ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
『さあ、いよいよ、大会2日目、女子柔道52kg級の一回戦が始まりましたね。山上さん、昨日は本阿弥選手が決勝で韓国のキムに敗れ、惜しくも銀メダルでした! 日本としては、今日こそ桐生選手に大会初の金メダルを獲ってもらい、日本選手団に勢いをつけて欲しいですね』
『もちろんです。金メダルを獲らなかったら、あの時の焼き肉代を請求してやろうと……、おっと、失礼』
コホンと、咳ばらいをした山上は、解説者席のテーブルに置かれている大会プログラムに視線を落とす。
【日本女子柔道競技日程】
1日目 48kg以下級 本阿弥さやか(控え選手 山口かおる)
2日目 52kg以下級 桐生茜(控え選手 三上 杏)
3日目 72kg以下級 高辺陽子(控え選手 水口裕子)
4日目 72kg超級 藤堂由貴(控え選手 鷹森佳乃)
5日目 無差別級 猪熊柔(控え選手 各階級の代表者もしくは控え選手)
……
『昨日は、金メダルこそ逃したものの、カナダのナディア・クロスベル選手が15歳という若さで銅メダルを獲得しましたが、ここまでのところ、若い選手の活躍が目立ちますね』
アナウンサーに水を向けられ、山上はプログラムから視線を剥がす。
『そうですね、奇しくも昨日の女子48kg以下級では、メダリスト全員が10代でしたからね。桐生にも、期待しています』
ワーーーー!
山上がそう語るのと同時に、会場内に歓声が沸き起こった。会場内に、日本選手団最初の金メダルを期待される赤毛の女性が登場したのだ。日の丸の旗が左右に激しく振られる集団の中に、羽織、袴に金色の帽子、金色の扇子という奇抜な格好で応援する熱烈な柔道ファンもいた。
赤毛の女性、桐生茜はラッパを吹き鳴らして自身を応援してくれている日本の応援団に軽く手を振って応え、その後、落ち着いた表情で隣を歩く調整相手の選手と歓談している。その様子を解説者席から見下ろしていたアナウンサーが山上に尋ねる。
『どうですか、山上さん。桐生選手、落ち着いているように見えますが……』
『そうですね。桐生はその実力もさることながら、メンタルにも定評がありますからね。日本女子柔道陣の監督である柳澤監督も、桐生の心臓には毛が生えている、とおっしゃっていましたよ』
山上が桐生をそう評している間にも、彼女の試合開始時間が近づいたのか、頬を勢いよく叩いた桐生が畳の上にゆっくりと上がる。山上はその様子を見て続ける。
『……ですが、いかに強靭なメンタルの持ち主とはいえ、オリンピックだけは別です。桐生にとって初めてのオリンピックで、初めての試合。立ち上がりは慎重に行って欲しいですね』
これまでどれほど盤石と言われていた選手でも、オリンピックの魔物に魅入られ呆気なく敗れ去る所を幾度となく見て来た山上は、ごくり、とつばを飲み込みながら桐生を見つめる。
『さあ、日本女子柔道陣の中で最も金メダルに近いと評されている桐生選手。いよいよ、初戦です! 日本にソウルオリンピックで第1号の金メダルをもたらしてくれるでしょうか。 その注目の初戦の相手は、アメリカのオリビア・ヒューイット!』
『――はじめっ!』
主審の試合開始の声と共に、開始線上で向かい合っていた桐生とオリビアが組み合う。この階級で金メダル最有力候補である桐生に対して、オリビアも臆することなく足を止めて桐生とがっしりと組み合う。観客席に掲げられた星条旗と日の丸が激しく揺れる。
『オリビアは、長い間同階級でアメリカの代表選手を務めて来た選手です。その試合経験は、桐生を優に凌ぎますよ。桐生は彼女のペースに引き込まれないよう―― ――!! ああっ!!』
山上が突然がたっと席を立つ。山上から見て一瞬桐生の姿が消える。否、消えてはいない。ただ、桐生がオリビアの懐の中に電光石火の速さで潜り込んだのだ。そして桐生は、山上に二の句を継がせる間を与えなかった。
彼らの見つめる前で、アメリカのオリビアの身体が大きく弧を描き、一瞬の後には彼女の背が完全に畳に叩きつけられていた。
ズダーーーン!!
