ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
残り時間が1分を切る。
もちろんロイゼンもそれが桐生の意思に反している事は理解している。十分に身体は動かず、力でも屈服し十分な技を出す事さえ桐生には許されていない。しかし、それもまた柔道だ。その状態に陥ったのは桐生に力と運が備わっていなかっただけであり、彼が桐生に指導を与えない理由にはならない。
そしてロイゼンが、後少しこの状態が続けば試合をいったん止めて指導を与えようと考えた瞬間だった。桐生の身体が低く沈み込む。彼女が取っていた吊り手と引き手を意図的に剥がしたのだ。
「――!?」
桐生を見下ろしていたフルシチョワの顔に驚愕の表情が浮かぶ。当然だ。桐生が選択したのは、釣り手も引き手も手放し、ただフルシチョワに向かって突進した事なのだから。
つまり、今度は桐生がフルシチョワに対して双手刈りを仕掛けたのだ。
「――舐めるなっ!」
咄嗟にフルシチョワが腰を引き、その桐生の突進を止める。おそらく桐生は双手刈りの練習をしたことなど無いのだろう。実際、驚愕という
ただ、桐生の方も双手刈りの発動を途中で止めたのか、不発に終わった双手刈りでよく見かける畳に突っ伏すという姿勢を取ってはいなかった。いつの間にか桐生は、一度は手放した釣り手と引き手を再び手にしていた。
奇妙な事に、それぞれが互いに腰を引き、横から見ればまるで“く”の字を描く様に低姿勢で組み合う。そしてフルシチョワは気付いた。桐生がただ自身の腰を引かせるためだけに双手刈りの初動をあえて模倣して見せた事に。双手刈りの修練を積んでいなければそれに気づかなかっただろう。双手刈りを習得していたからこそ、桐生の構えからそれを連想し、思わず腰を引いたのだ。……引いてしまったのだ。
思わず顔をしかめるフルシチョワ。一流の柔道選手である彼女は桐生の狙いに気づいた。その狙いとはフルシチョワの腰を引かせる事。腰を引かせたら何が来る? 投げ技だ。
させるかっ! フルシチョワは再び桐生の頭を押さえる様に、ぐっと釣り手と引き手を下方に押し下げる。
ぐぐぐっと下方に押し込まれる桐生。周囲の観客からは桐生の乾坤一擲の奇襲が失敗した事を嘆く溜息が漏れる。同時に、女王である桐生から、敗者の最後のあがきと言っても良い捨て身技が飛び出した事で、見たくなかったと顔をしかめる者もいた。
それは解説席にいる二人も同じだった。
「桐生選手、お返しとばかりに双手刈りを仕掛けましたが、フルシチョワに躱されました。山上さん、もう桐生選手には打つ手なしでしょうか?」
「いやー、ちょっと厳しいですね。怪我をしたという不運もありましたが、桐生が双手刈りを選択する程追い詰められるとは――「……今ぢゃ」」
「「……え?」」
解説席の左端に座る男が発した言葉に、アナウンサーと解説の山上が揃って不審の声を発したちょうどその時、……桐生が動いた。それはまるで、音を置き去りにしたかのような急加速だった。
腰が引けて低い姿勢を取っていたフルシチョワ。彼女の上半身と畳の間には、腕一本分ほどの隙間しかなかったというのに、突如その隙間に桐生が飛び込んでくる。もちろん立って飛び込む事などできない。
桐生は、両膝を畳に擦らせるようにして飛び込んでいた。と同時に、飛び込みながら彼女は身体を反時計回りに回転させている。フルシチョワが気付いた時、彼女の視界には『JPN』、ジャパンの文字が躍っていた。
「――膝付だとッ!? これを狙っていたと――」
桐生は、フルシチョワに皆まで言わせる時間すら与えなかった。フルシチョワの右袖を左腕で取った桐生は、引き手を利かせながらフルシチョワの上腕に痛む右腕を廻しがっちりとロックする。それは彼女の好敵手である猪熊柔の代名詞と言って良い技の構え。その態勢を一瞬で構築した彼女は、膝をついた姿勢から持ち前のバネを生かし、フルシチョワを背に背負いながら一気に身体を跳ね上げた。
「――うらぁっ!!」と、桐生の裂帛の声が
ズダーーーン!
