ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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47話 女子52kg以下級 決勝戦①

ソウル現地時間で20時51分。ブラジル代表のベアトゥリスが敗者復活戦で勝ち上がってきたフランスの選手を上四方固めで降し銅メダルが確定した3位決定戦から、既に30分程が経過していた。

 

ザワザワと落ち着かない雰囲気だった奨忠(チャンチュン)体育館に詰めた観客達の視線が、突然ある一点に固定される。皆の視線の先には、白い柔道着を纏った赤毛の女性。次いで、その女性と反対側にも視線が投げかけられ、そこにはくすんだ金髪の女性の姿が。

 

席を立っていた観客達も、これまで圧倒的な強さで勝ち上がってきた二人の直接対決を期待し我先にと席に戻って行く。

 

日の丸がはためく観客席の一角で、ナショナルジャージを身に纏った柔道関係者が隣に座る猪熊柔に、「どうだ、猪熊。桐生の調子は?」と声をかける。猪熊柔は、選手用の細長い通路からゆっくりと試合会場に現れた桐生を見つめながら頷く。

 

「茜さん、とても集中しているように見えます。三上さんともリラックスして言葉を交わしているようなので、平常心で臨めているんじゃないでしょうか」

 

桐生茜と同じ大学にして親友として知られている猪熊柔のその言葉に、声をかけた者だけでなく、周囲の者もほっとした表情を顔に浮かべる。その中でもひと際大きな体格の女性がふんっと鼻を鳴らす。

 

「だから言ったじゃないか。いくら初めてのオリンピックで初めての決勝戦だからって、あいつが緊張なんかするような玉かい」

 

昨年の世界選手権での様子を間近で見ていた藤堂の言葉には十分すぎる説得力があったが、その事を知らない選手からはなおも疑問の声が上がる。

 

「でも藤堂さん。昨日の48kg以下級の決勝戦では、あの本阿弥さんですら緊張で自分の力を出し切れず負けたじゃないですか」

 

座席を二つ占有しふんぞり返った藤堂にそう声をかけるのは、明日72kg以下級の試合に出場予定の高辺。

 

「はっ。昨日本阿弥が負けたのは、緊張じゃなくて実力だよ。そう言えば、本阿弥の姿を今日は見ていないが、どこへ行ったんだい? 金メダルでネックレスを作るって豪語していたものだから、会わす顔が無いのかね?」

 

「よしなさい、藤堂。そう言えば、昨日の夜選手村で桐生が本阿弥に話しかけていたのを見かけたけど、労っていたのかしら? 猪熊は何か知ってる?」

 

藤堂をいさめ、猪熊柔に水を向けたのは山口かおる。彼女は、昨日の48kg以下級に出場した本阿弥さやかの調整相手として付き添っていたので、本阿弥の感じている無念さを誰よりもよく理解していた。

 

しかし、山口に問われた猪熊は、「え、えっと……、私はよく知らなくて……」と言葉を濁す。彼女が言葉を濁したのには訳があった。もちろん猪熊は、桐生と本阿弥の会話の内容を知っていた。彼女もその場にいたのだから。だが、だからと言ってそれをそのままこの場で口にする事は憚られた。

 

『何を落ち込んでいるのよ、本阿弥さやか。あなたらしくない。銀メダルでも立派じゃない。胸を張りなさい、胸を』

 

『むっ、赤毛猿! 放っておいてくださいませ! 本阿弥グループの後継者たる私には、金メダル以外意味がありませんわ!』

 

『そんな事無いって。ほら、差し歯を作るんだったら、金より銀の方が作りやすいよ?』

 

『――何ですって!? あなたこそ、明日の試合でお山の大将から引きずり降ろされても知りません事よ!』

 

桐生の余計な一言で、それまでいつになく落ち込んだ様子だった本阿弥が激高し激しい口論となった昨夜の事を思い出した猪熊は、「ははは……」と頬を引きつらせる。

 

「そんな事より、そろそろ決勝戦が始まりそうですよ。ほら、決勝の試合を裁く審判達が畳の上に上がりました」

 

高辺の言葉に釣られるように、皆が再び試合会場に視線を投げかけた。

 

 

 

「決勝の試合の主審は、オランダのロイゼン・ハワード氏のようですね。今日彼はこれまで5試合の審判を務めていますが、山上さんはどのような印象を持たれていますか?」

 

