ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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ようやくアバロンとアリアハンへの冒険の旅を終え、こちらの世界に戻ってきました。いやー、思い出補正もあったのでしょうが、それを抜きにしても両作品とも実に楽しかったです。

さて、知らぬ間に本作のお気に入り登録数が200件を超えているとは! 誰も読まないニッチな小説とばかり思っていましたが、意外に隙間産業だったのでしょうか?

好評価にモチベが上がりましたので、4話投稿です。原作登場キャラクターの登場は、後少しお待ちいただければ。


4話 side 桐生茜の周囲の人々

~~~~Side 桐生 秀里(きりゅう しゅうり)~~~~

 

 

改札口で駅員に切符を渡し家路につく人々の列。雪国秋田の冬は早い。時刻が遅い事もあいまり、コートを深く着込んだ人々の吐く息は、一様に白かった。

 

そんな数珠つながりになった人の列を、私は首を伸ばしながら娘が現れるのを今か今かと見つめる。お、紺色や灰色といった暗灰色がほとんどのサラリーマンの集団の中に、茜色の色彩がピョコピョコと飛び跳ねるように動いているのが見える。

 

ふふふ。いつもの事ながら直ぐに彼女を見つける事ができる、ありがたい色彩の髪だ。

 

娘も改札口の向こう側でこちらに気づいたのか、ニコッと笑顔を見せパタパタと右手を左右に振る。娘の肩には着替えや柔道着の入った学校指定のバッグがかかっており、そして左手にはおそらく東京土産と思われる紙袋が。

 

良かった、少し疲れがあるように見えるが、体調が悪いということはなさそうだ。娘から試合の後倒れたと電話口で聞いた時は、昨日秋田を出る際に同行しなかった事を後悔したものだったが、安心した。

 

 

 

「ただいま、お父さん。ごめんね、こんなに遅い時間に迎えに来てもらって」

 

「なんてことないさ。そんな事より、優勝おめでとう。今日はもう遅いが、明日の晩はごちそうを用意すると、母さんが言っていたぞ」

 

「ほんとう!? やった、じゃあ焼き肉をリクエストしておかなきゃ!」

 

「ははは、お前は本当に肉が好きだな」と答えながら、私は娘が肩に引っかけた見るからに重そうなバッグと紙袋を受け取った。バッグのチャックが少し開いていて、その隙間から白い柔道着が僅かに覗く。くるっと丸めた柔道着の襟元には赤い点々がいくつもついていて、それが今日娘が必死に頑張ってきた証のように思えて、私は誇らしかった。

 

「車はあちらに止めてあるから、付いてきなさい」

 

私の言葉に、娘はおとなしく後ろをついてくる。……? 妙だな。いつもなら、こちらが少し落ち着きなさい、と言わなければ、いつまでもおしゃべりを続けるような活発な娘が、今日は妙に口数が少ない。一度倒れたというが、やはりその影響があるのだろうか? 家に着いたら、妻も色々と話したいと言っていたが、今日は早めに休ませなくては。

 

茜は、私と妻みのりとの間にできた一人娘だ。茜が幼い時、弟でも妹でもいいから欲しいと言われた事があるが、あいにくとタイミングが合わず、彼女に姉弟を与えてやることが出来なかった。

 

せめて茜に寂しい思いをさせまいと、彼女が望む事はよほど突拍子のない事でなければ希望を叶えてあげて来た自覚があるが、実際のところ、彼女の希望は拍子抜けするほど些細な希望がほとんどだった。

 

小学生の時はサッカーをやりたいとの希望を口にしたため、近所のサッカークラブに通わせてやった。茜が幼稚園に通っていた頃から薄々感じていた事だが、彼女は運動神経の塊のような子だった。体の出来上がっていない低学年のうちから、上級生を含めて誰よりもボールの扱いがうまく、体の大きな選手が接触してきてもまずボールを奪われるという事が無かった。

 

そして高学年に進むと、男子もいる中当然のようにクラブのキャプテンに選出され、地方記録ではあるが、最多ゴール、最多アシスト、最優秀選手など主な賞を独占するようになった。そのためか、当時子供達の間で流行っていた『キャプテン翼』というサッカー漫画の主人公の名前をもじって、茜は『女つばさ君』という異名で呼ばれていた。

 

正直、秋田の市役所に務める共に公務員の私と妻から、どうしてこれほどの運動能力に恵まれた子が生まれたのか不思議でならない。この子は将来実業団に就職しサッカーで飯を食っていく事ができるかもしれないと、私は妻と共にそう語り合ったものだった。

 

しかし……。茜は中学に入っていくらもしないうちに、あれほど毎日練習していたサッカーをすっぱりとやめてしまった。周囲の人間からはずいぶんと慰留をされたようだが、茜の意思は固かった。そして、そうまで頑なに自分を貫いた彼女が次に選んだスポーツは、何と柔道だった。

 

