ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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5話 始動

「おはよー、父さん」

 

私が学校に行く支度をしてリビングに降りていくと、こたつに入っていた父さんがTVを横目にお雑煮をすすっていた。呆れた、もう三が日も終わったというのに、まだお正月気分だ。

 

「ああ、おはよう、茜。なんだ、まだ冬休み中だろうに、もう学校に行くのか?」

 

「行くわよ。父さんこそもう4日なのに仕事は?」

 

学校に行く前に新聞を読んでおこうと思って父さんの向かい側からこたつに足を入れた私は、少しでも早く温まろうと、寝起きの冷たい足を父さんの足に絡ませる。「こら、冷たいだろう!」と文句を言う父さんを無視し、私はこたつの上に置かれた新聞に手を伸ばした。その時、ちょうど台所から顔を出す母さん。

 

「茜、お早う。ふふ、私もお父さんも、今日までお休みを貰っているのよ。茜は部活みたいだけど、部員の皆さんも今日から出てくるの? まだ4日よ?」

 

「もう4日よ、母さん。今年は真田以外にも全国に行けるかもしれない選手が揃っているから、皆も頑張っているのよ。キャプテンとして私も皆を引っ張っていかないといけないから、冬休みだからってのんびりしている暇は無いわ」

 

「そう、まあ、スポーツに打ち込む事ができるのは学生のうちだけだから、頑張ったら良いわ。まだ時間あるんでしょ? 今おしるこ作ってるけど、食べてから行ったらどう?」

 

おしるこ……。甘いものに目が無い私はその誘惑に抗う事が出来ず「いただきます……」と応える。そして秋田さきがけ新聞にざっと目を通した私は、次に同じくこたつの上に置かれていた日刊エブリ―スポーツにその手を伸ばす。

 

秋田さきがけ新聞はもともと我が家で取っていたが、この日刊エブリースポーツは、私の全日本選手権優勝のお祝い代わりに定期購読を両親にお願いして取るようになった新聞だった。理由はもう言わずもがなだろう。彼女の動向を探るのに、この新聞以上の物は無い。

 

その日刊エブリースポーツ。私はいつも、芸能欄をパラパラとめくった後、本腰を入れるようにスポーツ欄を大きく開いてじっと目を落とす読み方をしている。

 

しかし、この日はそのような読み方をする必要が無かった。何故なら、いつものように芸能欄に目を通した後スポーツ欄を開いたとたんに、大きく目を引く記事が視界いっぱいに映ったからだった。それはこんな記事だった。

 

『スポーツ界の天才少女・本阿弥さやか 柔道界入り!!』

 

その強調されたゴシック文字の下には、同い年程の少女が失神したおじさんを見事な横四方固めで固めている写真が添えられていた。

 

肌が一瞬で泡立つ。いる……! 間違いない! 彼女、猪熊柔の存在は昨年の松田記者とのやり取りで予想していたが、こうして彼女の国内最大のライバルとも言える少女がカラー写真付きで紙面に載った事で、私の置かれているこの状況に確信が持てた。

 

間違いなく、私は今『YAWARA!』の世界にいる……と。

 

「ふむふむ。『切り裂き魔を横四方固めで決めた さやか嬢!!』、か。なかなか勇敢なお嬢さんだが、いくら柔道に自信があっても女性が危ない真似をするのは感心しないな。茜、お前もいくら強いからと言って……。お、おい、急にどうしたんだ、茜?」

 

向かいから覗き込むようにしながら発した父さんの言葉を最後まで聞く時間すら惜しいと感じた私は、悪魔的なこたつの誘惑も、台所の向こうから漂ってくる甘い香りの誘惑も断ち切り、立ち上がる。

 

「ごめん、母さん。やっぱりおしるこ、いいわ。私、もう行くね!」

 

そう言って私は柔道着の入ったバッグを手に持ち、玄関に駆ける。背後から、「えっ、ちょっと、茜!?」という母さんの驚く声が届くが、私はただ「行ってきます!」の言葉だけを残し、家から飛び出した。

 

玄関の扉を大きく開き外に飛び出した途端、東北地方特有の肌を切るような冷たい空気が私の身体全体を覆う。

 

その場で「すー、はー」、と深呼吸をする事で、奥羽山脈から吹き降ろされた冷たい空気を身体全体に取り込む私。そうする事で、私の中に覚悟……いや違う。これは断固たる決意というやつだ。ぶれる事のない決意が、私の中で固まっていく。

 

猪熊柔! 本阿弥さやか! ジョディ・ロックウェル! アンナ・テレシコワ! マルソー! フルシチョワ! 伊東富士子!

