声が漏れるが、ある光景が脳裏に浮かぶ事でその声は私の耳から霧散して消えていく。
国際色豊かな観客で満たされた格式高い試合会場。日の丸を背に表彰台の一番高い場所に上がった私の首に、金色に輝くメダルが厳かにかけられる。観客席に目を移せば、日の丸の旗を手に涙ぐんでこちらを見つめている父さん、母さんが……。そんな夢はもうとっくに諦めた、桐生さんが金メダルを獲れるよう裏方に務める、誰もが桐生さんが代表に選ばれる事を望んでいるとどれほど口にしても、心のどこかではその光景を夢に見ていたのだろう。
お願いよ、桐生さん。あなたにはまだ次があるじゃない。今回だけは私に譲って――
――!
引き手を外された! 桐生さんの身体を最高点に導き次の動作に移るというタイミングで、彼女は計っていたように自身の袖を強く引き戻し、私の引き手による拘束から逃れたのだ。そうよ、これが桐生茜……! 柔道をこよなく愛し、どこまでも勝利にどん欲な尊敬すべき彼女に、勝ちを譲って欲しいなんて願う私が愚かだった……!
引き手を外し上半身の自由を得た彼女は、逆さまの態勢からどのように空間認識が出来ていたのか、宙でまるで猫のように態勢を整え、何でもなかったように両足で着地する。
乾坤一擲の山嵐は不発に終わった。原因は私の練度不足だ。いくつもの複雑な動作を同時進行で行う必要のある技を扱うには、試合数も練習時間もまるで足りていなかったという事だろう。あの技で桐生さんに与えたダメージは皆無。強いて言えば、桐生さんが身に纏った柔道着が大きくはだけて、鉢巻を巻いた猫の顔がプリントされたTシャツが露わになっている事が、ダメージと言えばダメージだろうか。
そして今、その特攻服を身に纏った猫が一瞬で私との距離を詰めて来た。千載一遇の好機を逃してしまった事に落胆していた私だったが、身体は自然に動いていた。彼女の強く踏み出した右足を狙って完璧なタイミングで講道館柔道足技21本の一つ『
相手の足首に自分の足を当て、そこを支点に、相手を釣り手で釣り上げつつ引き手で支え、まるで車のハンドルを回す様に回転させ投げる技。
――痛っ! 桐生さんの袖口を取っている引き手に力を入れた瞬間激痛が走り、私は思わず顔を歪める。技の仕掛けの最中にゆっくり確認している時間などあるはずもないが、一瞬視界に入った私の左手人差し指には爪が存在していなかった。おそらく先ほど山嵐の仕掛けの最中に桐生さんに引き手を切られたために剥がれたのだろう。
大丈夫、骨が折れたわけじゃない。たかだか爪が一枚剥がれただけだ。痛みは気合でカバーすれば良い。そのまま技の仕掛けを続けた事で赤い鮮血が宙を舞ったが、私のそんな犠牲を払った支釣込足すら桐生さんには軽く躱される。彼女はバランスを崩される前に、蛸足で吸い付かれた右足を飛び越える様にして左足を踏み出し、私の支釣込足を無効化する。
そしてそのままの勢いを利用して彼女は、袖釣り込み腰の態勢を取る。間合いから逃れようと私は桐生さんにとられた引き手を切る。瞬間、桐生さんの指先からも鮮血が舞ったが、彼女はそれを一顧だにせずに片手で仕掛けてくる。
――桐生スペシャル!
