ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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46話 女子52kg以下級 4回戦(準決勝) 第2試合

side フルシチョワ・サハノヴィッチ

 

 

「――一本!」

 

女子52kg以下級 3回戦。準決勝に進む4名の内、3人目に名乗りを上げたのは、この階級における優勝候補筆頭と目されているアカネ・キリュウだった。キリュウの対戦相手は最初から彼女に対して逃げ腰で、まともに組み合おうとしなかった。そんな相手に対してキリュウは、相手が掛け逃げのように見える中途半端な内股を仕掛けて来たのを見逃さず、それを躱して内股透かしで一本勝ちを決めた。

 

思い描いていた試合では無かったのだろう。不満げな表情でキリュウがゆっくりと畳の上から降りて来る。しかし、不満に思っていたのはキリュウだけでは無かった。他ならぬ私も先の彼女の試合に不満を抱いていたからだ。

 

つまらない……。一足早く準決勝へと駒を進めていた私にとって、キリュウは同階級で最も警戒すべき相手と言って良かった。当然彼女の試合はこれまで全て確認している。そんな私にとって貴重な機会だというのに、対戦相手のレベルが低すぎる事で何も得られない試合だった。試合会場に繋がる選手用の通路で壁に寄りかかりながらその試合を見ていた私は、思わず舌打ちを禁じえなかった。

 

あれが……世界王者 アカネ・キリュウ。早く戦いたいわ

 

突然背後から聞こえて来た異国の言葉。何を言っているのかは分からなかったが、現在私の脳裏の大半を占めている選手の固有名詞が含まれていた事から、思わず背後を振り返る。そこにいたのは、ブラジルの国旗を胸に縫い付け、派手に5色の色に髪を染めた黒人の女だった。彼女の名は知っている。ブラジル代表のベアトゥリス。一度も対戦した事は無いが、寝技には厳重な警戒が必要、とは国のスタッフの言だったはず。

 

しかし私は、そんなスタッフの言葉は右から左に聞き流していたから、それ以上の情報は知らなかった。

 

何故か。そんな事は分かり切っている。それは、この女が私の前に対戦相手として現れる事がないからだ。今私の眼前にいるベアトゥリスともう一人の選手の試合の勝者が準決勝へと進み、アカネ・キリュウと対戦する。つまり、どう転んでもこの女は私の対戦相手にはなりえない。

 

私の隣を、ベアトゥリスと彼女の付き添いの選手が小刻みにステップを踏みながら会場へと進んで行く。

 

ふっ。お前が私の前に現れる事は無いだろうが、もしお前がアカネ・キリュウと準決勝で対戦するのなら、奴の力の一端なりとも引き出させるような戦い方を頼むよ。

 

ベアトゥリスは、私がそんな事を考えながら見つめているとも知らずに、準々決勝の戦いの場へと向かっていった。

 

 

 

ザワザワ……。

 

準々決勝と同様に、私は準決勝第1試合であるキリュウとベアトゥリスの試合を通路脇から見つめていた。会場内がざわついているのは、先ほどまでキリュウと苛烈な寝技の応酬をしていたベアトゥリスが意識を失い倒れているからだ。

 

既に審判の勝ち名乗りは終わっている。キリュウの勝利だ。これで、私がこれから始まる準決勝に勝利すれば、キリュウと金メダルをかけた決勝戦を行う事になる。狙い通りの形になりつつあるこの状況に、私は知らず口角が上がっていた。

 

ふふふ、観客席にいるテレシコワが嫉妬しなければ良いのだが……。あいつがヤワラ・イノクマとの対戦に加えてキリュウとの対戦も密かに願っているのを知っていた私は、そんな事を密かに考える。

 

キリュウによって活を入れられたベアトゥリスが目を覚まし、周囲をキョロキョロと見回す。私の予想通り、ベアトゥリスはキリュウに敗れた。しかし、奴の健闘ぶりが私の想像を超えていた事は認めざるを得ない。キリュウがあえてベアトゥリスの好む領域(テリトリー)で戦っていたという事を差し引いても、奴の奮戦は驚嘆に値した。そして、その奮戦からキリュウの実力の一端を垣間見る事ができた。

 