 

皆、待ってなさい! 今に私があなた達に挑戦状を叩きつけてあげるわ!

 

武者震いに身体を震わせた私は、遠くに見える雄大な奥羽山脈に拳を突きつけ、そう胸のうちで宣言をした。

 

 

 

「ザス、サイ、サ!!」

 

「ザッ――、ザス、サイ、サ!」

 

「声が小さい! もう一度、ザス、サイ、サ!!」

 

「ザス、サイ、サ!!」

 

まだ冬休み中で閑散としたグラウンドを先頭で駆けながら声を張り上げる私と、休日練習に集まった部員の掛け声が木霊する。

 

「――ラスト、グラウンド5周!」

 

「ザス!!」

 

後ろを振り返ると、皆が、年末年始の間についてしまった脂肪を削ぎ落そうとするかのように、必死の形相でついてきていた。その様子に満足した私は、後方集団の引率は真田に任せて、感情に突き動かされるまま一人猛ダッシュで残り5周を駆けた。

 

 

 

「「「はあっ、はあっ!」」」

 

皆が、武道場の戸口で荒い息を吐きながら崩れ落ちるようして横になっている。その様子を横目に私は、中庭に生えた大木にゴムロープを引っかけて一人打ち込み稽古を行う。

 

「はあっ、はあっ。新年早々、桐生のやつ気合入ってるよなぁ」

 

「まあ、今年は来年のソウルオリンピックの選考のために大事な年だしな。気合も入ろうというものさ」

 

「ぜえっ、ぜえっ。そ、そんな事より先輩、いい加減に教えてくれません? ランニングの時のあの『ザス、サイ、サ!』って掛け声はいったい何なんですか? 秋田東の伝統なんですか?」

 

「いやー、俺も知らんぞ。あれは、桐生がキャプテンに就任してから急に言い出したフレーズだからな。秋田東の伝統って言うよりは、桐生の謎の拘りの一つって思うしかないんじゃないかな」

 

一人打ち込みをしている私の耳に、彼らのそんな会話が入ってくる。『ザス、サイ、サ』を知らない? それはそうだろう。何故かこの世界には、私が前世で愛読していた柔道部物語は存在していない。それを知った時、私は思わずがっくりと肩を落としたものだが、ならばせめてこの世界であの掛け声だけは浸透させようと、私のキャプテン就任と同時に練習時に声を出すようにしたのだ。私が引退しても秋田東高の伝統として残っていってくれると、小〇まこと先生も浮かばれるというものだろう。

 

「皆、水分補給はしっかりね! 休憩後、打ち込み100本。その後は乱取りよ! 頑張って!」

 

皆は私の言葉に引きつるような笑みを浮かべるが、直ぐに「「「はい!」」」と返事をしてくれた。

 

「新年早々、ずいぶんと気合が入っているな、桐生」

 

副キャプテンである真田が、一人黙々と打ち込みを行っている私の側にやってきて、そう声をかけてくる。

 

「そりゃあ、ね。打倒すべき相手がいっぱいいる事が分かったから、じっとしていられないのよ。真田は? 休日練習に来てくれたのは嬉しいけど、塾は良かったの?」

 

「ああ……。勉強の仕方はもう十分身についているから、そこまで塾に比重を割かなくても大丈夫さ」

 

「やるう。さすが学年トップの秀才は言う事が違うわね。私なんて、全教科赤点すれすれなのに……。さんきゅ」

 

「休む時は、しっかり休めよ」と、真田建機と刺繍されたタオルを手渡してくれた真田に、私は打ち込みを中断して礼を言う。

 

「全教科って事は無いんじゃないか? 桐生は英語だけは得意だっただろう?」

 

