ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

51 / 76
今日は2話投稿します。


51話 Let's cook!

ん……んん……。

 

綿毛のような柔らかな何かで背中をそっと撫でられた気がして、私の意識は徐々に覚醒する。甘美な微睡(まどろみ)に浸っていた私がごろんと寝返りを打つと、今度は私の頬を何かが凪ぐ。目を開けるまでも無くその何かの正体に気づく。風だ。それは海の方から吹いているらしく、微かに潮のかおりがした。

 

上半身だけをむくりと起こし、寝ぐせが付いてピンと跳ねた髪を撫でつける様に手で押さえる。そして目を擦りながら、枕元にあった腕時計を手に取る。

 

午前11時8分……か。徐々に目が効くようになってきた私は、周囲をキョロキョロと見回す。同室の柔ちゃんと三上の姿が無い。まあ、当然だろう。私達はオリンピック期間中、その日が出番で無い限り、基本的に昼間は日本代表の練習場に割り当てられている体育館で軽い調整をして過ごし、夕方からはその日試合に出る選手の応援のために試合会場に向かう生活をしている。

 

昨日が私の52kg以下級の試合だったのだから、今日は72kg以下級。つまり、高辺こと辺ちゃんの出番だ。今頃柔ちゃんと三上は練習場で汗を流している事だろう。こうしてはいられない。私も今からでも体育館に行って皆と一緒に汗を流そう。

 

そう考えた私は、さあ起き上がろうとカーペットに足を付くが、ベッド脇のサイドテーブルの上に、一枚のメモが残されている事に気づく。手に取ったメモにはこう書かれていた。

 

『おはよう、桐生さん。私と猪熊さんは体育館に行くから、今日は選手村で過ごしていてね。絶対に体育館には来ちゃだめよ。くれぐれも、くれぐれも問題を起こさずに安静に過ごしていてね、桐生さん』

 

『茜さん、あんまり気持ちよさそうにぐっすり眠っていたから起こさなかったわよ。改めて金メダルおめでとう、茜さん。私も後に続けるように頑張るわね。それじゃあ、絶対に、絶対に安静に過ごしていてね。――追伸! 大事な金メダルがドアの前に落ちていたわよ! もっときちんと保管しておかないと駄目じゃない!』

 

私が再びサイドテーブルに視線を向けると、帯部分を丁寧に折りたたんだ金メダルがそっと置かれていた。うーん、昨日は午前2時ぐらいまでTV局をはしごしていて、ホテルに戻ってからは、ぽぽーんと邪魔な服を脱ぎ棄ててそのままベッドに直行したからよく覚えていないな。おそらく服を投げ捨てた時に、金メダルも一緒にポイっとしちゃったんだろう。

 

そんな事を考えながら私がサイドテーブル上の金メダルに視線を固定していると、徐々に金メダルを取った実感がこみ上げてくる。私は金メダルに手を伸ばし、きゅっと胸の前で抱きしめる。金メダルを手にしたのはこれで3度目だが、何度手にしても嬉しいものは嬉しい。

 

くーー、やったぁ! やったわよ、私! よしっ、こうしてはいられないっ! 直ぐに練習に行かなきゃっ!

 

そう決意して仁王立ちした私だったが、同室の二人が残したメモが目の前でヒラヒラと舞った事で我に返る。

 

あ……、そう言えば今日は体育館に来ずゆっくり過ごせって言われてたんだった……。うーん、男子もいて大人数なはずだし、こっそり練習に混じっていたら気づかれないかな……。そんな事を考えていた私の鼻腔に、プーンと青臭いと言うか、生臭いと言うか、何とも表現しがたい匂いが届く。くんくんと鼻を鳴らしてその発生元を確認すると、その匂いは私の右肩から発せられていた。そっと私が右肩に視線をなげかけると、真新しい包帯が巻かれていて、匂いはその包帯の下から漂ってきている。

 

自分で包帯を巻いた覚えは無い。おそらく私が眠っている間に、三上が例の滋悟郎さん秘蔵のなんとかガエルの薬を塗ってくれたのだろう。

 

……。今日は安静にしていようかな。うん、そうしよう。三上と柔ちゃんを怒らせたら怖いし。

 

それに……。私はTシャツ越しにお腹に手を当てる。と同時にくー、という儚げな音が部屋の中に木霊した。

 

 

 

「――おばちゃん! そこの海鮮チヂミと、ビビンバ頂戴! あ、あと、スンドゥブも!」

 

「あいよっ! 全部5辛で2人前づつで良かったよね、茜ちゃん!」

 

「もちろんっ! あっ、そのサムギョプサルも頂戴! ニクましましでお願い!」

 

「本当によく食べるね! あっ、金メダルおめでとう、茜ちゃん!」

 