一瞬の沈黙。直後、フルシチョワの態勢をじっと見分していたロイゼンが「――技有っ!」と声を張り上げて、爆発するように発生する大歓声。日の丸の旗が激しく振られる観客席の前方にいたナショナルウェアを身に纏った桐生と同学年の女性が、思わず感嘆の声を上げた。
「……凄い」
猪熊柔は、短大の同級生であり、好敵手であり、同時に親友と言って良い間柄の女性の戦いぶりに、思わず感嘆の声を上げる。畳の上では、してやったりという表情でフルシチョワを見下ろす桐生茜の姿が。
桐生にとっては予期せぬ怪我で苦しい戦いを強いられた決勝戦だったが、試合時間残り43秒で放たれた膝付背負いによって互いに“技有”のポイントを有した事になる。従って、今度は、支え釣り込み足で“効果”を奪っていた桐生が僅かながらリードした形。
膝付背負い。その技を間近で見た猪熊柔の脳裏には、自然と昨年桐生茜と初めて会った際の練習試合の光景が思い浮かぶ。
あの時猪熊柔が放った膝付背負いは、その初動を桐生に見抜かれ不発に終わった。いや、そればかりかその技を利用され、もう少しで返し技でポイントを奪われる所だった。実際、後日猪熊柔は祖父から『本来ならあの時点で勝敗がついていた』という言葉を貰っている。
そして猪熊柔は、先ほど桐生茜が放った膝付背負いを見て、彼女から『膝付はこうするのよ』と指南を受けたようにも感じていた。かつて猪熊柔が膝付背負いを放ったのは、桐生茜の態勢を足技で崩し、大きく腰を引かせたタイミングだった。
その仕掛け自体は大差がなかった。猪熊柔が足技で相手の腰を引かせたのに対して、桐生茜は恐らく足が届かないという理由から大胆にも双手刈りで相手の腰を引かせた。違うのはもう一つの
それは、フルシチョワによる上からの押さえつけるような圧力を、自身の低空姿勢での飛び込みの起爆剤として利用した点だ。相手の力を自身の力へと変換し投げ飛ばす。『柔よく剛を制す』の根幹を成すその神髄をまざまざと見せつけられた猪熊柔は、開始線にゆっくりと戻って行く桐生茜に祈るように言葉を投げかけていた。
「がんばって、茜さん。茜さんなら、絶対に金メダルが取れるわ。怪我なんかに負けないで……!」
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互いに激しく動いた事で、開始線についた私達は主審に道着の乱れを正すよう指示される。試合残り時間は約30秒と少し。4分間の試合も、もう佳境も佳境。気を引き締めて行こうという思いで、私は帯をするっと解き道着を大きくはだける。
その瞬間「桐生さん、慎みっ!」という声が背後から届いた気がするが、この方がすっきりするのだから大目に見て欲しい。ああ、風が肌に当たって気持ちいい。道着の下に着込んでいた白いTシャツ。そのTシャツにプリントされていたヨーラン姿の舐め猫もどこか解放された事を喜んでいるかのように、正面のフルシチョワにギロッと
現時点のポイントは電光掲示板に表示されているが、そんな事は見るまでも無く理解している。私が“技有”と“効果”、フルシチョワが“技有”。つまり“効果”一つ分私がポイントでリードしている。
しかし、これまで痺れるような展開だった。自分自身でも気づいていなかった私の欠点を看破し、その欠点を確実にポイントに繋げるための奇襲技の習得。とどめは、私の怪我を最大限に利用してくる攻め方だ。
恐らく昨年の世界選手権からこれまで、フルシチョワは私を倒す事だけを考えて修練を積んできたはずだ。それはまるで、私が柔ちゃんの存在に気づいて彼女を打倒する事だけを考えて修練してきたのと同じようだ。
これほどの関心を向けられて、嬉しくないはずが無い。ある意味、私はこの試合でフルシチョワに
しかし、もうすぐこの楽しかった時間も終わりを迎える。どれだけ情熱的に
私に出来る事は、最後まで彼女の
これで良しっと、私は道着の襟と襟を身体の前で交差させ、手際よくシュルっと帯を回す。そして最後に“桐生 茜”と目が覚めるような真紅の糸で刺繍されたよれよれの黒帯を、しっかりと身体の前で結び直す。
中学2年の時に初段を獲得したその足で秋田東工御用達のスポーツ店に立ち寄り、両親が購入してくれた何処にでもある普及品。身体の成長に合わせて買い替えてきた柔道着と異なり、それ以降ずっと私と共にあってくれたかけがえのない相棒。ほつれの目立つその相棒に指をそっと這わせた私は、しっかりと前を見据える。
試合開始から既に3分30秒近く経ったというのに、まるでこれから試合が始まるかのようにしっかりと道着を整える事が出来た。同時に、この時間を利用して息も整えられた。当然それは相手も同じ。
審判が私達の道着の乱れが整ったのを確認して僅かに頷く。豊かな黒髪をポマードで後方に撫でつけたナイスミドル。名前は憶えていないが、確かオランダ人審判だったか。ここまで決勝の試合を完璧に裁いてくれた彼は、おそらく52kg以下級の決勝戦という舞台の最後を見苦しいものにしないよう、私達に少し多めに身を整える時間を与えてくれたのだろう。
その計らいを無駄にしないよう、私達は恥ずかしくない試合をしなければならない。共に背負っているものは国の威信。しかし、国も違えば立場も違う私達。国の威信にそれぞれ異なる物をその背に背負っている事だろう。100円の価値が、受け取る者によって違うのと同じ事だ。
さあ、フルシチョワ。最後の時間を共に過ごしましょう。私は逃げも隠れもしないわ。あなたの全てを受け止めてあげるから、あなたも私の全てを受け止めなさい!