「彼の事はよく知っています。立ち技、寝技の両方によく精通していますので、決勝戦もしっかりとさばいてくれると思いますよ」

 

そう応える山上の隣で、頼んでもいないのに相も変わらず解説席に腰を降ろしている猪熊滋悟郎が「ふんっ、審判が試合をするのであるまいし、誰が審判をしても同じ事ぢゃ!」と、身もふたもない言葉を発するので、アナウンサーが苦笑いを浮かべる。

 

「は、ははは。それにしても、事前の大方の予想の通り、やはり決勝戦は昨年の世界選手権の決勝戦の再来となりましたね。桐生選手は、一度は勝っている相手ですから、有利と言って良いでしょうか?」

 

「いえ、そうとは言いきれませんよ」と山上が真剣な表情で首を振るので、アナウンサーは「というと……?」と尋ねる。

 

「桐生は、昨年の世界選手権を制した事で、52kg以下級の全選手から研究される立場となりました。彼女の代名詞である桐生スペシャルはもちろん、先ほど披露した寝技と言い彼女の長所・短所はあまねく知れ渡っていると考えるべきです」

 

猪熊滋悟郎は、そんなアナウンサーと山上のやり取りを耳にしながら、彼にしては珍しく一人静かに思考の海に沈んでいた。

 

 

 

「さあ、いよいよ女子柔道52kg以下級の決勝戦が始まります。桐生選手にとっての初めてのオリンピック。18歳の彼女が手にするメダルの色は何色になるでしょうか。今、オランダのロイゼン・ハワード主審により試合開始の言葉が発せられました!」

 

この時を待ちきれなかったのか、主審の開始の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで互いに前に出る二人。共に右組手。その上一方は、組手争いに執着しない桐生。直ぐに互いに組み合うかと思われたが、先に組んだのは桐生であり、フルシチョワはまだ桐生の袖口、つまり引き手しか取れていなかった。

 

「……? ――なっ!?」

 

一瞬桐生の顔に不審の表情が浮かんだが、直ぐにそれは驚きの表情へと変わった。フルシチョワが突然跳躍し、その両足を桐生の身体に挟み込みながら逆さになる。

 

――狙いは桐生の右腕! つまりそれは、準決勝で桐生が受けた『飛びつき腕十字』だった。

 

意表を突くフルシチョワの技に、大きなどよめきが観客席から上がる。しかし、それは直ぐに安堵のため息に変わった。桐生が狙われた右腕を引き抜く様にして、フルシチョワの両足の拘束から逃れたのだ。奇襲を躱された格好のフルシチョワは直ぐに立ち上がり、桐生に組み付く。その不敵な笑みからは、先ほどの奇襲を躱された事に対する執着は感じられない。逆に桐生の方が、悔し気な表情を顔に浮かべている。

 

実際桐生は、苛立ちを感じていた。その理由はもちろん、先ほどの『飛びつき腕十字』だった。桐生は理解していた。先ほど受けた『飛びつき腕十字』は、準決勝でベアトゥリスが放ったほどの練度に達していなかった。

おそらくフルシチョワは即興で放ったのだろう。その証拠に、ベアトゥリスのそれを受けた時ほどの危機的状況に至る前にその技の拘束から桐生は逃れている。

 

だから桐生が苛立ちを感じていたのは、別の理由からだった。そう、桐生はその技をフルシチョワから受けた瞬間に、彼女からこんな無言のメッセージを受け取ったように感じたのだ。

 

(どうだ? お前の苦手としている技だろう?)

 

誰が苦手だ、誰が! 舐めてんじゃないわよっ!

 

準決勝では、確かに前世を含めても数えるほどしか受けていない奇襲技を受けて、一瞬その身体を硬直させた。その事を認めたくない思いと、それをフルシチョワに見抜かれていた屈辱が、桐生の苛立ちの原因だった。

 

しかし、フルシチョワから挨拶代わりの技をその身に受けても、その苛立ちを試合に影響を及ぼさせるほど桐生は愚かでは無かった。

 

「――うらっ!」

 

「――!」

 

左右に激しく動くフルシチョワに対し見事なすり足で付いて行っていた桐生が突然、ドンッと右足で畳を踏み込む。その動作自体に意味は無い。だが、フルシチョワはその動作に意味を見出した。いや、この場合は見出してしまったというべきか。

 

彼女は咄嗟に重心を後ろに置き、理解不能な桐生のその動作に対する警戒の態勢を取った。その態勢を取ること自体が、桐生に誘導された結果だと知らずに。

 

