ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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48話 女子52kg以下級 決勝戦②

乱れた柔道着を整えるよう審判に指摘されたフルシチョワが帯をゆっくりと解き再び身に着けるのを、私は軽く身体を動かしながら待つ。ちらりと視線を電光掲示板に向ける。残り試合時間は3分14秒……か。

 

楽しい時間は直ぐに過ぎる。まだ私達は、互いにけん制を繰り返しただけに過ぎない。隅落は上手く決まったけれど、あの瞬間フルシチョワは私の足が枠外に出ていた事に気づいていた。だからこそ下手に抵抗せず彼女は宙を舞った。おそらく枠内だったら、あれほど完璧にはかかってくれなかっただろう。やはりクレバーな選手だ。

 

「――始めっ!」

 

主審の声に、私は再び集中する。……? 先ほどより幾分前傾姿勢のように思えるが、気のせいだろうか?

 

足を止め、互いに組手争いを行う。私の方は特に彼女に組まれる事を拒絶しないが、彼女は私に組まれる事を嫌う。なかなか組み合わない私達。

 

 

フルシチョワは私のこれまでの試合をよく研究していた。彼女は、組手争いに関心を示さない私の性格を看破していた。私がやりたい柔道は、しっかりと組み合ってから。つまり、組み合う前は集中力に欠ける。皮肉にも、私は数秒後に彼女によってその事に気づかされることになる。

 

 

――!

 

早く組み合えないかな、と考えていた私の視界から、突然フルシチョワの姿が消えた。いや、違うッ! 消えたんじゃない! フルシチョワは超低姿勢で私の下半身目がけて突っ込んできていた。

 

これは双手刈り! まずいっ、懐に入り込まれた! 私の太もも裏に彼女の両手が回され完全にクラッチされた。それだけではない。既に私の身体は彼女の勢いに圧倒され、後方に倒れ掛かっている。

 

「――かかったなっ、アカネ・キリュウ!!」

 

「くっ! こなくそぉッッ!!」

 

私は完全に捕らえられた下半身を双手刈りの拘束から逃れる事を諦め、せめて背中を畳に付ける事を最小限に抑えようと、必死で身体を捩じる。既に私の視界いっぱいに奨忠(チャンチュン)体育館の天井の照明が映り込んでいる。もはや一刻の猶予も無かった。

 

ズダーーーン!

 

受け身を取る事など考えもせずに、ただひたすら背中を畳に付けない事だけを考えていた私は、右肩を畳に強打する。だけど、この時の私の関心は、痛みなどより審判の発する言葉に集約されていた。そして私の頭上から、審判のジャッジメントが下される。

 

「――技有ッ!」

 

ポイント、取られた! だけど一本じゃないっ! ――私はまだ死んでないっ!

 

畳に背中をつけたまま下半身に目をやると、フルシチョワが悔しそうな目で私を睨んでいた。来るかっ、フルシチョワ! あんたがこのまま寝技勝負に来るっていうのなら受けて立つよっ!

 

しかし、フルシチョワは私に対してマウントを取っていた有利な態勢でも、私に対して寝技を仕掛けて来ず、すっと立ち上がった。そして審判から投げかけられる「待て」の言葉。

 

出来るだけ自然に見えるように意識しながら右肩に手を添えつつゆっくりと立ち上がった私に、会場脇で見守ってくれている三上の声が届く。

 

「桐生さん、落ち着いて! 大丈夫、まだ時間は十分あるよ!」

 

その言葉に頷きを返しながら、強打した右肩の具合を確かめようと軽く跳躍すると、着地した瞬間に右肩からビリっとした痛みが足先まで走り、私は思わず顔をしかめる。視界の端に、口角の上がったフルシチョワの姿が映る。

 

下唇を歯で嚙みしめながら、私はゆっくりと開始線に戻って行った。

 

 

 

「――効果!」

 

くっ、後少しという所で右手で襟を掴んでいた引き手を切られた!

