ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
コチ、コチ、コチ……。
猪熊邸のリビングで秒針が時を刻む壁掛け時計を静かに見上げている赤毛の少女。
「あら、柔とお義父さんはもう武道館に行ったけど、桐生さんはまだ家にいて良かったの?」
「……え? あ、玉緒さん」
突然背後から投げかけられた言葉に驚いた様子で振り返る桐生。その桐生に、声をかけた玉緒はにこやかな笑みを浮かべていた。
「あ、はい。私は、今日は見学だけなので、後から応援に行くって言っています。玉緒さんの分まで応援してきますね」
事前に玉緒から応援に行かないと聞いていた桐生は、彼女にそう言葉を投げかける。
「ええ、お願いね、桐生さん。桐生さんが近くで見守っていてくれたら、あの子も平常心で臨めると思うわ」
「私だけじゃなくて、今日は富士子ちゃんが柔ちゃんの側に着くようになっていますから、大丈夫だと思いますよ」
「ふふ。柔から聞いているわ。その富士子さんという方も、とても良いお友達だそうね。今度是非うちに連れてきてね、桐生さん」
桐生はその言葉に「はいっ、必ず!」と元気よく頷きリビングを後にした。その背中を見送った後、玉緒はTV台の隅に置かれた家族写真に視線を投げかける。
「あなた、柔はオリンピックに出場するために、これまで本当に頑張ってきましたよ。今日もどこかで見ているんでしょう? あの子の頑張りをちゃんと見てあげて下さいね」
写真の中の虎滋郎は仏頂面のまま何も答えを返さなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ただ今より開会式を行います! 昨日行われた男子の部の熱気も冷めやらぬここ日本武道館! 本日は、いよいよ女子の部であります! 女子柔道日本一の座を賭け、またソウル五輪の代表選手を賭け、各選手気合十分です!」
様々な体格の選手が、日本武道館中央に備えられている畳の上に整然と整列している。選手達より一段高い位置にある観客席からひょいっと首を伸ばしてみても、柔ちゃんの姿は他の大柄な選手の陰に隠れているのか、見つける事が出来ない。
さすがは無差別級ね。くー、私もあそこに立っていたかったわ。私には私の目標があったとはいえ、それはそれ、これはこれ。強い相手と戦いたいという欲求が、今更ながらに頭をもたげてきた。
と、いけない。後悔後に立たずと言うし、ここまで来たらもうやり切るしかない。そのためには、まずは彼の排除が必要ね。
私は整列している選手達から視線を剥がし、向かいの観客席の一角に視線を移す。そこでは、滋悟郎さんと風祭が、ある高齢の外国人を挟み何やら熱心に話しかけている所だった。
ふふふ、やってる、やってる。
私はその様子から視線を外し、左手首に巻いている機械時計に目を落とした。午前10時10分。そろそろかな。そんな事を考えていると、ポーンという電子音と共に会場内にアナウンスの声が届いた。
『会場にお越しの風祭様。いらっしゃいましたら、1階受付までお越しください。恵美様からお電話が入っております』
来た来た。さすがは三上さん。時間通りだ。そのアナウンスは当然風祭にも届いたようで、彼は周囲をキョロキョロと伺った後、滋悟郎さんに詫びを入れるジェスチャーをして席を立った。
そして10分後。怪訝な表情で首を傾げながら風祭が戻ってくる。それはそうだろう。私は京都にいる三上さんに風祭を呼び出す電話をこの会場に入れて欲しいと頼んだが、彼が電話口に出ると切って欲しいとも伝えていたから。