柔道。妻はもちろん、私も学生の時に体育の授業でしかやった事のない、スポーツと言う名の格闘技。もちろん柔道が国技と言ってもいい程日本で認知を得ているスポーツであり、裾野の広いスポーツである事は私も承知していたが、いくら何でも唐突すぎて私も妻も困惑したものだった。

 

しかし彼女は、柔道に対してとにかく真摯に向き合っていた。毎朝の早朝トレーニングは1日も欠かさず、雨の日も風の日も黙々と練習に明け暮れた。それは、明らかに小学生の時に習っていたサッカーに対するよりも真摯に。

 

中学に入っても反抗期を迎えるでもなく、普通の女の子が興味を持つであろう服やアクセサリーなどにもほとんどと言っていい程関心を持たない彼女が、柔道着が欲しい、柔道をやらせて欲しい、と私達に訴えるのだ。

 

その訴えを無碍にするという選択肢は、私と妻の間に無かった。そして柔道を始めて5年。もともと備わっていた運動神経に加えて、日々の積み重ねた努力があいまり、今日東京の地で娘は日本一に輝いた。

 

その一報を電話口で聞いた時、私は娘の希望に応えてあげた当時の自分を、心から誉めてあげたいと内心思ったものだった。

 

駐車場に停めていた車に着いた私達は、トランクに娘の荷物を入れた後、車を出す。

 

対向車線に次々と現れては後方に流れていく車のライトを横目に、私は助手席に座る娘に声をかける。

 

「しかし、こんな夜遅くに無理して帰ってこなくても良かったんじゃないのか? ほら、女性に人気の原宿や渋谷などでゆっくりと買い物をして、明日帰ってきても良かったんじゃあ?」

 

「うーん、別に原宿とか渋谷で特に欲しいものも無いしな……。テーピングが切れたから買い足したかったけど、わざわざ東京で買うほどのものでもないし。あ、でも、お父さん! 今日の朝、皇居の周りを打ち込みしながらジョギングしたんだよ。ジョギングしている人達は大勢いたけど、打ち込みしながら走っている人って、私だけだったよ。あはははは」

 

打ち込みしながらジョギング……。娘が柔道を始めたいと言い出した5年前なら分からなかったが、今ならその言葉の意味が分かる。それは、ジョギングしながら時折柔道の技を一人何度も繰り出す事を意味する。ああ、確かにそんな事をしながら走っている人は東京広しと言えど、まずいないだろう。ましてや、皇居の周囲をだ。

 

しかし、つい先日娘は17歳になったばかりだが、この年頃の娘の日常として、これで良いのだろうか? 私は、娘に柔道をする事を許可した事にもちろん後悔などしていないが、それとは別に、あまりに娘が男勝りな女性に育っているようで心配になってしまう。

 

職場の同僚が、『娘に彼氏ができたらしい』とショックを受けた様子で口にする場面をこれまでに何度か見た事があり、男勝りな我が娘にはそのような心配は無用だなと、そういう話を聞くたびに内心安堵していたものだが、娘ほど極端だと、逆の意味で心配になってくる。この子は将来嫁にいけるのだろうか、と……。

 

親の欲目ではないが、娘は器量は良いほうだと思っている。実際娘と外出した時など、周囲の男どもの視線が自然と娘に集まっている事に気づく時がある。娘は柔道をやるのに邪魔だから、と髪はうなじを隠すか隠さない程度の長さで切りそろえていて、ややもすると男に見える事すらある。

しかし、手の平に収まりそうな程の小顔、ぱっちりとした二重まぶたに、すらっと通った鼻筋と言った妻に似た容姿に、思わず振り返る男どもの多い事多い事。

 

「ふわー、ねむぅ……」

 

助手席で、せっかくの小顔を台無しにするように大口を開けてあくびをする娘。まったく、中身は残念娘そのものなのに……な、と私は苦笑する。

 

妻も口には出さないが、娘のそんな男勝りな性格を心配したのか、ときどきしゃれた服を買いにつれ出す事を始めた。だが、私の見るところその試みが成功しているとは言い難い。

 

女子高生らしいアクセサリーや洋服を妻と買いに行ったはずなのに、買ってきたものと言えば軟膏やシップ、粉末タイプのスポーツドリンクと言った女性らしさとは対極にあるようなものばかり。妻もこれでは頭を抱えようというものだ。

 

そんな風に娘には色々思う所が無いわけではないが、まあ、男親としては逆よりは良いのではないだろうか。嫁にいけないなら、いけないで構わない。気が済むまで家にいればいいさ。この子はきっと、自分の才覚だけで世の中を堂々と渡っていけるはずだ。

 

「なあ、茜……。……?」

 

返事がなかった事で、私がそっと隣を伺うと、娘は天使のような笑みを浮かべて夢の世界に旅立っていた。

 

ふ……。お疲れさん。よくやったよ、茜。いつも周りが思わず止めたくなるほど一生懸命なんだ。今日ぐらいはゆっくり休むと良いさ。

 

娘の口から漏れる静かな寝息をBGMに、私は車を走らせる。穏やかな気持ちでハンドルを握る私だったが、それは娘の口から「……松田さん……」という声が漏れるまでだった。

 

誰だ、松田とは!?

 

悶々とした思いで、私は車を家路に走らせていた。

 

 

 