「――せぇぇぃっ!」
「――ぐううっ!」
私の身体が
「――しぶといっ! だったらっ!」
突如桐生さんは、自身の上半身をさらに捩じる事で、縦方向に加えて横方向の力で私を畳から引きはがそうとする。縦の力に加えて横からの力が合わさると、私の抵抗もそこまでだった。蛸足は畳から引きはがされ、直後私は背中から畳に叩きつけられた。
「――一本!」
……。審判のその宣告を、私は畳に仰向けになったまま茫然と聞く。
桐生さんは気付いていた。自身の得意技で二度も仕留めそこなった原因に。だけど、それは驚くほどの事じゃない。桐生さんなら試合の最中に気づいて当然。だから、私が今茫然としているのは、全く別の所にあった。
あの瞬間彼女は、片手で私を釣り上げつつ、技の軌道を仕掛けの最中に変化させたのだ。綱渡りのようなバランス感覚でかろうじて成立している超高難度の片手袖釣り込みの最中に、そんな動作が取れるなんて……。
……天才……ね。やっぱり私なんかが分不相応な夢を持つべきでは無かった。つつーと、双眸から涙が一筋零れ私の耳朶をくすぐった。そのままぐすっと鼻を鳴らしていると、畳に横たわったままの私の眼前に差し出される手。
「……大丈夫、三上さん?」
彼女が私に差し出した右手の人差し指には爪が無かった。やっぱりさっきのは……。
「……うん、ありがとう、桐生さん」と、彼女の爪の失われた指に負担を掛けないよう軽く握り返す。そのまま強い力で桐生さんに引き上げられながら私は、(桐生さん、来週希望していた大学の入学試験だったはずなのに、悪いことしちゃったな……)と場違いな事を考えていた。
「ごめんね、お父さん、お母さん。お店を閉めてまで応援に来てくれたのに、良い所を見せて上げられなくて……。オリンピックにも連れて行って……ぐすっ」
京都市武道センターの舞台袖。表彰式が終わり人気の疎らになったその場所で、私は肩を落としながらそう両親に謝罪する。これまで好きな事をさせてくれた両親をオリンピックに連れて行って上げたかった。最後まで口に出来ず涙を零した私だったが、お母さんが私のテーピングに巻かれた手をそっと握って首を振る。
「ううん、今日は杏の頑張りをたくさん見せてもらったわ。よく頑張ったわね、杏。オリンピックに出られなくても、私達にはこのあなたの6年間の頑張りが凝縮された手が何よりの勲章よ」
「ああ、そうだぞ、杏。それに、公式戦はこれで終わりかもしれないが、桐生選手の調整選手としては内定を貰えたんだろう? 次はあの子がオリンピックで金メダルを獲れるよう、裏から支えてやれよ。餅屋だけに、縁の下の力餅ってな」
「ぷっ、ちょっとやめてよ、お父さん、そのおやじギャグ。泣いていいのか、笑っていいのか分からなくなっちゃう。あ、あはは」
「そうですよ、お父さん。そんな事ばかり言っているから、お客様にいつも寒い、寒いと言われるんですよ」
「お店でもやってるの? もう、私がお店を継いだらお父さんは接客に出さないんだから」
私が両親とそんな会話を交わしていると、狭い通路の先で、桐生さんがこちらをじっと見つめている事に気づく。もう私服に着替えている所を見ると、これから秋田に帰るところなのだろう。おおかた、お別れの挨拶に来たものの私と両親の姿を見て、話しかけるのを躊躇しているという所だろうか。
「お父さん、お母さん、桐生さんが――」
私は両親に桐生さんがあいさつに来たことを伝えようとするが、その桐生さんは口だけを「またね」と動かし、私が声をかける間もなく踵を返して去って行った。
またね……か。うん、またね、だね。オリンピックイヤーである今年の夏。更に強くなった彼女と再会できる事を願って、私は彼女の小さくなっていく背中を見つめていた。
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「――一本!」
解説席から軽量級の決勝戦の模様を息をすることを忘れたように見入っていた山上は、主審の手が高々と上がり桐生茜の勝利を宣告したのを確認すると、ようやくはーと、深い息を吐いて背もたれにもたれかかった。
元日本男子柔道重量級の山上の重い身体が預けられた事で、解説者用の簡素なパイプ椅子がギギッと悲鳴のような音を立てる。
彼の隣で京都KUテレビの腕章を巻いたアナウンサーが、興奮した面持ちで山上に水を向ける。