会場内から、キリュウを相手に失神するまで健闘したベアトゥリスに対して、万雷の拍手が送られる。私も、これから始まる試合のために身体の部位を小刻みに動かしながら、心の内で彼女に対して拍手を送る。もちろんそれは奴の健闘に対しての労いの思いからではない。私がキリュウに勝利するために尽くしてくれたことに対する労いの思いからだ。

 

 

 

線審が配置についた事を確認し、主審が私達に対して畳の上に上がるようジェスチャーで促す。側にいた会場ボランティアの一人に、胸に潜ませていた一枚の写真を手渡し、私は準決勝の舞台に上がる。

 

対戦相手は、グレートブリテンのハリエッタ。彼女は、昨年の世界選手権の二回戦で対戦し開始1分弱で一本勝ちした選手だ。立ち技を中心に戦う選手で、得意技は払い腰だったか。私が普通にやれば勝利は間違いない相手だが、一発勝負のトーナメントでは少しの油断が思わぬ敗戦に繋がる事もある。

 

開始線に立つハリエッタの背後では、グレートブリテンの国旗であるユニオンフラッグが揺れる。開催地である韓国は例外としても、アメリカ、日本に次ぐ大応援団をこのオリンピックに送り込んでいる母国からの応援に、ハリエッタは私に対して勝機を見出したように顔を上気させる。

 

その様子を冷ややかな視線で見つめる私は、遠く離れた祖国にいる家族の事を頭に思い描いていた。

 

ソビエト連邦の極東に位置するアムール州の更に東部に位置する田舎町ベロゴロスク。人口6万人にも満たないこの町は、ゼヤ川下流に広がる農業地帯の中にあり、食品工業や建材工業などの工場が建ち並ぶ。

 

私の家族が住むこの町と韓国の首都ソウルは東経に2度の差しか無いため、時差はほとんど無い。今は19時を僅かに過ぎた時間。ママはもう食品工場の仕事を終え帰宅した頃だろうか。弟と妹には、私がいない間少しでも家事をしてママを手伝うように言い残してきたが、あの子達は言いつけを守っているだろうか? 

 

『大丈夫だよ! 姉ちゃんは金メダルを取る事だけを考えてよ!』

『私、良い子にしていて、ママとお兄ちゃんと一緒に応援するね』

 

13になったばかりの生意気盛りの弟と、更に2歳年少のしっかり者の妹の顔を思い出していると、「――フルシチョワッ! 気を抜くな!」という言葉が背後から投げかけられる。

 

恐らくテレシコワと思われるその声に、私は気合を入れるために一度小さく跳躍し、審判の開始の言葉を待った。

 

 

 

~~~~ソビエト連邦 アムール州 ベロゴロスク~~~~

 

 

カン、カン、カンという錆びの浮き出た金属製の外階段を駆け上がる音が聞こえたのだろう。彼女が5階建ての集合住宅の4階の廊下に身体を滑り込ませるのと、その彼女の住まいである住居の扉が開くのは同時だった。廊下の左右に詰め込んだように並んでいる扉の内の一つから顔をのぞかせたのは、頬にそばかすの浮き出た上の息子と、姉によく似た淡い金色の髪を揺らす下の娘だった。

 

「あっ、ママッ! 早く、早く! もうすぐ姉ちゃんの試合が始まるよ!」

「ママっ、鞄は私が持つから早く靴を脱いで!」

 

ただでさえ狭いエントランスに、子供用の靴が散らばっていて満足に足の置き場も無い。彼女が脱ぎ捨てられている靴を踏まないようにしながら靴を脱ごうとしていると、下の娘が手に持った鞄に手を伸ばす。

 

「ありがとう、マリーナ。フルシチョワは頑張っているかしら? 待って、ニコライ。晩御飯の支度がまだ……」

 

「晩御飯の支度なんて後で良いから! そんな事より、姉ちゃんの決勝進出をかけた準決勝が始まるってば!」

 

ニコライと呼ばれた男の子は、呑気な母親の様子にいら立ちを感じているように、その手を取ってテレビの前に引っ張っていく。

 

「待ちなさい、ニコライ。卵を冷蔵庫に入れておかないと――」

 

「――それはもう私がやったから! ママ、早く、早く!」と、母親の背中を押すようにしてマリーナと呼ばれた少女が続く。

 

 

『さあ、この試合に勝てばフルシチョワの銀メダル以上が確定します! 決勝で待つ“東洋のグレムリン”に雪辱する機会は訪れるのでしょうか? ――今、主審の合図で準決勝が始まりました!』

 

後ろ髪を引かれる思いで小さなリビングに足を踏み入れたダリヤだったが、TVから聞こえるその声に意識を向ける。中古屋で手に入れたためか、時折ノイズの走る古いTVだが、その小さなモニターの向こう側からは間違えようのない彼女の愛娘の姿が。その娘は、家では決して見せない厳しい眼差しで相手選手に向かっていく。

 

「フルシチョワ……。頑張っているのね」

 

オリンピックに出場し金メダルを祖国にもたらすという一念で、愛娘が日頃よりつらく苦しい練習に励んでいた事を誰よりもよく知っている彼女は、目元を袖でそっと拭った。

 

「当り前じゃないか。ほら、ママ。座って座って!」

 

「ママ、さっきね、観客席でテレシコワさんが応援している姿も映ってたよ!」

 

娘の友人であり、何度かこの家にも遊びに来てくれた無差別級の代表選手を慕っているマリーナが、ダリヤに嬉しそうに話しかけていた。

 

「そう、テレシコワさんが。それじゃあ、テレシコワさんの試合でも応援しないといけないわね」

 

「――もちろんよ、ママ! お姉ちゃんとテレシコワさんの二人で、二つの金メダルは絶対なんだから!」

 

 

 