『――一本!』
『――ぷふぅっ』と大きく息を吐きながら、桐生がゆっくりと顔を上げる。と同時に、意気消沈したようにしおれる星条旗と、対照的に熱狂的に左右に振られる日の丸の国旗。電光掲示板の表示は、開始僅か4秒で制止していた。
唖然としたまま天井を見上げるオリビアを一顧だにせず開始線に戻り帯を締め直す桐生。オリビアは主審に促される事でようやく自身が敗れた事を理解したのか、頭を軽く振りながら立ち上がり、肩を落として開始線に向かう。
審判の勝利宣言を受け、桐生は未だ茫然とした様子のオリビアの元に自ら歩みより、軽くその身体を抱擁する。一言二言言葉をかけているようだが、解説席にいる二人にその内容までは聞き取れない。山上がゆっくりと椅子に腰を降ろし、ただただ感嘆したように首を左右に振った。
『いやー、驚きました。いくら桐生が強靭な精神力の持ち主と言っても、初めてのオリンピック、ましてや初めての試合で、あれほど堂々とした戦いが出来るとは』
『我々もあまりの速さに解説をすることを忘れるほどでした。桐生選手、試合開始僅か4秒で、一本背負いで一本勝ちです。あ、今スロー映像が流れていますね。山上さん、この一本背負いをどう見ますか?』
解説席に置かれている小さなモニターに、桐生が一本背負いでオリビアを投げるシーンがスロー映像で流れている。
『……これ以上は無いと言う程、完璧なタイミングで仕掛けていますね。オリビアは少し気負っていたかもしれません。ほら、オリビアは良い組み手を取ったと同時に彼女は前に出ています。おそらく桐生を相手にこのようなチャンスは二度と無いと判断したのでしょう。ですが、そこに桐生は完璧なタイミングで彼女の懐に飛び込んでいます。ほら、前のめりになったオリビアの力をそのまま利用して投げているでしょう? オリビアにとっては、何が何だか分からない一瞬の出来事だったのではないでしょうか』
『なるほど。桐生選手は、最近では“講道館柔道の完成形”という異名で呼ばれているとも聞きますが、まさにその面目躍如と言った戦いぶりだったわけですね』
アナウンサーが、桐生茜に関する情報をまとめた資料を手にしてそう言葉を発すると、山上は『それに関してですが……』と続ける。
『確かに、最近彼女の事をそう呼ぶ声がある事は耳にしていますが、実は桐生はそう呼ばれる事をあまり好んでいないようなんです』
『ほう、それはどうしてなのでしょう?』と尋ねるアナウンサーに、山上はフッと笑みを零しながら応える。
『どうやら桐生は、完成形と呼ばれる事が嫌いなようです。先日彼女と食事を共にする機会があったのですが、その席で彼女は“完成形なんて言われちゃうと、それ以上成長しないじゃない。私は、未完成が良い”と言っていました』
『なるほど。それは、柔道に関してどこまでも貪欲な桐生選手らしい言葉ですね、山上さん』
『――うむ、その心意気や良し! あっぱれじゃ!!』
『『――!』』
感言ったように発せられたアナウンサーの言葉に応えたのは、山上では無かった。背後から突然投げかけられた言葉に驚いた二人が振り返ると、そこにはせんべいをぼりぼりと豪快に齧る高齢の男性。
『――猪熊先生!』
どこから現れたのか、それは猪熊滋悟郎だった。そのまま彼は『おう、山上! せんべい、喰うか?』と、誘われてもいないのに山上の隣の椅子を引いてどっかと腰を降ろす猪熊滋悟郎。
『ほお、良い眺めじゃな。ふむ、桐生はもう柔に次ぐ儂の弟子と言っても良いくらいじゃ。儂もここで最後まで解説に加わってやるから、大船に乗ったつもりでおるが良い!』
頼まれてもいないのに居座る事を決めた猪熊滋悟郎に、アナウンサーと山上は『ははは……』と苦笑いで応えるのだった。
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1回戦を戦った試合会場に一礼して畳の上から降りた私は、ようやく日の丸の国旗が振られる観客席に向かって右手を軽く掲げて応える。ひときわ目立つのは、羽織袴に金色の帽子を被ったおじさんだ。くすっ、有名なオリンピックおじさんだ。彼は東京オリンピックの前年にお亡くなりになったので、私が彼からこのように熱烈な応援を受ける機会は無かったが、この世界でこうしてその機会が訪れるとは。
「桐生さん、いいスタートを切れたね。さっ、次の試合まで時間があるから、身体が冷めないように控室で軽く打ち込みしようっ!」
観客席を見上げていると、側で待機してくれていた三上が軽く背中を叩いて来たので、私は観客席から視線を剥がした。
「ありがとう、三上さん。でも、打ち込みの前に、私“もぐもぐタイム”に入りたいんだけど……駄目?」
「はいはい、ちゃんと桐生さんの好物の苺大福とお友達のくれたお茶も用意しているから、行きましょ」