「いやー、まさに手に汗握る決勝戦でしたね。大方の下馬評通り『第17回 京都女子柔道選手権大会』の軽量級を制したのは世界女王の桐生茜選手でしたが、対戦相手の三上杏選手も実に健闘しましたね」
「ええ、結果としては三上選手が獲ったポイントは効果だけでしたが、桐生選手から初めてポイントを取ったわけですからね。特に最後に三上選手が仕掛けた『山嵐』は、実に惜しかったですね。いやー、本物に限りなく近い『山嵐』をこの目で見る事が出来て幸せでした。この放送は関西圏だけしか放送していないんでしたっけ?」
山上の問いかけに、京都KUテレビのアナウンサーが頷く。
「では、この試合の模様を見ていた視聴者と、私達を含めたこの会場に詰め掛けた観客達は幸運でしたね。なにせ、最近ではもっぱら“講道館柔道の完成形”とも謳われている桐生選手と、かつてその講道館で四天王の一人と謳われた西郷四郎先生が編み出した『山嵐』の激突を見る事が出来たんですから。いやー、これは犀藤も見たがっただろうなぁ」
山上の言葉の通り、試合会場を取り囲む観客席からは先ほどの見事な試合に対する熱気のようなものが、立ち上がっているように見えた。
「なるほど。しかし、山嵐と言う技はそれほど珍しい技なのですか? 確かにあまり使い手はいませんが、去年桐生選手はその山嵐でソビエトのフルシチョワ選手を破ったと記憶していますが……」
アナウンサーの問いかけに、山上は首を振って応える。
「確かに山嵐と言う技は現代でも使い手がいないわけではありません。しかし、彼らが使う山嵐と西郷先生のそれは全く別物と言っていい程、違います。山嵐の特徴として、相手選手の足を自身の足で払うという点がありますが、現代の山嵐の使い手はせいぜい腰ほどの高さまで相手の足を払えば良い方です。
しかし、伝え聞くところによると、西郷先生の山嵐は、相手の身体を自身の頭頂部を超える程高くまで跳ね上げたそうです」
「頭頂部を超える程、というと、先ほどの三上選手のように……?」
ちょうど解説席に置かれた小さなモニターに、三上の払った技によって上下が逆転した状態で身体が高く浮き上がった桐生選手の様子が静止画で映る。
「そう、これです。これが本物の山嵐です。こんなに高く相手選手の身体を跳ね上げる事は、普通の選手にはできません。去年の世界選手権で桐生選手も山嵐を放ちましたよね? あれも良い線いってはいたのですが、それでもせいぜい胸高程度でした。だから、これを成すには蛸足である事が必須なんですよ」
「蛸足……。山上さんが三上選手の試合中に何度か言及していた特殊技能ですね?」
「そうです。三上選手の事は以前から蛸足の素養がある選手と知ってはいましたが、この大会でそれが完全に開花しましたね」
「なるほど。それでは、桐生選手は、かつて明治の時代に生きた講道館四天王 西郷四郎先生の山嵐を破ったという事ですね」
確認するように問いかけるアナウンサーに対して、山上は難しい顔をして唸った。
「……いえ、正確には、それは違うと言わせてもらいます」
「何故でしょう? 先ほど山上さんは三上選手の放った山嵐は、同じ蛸足を有した西郷先生のそれと同じだとおっしゃったように思えますが?」
「確かに、蛸足を有しているという点は一致しています。ただし、山嵐は蛸足だけで成立する技ではありません。相手選手の身体を最高点まで持ち上げた後。その後相手選手の身体を畳に叩きつける、そこまで出来て初めて山嵐と言えます」
山上はそこで言葉を切り、互いに開始線に戻り礼をした後抱き合う二人を見つめながら続ける。
「西郷先生が生きた明治は、まだ柔術から柔道が誕生して間もない時期です。言わば柔術から柔道へと変遷する過渡期と言っていい。これは、文献で知っているだけですが、どうやら西郷先生の放った山嵐は、相手を最高到達点から投げるのではなく、墜とすと言った方がしっくりくる技だったそうです」
「墜とす……ですか。それは例えば背負い落しのような……?」
「そうです、そうです。背負い落しに近いですね。つまり、受け身の取りにくい危険な技な訳ですが、技は技。将来はともかくとして現在そのような墜とし方をしても反則ではありませんし、間違いなくポイントとして数えられるでしょう。ですが、三上選手は堕としていませんよね。ほら、見て下さい、ここ」
山上は机の上に置かれた小さなモニターを指差す。そこには、最高到達点に桐生を導いた後、弧を描く様に桐生を投げにかかっている三上の姿が。
「……確かに投げていますね」