「ありがとうっ、おばちゃん!」

 

選手村の食堂で馴染みとなったおばちゃんとそんな会話を交わした私は、お盆に溢れるほどの料理を手に席に着く。

 

そして、負ってしまった怪我を少しでも早く回復させようと、私は湯気の立つ料理の数々を次々と口に運ぶ。うん、美味しい! 選手村の食堂には和食はもちろん世界各国の料理が並んでいるが、元来辛口の料理が好きな私がこの選手村に入ってから決まっていただくのは、やはり最も多くのメニュー数を誇る韓国料理だ。

 

石鍋の中でぐつぐつと煮える真っ赤なスープが食欲をそそるスンドゥブ。その中に浸っている卵黄をスプーンで崩しながら、私は今日どう過ごそうかと考える。練習に行く事を禁止されてしまったし、辺ちゃんの応援に行く夕方まで正直、暇で暇で仕方がない。

 

――! そうだ、お菓子を作ろう! 今はとにかくオリンピックで金メダルを取る事に集中しなさい、と柔ちゃんや玉緒さんに言われて封印していたお菓子作り。金メダルを取った今なら、止められる理由も無いだろう。幸い、世界中の食材がこの選手村の食堂には集まっている。ふふふ、腕がなるわね。世界中の食材を駆使して、最高のお菓子を作ってやるわ。

 

でも、選手村の中に私の腕に見合う十分な厨房があったかしら? 私は宿泊しているホテルの共有スペースにある小さな自炊スペースを思い出す。ちょっと小さいかな?

あ、そうだ、何も一から作る必要は無いんだ。幸い部屋には三上から貰った和菓子がまだたくさん残っている。あの和菓子をベースに私が新しい風を吹き込んでみたらどうかしら。上手くいけば、三上の実家の和菓子屋さんの新作メニューとして売り出される可能性もあるわね!

 

よしっ、その線で行こう! そして私は空になった食器を返却スペースに返しに行ったその足で、馴染みになったおばちゃん達に食材を分けてもらえないか交渉に行くのだった。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「――たぁっ!」

 

ズバーーン!

 

連続した打ち込み稽古の最後に三上を綺麗に投げ飛ばした猪熊柔が、子気味良い音を響かせて完璧な受け身を取った三上に手を差し出す。

 

「大丈夫ですか、三上さん?」

 

「え? ああ大丈夫、大丈夫。猪熊さん、技が綺麗だから受け身が取りやすくて良いわぁ。桐生さんも綺麗だけど、猪熊さんの方が気配りが効いて痛くないように投げてくれるし」

 

ぱんぱんと腰をはたきながら笑みを返す三上に、猪熊柔が恐縮したように続ける。

 

「すいません、三上さん。本当なら今日はオフのはずなのに私の相手をしてくれて……。山口さんも」

 

そうして自身の背後を振り返り、48kg以下級の控え選手兼調整選手である山口にも頭を下げる猪熊柔。あまりに猪熊柔の技のキレがありすぎるため、三上一人では打ち込みにならずに、その三上の帯を背後で支える重石(おもし)の役割をしていたのが山口だった。

本来、彼女も含めて52kg以下級の三上も、それぞれの階級の正代表選手である本阿弥と桐生の調整相手であり、無差別級に出場する予定の猪熊柔の調整相手ではない。

 

「構わないわよ。藤堂も明日の自分の階級の事で頭がいっぱいだろうし、猪熊も体格が全然合わない相手と稽古をするのはやりにくいでしょう?」

 

「そうよ、猪熊さん。同じ日本チームじゃない。そんな水臭い事を言わないでよ。それより、そろそろ休憩しない? お昼休憩の後ずっと練習しっぱなしだったし、さすがにちょっと疲れたでしょ?」

 

山口と三上の言葉に猪熊柔は「はい」と頷き、道場脇にある休憩スペースに3人で移動する。ここは、柔道日本代表チームがオリンピック期間中借り受けている、選手村から車で20分ほどの場所にある体育館だった。

 

 

 

「ふう……。随分と稽古に熱が入っているけど、やっぱり昨日の桐生の試合の影響かしら?」

 

ポットから注がれた熱い茶を頂きほうっと息を吐いた山口が、やはり同じように茶を口にした猪熊柔に問いかけた。

 

「あ……、やっぱりそう見えましたか? 茜さんは茜さんだから意識しないように注意しているんですけど、昨日の茜さんの柔道がとても楽しそうだったから、つい私も」

 

「くすくすくす。分かるわぁ、猪熊さん。私も昨日桐生さんの試合を間近で見ていたけど、もう興奮しっぱなしだったもん。昨日の桐生さん、私が男だったら絶対惚れちゃってたわ」

 