そして私達の最後の攻防が始まった。
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「さあ、共に道着の乱れを正したようです。山上さん、残り試合時間は約30秒ですが、桐生選手はどのように戦うべきですか?」
「そうですね。先ほどは見事な膝付背負いで逆転した桐生ですが、右肩を負傷しており不利な状態は変わりません。幸いポイントでリードしているのは桐生です。できればフルシチョワの攻勢をいなすような戦い方が出来れば良いのですが、おそらく桐生はそのような戦い方は取らないでしょう」
「当然ぢゃっ! あ奴は、最後の最後まで一本を狙う柔道を取るはず。もし“効果”を守って勝ち逃げするような戦い方をしおったら、あ奴には二度と我が家の敷居はまたがせん!」
猪熊滋悟郎の激しい口調にアナウンサーは引きつった笑みを浮かべながら、言葉を取り繕う。
「な、なるほど。つまりそれだけの覚悟を持って最後の30秒を戦うように、という猪熊先生からの激励のお言葉ですね。あっ、今試合の再開が審判より告げられました。さあ、桐生選手、日本女子柔道陣、いや、日本オリンピック選手団にとっての第1号のゴールドメダリストとなれるか!」
審判の再開の言葉と共にフルシチョワが叫びながら前に出る。
「――カモン、キリュウ!」
桐生茜がポイントを守る逃げの戦い方をする事など全く考えていない様子のフルシチョワのその叫びに、桐生茜が心底嬉しそうな顔で応える。
「――行かいでかっ! 絶対に一本取ってやるんだから覚悟しなさい、フルシチョワ!」
再び開始線の間で組み合う桐生とフルシチョワ。フルシチョワは、ポイントで負けているためか、先ほどまでのように力に任せた桐生の
フルシチョワは勝つために、逆転するために桐生と正面から対峙する。もちろんリスクはあるが、そのリスクを負わなければ彼女の望むリターンは得られない。
「――はっ!」
フルシチョワの重い足払いが桐生に飛ぶ。その重たい足払いを証明するように、桐生の両足のくるぶしには既に青いあざが何か所も出来ていた。しかし桐生はそのような事を気にもせず、その足払いを受け止めつつ前進する。
右肩の痛みは、もう右手の指に痺れという形で現れている。フルシチョワの襟を取った右手は、もはや添えているだけと言っても良い程の握力しか残されていなかった。当然フルシチョワもそれに気づく。
この状態では投げ技は不可能。先ほどは右腕に負担の少ない一本背負い、それも膝の力が支配的な膝付背負いという投げ技を受けたが、あれは例外と言って良い。となると、この試合に限っては寝技を封印しているキリュウが自身から一本を取るためには、足技しかありえない。
そのフルシチョワの観察眼は正しかった。フルシチョワの考え通り、桐生は足技で決着をつけるべく最後の30秒の戦略を組み立てていた。
右手である釣り手を満足に動かせないためだろう。桐生は左手の引き手を中心とした足払いでフルシチョワをけん制する。自身の左足を向かい合う相手選手の右足に外から引っかける小外刈りでフルシチョワにたたらを踏ませる桐生。
ほとんど引き手だけでそこまで自身の体幹を崩せる桐生の技術に、今更ながらに舌を巻くフルシチョワ。しかし彼女は、小外程度では私から一本など奪えぬぞ、とばかりに数歩下がっただけで体幹を回復させる。
それだけではない。彼女は左手を強く外に振り、桐生の身体を左方向に流す。右手の効かない桐生はその振り回しに抗う事が出来ない。体が乱れた桐生にフルシチョワが払い腰を仕掛ける。払い腰は相手の重心を前に崩し、さらに足を払って一気に投げる大技だ。桐生を腰に乗せつつ右足を払う事で、彼女の両足を刈ろうとするフルシチョワ。
しかし、大人しく足を刈られる桐生では無かった。もちろん唯一残された片腕の力で抗ったわけでは無い。桐生が活路を見出したのは、右足を払う一瞬畳に残されたフルシチョワの左足。その不安定な態勢を崩すように僅かに間合いをずらす最小の動きで、フルシチョワの払い腰を潰す桐生。
「ーーなんと!」
「これは……」
その歳に見合わない神がかった先読みと練達の動きは、解説席に座る先達が思わず感嘆のうめき声を上げるほどだった。
「――ちっ!」
乾坤一擲の払い腰が不発に終わった事を悟ったフルシチョワは、体を入れ替え再び桐生と対峙する。その際、一瞬だけ電光掲示板に刻まれた残り時間が彼女の瞳に映る。残り時間僅かに8秒。
――これまでかっ!