彼は滋悟郎さんともう一人の高齢の男性に頭を下げながら腰を降ろす。しかし、その腰は一向に落ち着く様子が無い。彼が高齢の男性の隣に座ってほどなく、再び彼を呼び出すアナウンスが。今度は麗香だ。その次は洋子。ふふふ、風祭の女性遍歴を覚えていた事がこんな所で役に立つなんて。さすがに彼も、心当たりのある女性から呼び出されると無視を決め込む事ができないようで、呼び出されるたびに平身低頭の様子で席を立っていく。滋悟郎さんが彼のその様子にいら立ちを募らせているのが、ここからでも手に取る様に分かる。
そしてこんなやり取りが続くと、当然……。ほら、来た。
何度目かのやり取りの末再び首を傾げながら観客席に戻ってきた風祭を、柔道着姿の本阿弥さやかが捕獲する。徳永も引きつれている所を見ると、自身が試合中も監視下に置く事にしたようだ。
哀れ、風祭(いや、全く哀れんではいないが……)、とうとう彼は滋悟郎さん達のいる席に戻る事が出来ず、いずこかへと連れ去られていくのだった。
よしっ、機は熟した! そう判断した私はおもむろに席を立ち、ぐるりと武道館内を迂回しながら滋悟郎さん達の席に歩みを進めた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「決まったー! 猪熊柔、一本背負いで一本勝ちー!!」
猪熊滋悟郎と風祭進ノ介に挟まれる格好で座っていたスーツ姿の男が、あまりに劇的な勝利に思わず立ち上がり、瞬き一つせずその試合の勝者を茫然と見つめている。その様子を見て風祭は、「ご覧になりましたね、柔さんの柔道を!」と流暢な英語で語り掛ける。
スーツ姿の男は、オリンピック委員会の会長 タマランチだった。彼は立ち上がっていた身体を再びゆっくりと椅子に戻しながら、呟く様に言葉を発した。
「い……いや、その、なんというか……。いったい何が起きたのやらさっぱり……」
「――!! タマランチ会長、ちゃんと見てたでしょうっ!? 今の彼女の一本背負い!」
「ああ、見たとも……。しかしね、いくら何でもあんな小柄なレディーがあんな大きな相手を……」
無差別級の素晴らしさを伝える目的で今日この場にタマランチを招いている事を理解している風祭は「ですから!! あれが無差別級……」と必死になって訴えるが、タマランチの向こう側から制止する声が。
猪熊滋悟郎だ。彼は、余裕綽々の様子で持参したせんべいをバリバリとかみ砕きながら、ニヤッと笑みを浮かべる。
「風祭! 見ても分からん奴には言っても分からん! こうなりゃ“百聞は二見三見四見にしかず”ぢゃ!! なんべんでも見せてやるわ! あんたが無差別級を開催する気になるまでな!」
日本語が通じない事など意にも介さずそう口にした滋悟郎は、手に持ったお菓子の袋をタマランチに差し出しながら、ほっほっほ、と高らかに笑うのだった。
試合開始10秒にも満たない時間で勝利した猪熊柔が、ゆっくりと選手控室に戻って行く。その姿を愛しそうに見つめていた風祭だったが、この日4度目の呼び出しが会場内にアナウンスされたことで、彼は一瞬で青い顔になる。
「す、すいません……。ちょっと席を外させていただきます」と頭を下げる風祭に、「――またかっ!? どうなっておるのじゃっ!?」と滋悟郎が唾を飛ばす。
「申し訳ありませんっ! 直ぐに戻りますから!」
風祭としても、この通訳の仕事をこなす事で猪熊柔との仲を滋悟郎に認めてもらおうという下心がある。「すぐに二回戦が始まるぞ、風祭! 早く戻ってくるのじゃぞ!」という猪熊滋悟郎の言葉に「もちろんです」と応えながら、風祭は1階に続く階段を降って行くのだった。
……が、彼が再びこの席に戻ってくる事は無かった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「うーむ、遅い、風見鶏めぇっ! 一体何をしておるのか。もうすぐ二回戦が始まるでは無いか!」
周囲に視線をさ迷わせながらいらいらとそのように口にする滋悟郎。その彼の隣ではタマランチが、もうすぐ始まろうとしている二回戦に向けて目を輝かせていた。
「どうしたんですか、滋悟郎さん? ずいぶんと機嫌が悪そうですが……?」