~~~~Side とある柔道部員 1年生 小田 雄太(おだ ゆうた)~~~~

 

 

校舎と渡り廊下で繋がる、くすんだ緑色をした外観が年季を感じさせる武道場。激しい運動で窓ガラスが割られないよう、窓ガラスを挟むように内側と外側には鉄筋がはめられている。

 

その武道場では、秋田東工業高等学校の柔道部と剣道部がスペースを半分ずつ占有し、日々部活動に励んでいた。剣道部の方は飴色に変色した木板が全面に張られているが、柔道部の方は100枚ほどの淵の無い畳が敷かれていた。正式な試合を行うのに必要な畳の数はおよそ50畳のため、ここ秋田東工業高等学校の柔道部は、同時に2試合を行う事が可能な程度の広さを有している事になる。

 

その広い畳の一隅で柔道着を着た数人の男達が車座になって、部活動前のおしゃべりに興じていた。

 

 

 

「なんだよ、この本。52kg以下級の選手の紹介で写真付きで載っているのって、山口だけじゃないかよ。なんで桐生先輩の写真を載せてないんだよ。先輩は昨日日本一になったんだぞ」

 

「仕方ないさ。これ先月号だろう? そん時には桐生先輩が優勝するなんて誰も思ってなかったんだろう。でも、来月号にはでっかく載るんじゃないか?」

 

「そりゃーそうだろうけど、見ろよ、72kg超級を。こんなトドみたいな女の特集で1ページ丸まる使うくらいなら、絶対先輩の写真を載せた方が部数アップにも繋がるだろうに。分かってないなー、〇学館も」

 

そう言って、俺は月刊『柔道マガジン』を発行しているとある出版社にひとしきり悪態をつく。

 

桐生 茜。俺達柔道部の1年生にとって、桐生先輩は憧れの先輩であり、秋田東工業高等学校 柔道部のキャプテンでもあった。俺達柔道部の部員は男女合わせて12名(1年生が8人、2年生が4人)だが、そのうち女子は桐生先輩一人だった。1人でも女子柔道部を作れない事も無かったが、肝心の桐生先輩が『一人だと何かとめんどくさいから一緒にさせてよ』、と言った事で、県内では珍しい事に、うちの学校の柔道部は男女混合だった。

 

そして男女混合になると、そこは男子の中に混ざっても圧倒的な強さと、意外と言っては失礼な面倒見の良さを発揮する桐生先輩が、3年生が抜けた後の2年の秋からキャプテンに選出されるのは、必然と言えた。

 

