ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
ズダーン、ズダーン。
三葉女子短期大学の体育館の片隅。その片隅に設置された畳から、子気味良い畳を叩く音が間断なく発せられていた。それは、本格的な練習前の準備運動として、私、柔ちゃん、富士子ちゃんの順で受け身を反復練習していたために発せられる音だった。
私は、自身が受け身を取った後、確認のために後ろを振り返る。もちろん柔ちゃんを確認した訳では無い。確認したのは、柔ちゃんに続いて受け身を取った伊東富士子の様子だ。
「駄目よ、富士子ちゃん。後ろ受け身の基本は、しっかり顎を引く事。でないと後頭部を打っちゃって命に係わるから、それだけは忘れないで」
「え、ええ、分かったわ、桐生さん。もう一度やってみるわね。――ていっ!」
――ズダーンッ!
「うん、今度は完璧。良いね、前受け身はもうマスター出来てるし、後ろ受け身もその感覚を忘れないで。それじゃあ、そろそろ今日あたりから富士子ちゃんも組手の練習に移ろうか。良いよね、柔ちゃん?」
富士子さんが柔道サークルに入って早二週間が過ぎた。どれほど才能があっても、柔道の練習は受け身を完璧にマスター出来ていないと、危険すぎて参加させられない。そのためこの二週間、富士子ちゃんには私と柔ちゃんが実戦練習に励む傍ら、ひたすら受け身の練習をしてもらっていた。
「うん、良いんじゃないかな。富士子さん、毎日熱心に受け身の練習していたし、もう十分だと思う」
「ほんとっ!? やったわぁ、これでやっと私も二人みたいに柔道の技を覚えられるのね!」
私に続き柔ちゃんからも賛同を貰った事で、畳の上で片足を180度上げてくるくると回転し、その喜びを身体全体で表現する伊東富士子。くすっ、富士子ちゃんったら。原作でもとんでもない成長スピードで柔道が上達し最終的にはママさん柔道家としてオリンピックで銅メダルを獲得した彼女だけど、やっぱり彼女の最大の強みはバレリーナで培ったこの身体の柔らかさと体幹なんでしょうね。
「さて、そうなると富士子ちゃんには何の技から覚えてもらおうか? 富士子ちゃんの上背と身体の柔軟性を考えると、やっぱり内股か大内刈り、大外刈り系の足技あたりが良いんじゃないかと思うけど、柔ちゃんはどう思う?」
「うん、私も富士子さんの長い脚を生かすにはそれが良いと思う」
「決まりね。後は、それらの大技に繋げるために相性の良い小技も覚えると良いかな。とっ、勝手に決めて行っちゃっているけど、肝心の富士子ちゃんはそれで良い? 文句でも何でも言いたい事があったら、遠慮せず言ってくれちゃって良いのよ?」
まだ柔道の技名も満足に知らないからだろう。私と柔ちゃんの会話を目を輝かせながら聞いているだけだった富士子ちゃんの意見も聞こうと、私は彼女に問いかける。
「え、ええ、もちろん! 正直、うちまた? 後、“大うちがり”も“大そとがり”もどんな技なのかさっぱり分からないけれど、オリンピックに出場するぐらい柔道に詳しい二人が勧めてくれる技に文句なんてあるわけ無いわ!」
その言葉を柔ちゃんが苦笑しながら首を振って訂正する。
「富士子さん。茜さんはともかく、私はまだオリンピックに出られるかどうか決まってないわよ」
「そんな事無いわよ、猪熊さん。猪熊さんはきっと来月の全日本女子柔道選手権大会で優勝してソウルオリンピックの代表に選ばれるわ。ふふふ、皆驚くでしょうね。三葉女子短期大学で発足したばかりの柔道サークルから2人もオリンピック選手が誕生するなんて」
富士子ちゃんの『柔ちゃんなら優勝間違いなし』宣言に、更に柔ちゃんの表情に苦笑いが色濃く現れる。
「もう、富士子さんったら。そんなの分からないわよ。さやかさんや藤堂さん達も出場するって聞いているし……」
