ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side フルシチョワ・サハノヴィッチ
「――一本!」
私の眼前で、日本のアカネ・キリュウがフランスのリアムに勝利を収めた。これで彼女は私より一足先に3回戦に駒を進めた事になるが、私の胸中には驚きの感情は一切存在しなかった。当然だ。そうでなくては、私がコーチや周囲のスタッフの反対を押し切ってまで、この階級に出場する事に固執した意味が無くなる。
アカネ・キリュウ。あの女の力がこのソウルオリンピック女子52kg以下級の中で突出している事は認めざるを得ない。いや、それは52kg以下級に限った話ではない。たとえ全階級の選手を対象としたとしても、彼女の力は5本の指に入るはずだ。ヤワラ・イノクマ、ジョディ・ロックウェル、そしてテレシコワに私。彼女を加えて、これが現時点での世界5強だ。
『どの階級で金メダルを獲っても、国から貰える報酬は変わらない! もう一度考え直せ、フルシチョワ!』
『サヤカ・ホンアミは、明らかにキリュウより与し易い相手だ! 何故あえて52kg以下級に固執する!?』
『本当にどうしたんだ、フルシチョワ! いつもの冷静さは何処に行った!?』
私の脳裏に、数か月前にモスクワ・スポーツ委員会のお偉方から次々に投げかけられた言葉が思い起こされる。皆が、私が52kg以下級でなく48kg以下級に出場する事を望んでいた。48kg以下級。その試合は昨日この試合会場で行われていた。
金メダルを獲得したキム・ヨンスクに、銀メダルのサヤカ・ホンアミ、そして銅メダルのナディア・クロスベル。なるほど、皆が私に48kg以下級に出場する事を勧めるはずだ。彼女達の試合を実際に見た私は断言できる。私が48kg以下級に出場していれば、金メダルには確実に手が届いていた。
これは自惚れでも、思い上がりでもない。私はそう確信を持っている。だが、同時にこうも確信している。私が48kg以下級に出場していれば、今私が感じているほどの高揚感は抱けていなかったはずだ。ただ、勝利すれば良いのではないのだ。本気で戦うに値する選手と戦いたいのだ。勝って当然の相手と戦い勝利を収めた所で、いったいどれほどこの飢えを満たせるというのだ。テレシコワなら分かってくれるはずだ。
私は、背後のソビエトの応援団を振り返る。ここ韓国の首都ソウルは比較的ソビエトから近い場所であるにも関わらず、ソビエトからの応援団は決して多くは無く、そこには今日試合の無い他種目を含めたソビエト代表の選手達がほとんどを占めていた。私と目の合ったテレシコワが僅かに頷く。
……負けられない。52kg以下級に固執したのは私のわがままだが、その上で金メダルを獲得するのも、私にとって絶対に譲れない一線だ。何故なら、金メダルを獲った際に得られるものは名誉だけでは無いからだ。
国から支払われる報奨金。テレシコワと同じく父親のいない我が家では、ウラル地方の寒村に住むママがいくつもの仕事を掛け持ちして、文字通りその身をすり減らしながら私や弟、妹を育ててくれている。
畳の上から降りたアカネ・キリュウが、日の丸を手にラッパを吹き鳴らす日本の応援団に対して、手を振り笑顔を振りまいている。あの集団の中に彼女の両親はいるのだろうか? 恐らくいるのだろう。日本は世界第二位の経済大国なのだから、彼らにとって海を挟んだ隣国である韓国に応援に来る事など造作もない事なのだろう。
私は、暗い目でアカネ・キリュウの屈託のない笑顔を見つめながら、ギュッと拳を握り締める。私とは大違いだ。きっと故郷のママは、今この瞬間も身体に鞭打ってきつい仕事に従事しているのだろうに……。
ワーーー!
畳を挟んで向かいの観客席からひときわ大きな歓声が上がる。白地に赤が目に眩しいメイプルリーフ旗が振られている所を見ると、私の二回戦の相手であるカナダの選手が姿を現したのだろう。ソビエトの応援団と比べて、皆オリンピックという祭典に酔っているように見える。……負けられない。負けてなるものか。
私の対戦相手であるアイヴィーという選手が、側の控え選手兼調整選手を相手に軽くストレッチをしている。それを視界の端に収めながら、私も一人黙々とストレッチを行う。他国と比べて、我がソビエトに控え選手を登録するという余裕など存在しない。日本やカナダのような裕福な国の選手団とは異なるのだ。
審判が指定の位置についたのを確認した私は、首に巻いていたタオルと胸に潜ませていた写真を足元にそっと置き、ゆっくりと畳の上に上がって行った。背後からは、かつてソビエトで流行った“カチューシャ”という曲の演奏が小さいながらも上がるが、その演奏はカナダの大声援にかき消され、私の耳にほとんど届かない。だが私は、そのか細く聞こえる祖国の演奏に可能な限り耳を澄ませながら、開始線に向かって一人歩いて行った。
「――はじめっ!」
審判の合図と共に、背後から届く大声援に背中を押されるようにカナダのアイヴィーが私に対して向かって来る。迎え撃つ私は、襟元を両腕でガードするかのように構える。アイヴィーの両手が私の襟元と袖口に向かうが、私はそれをガードしていた両腕で防ぐ。同時に私もアイヴィーに対して腕を伸ばすが、彼女もたやすく良い所を取らせない。
そのまま互いに足を止めて激しい組み手争いが始まる。軽量級故にその手の動きは素人には目に追えないほど速い。私とアイヴィーは共に右組手だが、少しでも有利な場所を掴むために互いに妥協はしない。それは柔道で生きる選手の常識だ。
常識……? ふっ、あの女は例外だったな。私の脳裏に、かつて私に土を付けたあの赤毛の女の姿が浮かびあがってくる。あの女、アカネ・キリュウは、組手争いに執着しない。形ばかりの組手争いをしても、相手に引く様子が無いとみると、まるでさっさと組み合って技をかけ合おう、と言わんばかりに組み合う事を優先し始める。それがあの女の――。
「――!? くっ!」
私の襟元に伸ばされた腕を打ちつける様に払った私は、アイヴィーが痛みに顔を歪めている間に彼女の襟を掴み取る。
ビシィッ!
強引に自身に有利な組手で組んだ私は、そのままアイヴィーの足に、自身の足を何度も飛ばす。刈り取る様な足技では無い。ただ、相手の骨の芯に衝撃を残すように僅かに角度を付けて打ち据える。上半身は私に力任せに振り回され、下半身には間断なく痛みが襲うからだろう。顔をしかめ、足を庇う動作を取るアイヴィー。
甘いな……! あの女は、戦いの
アイヴィーを振り回している最中、私の視界の端に会場隅で腕組みをしてこちらを見つめているアカネ・キリュウの姿が映った。その瞳は雄弁にこう語っていた。
『……はやくおいでよ、フルシチョワ』
――言われるまでもない!
腰の引けたアイヴィーの懐に勢いよく飛び込んだ私は、そのまま釣り手と引き手を効かせながらアイヴィーの足を刈る。完璧なタイミングで放たれた払い腰に、アイヴィーは一瞬たりとも抗う事は出来なかった。
「――一本!」という審判の宣告と背後のカナダの大応援団が上げた悲鳴を背に、私はゆっくりと立ち上がった。
私が先ほどアカネ・キリュウの姿を捉えた場所に視線を投げると、もうそこに彼女の姿は無かった。
……後2回だ。後2回勝てば、ようやく昨年の世界選手権の雪辱を果たせる。そんな事を考えながら、私はゆっくりと畳の上から降りて行った。