~~~~韓国 ソウル 奨忠(チャンチュン)体育館~~~~

 

タンバリンによく似た母国の伝統楽器であるブーベンを手にした応援団が発する鐘の音に打ち消され、審判の『始め』の声はテレシコワの耳に届かなかった。しかし、開始線に立っていた二人が突然激しい組み手争いを始めた事で、テレシコワは準決勝第2試合が始まった事に気づいた。ブーベンの音に負けじと、テレシコワの隣の席に座っているコーチが、口に手を添えて大声を張り上げる。

 

「フルシチョワ、力はお前が上だ! 多少強引でも良い! 振り回していけ!」

 

確かにフルシチョワの準決勝の相手であるハリエッタの力はフルシチョワより劣る。その事はフルシチョワも百も承知なのか、自信を持って組み合っているように見える。おそらくフルシチョワは、この試合ではなくその次の試合を既に見据えている事だろう。その相手とは……。

 

試合会場の中央付近で組み合っている二人からテレシコワは目を移し、会場隅で腕組みをしながらじっとフルシチョワの試合を見つめている赤毛の選手に視線を向ける。その選手は、側にいる黒髪の選手とときおり会話を交わしながらも、その視線は畳の上の二人に固定されたままだ。

 

――アカネ・キリュウ。昨年の世界選手権における女子52kg以下級の女王。まだ20歳にも満たない年若い選手であるが、まさに女王の風格に相応しい圧倒的な試合運びで勝利を積み重ねている。一足先に決勝進出を決めている彼女の実力は、今更疑うまでもない。その名が世界に轟いたのは昨年からだが、あのジョディ・ロックウェルが好敵手(ライバル)と公言しているヤワラ・イノクマと並ぶ日本の二枚看板(エース)の一人という認識は、今やどの国の関係者の間でも一致している。

 

フルシチョワは、本来ならこのオリンピックでは48kg以下級に出場する事を国のオリンピック委員会から求められていた。だが、彼女はその要請に従わなかった。フルシチョワが昨年の世界選手権の52kg以下級で優勝していれば、受け入れていただろう。だが、彼女はアカネ・キリュウと出会った。出会ってしまった。

 

ふっと思わず笑みを零すテレシコワ。その笑みは自身と同じだという、同類を見る笑みだった。テレシコワも、フルシチョワ同様に胸を恋焦がすような相手を見出している。もちろんその相手は、ヤワラ・イノクマだった。テレシコワはフルシチョワとは異なり、まだヤワラ・イノクマと対戦していない。しかし、テレシコワの脳裏ではもうすでに何度も何度も彼女との対戦をシミュレートしている。

 

後3日だ。後3日待てば、私は実際のヤワラ・イノクマと対戦できる。できるはずだ。

 

「――おおっ、そこだ、フルシチョワ!」

 

コーチの言葉で私は、再びフルシチョワの試合に意識を戻す。ハリエッタの仕掛けた背負い投げを、フルシチョワがタイミングよく裏投げに持ち込む。テレシコワの周囲の応援のボルテージが一層上がる。

 

ズダーーーン!