「英語って言うか、英会話ね。他の教科は、真田先生にテスト前に猛特訓してもらって、どうにかこうにかって言うレベルじゃない」

 

そう、我ら秋田東工業高等学校 柔道部の誇る秀才『真田副キャプテン』には、テスト前になれば、1年生も含めた全部員がお世話になっている。男子71kg以下級で県内3本の指に入る実力者であり、秋田東工業高等学校の学年1位である彼は、私から見て十分にチート級の才能の持ち主だった。

 

「まあ、お前はその分、体育の方でとんでもない成績を残しているから良いんじゃないか。そう言えば、前から聞きたかったんだが、桐生はどうして英語、もとい英会話が得意なんだ? アメリカに留学していたわけじゃないだろう?」

 

ああ、その質問はこれまでにも友人によくされた。真田の言う通り、別に私は海外留学していたわけではないが、日常会話に支障がない程度には英会話に通じている。

 

何故か。それは前世の記憶があるからだ。前世で2度のオリンピックに加えて5度の世界選手権に出場した私は、海外の女子選手と交流があった。もとよりおしゃべりが好きだった私は、彼女達とコミュニケーションを取りたいがために、世界の公用語と言っていい英語を勉強していた。その昔取った杵柄が、この世界で英語だけはさほど勉強しなくても授業についていけている理由だった。

 

とはいえ、そのような理由をまさか言えるはずもなく、私はこれまで同様「小学生の時、近所に住んでいたアメリカ人に教えてもらったの」と応える。

 

「ほう、アメリカ人……。それは得難い経験をしたな」と感心したように頷く真田に、私は一つ伝える事があった事を思い出す。

 

「あ、そうそう。そんな事より、真田。私、来月に東京で開催される『スピリッツ杯 女子柔道選手権大会』に出場する事にしたから、その間、部の事をよろしくね」

 

「何……? しかし、お前、あの大会には興味が無いと言っていなかったか?」

 

「ふふ。気が変わったの。ちょっと会ってみたい選手も出来たしね」

 

そう言って、真田を残して私は武道場の中に入っていく。会いたい選手、それはもちろんあの女性。本阿弥さやかだ。

 

彼女は確か、あの大会の48kg以下級で柔道選手としてのデビューを飾り、同時に華々しく優勝に輝いたと記憶している。

 

私が52kg以下級なので、直接彼女と対戦する機会は無いだろうが、それはそれ、これはこれだ。そこには、芸能人を側で見たい、同じ空間にいたいというミーハーな気持ちに近いものが多分に含まれている事は否定できなかった。

 

ただし、これだけは声を大にして言っておく。

 

私が減量して48kg以下級に出場するという選択肢はない、という事を。

 

何故なら、それは絶対に無理だからだ。実を言うと、前世も含めて私は何度か48kg以下級に出場しようとした事はある。当然そのために減量して。

 

だが、持って生まれた骨格の問題か、あるいは体格の問題か、私の身体は満足に動ける状態で48kg以下級に体重を落とす事が出来なかったのだ。ただ単純に、がりがりに痩せるだけで良いのなら出来ない事はないだろう。だが、それによって自分のパフォーマンスが十分に発揮できないのでは本末転倒と言っていい。

 

過去のそう言った苦い経験から、私は『YAWARA!』の世界の二大主戦場の一つである48kg以下級に出場する事は鼻から考えていない。

 

でも、大丈夫。この世界には何といっても、前世で廃れていたもう一つの主戦場、『無差別級』が存在するし、体重制限のない『全日本柔道選手権大会』も変わらず存在する。それに、もしかするとあれも……。

 

いや、その事はまだ考えまい。

 

まずは目先の本阿弥さやかだ。あの高飛車高慢ちきなお嬢様の現時点の実力のほどを、この目で見定める。最強の女子柔道家である『猪熊柔』に挑戦する事を考えている私にとって、彼女の国内最大のライバルである本阿弥さやかの現在値を知る事はとても重要だ。

 

くー、やーるぞー!!

 

「さあ、休憩終わり! 打ち込み始めるよー!!」

 

武道場内に私の上げた声が反響するように響いていた。

 

 

 

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