「でしょう? 多分三上選手は山嵐と言う技が、本来受け身の取れない危険性を孕んだ技だという認識が無いのだと思いますよ」
山上は、畳から降りて監督と思わしき男性と軽い抱擁を交わす三上を、目を細めて見つめる。
「……良い指導者に巡り合えたんでしょう。彼女にとって投げ技と言えば、受け身の取れる投げ技以外考えられないのではないでしょうか。三上選手は柔道歴6年との事ですが、その6年間の彼女の柔道に対する真摯な取り組みが容易に思い浮かびますね」
「では、もし三上選手が投げるのではなく堕とす形で山嵐を繰り出していると、三上選手が勝っていたかもしれないと……?」
アナウンサーのその仮定の問いかけに、再び山上はいやいや、と首を振る。
「そうなったらそうなったで、桐生選手もそのまま堕とされなかったとは思いますよ。一つだけ、解説者と言う立場ではなく、一柔道家と言う立場で構いませんか?」
もちろんです、とアナウンサーが頷いたのを確認した山上は、故人に敬意を表するように幾分姿勢を正して言葉を発する。
「かの西郷先生は、柔術から柔道への転換期に生きた柔道家です。『術』から『道』ですね。私は西郷先生の山嵐と、三上選手の山嵐がそれを如実に表していると思っています。三上選手は西郷先生と同様の蛸足の保有者でありながら、受け身の取れない強力無比な山嵐ではなく、受け身の取りやすい山嵐をこうして現代に蘇らせたわけです。私は、その事を西郷先生自身が一番喜んでいるのではないかな、と思います」
表彰式が終わり観客達が疎らになった京都市武道センター。胸に付けていたピンマイクをアナウンサーに返し会場を後にしようとした山上に声をかける者が。
「やあ、山上君。山嵐に対する君の見解を聞かせてもらったよ。なかなか良い事を言うじゃないか」
「――! 柳澤監督! 京都に来られていたのですか!?」
全日本女子柔道チームの監督である柳澤の姿を目にし、目を丸くして驚く山上。
「ああ、オリンピックイヤーを迎えた桐生の調子を直に見ておきたくてな。君の言葉じゃないが、おかげで良いものが見れたよ」
それが何を指しているのか分からない山上ではない。山上はこくりと頷きながら、沈痛な表情を顔に浮かべる。
「はい、素晴らしい試合でした。52kg以下級は桐生が本命で間違いないですが、三上を彼女の控え選手のままで置いておくのがもったいないですね」
「そうだな。桐生の普段の素行には目を瞑っておくとして、今日の結果から言っても、やはり桐生の力が頭一つ抜けているだろう。いかに、蛸足に開眼した三上が相手でも……な」
山上は、その三上の蛸足の才能に着目して、三上を昨年の世界選手権で桐生の調整相手に抜擢したのが、他ならぬ柳澤本人であることを知っていたので、目を伏せる事で彼の心情を慮った。
「ソウルオリンピックに56kg以下級、いやいやせめて61kg以下級があってくれたらなぁ……。女子は公開競技というのが実に残念だよ。あの才能を国内大会だけで埋もれさせるのは、あまりに惜しい」
「ふふふ、しかし、女子柔道は最近嬉しい悩みが付きませんね。52kg以下級もさることながら、48kg以下級も例の猪熊と本阿弥の熾烈な代表選考レースが始まっているとか?」
「ああ、あちらはあちらで大変だよ。しかし、こんな風に女子柔道が注目されるのは悪い事ではない。レベルの高い国内大会も、柔道強国の定めとも言える。おっと、長話に付き合わせてしまったな。山上君、それじゃあ、また」
「はい、また」
そして山上は、閑散とし始めた京都市武道センターを後にしたのだった。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :18さい
れべる :31
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :93
すばやさ :208
たいりょく:149
かしこさ :201
わざ :214
こうげき力:241
しゅび力 :220
E じゅうどうぎ
【三上 杏 ステータス】
なまえ :みかみ あん
せいべつ :おんな
ねんれい :21さい
れべる :26
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :81
すばやさ :182
たいりょく:145
かしこさ :183
わざ :180
こうげき力:186
しゅび力 :187
E じゅうどうぎ
次話より新章 ソウルオリンピック編開始です。