「何言っているのよ、猪熊さん。私は去年の夏に猪熊さんの試合をTVで見て、この子こそ私が目指していた“世界一”を手にする娘だって確信を持ったんだから」
「富士子さん……」
富士子ちゃんがその身長ゆえに世界一のバレリーナになる夢を諦めた事を知っている柔ちゃんは、気遣う様な視線を彼女に投げかける。
「……うん、どうなるかは分からないけど、私、精一杯頑張るから」
「その意気よ、猪熊さん! あー、でも、桐生さんが大会に出ないって聞いた時は残念に思ったけど、二人がオリンピックの出場権をかけて争う所を見なくて済んだ事だけは良かったわ。もし二人が大会に出て対戦するような事になっていたら、私、どちらを応援したら良いか分からなくなるもの」
「あはは、まあ、私の方はもうオリンピックの52kg以下級に内定をもらっているから、来月の大会に出る必要は無かったしね。ただ、富士子ちゃんには悪いけど、柔ちゃんとはいつかガチの公式戦で戦いたいという欲求はあるから、遠からず柔ちゃんとはぶつかるわよ。……絶対にね」
私の本気が伝わったのだろう。私の言葉に富士子ちゃんはぶるっと震えるように身体を縮こませた。
「でも、茜さん。お爺ちゃんも言ってたけど、それならなおの事、どうして来月の大会に出なかったの? 私も茜さんと公式戦で戦ってみたかったな……」
柔ちゃんの意外と言えば意外な好戦的な言葉に、富士子ちゃんが驚きの目で彼女を見下ろす。ふふふ、富士子ちゃん。別に驚くような事じゃないよ。これは柔ちゃんが柔道自体を楽しいと感じている証拠だから、むしろ歓迎すべき事だよ。
うん、うん。戦いたいよね。前回は練習試合だったし、あれから私達は幾度となく組み合って、投げては投げられてという事を繰り返している。しかし、あくまで練習は練習だ。互いに背負うものを背負い、意地と意地がぶつかり合う“待った無し一本勝負の4分間”は、公式戦でしか得られない特別なものだ。
「ごめんね、柔ちゃん。8月のソウルオリンピックまで後4カ月。せっかく他の階級に先駆けて内定をもらったんだから、私はオリンピックにピークを持ってこれるように一足早く調整期間に入らせてもらったの。期待されているからには、万全を期さないと……ね」
私のそのもっともらしい言葉に、富士子ちゃんは「なるほどぉ。さすが現役世界女王は違うわね!」と、さも感心したように頷いているが、柔ちゃんはどこか納得しがたい様子で僅かに首を傾げていた。
ま、そりゃそうでしょうね。他ならぬ私自身が、自分で言っといて(何言ってんだ、こいつ)という本音を隠して言っているぐらいだし、いい加減私が常識の範疇外にいる事を理解し始めている柔ちゃんなら、先ほどの私の言葉に素直に頷けないのも無理はない。
だいたい、調整がどうのこうのと言うぐらいなら、そもそも私は大学入試の直前に京都で行われた国際大会に出場なんてしていない。ていうか、私にとっての調整とは、断じて試合に出ず心身を整える事ではなく、強い相手と戦って戦って、戦いまくる事だ。
……だけど、今回ばかりは仕方ない。もし私が柔ちゃんの出場するその来月の大会に出場していれば、高い確率で彼女と再戦、それも公式戦でぶつかる事が出来ただろうと思うが、私には私のやるべき事がある。それは、柔ちゃんとの真剣勝負が出来る機会を天秤の片方に載せたとしても、決して一方的に傾く事の無い大事な大事な対価……。
そんな事を私が考えていると、富士子ちゃんがハッと何かに気づいた様子で眉を寄せて、その175㎝の長身を小さく縮こませる。
「ご、ごめんなさいっ。私ったら、猪熊さんも桐生さんもそれぞれオリンピックに向けて忙しい時期なのに、気づきもしないで。あの、私の事は気にしなくて良いから、今は二人でしっかり練習する時間を取って。私みたいな素人の相手をしていたら、猪熊さんも桐生さんも調子が狂ってしまうわ」