俺は、中高一貫のこの学校に高校から編入して柔道部に入部していた。柔道自体は中学時代からやっており、初段も中学3年生時に取得していた。そんな俺が武道場で桐生先輩を初めて見た時、最初俺は先輩を柔道部のマネージャーだと思った。

 

だって、俺の知っている柔道をしている女子なんて、皆が皆、恋愛対象と考えづらいどぎつい女子ばかりだったから。

 

それに対して、桐生先輩は86kg以下級の俺がちょっと身体を押したら、とたんに尻もちをつきそうなほど小柄で華奢な容姿だったのだから、部員と考えるのがどだい無理な話だった。

 

それが、俺が柔道着に着替えて畳の上に立つと、桐生先輩が柔道着を着て2年生の先輩達と談笑しているものだから驚いたと言ったらなかった。しかも黒帯を絞めて。

 

だけど、その姿を見ても俺はまだ桐生先輩の事を理解できていなかった。マネージャーでない事は理解した。だけど、それでもいくらなんでも段持ちという事は無いだろうと。おそらくあの先輩は、2年から柔道を始めた素人で、大方帯は先輩の帯を借りたのだろう、という程度の認識だった。

 

そんな俺が、認識を改める必要に迫られたのはそれからすぐだった。ニヤニヤと笑みを浮かべる中学からエスカレーター式に高校に上がった同じ1年生の同級生達。彼らが俺に、桐生先輩と組んでみろよ、と言うのだ。

 

正直、その時の俺の胸の内にほんの少しだけスケベ心が無かったとは言えない。髪はショートヘアだが、驚くほど小さな顔にその短い赤毛の髪が逆に合っていて、ぱっちりと開いた瞼と俺なら片腕で抱きしめられそうなほどの小柄な体は、俺が知っている女子柔道部員の姿では決してなかった。

 

開始線に立ち正面から向き合うと、不思議な事に先輩が身に着けている柔道着が、俺が着ているそれと同じデザインだという気がしなくなる。異なるデザインのはずが無いのにだ。

 

皆に促されるまま先輩と組みあう事になった俺は、どうにか怪我をさせないように先輩の背中を畳につけさせる事をまず考える。そして、試合後はこれを機に、先輩とお友達からいつかは深い仲になっちゃったりして、などと夢想しながら「はじめ」の合図と共に彼女の襟元をそっと右手で掴む。さあ、捻挫はもちろん、先輩の身体にかすり傷一つ生じさせないよう細心の注意を払って、軽く足を引っかけて倒そ――。

 

次の瞬間、俺は文字通り宙をかっ飛んでいた。

 

ズダーーーーン!! 背中から伝わった衝撃が全身にさざ波のように伝播していく。同時に、中学時代に練習のし過ぎでつぶれた耳にまではっきりと届く激しい打撃音。これらを間違いなく俺自身が感じているというのに、それでも俺はこの異常事態の渦中にいるのが、俺自身だという事が理解できずにいた。

 

……どうして俺の視界に、武道場の天井が映っているんだ? 意味が分からなかった。茫然としながら武骨な武道場の天井を見上げる俺の視界に、突然覗き込むようにした先輩の小顔が映りこむ。

 

「大丈夫? 加減したけど、どこか打っちゃった?」

 

「……」

 

返事をしない俺を心配したのか眉を顰めた先輩は、俺の意識レベルを確認するように、俺の顔の前で手をパタパタと振る。

 

「もしもーし。私の言葉、聞こえてる? これ、何本に見える? 言ってみ?」

 

そこで俺は意識が覚醒する。

 

「あっ! だ、大丈夫です! き、聞こえています!」

 

よほどうまく投げられたのか、あれほど激しく畳に叩きつけられたというのに、飛び起きた俺の身体に痛む所はまるでなかった。

 

俺の肩よりもずっと低い位置にある先輩の顔に、起き上がった俺を見てほっとしたのか、さわやかな笑みが浮かんだ。

 

「そっ。それなら良かった。君、名前は? 君、なんかめちゃくちゃ投げやすかったから、また今度組んでよ。あ、私、桐生茜。よろしくね」

 

「は、はい! 俺、小田 雄太と言います! も、もちろんです、桐生先輩!」

 

上目遣いで発せられた先輩の言葉に、俺は顔を赤らめている事を自覚しながら勢いよく返事をする。まだ地に足が付いていない気がしてならない俺が背後を振り返ると、ニヤニヤと笑みを浮かべている同級生達。