「むっ!? おお、桐生か。お前、風見鶏、いや、風祭を見なかったか? あ奴、少し前に席を外したきり戻って来んのじゃ!」
「風祭さんですか……? いえ、見ていませんねぇ。あ、美味しそうなお菓子を食べているじゃないですか。私、そのお菓子好きなんです。あの、少し分けていただけませんか?」
私は滋悟郎さんの隣に座る男性の隣に腰を降ろし、彼が手に持っていたお菓子の袋に手を伸ばす。私が英語で彼にそう断りながらお菓子を頂くと、彼も英語が分かる話し相手が不在になり寂しい思いをしていたのか、「どうぞ、どうぞ」と笑みを浮かべてお菓子を勧めてくる。
そんな他愛の無い会話を私がその男性、つまりタマランチ会長と交わしていると、そんな私達の様子を黙って見つめていた滋悟郎さんが、突然ニヤッと悪い笑みを浮かべた。やれやれ、ようやく私が英語を話せると言うのを信じてくれたようだ。まったく、最初から信じてくれていたら私はこんな胡乱なやり方をせずに済んだというのに……。
まあ、いい。ここまでは計画通り。ここからが本番だ。私は心の中でしっかりとたすきを締め直すのだった。
「またも決まったー! 一本背負い一閃!! 猪熊柔、準決勝進出――!!」
私の眼前で、柔ちゃんが72kg以下級の安藤を綺麗に投げ飛ばす。タマランチ会長はすっかり柔ちゃんの柔道に魅せられてしまったようで、観客席から落ちないか心配になるほど身を乗り出して彼女を応援している。そんな彼を満足そうに見やりながら、滋悟郎さんが声を張り上げる。
「どうじゃ、タマちゃんよ! 『柔よく剛を制す』、それが柔道の神髄じゃ! オリンピックという晴れの舞台でその神髄を見とうなったぢゃろう!」
そして滋悟郎さんは、早う訳せ、と言わんばかりに私に顎を振る。促されるまでもない。私は滋悟郎さんの言葉を英語でタマランチ会長に伝える。
「Oh! “柔 欲情をSEX”ですな!!」
……。ま、まあ、細かい所は多めに見て上げるとしよう。うら若き女子を前にして“欲情をSEX”なんて、世が世ならセクハラで一発退場間違い無しだけど、私は心が広いのだ。
そして私は、本阿弥さやかが怪我で欠場した事で柔ちゃんの優勝が決定するその時まで、滋悟郎さんの言葉をタマランチ会長に伝え続けた。
「もう一度見たい!! この感動をもう一度!!」
「――って言っていますよ、滋悟郎さん。良かったですね、オリンピックで無差別級、出来そうですよ」
「うむっ! 桐生もごくろうぢゃったな。まったく、風祭め、肝心な時に役に立たん男よ!」
「まあ、風祭さんが役に立たないのはいつもの事だから良いとして。そんな事より滋悟郎さん、私慣れない通訳の真似事をしたせいか、お腹空いたなぁ。柔ちゃんの優勝祝いも兼ねて、帰りに焼き肉なんかどうですか?」
私のその提案に滋悟郎さんは、片眉を上げて苦笑いを顔に浮かべる。
「まったく、相も変わらずちゃっかりした娘よ。まあ、良いぢゃろう。それでは、徐々苑に行くか!」
「よっ、さすが柔道八段! 太っ腹! あ、次のオリンピックメダル候補 富士子ちゃんも一緒で良いですよねっ!」
「富士子とは誰ぢゃっ!? まあ、良いわ! 金メダルの前祝いぢゃっ! 好きなだけ喰わしてやるわ! それと桐生! 儂は柔道九段じゃ! 間違えるでない!」
「はいっ! ごめんなさいっ! それじゃあ私、柔ちゃんと富士子ちゃんに声かけてきますね!」
くすくすくす。このまま行くと、滋悟郎さんは最終的に何段になるんだろう? ちなみに私は今三段、柔ちゃんは初段なんだけどね。あ、段と言えば、富士子ちゃんにも昇段試験を受けさせてあげないといけないんだった。夏までには初段を取らせてあげたいなぁ。後、彼女に左組手対策をしてあげるのも忘れないようにしないと……! いつかのように、オリンピック選考が絡んだ大事な大会で頭が真っ白にならないようにね。