その富士子ちゃんの申し入れに私達は思わず顔を見合わせる。そして、同時にくすっと笑みを零す。
「あはは、何を言い出すかと思えば。もう、富士子ちゃん。同じ柔道サークルの部員として、富士子ちゃんをおざなりにするわけ無いじゃない」
「そうよ、富士子さん。富士子さんがこんなに必死に柔道に打ち込んでくれているんですもの。一緒に強くなりましょう。それに、私達は家に帰ってもお爺ちゃんの指導で朝晩練習しているんだから、私達の事は気にしないで」
そうそう。柔ちゃんの言葉は正しい。柔ちゃんと私はこれから猪熊邸に帰ってもみっちりと練習があるし、朝は朝で朝練と、まさに柔道尽くしの毎日を送っている。
「……え、二人とも、こんなに激しい練習の後に、家でも練習しているの? すごいわねぇ……」
柔ちゃんの言葉に、富士子ちゃんは目を丸くして驚く。まあ、そうだろうな。私と柔ちゃんは短大の授業が終わった後、受講している講義によって多少の差こそあれど、だいたい夕方の4時から6時ごろまで富士子ちゃんを交えて練習し、その後猪熊邸でも滋悟郎さん指導の元柔道の練習を行い、その上朝練もみっちりやっている。
ちなみに当初滋悟郎さんは、柔ちゃんに対して門限は6時と申し伝えるつもりだったらしいが、私と一緒に柔道サークルで汗を流すという条件で、その門限は1時間伸びて7時になっている。
後、私の両親が何故かそれに深い感銘を示した事で、その門限は私にも適用されてしまっているが、まあ私も門限に縛られた柔ちゃんをよそに遊び倒すつもりはさらさら無かったので、そこに不満は無い。
ていうか、格安の下宿代(最初は受け取りを固辞されたが、それは私と両親が拝み倒した事で、ほんの僅かではあるが受け取ってもらえる事になった)と、玉緒さんに三食用意してもらっている私からすれば、文句など言っていては、ばちが当たると言うものだ。
その後私達は、富士子ちゃんに時折手本を見せながら足技を教えていたが、突然私を呼ぶ声が。
「桐生さーん、もうすぐ体育会の部長会議が始まるわよ。ちゃんと出席しないと部費を削られちゃうわよ」
その声に私が体育館の入り口に視線を投げると、先ほどまで体育館の半分を占めるバスケットコートで練習をしていた2年の先輩が、私を手招きしていた。
「えー、もうそんな時間なの? めんどくさいなぁ。よし、柔ちゃん。
「嫌よ、茜さん、そんな事言って前も私に代わりに行かせたじゃない。それに、あの時は文化部もいて、茶道サークルの部長に皆の前で怒られたんだから」
むぅっ、副
そうなのだ。私達の柔道サークルは
はぁ……、高校時代は、私一人に行かせると何をされるか分からん、と苦い顔をしながらいつも真田が私の代理でこういう会議には出席してくれていた。そう言えば真田、スイスで元気にやっているかな……。私があいつの仏頂面を脳裏に思い描いていると、とん、と背中を押された。
「ほら、そんなに嫌そうな顔をしてないで、早く着替えて行かないと。バスケットサークルの
確かに、先ほど私に声をかけてくれた彼女はもう体育館を後にしていた。
「……ねえ、柔ちゃん。やっぱり柔ちゃんが
「無理よ、そんな事。私、高校の時に部活なんてしてないんだから、どう考えても高校でキャプテンをしていた茜さんが適任じゃない。ねえ、富士子さん?」
「そうよぉ、桐生さん。桐生さん、私の背中に付いてきなさい、っていうタイプだから、
はあ……。『YAWARA!』という漫画の主人公なんだから、どう考えても柔ちゃんの方が
「分かったわよ、行くわよ。行けば良いんでしょ。会議が終わったら戻ってくるから、柔ちゃん先に帰らずに待っててよね」
そして私は二人に手を振られながら体育館を後にするのだった。
そんな風に私達が大学生活を満喫していると、時はあっという間に過ぎ去り、とうとう全日本女子柔道選手権大会の日がやってきた。