 

フルシチョワが前に出るタイミングで放った支え釣り込み足が決まりそうだったが、後少しという所で彼女に引き手を切られた事で、彼女の側面を畳に付ける事が精いっぱいだった。“技有”を取られている現状では、“有効”にも及ばない“効果”は“焼け石に水”のようなもの。

 

私の足元で、フルシチョワがカメのように身を縮こませる。その姿を見ただけで分かる。立ち技はともかく、フルシチョワの寝技スキルは、準決勝で私が戦ったベアトゥリスに遠く及ばない。つまり、SRTを含む七帝柔道の攻め口でこのカメは崩せる。

 

だけど……それは。それをしたら、私は……! 私は、確実に目減りしていく残り時間を視界の端に収めながら、ギリッと歯を食いしばりこの不格好なカメを崩したい誘惑を断ち切る。私が寝技勝負に持ち込まない様子を見て、主審がこの試合何度目かになる「待て」の言葉を告げた。

 

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side フルシチョワ・サハノヴィッチ

 

「――コウカ!」

 

頭上よりオランダ人審判の発した言葉が私に投げかけられた事で、私は小さく身体を丸めながらそっと笑みを顔に浮かべる。先ほどは危なかった。負傷したキリュウに止めを刺してやるつもりで前に出ると、その瞬間支え釣り込み足をくらった。咄嗟に引き手を切ろうと、私の襟を掴んでいた奴の袖を引きはがすと、ほんの僅かの抵抗の後その腕を剥がす事が出来た。

 

どう考えても怪我の影響だろう。右肩の負傷が握力にまで影響を及ぼしている事は確実だ。その上、キリュウはおかしな拘りで私に対して寝技を仕掛けてこない。亀のように身を千々込めながら、私はそばで膝をついて私を見下ろしているキリュウにそっと視線を投げかける。

 

彼女は動こうとしていなかった。

 

思った通りだ。キリュウは、私に対して寝技勝負に持ち込む事を躊躇している。まさかとは思ったが、やはりこの女は相手の得意な領域で勝負する事に価値を見出している。

 

愚か、あまりに愚かだ。勝負は勝ってこそ意味があるというのに。かくいう私も桐生と戦うために52kg以下級の代表になる事に拘ったが、その勝ち方には一切拘っていない。そのための双手刈りだ。双手刈りは、レスリングで言う所のタックルに酷似している。

 

タックルを成立させるために必要な要素は何を置いても、その爆発的な加速力だ。一瞬でトップスピードに達しその勢いのまま相手の下半身に飛びついた時の威力は言わずもがな。素人は決して理解できないだろうが、それはれっきとした技術だ。その技術を習得するために、私はレスリング選手に混ざって練習に励んだのだ。

 

キリュウの力が、同階級の柔道選手の中で頭一つ抜けている事は認めざるを得ない事実だ。私も立ち技に関して彼女以外の人間に後れを取るつもりはないが、キリュウだけは別だ。この女には正攻法は通じない。そう悟っていた私は、キリュウの記録された全ての試合の映像を、テープが擦り切れるほど何度も、何度も見た。

 

そして私は気付いた。他者と隔絶した力を有するキリュウだが、この女はまず組み合う事を優先する。組手争いをしないのは、組んで試合をする時間を長く取りたいからだ。思えば、そのような傾向を好むのはキリュウだけではない。ほとんどの日本人選手がまず組み合う事を望む。キリュウもそのご多分に漏れなかったというだけの事。ただ、彼女は組むことを優先するあまり、組む前の状態で僅かに隙があった。それに気づいた時、私はこの攻め手を選択していた。

 

残り時間は2分を切っている。つまり、折り返し地点は過ぎている。このままいけば、私の勝利だ。家族に……、何よりママに楽をさせて上げられる。私のわがままで困難な階級を選択しているのだ。せめて、祖国と家族に金メダルをもたらしたい。

 

開始線についた私は、審判の始めの合図でキリュウに組み付く。先ほどは油断したが、もう油断はしない。私は、桐生の襟元を取った吊り手と袖口を取った引き手をぐっと下方に押し下げようと力を込める。

 

キリュウは苦渋の表情を顔に浮かべその力に抵抗しようとするが、やはり右肩の負傷の影響だろう。直ぐに私の力に押され、その(こうべ)を垂れる。

 

『柔良く剛を制す』 

 

日本に伝わる柔道の極意だが、“言うは易く行うは難し”という事は言うまでもない。だが私は、その数少ない体現者が、このソウルオリンピックに日本が送り込んでいるヤワラ・イノクマとアカネ・キリュウである事を理解している。それを理解しているからこそ、私やテレシコワがこれほど奴らに執着するのだ。

 

しかし、その理念の体現者でも、それを具現化できるのは自身の状態が万全であってこそ。自身が最高のパフォーマンスを発揮できない状態で『柔良く剛を制す』などという神業のような極意を実現できるほど、柔道という武術の底は浅くない。

 

その事はお前が一番よく分かっているだろう、キリュウ!