 

どうやらこのやりとりは、桐生先輩を知らない人間が辿る通過儀礼のようなものだったのだという事を、俺はようやく悟ったのだった。

 

 

 

ジョリ、ジョリ……。

 

……。

 

ジョリ、ジョリ……。

 

……。

 

今年の4月に起こった出来事を頭に思い浮かべていた俺だが、気が付くと畳の上で車座になっている俺達のうち、俺を除く全員が含み笑いをしながら俺を、いや、正確には俺の背後を見上げていた。

 

ジョリ、ジョリ……。

 

さきほどから聞こえてくるこの珍妙な音は、俺の頭部から発せられているものだった。短く5分刈りにそろえた俺の髪は、前頭部から後頭部にかけて手でなぞる事で、このような珍妙な音を発する。

 

背後を振り返るまでも無く分かる。いたずらで俺の頭を撫でる奴はたくさんいれど、毛髪を通じて頭皮から感じるこれほど小さな手の所有者は、俺の知る限り一人しかいない。

 

「あの……先輩。そろそろそれ、やめていただけませんか?」

 

「えーー、後1分だけ、駄目? 私、1日1回は雄太の頭触んないと、落ち着かないのよ。ほら、私、昨日、一昨日と東京行ってたから触れてないでしょ? 減るもんじゃないし、良いじゃない」

 

「減るとか減らないとかの問題じゃないんです!」

 

「ああ、もう!」と振り返った俺の前にいたのは、やはり我が秋田東工業高等学校 柔道部の紅一点であり、絶対的エースであり、キャプテンでもある『桐生 茜』先輩だった。

 

 

 

俺達がひとしきり昨日の先輩の優勝を祝う言葉を送った後、俺は先ほどの先輩の言葉を訂正する。

 

「だいたい東京で俺の頭に触れてないって言っておきながら、昨日試合の後手を伸ばして、俺の頭を撫でてたじゃないですか!?」

 

「あれは、雄太の方から撫でて撫でてって、2階の手すりから頭を差し出してきたんだからノーカンよー」

 

そう言って、口に手を当ててけたけたと笑う桐生先輩に俺は苦笑いする。昨日は、日帰り弾丸応援という事で部員の有志と一緒に東京まで応援に行っていた。そこで、先輩達が俺の下半身を抑えてまるで宙づりのように俺を2階から逆さにして、先輩に頭を撫でさせたのだ。

 

先輩が俺の頭を撫でると落ち着くと、日頃から口にしているのを知っているからこその悪ノリだったが、あの後俺達は危険な行為をした事で大会の運営スタッフから盛大に雷を落とされていた。俺は被害者なのに、俺が一番叱られたのは絶対におかしいと思う。

 

「誰も撫でて欲しいなんて言っていませんよ! あの後、めっちゃ怒られて大変だったんですからね!」

 

俺の言葉に、更にお腹を押さえて笑う桐生先輩。まあ、あれくらいの事で先輩のこの向日葵のような笑顔が見られたのだから、良いとするか。

 

そんな事を考えていたら、先輩がまだ制服姿のままだった事に俺は気付く。うちの学校の女子の制服は、首元をえんじ色の小さな紐で蝶々結びにした、紺色のブレザーの制服だ。俺と同じ事に気づいた奴が首を傾げながら先輩に問いかける。

 

「キャプテン、今日は練習に参加しないんですか?」

 

その問いかけの裏に、それを若干残念に思っている成分が含まれている事に気づく俺。もちろんそれは、俺も含めてこの場にいる皆が同様に抱いている思いだった。

 

でも、噂で聞いた限りでは、先輩は俺達が武道館を後にした直後、会場内で卒倒したと聞く。それを考えると、今日は無理をさせるべきではないかもしれないと、内心の残念に思う気持ちを顔に出さないようにして、先輩の答えを待つ俺達。

 

しかし先輩は、俺達のそんな気遣いに全く気付く様子もなく、あっけらかんと答える。

 

「え? もちろん参加するよ。ほら?」と、先輩は帯でくるっと丸めた柔道着を持った右手を、俺達に見えるように掲げる。そして、「でもねー……」と続ける。

 

「まだ女子剣道部の更衣室が開いてないのよ。早く誰か来ないかな……」

 

