ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
~~~~とある日の猪熊邸にて~~~~
「あら、お義父さん。まだ強化合宿中では無かったのですか?」
暦の上では立秋が過ぎたとはいえ、未だに残暑厳しい季節。玉緒が汗を拭いながら買い物から戻ると、来月に迫ったソウルオリンピックに向けた強化合宿に特別コーチとして参加している滋悟郎が居間で一人茶をすすっていた。その声に、滋悟郎はテーブルに広げていたスポーツ新聞から顔を上げ、縁側に立つ玉緒を見やる。
「うむ。今日は稽古の中休みぢゃからのう。柔や桐生は今頃街に出て羽を伸ばしている頃ぢゃろうて」
「ああ、そうなんですか。午後からお天気が急に崩れるとニュースで言っていましたが、雨に降られなかったら良いですけど。二人は元気にやっていますか?」
10日余りに及ぶ強化合宿に二人が柔道着を肩に担いで家を発ったのが数日前。同日より滋悟郎も特別コーチに招聘され、以降一人で広い猪熊邸で過ごしていた玉緒は、レジ袋の中身を冷蔵庫に移しながら滋悟郎に問いかける。
「当然ぢゃ。そも合宿と言っても、日頃から同じ程度の稽古をこなしておる二人ぢゃから、あの程度で根を上げたりはせん」
事実、滋悟郎は孫娘である柔と同居人である桐生を相手にすると言うよりは、男女を問わずその他の代表選手や強化選手の相手に忙殺されていた。「全く、最近の若い者どもは・・・・・・」とぶつぶつと愚痴をこぼしながら不在の間にたまったスポーツ新聞に目を通していく滋悟郎に、玉緒は苦笑いを浮かべる。
「お義父さん、今日の夕食はこちらで召し上がっていけるんでしょう? お義父さんの好物の筑前煮を作りましょうかね」
新聞に目を落としていた滋悟郎はその玉緒の言葉に相好を崩し、喜色を浮かべて顔を上げる。
「おお、それはいい。合宿所の料理も悪くは無いが、若い選手に合わせて味付けが濃いからのう。玉緒さんの料理が食べたいと思うておった。ほっほっほ」
「まあ、お義父さんったら。お疲れでしょう。夕ご飯の時間までゆっくり休んでいて下さい」
そして玉緒は夕飯の仕込みを始めるのだった。
「うむ、やはり玉緒さんの作る筑前煮は旨い! 箸が進むわ。玉緒さん、おかわりぢゃっ!」
「はい、はい」と微笑みながら滋悟郎の差し出したお茶碗にご飯をよそう玉緒。
「お義父さんが帰ってきてくれて良かったですわ。柔と桐生さんを交えた食事に慣れてしまっていたので、この数日どうにも一人で頂く食事が味気なくて・・・・・・」
桐生茜が秋田から上京し猪熊邸で下宿を始めてはや5ヶ月。若い柔に加えて同世代の桐生が加わったことで、やはり猪熊邸の食卓は賑やかになる。
『柔ちゃん、このモツ煮込み、凄く美味しい!』
『ありがとう。でも、モツ煮込みじゃ無くて、ランプレドットね』
『ラ、ラン・・・・・・プ・・・・・ド……ドラゴン? まあ、ドラゴンの肉でも何でも美味しければ良いわ! よしっ、明日は私が腕を振るって――』
『駄目よ、桐生さん。桐生さんの気持ちは嬉しいけれど、桐生さんはオリンピックが終わるまでは厨房に立たない約束だったでしょう?』
『ええぇぇ、どうしてですか、玉緒さん。私、最近家政科の授業でめきめき料理の腕が上がっているんですよ。この間も、調理実習で私の料理を食べた先生が衝撃を受けたみたいで――』
『・・・・・・衝撃の余り先生が卒倒しちゃったけどね。あの後、私と富士子さんが、茜さんも含めて単位を貰うためにどれだけ苦労したか・・・・・・』
『駄目よ、桐生さん。ご両親からも、下宿している間は料理をしないように釘を刺されているでしょ?』
『そうじゃ、桐生! そんなに料理を振る舞いたいのなら、日刊エブリーの松田にでも食わしておけ!』
『松田さん? 確かに私の料理の熱烈なファンだけど、私としてはもっと裾野を広げたい気も……。でも、まあ良いか。松田さんなら良いんですね?』
『だ、駄目よ、茜さん! 絶対に駄目!』
『どうして柔ちゃんが反対するのよ? あ、分かった、嫉妬ね? 大丈夫、大丈夫。松田さんは料理の腕だけで柔ちゃんより私を選ぶような事はしないから!』
『――そんな心配はしてませんっ!』
滋悟郎も玉緒の言いたいことを察したのだろう。