やった、さすが三上。用意が良い。運動した後はカロリーを消費するから、これは必要な事なのだ。それがたとえ10秒にも満たない試合時間だったとしてもだ。
私が三上とそんな会話を交わしながら歩いていると、前方から眼光鋭い選手が私に視線を合わせながらゆっくりと近づいて来る。
フルシチョワだ。
彼女の存在に気づいたのだろう。隣を歩く三上がびくっと肩を震わしたのを、僅かに揺れた空気で私は気付いた。
「「……」」
そのまま私達は足を止める事無く交差し、もちろん言葉を交わす事も無かった。ただ、すれ違うその瞬間まで、私達は互いに目を合わせていた。三上が何事もなく終わった私達の邂逅に、背後を気にしながら声をかけてくる。
「ふー、緊張したぁ。桐生さん、成長したねぇ。私、絶対何かあると思ってびくびくしたわ」
「何もあるわけ無いじゃないですか。彼女とは、どうせもうすぐ畳の上で相まみえるんだし、今場外乱闘しても意味が無いですよ。後のお楽しみ、ってやつです」
「後のお楽しみ、ってほんと桐生さんってオリンピック向きの性格してるわね。その強心臓ぶりを少しは私にも分けて欲しいわ」
「三上さんだって、畳の上に立ったら吹っ切れるタイプじゃないですか。そうでないと“SM固め”なんて攻めた技名つけないでしょ?」
私のからかいの言葉に三上は「そ、その名前は禁句! ――ていうか、私がつけたわけじゃ無いの!」と真っ赤な顔で抗議をするのだった。
畳を挟んだ反対側で軽く身体を動かしている女性選手の胸には、青・白・赤が目に眩しいトリコロールカラーの旗が刺繍されている。それが私の二回戦の相手だった。
「フランスのリアム……か。去年の世界選手権には出てなかった選手ね。できるのかな?」
「左組手の選手だけど、それ以外は特に特徴らしい特徴は一回戦を見た限りでは感じなかったかな……。桐生さんが油断さえしなければきっと大丈夫だよ」
三上の言葉で「そっか……」と少しテンションが落ちた私だったが、背後の観客席から上がった「アカネ、頑張るね!」という私を応援する声に驚き振り返った。
「あっ、桐生さん。ジョディさん達ですよ。ナディアちゃんも!」
「ほんとだ。おーい、ジョディ、ナディア!」
私の返事にジョディは親指を上げて応え、ジョディの隣にいたナディアは手をぶんぶん振りながら「アカネさん、ファイトです!」と声を張り上げてくれた。
「あはは、応援ありがとう! あっ、ナディア、銅メダルおめでとう!」
「ありがとうございます! アカネさん、金メダルまで後4回ですよ! 私、全力で応援します!」と、席を立ってこちらを見下ろすナディア。
そんな彼女に、「いや、ナディア。アイヴィーと当たったら、ちゃんとアイヴィーを応援しなよ」と、苦笑しながら諭すように語り掛けるのは、クリスティン・アダムス。アイヴィーとは、これから行われる私の試合の後、同じく2回戦に登場する予定のカナダの52kg以下級の選手だ。
「あっ、桐生さん。そろそろ試合が始まるよ」
そんな事を考えていた私は、三上の声に我に返る。二階の観客席から視線を剥がし背後の畳を振り返ると、三上の言葉通り、私達の試合を裁く審判団が所定の位置につこうとしているところだった。
「桐生さんらしく思い切りのいい試合が出来れば、きっと結果はついて来るよ! さあ、頑張って!」
三上に背中をパンと叩かれた私は、ゆっくりと畳の上に上がる。斜め後ろの観客席から「茜さん、頑張って!」という柔ちゃんの声が私の耳朶に届いたので、私は肩越しに背後を振り返り、こくりと頷きを返す。その視界の端には、私を心配そうに見つめている母の姿。その母の隣にいる父の手には、どうやってここまで持ってきたのか、『必勝』と書かれた大きな旗が。私と目が合うと、父はその旗を左右にぶんぶんと大きく振り回した。
ナディアの言った通り、後4回勝利すると念願の金メダルだ。ペース配分、なんて考えは私の頭に無い。それを必要とする生ぬるい練習を自身に課してきたつもりはさらさら無いし、“オリンピックの魔物”は得てしてそんな皮算用を弾いた者の前に現れるものだ。
私は気合を入れるために両頬を強くたたきながら、ゆっくりと開始線に向かう。一歩足を踏み出すごとに、会場内の視線が私に集中し、同時に空調の効いたはずのこの試合会場の温度が徐々に上昇していくように感じていた。そして、私と対戦相手が開始線についたのを確認した主審が、よく通る声で「――始めっ!」と、試合開始の宣言をした。
試合開始早々、互いに足を止めた状態で組手争いが発生する。右組手と左組手の選手同士の試合では、相四つにはならず必然的にケンカ四つの形になり、その組み手争いはどちらかが得意の組手となるまで続くのが一般的。
だけど私は、その組み手争いの最中にリアムが左組手に強く固執している事に気づいたので、相手に合わせる形で左組手でリアムと対峙する。そうする事で、互いに左組手で組んだ相四つの形で組手争いが終結した。
ザッザザッ!