ああ、そう言えば。俺は、柔道場に併設されている板張りの剣道場の更に奥に隣接している部室の扉に視線を送る。ここの武道場には、更衣室としても利用している部室は3部屋しかなく、その3部屋は女子剣道部員用、男子剣道部員用、男子柔道部員用として使用されていた。

 

もう一部屋あれば女子柔道部員用の部室を構える事が出来た話だが、無い物は仕方ないし、もともと女子部員が複数人いる剣道部と違って、女子柔道部員は先輩一人だ。先輩が女子剣道部員用の部室を間借りして着替える事は、ある意味仕方のない事と言えた。

 

「そう言えば、今日は剣道部は男女とも部活動は休みって言ってましたよ」

 

剣道部に友人のいる一人が、先輩にそんな事を伝える。そう言えば、いつもならそろそろ防具を身に着けた剣道部員が板の間に姿を現すはずなのに、今日は一人もいない。

 

「えー、そうなの? もう、教官室遠いじゃない。鍵を借りに行くのが面倒だな……。そうだ! ねぇ、皆の部屋貸してよ。パッと言って、パパっと着替えてくるからさ!」

 

「うぇっ!? い、いや、それはまずいですよ、キャプテン。いくら何でも俺達の部屋で着替えるなんて……」

 

部屋の中には、俺達が脱ぎ散らかしたパンツや(柔道着を着る際にはパンツは脱ぐんだ。常識だぜ?)、女子には見られたくないちょっと大人な写真集や漫画があるんだが……。

 

「大丈夫よー。別に皆が部屋にいる時に着替えるわけじゃないんだし。ちょっとの間、部屋に入らないでいてくれたら、それで良いんだから」

 

またこの人は、自分が女子だという事を自覚しない発言を……。桐生先輩は、時々、いや頻繁にこういう言動を取る人だった。

 

先月も、ペットボトルに入った部員の飲みかけのスポーツドリンクを「あ、それ新発売のじゃない!? ちょっと一口!」と、突然その部員の手からペットボトルを奪い取り、それに何の躊躇もなく口をつけたのだ。

 

「なかなかいけるじゃない。ありがと!」と、一口どころかドリンクをごくごくと口に含んだ桐生先輩だったが、それを返された後の部員が不憫だった。顔を真っ赤にしながら桐生先輩の唇が触れたペットボトルを飲もうとする部員と、そうはさせじとそのペットボトルを奪い取ろうと部員が群がる。

 

こんな事もあった。あれは、部活動を終えて制服に着替えた桐生先輩に、とある部員が柔道の内股の掛け方を教えてもらえないかと尋ねた時だった。柔道の事となると途端に他の事が見えなくなる桐生先輩は、自身がスカートを履いている事を忘れたかのように、その問いかけた部員に熱の入った指導を始める。

 

内股とは、相手の体を引きつけ、相手の両脚の間に自身の片足を差し込み、内股の部分をはね上げ投げる豪快な足技の一つだ。

 

もうお分かりだろう。自身の片足を差し込み、思いっきり高く込み跳ね上げるのだ。そんな行為をスカートでやったらどうなるか……。尋ねた部員も、まさかそんな熱のこもった指導を受けられるとは思わなかったのだろう。思いっきり足を跳ね上げた事で大きく捲れたスカートの中身に最も近い位置にいた部員は、ガチガチに固まってしまっていた。

 

桐生先輩はそんな部員を見ても、自分のやった事を理解しないまま、「どう? 分かった? もっかいやってあげようか?」と尋ねるが、その部員はぶんぶんと首を振って断る。

 

それ以来、俺達の間では『制服に着替えた桐生先輩に柔道の相談をするのは禁止』というルールが定められた。

 

 

 

「ねえ、良いでしょう? 良いよね! 今、部室に誰かいるのかな? あ、後ろ向いててくれてもいいんだけどな。私、着替えるの速いから、そんな迷惑かけないと思うし」

 

俺達が先輩の発言に茫然としている間にも、先輩の妄言は留まる事を知らなかった。後ろを向いていたら良い? この人、本当に自分が女子だという認識が無いのだろうか? どこの世界に、背中を向けた男子の背後で柔道着に着替える女子がいるのか。

 