いかにフルシチョワと言えど、今から桐生の身体を崩した上でポイントを奪える可能性のある大技を仕掛ける事は至難の業。唯一可能性があるとすれば、技を仕掛けて来た桐生に対して返し技を仕掛ける事だが、桐生も残り時間は把握しているはず。
いくら奴でも来るはずが無いっと、その蒼い瞳に諦めの色素が急速に浮かび始めたフルシチョワに、信じられない言葉が届く。
「――逃がすかっ!」
――!? その言葉の意味は分からなかった。しかし、フルシチョワは一足飛びに自身の懐に飛び込んできた桐生の行動で、その言葉の意味を正しく理解した。
何故来るのだ!? お前はもう、ただ座していれば勝者になる事が確定しているでは無いか!
この女はクレイジーだ! だが、今はそのクレイジーさに勝機を見出すべき時!
そう判断したフルシチョワは、桐生が僅かな残り時間で仕掛けてくる技を一瞬で推測する。身体ごとぶつかる勢いで飛び込んで来たのだ。それも
大外刈り、あるいは大内刈りしか考えられない! どちらだ!? この瞬間、極限まで集中したフルシチョワの判断は、無謬の如きであった。
二者択一。構えたフルシチョワの内股に桐生の右足が飛び込んでくる。
大内刈りっ! ――裏投げだっ!
桐生の技を大内刈りと判断したフルシチョワは、桐生を自身が得意とする返し技『裏投げ』に捉えようとぐっと腰を落とす。後少し、後少し自身と桐生の間の間合いが詰まれば、桐生を捉えられる。
――!?
しかし、フルシチョワが待つその間合いの寸前で、桐生の突進が止まる。凄まじい突進力であったにも関わらず、桐生は左足を、畳を貫く勢いで踏み込みその加速を一瞬で0にしたのだ。全ての突進力を受け止めた桐生の左足には尋常でない力が加わったはずだが、桐生の表情は変わらない。いや、変わっていた! 桐生のその顔には確かに笑みが浮かんでいた。
「――はっ!」
突進を自身で止めた桐生は、左足に力を込めフルシチョワの眼前で僅かに跳躍する。その僅かな跳躍の間に、桐生は身体を反時計回りに回転させ、同時にフルシチョワの股の間に差し込んでいた右足を引き戻し逆にボールを蹴りあげる様に自身の前に高く掲げる。
ダンッ!
跳躍していた桐生の足が畳につく。ついた足は左足。着地すると同時に蹴りあげられていた桐生の右足が綺麗な弧を描きながらフルシチョワの内股に飛ぶ。
「――馬鹿なっ!」
背後への引き倒し系の技だと判断していたものが、桐生の一瞬の跳躍の後、それは前方への投げ技へと変化したのだ。到底対応できるものでは無かった。
内股を跳ね上げられたフルシチョワの身体が宙に舞った。
「――一本!」
オランダ人審判の手が天上を指した時、電光掲示板の時計は残り時間2秒を刻んでいた。一瞬の沈黙の後、
ソウルオリンピック 柔道競技 2日目。女子52kg以下級を制したのは、オリンピック初出場の桐生茜だった。
「最後のあの技は内股ですか、山上さん?」
アナウンサーにそう問われた山上は、畳の上で互いの健闘をたたえ合う二人を見下ろしながら頷く。
「ええ、内股で間違いありません。ですが、より正確に言うならば、あれは『飛び込み内股』ですね」
「飛び込み内股……ですか?」と首を傾げるアナウンサーに、山上はかみ砕いて説明する。
「ええ、内股には通常の内股以外にケンケン内股など幾つかのバリエーションがあるのですが、飛び込み内股もその一つです。ほら、見て下さい。桐生がフルシチョワの眼前で1度軽く跳躍しているでしょう?」
解説の机の上に設置された小さなモニターに、折良く桐生が一本勝ちを決めた瞬間のスロー映像が流れたため、その画面を指で指し示しながら山上が説明する。ふんふん、と頷きながらその説明を聞くアナウンサー。
「飛び込み内股は、一般に相手の懐に一足飛びに跳躍して飛び込む際に用いられます。しかし、今回の桐生のそれは少し意味合いが違いますね」
「と言いますと……?」
「あの最後の攻防ですが、桐生はおそらく大内刈りだと思いますが、まずそれをフェイントにして仕掛けています。それを察したフルシチョワは返し技を仕掛けようとぐっと腰を落としていますよね。ほら、ここです。