 

「――技有りっ!」

 

周囲から、歓声と共に仕留めきれなかった事に対する落胆のため息が少しばかり漏れる。それはテレシコワの隣に陣取るコーチも同じだった。額にパチンっと手を当てた彼は無念そうに愚痴る。

 

「――完璧なタイミングだと思ったが、僅かに甘かったか。さすがは準決勝まで勝ち残った選手だ。簡単には決めさせてくれんな」

 

フルシチョワの対戦相手であるグレートブリテンのハリエッタをそう評するコーチだが、テレシコワの考えは違っていた。その証拠に、彼女は冷笑と共に、審判に促されて開始線に戻ろうとする両者を見下ろしていた。

 

彼女はこう考えていた。

 

(フルシチョワ、読みが外れたな……)と。

 

テレシコワには、あの瞬間のフルシチョワの思考が手に取るように分かっていた。彼女は、この試合の相手であるハリエッタをアカネ・キリュウと想定してこの試合に臨んでいる。それはもちろんこの後の試合を考えての事だが、キリュウを想定するには、ハリエッタでは実力不足だった。

 

何の事はない。ハリエッタの動きがアカネ・キリュウとは比較にならないほどお粗末だったのだ。先ほどの背負い投げなどその最たるものだ。おそらくフルシチョワはハリエッタの背負い投げをもっと速く、もっと力強いものと想定していた。その想定の上で返し技を放ったものだから、タイミングがずれて仕留めきれなかった。

 

他の誰も気付かなかっただろうが、テレシコワだけは気づいていた。彼女のその予想を裏付ける様に、開始線に戻るフルシチョワの顔に一瞬苦笑いの表情が浮かんでいた事を。

 

 

 

「……へえ、珍しい。三上さん、フルシチョワが凡ミスしたよ。ちょっと裏投げに移るタイミングが早すぎたね。もう少し待てば、タイミングばっちしだったはずなのに」

 

「そう……? うーん、私にはちょっと分からなかったわ」

 

三上は桐生の言葉を聞いてもよく分からなかったのか、むむっと眉間に皺を寄せて難しい顔をする。

 

準決勝第2試合が行われている試合会場にほど近いスペースで、先に決勝進出を決めている桐生と彼女の調整相手の三上がその試合を見つめていた。

 

「でも、桐生さん。監督が言っていたように、フルシチョワさんは寝技の方はあまり得意じゃないみたいね。さっきなんて絶好の抑え込みの機会だったのに、その機会を自分から潰してたし……」

 

三上は、先ほどフルシチョワがハリエッタを裏投げで投げた際の、絶好の抑え込みの機会を自ら手放し、寝技の攻防に移らなかった事を指摘する。

 

「もしフルシチョワさんが決勝の相手になったら、寝技を主軸に戦う事を考えるのも手かもしれないよ、桐生さん」

 

準決勝で桐生の寝技技術の高さを知った監督やコーチ達が、決勝戦での一つの戦い方としてそんな提案をしていた事も口にする三上。そんな三上の言葉を予測していたのか、桐生はさほど考えるそぶりも見せず応える。

 

「でも、寝技を苦手としていても、寝技に引き込まれないための技術は身に着けているかもしれないよ。特にクレバーなフルシチョワなら、なおさらね」

 

三上はフルシチョワのこれまでの戦いぶりを脳裏に浮かべ、ああ、確かにと言いたげな表情を顔に浮かべた。立ち技と寝技の双方で高い技術を収めている柔道家は、さほど多くない。三上でもすぐに頭い思い浮かぶのは、目の前の赤毛の少女を含めた2人しかいないほどだ。だからこそ、自身の苦手な領域に引き込まれないための技術を多くの選手は身に着ける。

 