 

私は、キリュウの頭を押さえつけながら、彼女の右袖を取っている引手を上下に激しくゆする。恐らく間断ない激痛が彼女を襲っている事だろう。キリュウは(こうべ)を下げているためその表情はうかがい知れないが、彼女の顔が苦悶に歪んでいる事を私は確信していた。

 

技や速さではキリュウに遅れを取っても、力では私だ。キリュウも同階級の選手と比べて平均以上の力を有していると言っていいが、それでも同階級の頂点である私の力には及ぶべくもない。

 

そして技も、今や私の方が上だ。キリュウの代名詞である袖釣り込み腰は、右手で相手の袖を高く釣りあげる必要がある。今のキリュウに右手を上げられるはずが無い。袖釣り込み腰だけではない。右肩に負担をかける投げ技のほとんどは使用不能となったはず。

 

警戒すべきは下半身の動きのみで繰り出される足技だが、その足も、こうして頭を押さえる事で封じた。頭が下がるという事は、腰が引けるという事だ。腰が引けた今、奴の足は私に届かない。

 

残り時間が1分を切る。もうすぐだ。もうすぐ祖国に、……家族に金メダルを届けて上げられる。それだけではない。祖国からは金メダルに対する報奨金を頂ける。その報奨金で弟と妹を大学に通わせてやるんだ。あの子達は学の無い私よりずっと賢い。大学にさえ通う事が出来れば、きっと幸せな人生を送れる事だろう。

 

 

私は、目の前に女に意識を集中させる。お前はそのままそうやって私に(こうべ)を下げていろ!

 

そして私は、(こうべ)を下げ表情を伺えないままの桐生を更に左右に振り回すのだった。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

「三上っ! 桐生は何故寝技で攻めん!? 桐生の技術ならあの程度の亀は崩せるだろう!? 聞こえとらんのか、三上! 早く桐生に伝えろ! 時間が無いぞ!」

 

三上の背後の日本の応援団席。その応援団席から身を乗り出すようにして、女子柔道チームの監督である柳澤が三上に声を張り上げる。もちろんその言葉は三上の耳に届いているが、三上は背後を振り返ろうとはしなかった。いや、出来なかった。出来るはずが無い。

 

それは、試合前に桐生が『寝技を苦手としている相手に寝技で勝つなんて、ロマンに欠ける』という言葉を発していた事など、伝えられるはずが無いからである。

 

だから三上は、監督に対しては『周囲の応援の声にかき消されてその言葉は聞こえませんでした』と後で言い訳したら良いかしらと考えていた。そして同時に、目の前で死闘を繰り広げる桐生にも内なる声を投げかける。

 

(桐生さん、お腹が膨れるだけじゃ満足できないって言っていたけれど、このままじゃあお腹が膨れる事も出来なくなっちゃうよ? 本当にそれで良いの?)

 

三上の目の前で電光掲示板の時間が1分を切った。もういくらも時間がない。柳澤監督の言っている時間が無いという言葉は、4分間の試合時間の事を指していない。監督は寝技を仕掛ける時間が無いという事を言っているのだ。

 

寝技を仕掛けるという事は、十分なリターンが得られる可能性があるが、同時に大きなリスクも背負い込むことになる。寝技で相手を仕留められたらそれでいい。しかし、仕留められなかったら、それに賭けた時間が単純に失われるだけである。ただでさえ負けている側が仕掛けると、いたずらに時間を浪費しただけという結果になる恐れもあるのだ。

 

そう言う意味では、寝技を仕掛けるなら残り時間が1分を切る前に仕掛けたかった。57、56、55……。時間は刻一刻と目減りしていく。おそらくもう寝技の勝負に持ち込む事は不可能だろう。

 

何より、事ここに至ってもあの桐生さんが自身の信条を曲げるとは思えない。右肩は使えない。頭を押さえられた事で、唯一残された足も使えない。

 

絶対絶命と言っても良い。それでも三上は、(こうべ)を垂れてその表情がうかがえない桐生にこんな確信めいた予感を抱いていた。

 

 

ねえ、桐生さん。あなた、今絶対に笑っているでしょう。私には、分かっているんだからね! 早く私に、ロマンに溢れた光景を見せてよ、桐生さん!

 

 

 

三上がそう念じた瞬間、(こうべ)を抑えられ低姿勢を強いられていた桐生の身体が、何故か更に低く沈んだ。

 

 

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