そう来る事を先読みしていた桐生は、そこで後方へ引き倒す大内刈りから前方に投げる内股に切り替えています。そのためには勢いのついた身体を制動する必要があるのですが、左足を踏み込むだけでその勢いを殺すのでは無く、殺せなかった勢いを縦方向に跳躍することで逃がしているんですよ」
実際にスロー映像で見ることで山上の言葉が理解できたのだろう。「なるほど」、としきりに頷くアナウンサー。
「それだけではありません。跳躍する事で、振り下ろす右足の勢いを増しています。桐生は右肩を負傷しており引き手が使えません。彼女はきっとその事も考慮して飛び込み内股を選択しています。そうですよね、猪熊先生?」
山上に水を向けられた猪熊滋悟郎はふんっと鼻を鳴らす。
「まあ、そんなところぢゃろうな。飛び込み内股など一発芸のようなものじゃが、それを自覚して使っているのじゃから、大目に見てやろう」
そう吐き捨て、猪熊滋悟郎はおもむろに立ち上がる。「どちらへ?」と問いかける声に、彼はふんっと鼻を鳴らしながら振り返る。
「どこぞの馬鹿者がふがいない試合をして右肩を痛めおったのでな。知らぬ仲でも無いし、容態を診てやろうと思っただけよ」
去っていく猪熊滋悟郎の背中から視線を剥がし、山上は畳から下りて調整相手と抱擁する桐生を見下ろす。しかし、つくづく思うが桐生の力は底が知れない。結局彼女は、今日一度も彼女の代名詞と言われている桐生スペシャルを繰り出すこと無く優勝している。
それは、桐生の習得している技が他者の追随を許さないほど豊富な事を意味しており、彼女が『講道館柔道の完成形』と呼ばれるのも納得できるほどだ。
それだけではない。彼女は一つ一つの技に対する理解が深すぎるほどに深い。自身の身体の状況と試合運びから選択した飛び込み内股しかり、その前の膝付き背負いもしかりだ。彼女は本当に18歳なのか? あの歳でまるで百戦錬磨の選手が醸し出す重厚さを感じるのは私だけだろうか? 知らず、山上の太い筋肉質の腕には鳥肌が立っていた。
「・・・・・・巷では猪熊柔は“天才”と呼ばれておりますが、桐生茜は“怪物”と呼ぶのがしっくりきますね」
それは山上が胸の内で考えていたことがつい口をついて出てしまった不用意な一言だった。公共の電波を通じて流れたその言葉は、今大会日本人初の金メダル獲得なるかと期待して見つめていたTVの向こうの日本のお茶の間に広く伝わることになる。
その言葉を発した本人はこの時点では知りようも無かったが、ソウルオリンピック以降バルセロナ、アテネ等と続く国際大会の国内選考会で度々用いられる『天才vs怪物』というフレーズが誕生した瞬間であった。
そして、そのような未来の話は別にしても、自身を怪物呼ばわりした事をネタに(本人は毛ほども気にしている様子は無いが、山上の前では目に唾を付けて泣き真似をしている)、日本に帰国後桐生が脅迫混じりに山上に焼き肉をおごらせる姿が度々目撃される事になるが、それもまた別の物語である。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :18さい
れべる :33
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :96
すばやさ :217
たいりょく:156
かしこさ :203
わざ :224
こうげき力:253
しゅび力 :230
E じゅうどうぎ
【フルシチョワ・サハノヴィッチ ステータス】
なまえ :ふるしちょわ さはのびっち
せいべつ :おんな
ねんれい :23さい
れべる :31
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :108
すばやさ :202
たいりょく:160
かしこさ :192
わざ :204
こうげき力:241
しゅび力 :211
E じゅうどうぎ
飛び込み内股と言えば、帯ギュの永田姉さんが脳裏に浮かびます。まあ、あんな感じです。
さて、これでソウルオリンピックの52kg以下級は決着。次回は本章エピローグ……となるかな?