「まったく、年頃の娘が集まるとかしましいとは、よう言うたもんじゃな。あやつが同居するようになってから、毎日が騒がしゅうていかんわ」
そう口にする滋悟郎だが、意外にその表情は穏やかだ。
「くすくすくす。本当ですね。でも、賑やかで良いじゃありませんか。柔も良いお友達が出来て楽しそうですし。それに、あの子があれだけ柔道に対して真摯に向き合い始めたのは、桐生さんの影響があったからだと思いますよ。お義父さんもそれはお認めになるでしょう?」
玉緒の言葉に滋悟郎はふん、と鼻を鳴らしカレイの煮物に箸を伸ばす。彼の表情から、玉緒の言葉が正鵠を射ていることは明らかだった。
その後も、ここにいない二人の話題で盛り上がりながらしばし食卓を囲む滋悟郎と玉緒。そして玉緒は、滋悟郎が食後のお茶を一服して満足げにほうっと息を吐いたのを確認し、少しだけ居住まいを正してテーブルを挟んで滋悟郎に向き合う。食器の片付けられたテーブルの上に、そっと数冊のパンフレットを並べる。
お茶を飲みながらそのパンフレットをちらっと目の端に捉えた滋悟郎の頬が、一瞬ひくっと強ばる。
「……た、玉緒さん、これは?」
「お義父さんがお留守の間にポストに入っておりましたよ。どれもお義父さん宛で、西海大学を筆頭に私でも知っている有名大学校の入学案内のようですね」
玉緒はテーブルの上に置いたそのパンフレットをパラパラとめくりながら、「それも、どういう訳か編入についての案内のようです」と続ける。
「……」
玉緒の言葉に滋悟郎は押し黙る。そして彼は、右手の中の湯飲みをテーブルに置き眉間に皺を寄せ腕組みをする。そんな滋悟郎に対して玉緒は率直に問いかける。
「お義父さん、柔が三葉女子短大を卒業したらスポーツの得意な大学に編入させることをお考えなのですか?」
滋悟郎の眉間に浮かんだ皺が更に深くなる。図星だった。それを悟った玉緒は、娘のために言葉を尽くして義父である滋悟郎に言葉をかける。
「あの子はもう子供ではありません。自分の行く先は、自分で選ぶ事ができますよ。幸い、信頼できる友人もたくさんできたようですし、最近では――」
黙って玉緒の言葉を聞いていた滋悟郎は、そっとテーブルの上の湯飲みに手を伸ばし、喉を潤す。その様子をじっと見つめていた玉緒は、考えを変えてくれただろうか、と期待する目で義父を見つめる。
こちこちと時計が時を刻む静かな音が二人の間を流れる。そして、ようやく滋悟郎がその重たい口を開く。
「……玉緒さんや」
「はい」
「――お茶をもう一杯ぢゃ!」
その答えにがっくりと肩を落とした玉緒。姿を消した夫と共通する頑固一徹な義父の態度を見て彼女は(本当にこの親子は……)と、胸の内でそっとため息を零した。
そして玉緒はこの場での説得を諦めたのか、お茶のおかわりを要求する義父に唯々諾々と新しいお茶を注ぐ。同時にお茶受けにと、豆大福も添えた。それを満面の笑みで口にほおばり、お茶で流し込む滋悟郎。
すると、満足そうな義父の様子をテーブルに肘をつきじとっとした目で見つめていた玉緒が一言。
「……その豆大福、桐生さんの手作りですよ」
「――ぶふぅ!?」
冷静に考えれば合宿に行っている桐生が菓子など作れたはずがないのだが、かつて『桐生の手作り』を食して危うく三途の川を渡りかけた滋悟郎の反応は激烈だった。思わず口に含んでいた茶を吹き出し、両目から涙を零す勢いでむせ返す滋悟郎。
玉緒は、その激しくえずく義父の姿を見て、ほんの少しだけ溜飲が下がる思いで見下ろしていた。
~~~~ソウル出立前日の猪熊邸~~~~
「ごめんくださーい。滋悟郎さん、いらっしゃいませんか?」
脇にバイクのヘルメットを抱えたTシャツ姿の青年が、猪熊邸の呼び鈴を押してそう声を上げる。
待つことしばし。
「はーい、少しお待ちください」と涼やかな声が扉の向こう側からかかり、直ぐに扉がガラッと開いた。
「お待たせしました。祖父なら今日は地区の寄り合いに行っておりまして――。……松田さん?」
「や、柔さん?」
互いに顔を見合わせて驚きの表情を顔に浮かべる二人だった。
カナカナカナ……。9月の陽が落ちかけた時刻にもなれば時折涼しい風が吹き、その風に乗ってひぐらしの鳴く声が猪熊邸の庭にまで届いていた。