(おい、誰か止めろよ)と、俺達1年生が視線で語り合っていた時、不意に桐生先輩の頭をパンっと丸めた雑誌で叩く勇者が出現する。

 

「痛っ! ちょっ、いきなり何するのよ、真田(さなだ)!」

 

「何するのよ、じゃないだろうが。1年生を困らせるな、桐生」

 

「えー、私、皆を困らせたりして無いよー。ねえ、皆?」と、不思議そうな表情で問いかける桐生先輩に、俺達は一様に苦笑いを浮かべる。

 

良かった、真田先輩が来てくれた。俺はほっとした面持ちで、トレードマークであるスクエア型の眼鏡の淵をくいっと持ち上げて、懇懇と先輩を諭している真田先輩を見つめる。

 

真田 廉(さなだ れん)。俺達1年生にとって2年生の先輩であり、ここ秋田東工業高等学校 柔道部の副キャプテン。キャプテンがあんな風だから(今キャプテンは変顔をして、しかめっ面を崩さない副キャプテンを笑わせようとしている……)、実質この部の影の仕切り役は、この真田先輩と言って良かった。

 

聞いた話では、真田先輩は中学1年生の時から桐生先輩と同じ柔道部に属しており、この部で唯一、桐生先輩に堂々と正面から苦言を呈せる人だった。と言っても、別に桐生先輩が暴君なわけではないのだが、あの実力に加えて、人目を惹く容姿と男前すぎる性格に皆がつい一歩を引いてしまう時に、真田先輩は一歩も引かず桐生先輩をやり込める。

 

「まったく……。着替える時にいなければ良いというものでは無いだろう。だいたい、桐生は脱いだ服をどこに置いておくつもりだったんだ? 部室に女性の下着が転がっていては、部員が目の毒だろうが」

 

「ひどっ! 毒ってひどすぎない!? 私、泣いちゃうよ、しくしく」

 

ペロッと指を舐めて、それを目の下に塗り付ける桐生先輩。そして、よよよ、と崩れるように泣き真似をする、桐生先輩のあまりと言えばあまりなその大根役者ぶりに、皆が二の句を発せず立ち尽くす。うん、女の子は皆女優と思え、と誰かが言っていた気がするが、それは桐生先輩にはどうやら当てはまらないようだ。

 

桐生先輩と5年近い付き合いである真田先輩も、もちろん桐生先輩のそんな残念な泣き真似に付き合わない。

 

「まったく、お前は……。ほら、これがあれば全て解決なんじゃないか?」

 

そう言って先輩に差し出した右手の中から、チャラっと音を立てて現れる一本の鍵。その鍵には、『女子剣道部室』と書いたラベルが張られていた。それを見て、途端に変顔から喜色に代わる桐生先輩。

 

「わっ! 真田ナイス! さすが副キャプテン。分かってるぅ!」

 

「桐生が分かっていないだけだ。ほら、さっさと行って着替えてこい。お前が号令を出さないと、いつまでも練習が始まらないんだから」

 

「オッケー。最速で着替えてくるから、ちょっと待ってて!」

 

そう言って文字通り駆けていく桐生先輩の背中に、真田先輩が「ああ、言いそびれていた……」と、声を投げかける。

 

「桐生、日本一、おめでとう。お前なら、きっと山口選手にも勝ってくれると思っていたよ」

 

その言葉に、桐生先輩はピタっと足を止めて振り返った。

 

「ありがとう、真田! 次は真田の番だね! 県大会71kg以下級の優勝、期待してるよ!」

 

「ふふ。日本一になったお前に比べると、ずいぶんとスケールの小さい話だけどな」

 

「何言ってんの! 夢に大小なんてないわよ! それに、私、真田が表彰台に立つ所をずっと見たいと思ってたんだから。じゃあ、すぐ戻るね」

 

それだけ言って、桐生先輩は今度こそ女子剣道部の部室の扉に向かって駆けて行った。

 

秋田東工業高等学校 柔道部。キャプテンである桐生茜先輩と、副キャプテンである真田廉先輩。まるで性格の異なる2人だけど、そんな2人だから俺は、『うちの部って最高なんだぜ』と、他の部に入部した同級生に対して胸を張れるんだ。

 

そんな事、恥ずかしくて口には出来ないけれど、俺は胸の内にそんな思いを抱いていた。

 

 

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