「――何だとっ!?」

 

次の瞬間、フルシチョワの上半身が流れる様にゆっくりと前に崩れていく。既にフルシチョワの顔からは不敵な笑みが消えていた。一見、桐生は何もしていないように見える。やった事と言えば、意味の感じられない強い踏み込みと、ただ釣り手と引き手を巧みに制御しただけ。

 

隅落(すみおとし)。講道館柔道 手技15本の内の一つ。それがこの技の正体の名だった。何らかの手段で相手の後退を誘い、相手が後退した足を再度踏み出そうとする瞬間に後方に引く事で、相手の重心を崩しつつ投げる。

 

傍目には手先だけで投げたように見えるため、別名『空気投げ』などと言われる事も多いが、微妙な体さばきによって相手の重心を崩し、その力を利用して投げるため、体全体の使い方が決め手となる、超の付く高難度の技。

 

「――ぬうぅっ!」

 

柔道発祥の地である日本国内でも得意技と胸を張って言える程の練度に達している柔道選手など皆無と言っていい高難度の技を、外国の柔道選手が受けた事があるはずも無かった。見事にフルシチョワの身体が宙を舞い、その背が畳に叩きつけられる。

 

悲鳴のような声が上がったのは、錆色の旗を振る彼女の応援団から。しかし、次の瞬間その応援団達からほうっと安堵の声が上がる。

 

線審が場外を示すジェスチャーを取っていた。技を仕掛けた桐生の足が、僅かに場外を示す赤い畳の線を越えていたのだ。「――待てっ!」の主審の声を耳にした桐生は、畳に横たわるフルシチョワを置き去りにして、一人すたすたと開始線に戻って行く。

 

フルシチョワを見下ろすその視線は如実に、(びびっちゃってまあ……)と語っていた。当然フルシチョワもその意味に気づく。開始早々の飛び十字は、フルシチョワが桐生を震え上がらせてやろうと考えて放った技だった。それを、直ぐにあの踏み込み一つでやり返された。それが、フルシチョワに激しい怒りの感情を纏わせていた。

 

 

 

「……空気投げか。実戦で、しかもオリンピックの決勝という舞台で咄嗟にあれを繰り出すとは。本当にあの子の力はあの階級では図抜けているね」

 

そう感嘆の声を漏らすのは、観客席から応援する日本柔道陣の一人 山口かおる。その隣の席に腰かけている猪熊柔は「はい……本当に」と返事をしつつも、彼女が感嘆していたのは山口のそれとは別の所にあった。

 

隅落としは、成功の条件として最初に、自身の体幹を崩さずいかに相手を後方に下がらせる事が出来るかが重要である。自身なら、その条件をクリアするためにまず足技を用いた小技でそれを試みる。しかし桐生茜は違った。彼女はただその場で畳を激しく踏み込んだだけでその条件をクリアしたのだ。自分には考えもしない攻め手を目にしたが故に、彼女は桐生茜に羨望の眼差しを向けていた。

 

 

ソウルオリンピックの翌年以降、猪熊柔と桐生茜の二人は無差別級の日本代表の座をかけて幾度となく全日本女子柔道選手権大会の決勝で顔を合わせる事となる。共に日本女子柔道界を牽引した実力者である二人は現役時代に常に、どちらが強いか、という周囲の目に晒されたが、その勝敗の確率がほぼ互角であった事から、二人の力に優劣をつける事は難しいと言うのは多くの柔道関係者の一致した見解である。

 

しかし、あえて両者に違いを見出すならば、猪熊柔の柔道は、柔道の教本から答えを得る事が出来るが、桐生茜のそれは時に柔道の教本の外にある攻めで活路を見出す点にあるだろう。誤解を恐れずに言えば、柔道の王道を歩んだのが猪熊柔、より実践的な柔道を貫いたのが桐生茜と言えば良いだろうか。

 

そう言う意味では、『講道館柔道の完成形』という異名が相応しいのは、このソウルオリンピック以降旧帝国大の流れを込む柔道関係者から『七帝の紅姫(べにひめ)』という異名が加わった桐生茜より、猪熊柔の方なのかもしれない。

 

後に、“桐生茜の柔道の本質が現れたのはこのオリンピックからだった”と語り草となる女子52kg以下級の決勝戦は、まだ始まったばかりだった。

 

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