猪熊邸の庭に回って縁側に腰をかけた松田は、そのどこか郷愁を漂わせるひぐらしの音に耳を澄ませていた。
「まだ外は暑かったでしょう、松田さん。どうぞ、冷たい麦茶です」
そんな彼に、麦茶の注がれたグラスをそっと差し出す猪熊柔。それをいただく松田の頬が少し赤く見えるのは、彼の頬を照らす夕日のためか、あるいは別の理由なのだろうか。
「……あ、ありがとう、柔さん。ごめんよ、明日からいよいよソウルに旅立つという忙しい時にお邪魔して……」
外回りで汗をかいていたのは事実であった松田は、ありがたくその麦茶を頂き喉を潤す。
「いえ、全然。もう荷造りは終わっていますから。お爺ちゃんも、お母さんも、茜さんも出かけていて手持ち無沙汰だったから、ちょうど良かったです」
「ははは、そう言ってもらえて助かるよ。今日は柔さんへの取材じゃなくて、日本代表の強化合宿の特別コーチに招聘されていた滋悟郎さんに、男子のエースである齋藤選手の調整具合について話を聞こうと思ったんだけど、不在なら仕方ないね」
そこで言葉を句切り、松田は縁側から猪熊邸の中に視線を投げて笑う。
「こちらにお邪魔してひぐらしの鳴く声が聞こえるなんて珍しいと思っていたけれど、そうか、桐生さんがいないからか。桐生さんがいたらいつも騒々しい――じゃなかった、賑やかだから今日は特に静かに感じるよ。桐生さんはどこかに遊びに行ったの?」
桐生が耳にすれば怖い笑顔で詰め寄りそうな事を口にする松田に、ふふふ、と同意するように微笑む猪熊柔。
「くすくすくす。茜さんに聞かれたら大変ですよ、松田さん。茜さんは、成田空港への見送りのために秋田からご両親が来られてて、せっかくだからと今日は東京見物の案内をしているんです」
「なるほど。桐生さんのご両親か。明日空港に来られるのなら、俺もご挨拶しておきたいな。なんだかんだ言って桐生さんには色々とお世話になっているし。柔さんの方はその……大丈夫かい?」
その問いかけが、父 虎滋郎のことを指して知ることを察した猪熊柔は、縁側で居住まいを正してこくりと頷く。
「はい、大丈夫です。茜さんからお父さんの言葉を聞けていますし、私、お父さんはソウルまで来てくれるような、そんな気がするんです」
「そうか。うん……そうだね。虎滋郎さんなら確かにソウルにいても不思議じゃ無い」
「はいっ!」
他の記者になら紙面に掲載される事を恐れて口を塞ぐ所だが、猪熊柔は松田を相手に構える事無く内情を口にする。そして彼女は、誰も家にいない今ならば、以前から少しだけ考えていた提案を松田にしてみる絶好の機会だと気づいた。
「あ、あの……松田さん、もし良かったらソウルの街を一緒に「――そうだ、柔さん!」」
猪熊柔の言葉を遮り、突然さもいい思い付きが頭に浮かんだとばかりに声を上げた松田に、彼女は思わず「――はいっ」と返事をする。そしてどぎまぎしてる彼女に気づかず、松田は続ける。
「ソウルに着いたらさ――」
「ソウルに着いたら……?」 その先の言葉を期待して猪熊柔の身体が思わず前のめりになる。
……が、松田はやはり松田であった。
「ソウルに着いたら、独占取材させてくれないかなぁっ! あっ、桐生さんにもさせてもらえたら最高だなっ! 駄目かなっ!?」
「……」
何かを期待して前のめりになっていた猪熊柔が、すんっと居住まいを正した事に松田は気付かない。気づかないまま彼は続ける。
「試合前は時間が取れないだろうから、終わった後……。取材する場所は、プレスセンター内で借りる事が出来たはず――」
「……。松田さん、良かったらこちらもいかがですか? お爺ちゃんの大好物なんです」
えんえんと仕事の話を続ける松田に、猪熊柔がそっとお盆を差し出す。そのお盆の中には、塩大福が。
「えっ、良いの、柔さん?」
「はい、どうぞ」
昼も満足に食事を取れていなかった松田は、猪熊柔の言葉に甘えその大福を口に運ぶ。満面の笑みでそれを食する松田だったが、そこに猪熊柔の一言が。
「それ、茜さんの手作りなんですよ。良かったですね」
「むがっ! ――ご、ごふっ、ごふぁっ!」
途端に大福をのどに詰まらせて青い顔でえずく松田と、その様子をツーンとした表情で見つめる猪熊柔。
ヒグラシの鳴く音に混ざって松田の苦悶の声が猪熊邸に漂っていた。