一瞬の力の入れ方、抜き方、身体の向き、瞬間の判断と言った精緻な技術で、それは素人では分かりにくいが、見る者が見ればはっきりと分かる。だから三上は桐生の言葉を受け入れた。受け入れたが、そこは桐生の性根を理解している三上。彼女は「でも、桐生さん、それだけが理由じゃないでしょ?」と半目で見つめると、桐生はバレたかと言いたげに頭を掻く。

 

「だって、そんなに苦労してまで寝技に引き込んでも、肝心の寝技が楽しめないんじゃ意味無いじゃない。……なんていうのかな、ロマンに欠ける?」

 

「……ロマンって、もう。ほんっと、桐生さんって男前なんだから。言っておくけど、ロマンじゃお腹は膨れないわよ?」

 

桐生の性根を十分すぎるほど理解している三上は、呆れた様子ながらも桐生にからかうような視線を投げかける。

 

「ふふっ、私、こう見えてもグルメだから、お腹が膨れるだけじゃ満足できないのよ。――! あっ、そこだっ!」

 

「えっ!? あっ、払った!」

 

桐生の視線に釣られ三上が畳の上に視線を戻すと、フルシチョワがハリエッタを払い腰に捉えた瞬間だった。

 

ズダーーーン!

 

試合開始1分47秒で飛び出した派手な投げ技に、試合を観戦していた観客達から「おーーー!」という歓声が上がる。

 

投げられた姿勢の仰向けのまま、顔に手を当てて悔しがるハリエッタ。そのハリエッタを見下ろしながらゆっくりと立ち上がるフルシチョワ。

 

「決まったわね。決勝の相手はやっぱりフルシチョワか。ふふふ、腕が鳴るわぁ」

 

「昨年の世界選手権の決勝の再来ね、桐生さん」

 

二人は審判の勝ち名乗りを最後まで見つめる事無く、その場から踵を返し控室に戻って行った。

 

 

 

~~~~ソビエト連邦 アムール州 ベロゴロスク~~~~

 

「やったー、ママ、姉ちゃん勝ったよ!」

 

「ママ、ちゃんと見てた!?」

 

「ええ、見ていたわ。頑張ってたわね、あの子。ふふふ、これでメダルは確定したのよね。本当に大したものだわ」

 

姉の勝利に興奮して飛び跳ねる二人の子供に挟まれたダリヤは、目を細めてTVに移る愛娘の姿を見つめる。

 

「メダル確定なんて、それぐらいで満足していたら駄目だよ、ママ! 姉ちゃんは、次はあのレッド・グレムリンをやっつけて金メダルを取ってくるんだから!」

 

「そうよ。お姉ちゃん、そのために毎日遅くまで練習していたんだもん!」

 

オリンピックでメダルが取れた事だけで満足していたダリヤは、子供達の剣幕に苦笑いを浮かべながら立ち上がる。

 

「さあ、決勝戦が始まるまでに晩御飯を食べてしまいましょう。あなた達、お皿を並べて」

 

家事を手伝うように、と姉から言われた事をしっかりと覚えていた二人も「「はーい」」と元気に返事をして立ち上がる。

 

ダリヤは、ブーンと鈍い音を立てている冷蔵庫のドアを開き、朝出勤前に仕込んでいた食材を取り出し再びそのドアを閉める。その閉めた冷蔵庫のドアに違和感を覚えたのか、視線をドアに固定して思案顔のダリヤ。直ぐにその違和感の正体に気づいたダリヤは、彼女の背後で手際よくテーブルに食器を並べていた子供達を振り返る。

 

「ニコライ、マリーナ。ここに貼ってあった写真を知らないかしら?」

 

「え、俺、知らないよ」「私も……」と、声を揃えて首を傾げる子供達。

 

「おかしいわね……」とダリヤも子供達に釣られるように首を傾げる。冷蔵庫のドアには家族の写真が何枚も磁石で留められているが、その内の一枚が見当たらないのだ。確かその一枚は、近所の公園で撮った家族4人の姿が写っていた写真だったはず。

 

「そんな事より、ママ、ご飯!」

 

息子の言葉に我に返ったダリヤは、弾かれるように動き始める。

 

「ごめんなさい、直ぐにご飯にするわね。あなた達は手を洗ってきなさい」

 

 

 

ソウルオリンピック 女子柔道52kg以下級の決勝戦は、この時よりちょうど90分後に開始された。

 

 

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