いやー、忙しいなぁ。でも、柔道中心の生活が出来ているのが幸せすぎる! さあ、今日の優勝で柔ちゃんも原作通りオリンピックに出る事が決定しただろう。オリンピックイヤー、全力で楽しむぞぉっ!!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
6月の東京都心にある講道館の一室。そこには、多くの報道機関が集まっており、彼らはもうすぐ始まる『ソウルオリンピック女子柔道代表選手発表記者会見』を、今か今かと待ち構えていた。
「おい、今日の日刊エブリ―見たか?」
「見た見た! “無差別級開催”だって!? 相変わらずガセネタかますなぁ。なにしろあそこは部数少ないから、まともに勝負しても太刀打ちできんのよ」
そんな周囲のひそひそ話を耳にして平常心でいられないのは、日刊エブリ―スポーツの局長だ。彼は汗をだらだらと零しながら、隣の松田に詰め寄る。
「ほら見ろ、松田! “無差別級開催”だなんて、ろくに裏も取れていない記事を載せやがって! もし間違いだったら、お前の首は無いものと思えっ!」
さすがの松田も、首が飛ぶと言う言葉で思わず顔を引きつらせる。その様子を見ていた局長は「そうだ!」、と思い出したように言葉を続ける。
「そう言えば、あちらさんは桐生茜に料理コーナーへの寄稿を打診して色よい返事を彼女から貰っているらしいぞ。お前、彼女とも親しいんだろう? うちも負けずに声をかけてみたらどうだ?」
「……それだけはやめときましょう、局長。そんな事をして彼女の寄稿したレシピ通りに作った読者に何かがあったら、うちは間違いなく廃刊になりますよ」
「そりゃいったいどういう――「お待たせしました、皆さん」」
ざわっ。選考委員の座長を務めている西海大学の祐天寺監督を筆頭に、講道館の関係者がぞろぞろと部屋に入ってきた事で、周囲の発言がピタッと収まり彼らに視線が集中する。日刊エブリ―スポーツの局長もまだ何か言いたげな表情で松田を睨んでいたが、諦めたのか正面の椅子に腰を降ろした講道館関係者に顔を向けた。
カシャ、カシャ、と時折カメラのシャッター音が断続的に発せられる中、正面中央の椅子に腰を降ろした祐天寺が、厳かに口を開く。
「……お待たせしました。ただいまより、ソウルオリンピック女子柔道代表選手の発表を行います。代表選手は5名。……では、発表いたします」
「72kg超級、黒百合女子体育大学 藤堂由貴 四段!」
その紹介に合わせて、会見場にぬっとその巨体を現す藤堂由貴。報道陣からどよめきの声が上がる中、続けて発表された72kg以下級桜宮女子中央高校 高辺陽子(二段)も姿を現す。まだ高校生の彼女はこのような場に慣れていないのか、幾分緊張した面持ちでぺこりと一礼して会場に足を踏み入れる。
「……続きまして、52kg以下級。三葉女子短大 桐生茜 三段」
おおー、というひと際大きな声と、激しいフラッシュが部屋に入室してきた赤毛の女性に向けられる。彼女の特徴である赤毛を水で薄めたような淡い茜色のジャケットを羽織った彼女は、先ほど紹介された一学年下の高辺とは異なり、僅かに笑みを浮かべて周囲をゆっくりと伺う余裕を見せる。
そのまま入り口で一礼した彼女は、他の選手と同様に報道陣の脇を抜け、講道館関係者が集う前方にゆっくりと足を進める。同階級の現役世界女王である彼女には、この日最も多くのカメラのシャッター音とフラッシュが浴びせられる。
桐生茜が所定の位置についたのを確認した祐天寺は僅かに頷き、再び報道陣が控える正面に視線を固定する。
「発表を続けます。48kg以下級の代表選手は、聖身女学館 本阿弥さやか 初段!」
「ほーほっほっほっ!」
祐天寺の言葉と同時に会場に姿を現したのは、本阿弥さやか。彼女は口に手を当て高らかに笑い声を上げながら、悠然と会場に足を踏み入れる。