がっちりと組み合った態勢で、互いにけん制する様に足を飛ばしながら、大技を仕掛ける隙を探る。特に積極的に動いているのは、慣れた自分の組手で試合が出来ているリアムの方だ。彼女の肩越しに三上の呆れたような表情が視界に入った。
おそらくこの試合の後、私は三上に小言を貰う事になるだろう(おそらく観客席の監督からも)。桐生さんは、どうしていつも相手に有利な組手を譲るの、と。
ただ、私にも言い分はある。まず、私は別にいつも相手に有利な組手を譲っているわけでは無い。その方が相手の得意な技が飛び出して面白そうだな、と感じた時にそうしているだけだ。今回に関して言えば、左組手にリアムがこれほど拘るからには、拘るだけの技を見せて貰おうと興味が湧いたためである。
そしてもう一つの理由は、あくまで自分事の理由である。それは、有利な組手でないと効果的な技が放てないのは、単に自身が未熟なだけという私の考えがあるからだ。私から言わせれば、どんな体勢からでも相手に脅威と思わせる事の出来る技を身に付けていれば良いだけの事である。それが出来ないような技は、“得意技”と呼ぶのではなく、単に“お気に入りの技”とでも呼んでおけばいいのだ。
「――やあっ!」
幾度かの牽制のような小技の応酬の後、リアムが背負い投げを仕掛けて来た。……と見せかけて、直ぐに彼女はそれを後方へ引き倒す小内刈りに技を移行させる。背負い投げを防ごうと体重を後ろにかけていると、その小内刈りにまともに引っかかる事になるが、私は彼女が背負い投げのために懐に飛び込んできた時点で、その狙いを察していた。
ぬるいよ、リアム。それがあなたのやりたかった攻め方なの? 私を背負い投げから小内刈りへと繋ぐ連携技で倒したいのなら、囮である背負い投げの威力と精度を、せめて柔ちゃんのそれの半分ぐらいまで上げて、私に全力でそれに抗わせないと意味が無い。
私は、リアムが小内刈りをしかけて来た時にはもう彼女に対して半身の態勢を取っており、
引っかけようと差し出されたリアムの足を躱す。同時にその時私の上半身は、彼女の左袖口を高く掲げる様に吊り上げている。
「――しまっ!」
彼女がそう口走った時にはもう彼女の両足は畳の上から離れ、ばたばたとまな板の上で暴れる鯉のように、私の担いだ腰の上であがく事しか出来ていなかった。
この後に展開される光景を見越したカメラのフラッシュが会場内の至る所から眩しい程に発せられる。
「――ふっ!」
膝のバネを最大限に利かせ、私はリアムの身体を一瞬で高く釣りあげた後、背中から畳に叩きつけた。審判の「――一本!」の声を聞きながら、私は畳に横たわる彼女の身体の上でくるんと回転した後に立ち上がる。
途端に沸き起こる大歓声。うん、我ながら完璧な袖釣り込み腰だった。右組手だろうが、左組手だろうが私には関係ない。たとえ臨んだ組手でなく、ほとんどの時間が相手に有利な組手だったとしても、ここぞというタイミングだけ私の臨んだ形になっていればそれで良いのだ。
無数のカメラのフラッシュと、私の勝利を祝ってくれる大声援をこの身に受けながら、私はゆっくりと畳の上から降りて行く。途中、ちらりと観客席を見上げると、『必勝』の旗が誇らしげに左右に振られていた。