「さすがに見る目のある方はちゃんと見てらっしゃるわ! 負傷で不戦敗したとはいえ、やはり私の試合内容の方がずっと上ですもの!」
そのまま彼女はゆっくりと前方に足を進める。柔道家というより生来のキャラクターが目を引くのか、彼女には先ほどの桐生の時以上のカメラのフラッシュがたかれる。桐生以上に注目されている事に慣れている彼女は、それを気にもせず桐生達代表選手の輪に加わる。
「お久しぶりね、桐生茜。オリンピックで私が金メダルを取れば、世界女王という肩書しか取り柄の無いあなたは、用なしになるわね」
「そういう事は金メダルを取ってから言いなさい。もっとも、万歩譲ってあなたが金メダルを取れたとしても、私も金メダルを取るんだから、あなたが私に追いつく事は無いわ。残念ね、お嬢様」
バチバチっと火花が飛び交う様なにらみ合いが桐生茜と本阿弥さやかの間で発生し、報道陣が揶揄するように盛んにフラッシュを浴びせかける。
「ま、まあ、まあ、二人とも。オリンピックでは共に戦う日本チームの一員なんだ。そういがみ合わずに……」
祐天寺がにらみ合う二人の間に入り仲裁を試みるが、そうこうしている間に、周囲の報道陣の中から、肝心の女性の名が呼ばれていない事に気づいた者が現れ始める。
「おい、48kg以下級が本阿弥さやかという事は、猪熊柔は落選かっ!?」
「嘘だろっ!? 彼女は全日本選手権の優勝者だぞ!?」
「むっ、いかんっ!」
周囲のざわつきに気づいた祐天寺は、本阿弥と桐生の仲を取り持っている場合では無かったと、再び報道陣に向き合い言葉を続ける。
「こ、こほんっ! 失礼しました。そして、最後に代表選手5人目、ソウルオリンピック女子柔道無差別級……」
「む……、無差別級!?」と、未だに桐生に険しい視線を向けていた本阿弥さやかが驚愕の表情で祐天寺を振り返る。
「……三葉女子短大 猪熊柔 初段!!」
祐天寺が会場の扉を指し示すと、猪熊柔が……、いや違った。猪熊滋悟郎が会場に姿を現す。そして、その後ろからおずおずと現れる猪熊柔。
「「「「おぉぉぉーーーー!!!」」」」
途端に、その日最大のどよめきが会見場で発生する。祖父である滋悟郎に手を引かれながら歩く猪熊柔に、報道陣が殺到する。その様子を横目に祐天寺が続ける。
「今朝IOCより連絡が入りました。先日、帰国されたタマランチ会長が急遽会議を招集し、その結果、オリンピック柔道競技にいくつか大きな変更が加えられたとの事です。その一つが、……無差別級の開催です!!」
「「「「――無差別級だってぇ!?」」」」
どよめき収まらない報道陣だったが、日刊エブリ―スポーツの松田だけが「どうだ!」、と言わんばかりに胸を張る。その隣では同じく日刊エブリ―スポーツの局長が「表彰ものだよ、松田君!」と満面の笑みで彼を讃える。
「……では、ここで代表選手の皆さん、決意も新たに固い握手をお願いします」
その言葉に、集った藤堂、高辺、桐生、本阿弥、そして猪熊が無言のまま顔を見合わせる。最初に拳を突き出したのは、桐生だった。それに桐生と同じ大学で親しい間柄の猪熊柔が続く。それに藤堂、高辺が続き、最後に顔をしかめた本阿弥が手を重ねた。
その様子をカメラに収めていた報道陣から質問が飛び交う。
「本阿弥選手、いかがですか、代表選手に選ばれた感想は?」
「当然ですわ! 世界中がヒロインの出場を待ち望んでいるんですもの! オリンピックから帰国した時、この3億円のネックレスが金メダルに変わっている事でしょう! 金メダルが似合う女王らしい人ってそうはいませんもの! ほーほっほ!」
その言葉に藤堂が、「ここにいるわ、ここに!」と詰め寄るが、本阿弥は涼しい顔で「あら、あなたは女王というより魔王ですわ」と口にする。
「あー、オリンピックであんたを倒せないのが残念だわ!!」
本阿弥と藤堂のそんなやり取りを「まあ、まあ」と取り成す猪熊にもマイクが向けられる。しかし彼女は緊張しているためか、咄嗟に言葉が出ない。そんな彼女に変わって祖父である滋悟郎がマイクを掻っ攫い高らかに宣言する。
「金メダルを獲り、国民栄誉賞に輝く! 儂の柔道は勝つ事に意義がある! 柔は勝つ! どんな敵だろうとな!!」
その大胆な発言に会場のボルテージは一気に盛り上がり、そのマイクは藤堂、高辺にも向けられ、最後に桐生に回る。
「桐生選手からも一言お願いします。日本女子柔道陣の中で唯一、世界女王としてオリンピックに臨むわけですが、女王として世界の強豪の挑戦を受けて立つ心境はいかがでしょうか?」
その問いかけに、桐生は僅かに瞑目した後、質問を投げかけた記者をはたと見据えて応える。
「……確かに私は昨年の世界柔道選手権を制しましたが、あれはオリンピックではありません。オリンピックには魔物がいると聞きます。受けて立つというような意気込みではその魔物に食われてしまうかもしれません。
ですから、私は挑戦者と言う気持ちでオリンピックに臨みます。日本の皆さんの応援を力に変え、どんな強敵にも、どんな魔物にも、正面からぶつかり、粉砕して見せます。どうか皆さん、応援、よろしくお願いします!」
オリンピック初出場とは思えない堂々としたその言葉に、報道陣は一瞬言葉を失い、祐天寺は感極まったように何度も頷く。そして、彼女を除く4人の代表者も桐生のその宣言に感化されたのか、互いに顔を見合わせた後、神妙な面持ちでこくりと頷くのだった。
~~~~ソビエト連邦 首都 モスクワ ドルジバ多目的アリーナ~~~~
ズダーン、ズダーン。
白い道着を身に纏った複数の男女が、畳の上で汗を迸らせながら稽古に勤しんでいる。
「テレシコワ! フルシチョワがいないが何処へ行っているか、知らないか!?」
今しがた男性の柔道選手を投げ飛ばしたテレシコワが背後を振り返ると、ソビエト連邦女子柔道チームの監督が苛立たし気に立っていた。
「……フルシチョワなら、今週一杯はレスリングの代表合宿に合流すると言っていました。コーチに伝えていなかったのですか?」
「聞いておらん。レスリング……? まったく、最近のあいつは一体何を考えているのか。ソウルでは48kg以下級に出場する予定だったのを、52kg以下級に固執しおって……! おかげで他の階級との調整が大変で――」
苦々し気にそう吐き捨てるコーチを、テレシコワは表情を変えないまま見降ろす。彼女は、盟友であるフルシチョワの心境を正しく洞察できていた。
「コーチ、日本の代表選手は決まりましたか? 無差別級と52kg以下級は、誰に?」
その問いかけに、コーチはそのごま塩頭を上げて「ああ、それなら……」と彼女に応える。
「無差別級は、ヤワラ・イノクマ。52kg以下級はアカネ・キリュウだそうだ」
その答えを聞き、テレシコワは初めてその能面のような表情を崩し、ほんの僅か口角を上げて笑みを浮かべた。その僅かな変化に気づかないコーチは、吐き捨てる様に続ける。
「……日本の48kg以下級はサヤカ・ホンアミだそうだ。ヤワラ・イノクマは無差別一本に絞ったと見える。フルシチョワめ。アカネ・キリュウを相手にするより、ホンアミを相手にした方が金メダルに確実に手が届いただろうに。その程度の計算もできんのか、あいつは……」
「……計算の問題ではないのですよ、コーチ」
「……何?」
ソビエト連邦が誇る、まるで怜悧なコンピューターのようにこれまで試合を制し続けてきたテレシコワの発した言葉とは思えず、不審な声を上げるコーチ。そんなコーチを見下ろしながら、テレシコワは続ける。
「私も……フルシチョワも、愛する祖国に栄誉をもたらしたいという思いは変わりません。ですが……ヤワラ・イノクマ、アカネ・キリュウ、彼女達との戦いを夢想するだけで……」
テレシコワは右手で柔道着の襟を掴みながら、「……何故か、ここが熱くなるのです」と呟く様に発した。