「ぷっ、三上さんったら。その気持ちはちょっとだけ分かるんだけど、茜さんを恋人にするのなら、男性の方は料理が得意でないといけませんね」

 

「え、なんで? 桐生さん、料理は大の得意だって言ってたわよ?」

 

「桐生は三葉女子短大の家政科でしょう? 料理はお手の物なんじゃあ?」

 

猪熊の言葉にきょとんした顔をする三上と山口。そんな2人に、親友の隠れた危険性を喚起しておかなければと考えた猪熊は「とんでもないですっ!」と拳を固く握る。そして猪熊は、松田から聞いたチョコ爆弾の件、あの矍鑠(かくしゃく)とした祖父が危うく死にかけた件を説明する。

 

「だから茜さんにはオリンピックが終わるまでは柔道に集中する事って言って、一緒に暮らし始めてからは台所に立たせてないんです」

 

「そんなにひどいの、桐生の料理って? でも、それじゃあこのオリンピックが終わって日本に戻ったら、新しい理由を考えなきゃいけないんじゃない?」

 

「そうなんです、山口さん。一番良いのは桐生さん本人に、ちょっと料理が独特過ぎて万人が受け入れられるものになっていないかもしれないって、伝えられたら良いんですけど、どういう訳かなかなか伝わらなくて……」

 

猪熊柔は、これまで何度か、桐生にかなりオブラートに包みながら料理は控えた方が良いと伝えて来たのだが、意味の分からない事に彼女は、柔道以上の自信を料理に対して抱いているようで、その効果は無いに等しかった。

 

「でも、桐生さんは三葉女子短大で猪熊さんと一緒にお料理の勉強をしているんでしょう? 在学中に料理の腕が上がったりなんかは……。そっか、見込み薄なんだね」

 

三上の言葉が終わる前から、猪熊柔が悲しそうに首をふるふると振った事で全てを察する三上。

 

「それじゃあ、日本に帰ったら桐生には次はバルセロナオリンピック目指して料理を封印して邁進しようって言うのはどう?」

 

「あ、それ良い考えです、山口さん! 日本に戻ったら、その手で桐生さんの料理がこの世に生み出されるのを止めてみせます」

 

今まさにこのソウルの地で、その桐生の料理が産声を上げている事に気づかない猪熊柔が山口の言葉に賛同する。

 

「くすくす。桐生さん、柔道でも一本勝ちの常連だけど、ある意味料理でも一本勝ちって事なんだね。さすが桐生さん」

 

三上の含み笑いに猪熊は、「本当に笑い事じゃないんです、三上さん」と力なく応えるのだった。

 

 

 

「ただいまー、茜さんいる?」

 

「桐生さーん、今戻ったよ。どう、足の調子は?」

 

猪熊柔と三上が、滞在している選手村の自室に戻ったのは、現地時間で午後4時前という時間だった。後1時間足らずで72kg以下級の1回戦が始まるので、その前に彼女達は汗を流す事と桐生を迎えに来る目的で選手村に戻っていた。

 

しかし、桐生、猪熊、三上の3人が寝泊まりしている部屋は消灯し、シーンという静かさが二人に返事を返すだけだった。

 

「茜さん、何処に行ったのかしら?」と首を傾げて部屋の中に入った猪熊柔に、テーブルの上に置かれたメモに気づいた三上が声をかける。

 

「ああ、猪熊さん。桐生さん、夕方からTV局の取材が入ったみたい。TV局から直接高辺さんの応援に向かうって書いてあるわ。さすがはオリンピック。世界選手権の時とは違って、金メダルを取ると取材が殺到して大変ね」

 

「くす、本当ですね」と笑みを浮かべる猪熊に、三上が呆れた顔を向ける。

 

「もう、猪熊さんだって、直に桐生さんと同じ立場になるのよ? 他人事のように笑ってたら駄目よ」

 

「そ、そんな私なんて……」

 

「ふふふ、猪熊さんは絶対に今から覚悟しておいた方が良いと思うけどな。あ、猪熊さん、私これからコーチの所に顔を出して来るから、先にシャワー使ってて」

 

猪熊柔にそう言い残して三上は、手荷物を足元に置いて踵を返す。

 

 

 

「ふー、さっぱりした。三上さん、まだ戻ってないのかな? 三上さんも疲れているはずなのに、もっと手伝えたら良いんだけど……」

 

シャワールームから出た猪熊柔は、誰もいない部屋の中を見渡してそう一人呟く。朝からずっと身体を動かしていて糖分が不足していた自覚のあった彼女は、テーブルの上に常備されている、三上が差し入れた和菓子に視線を投げかける。

 

和菓子が山盛りとなった小皿の側に、自由に食べてね♡、と可愛らしい手書きのメッセージカードがあるように、選手村に入った日から三上にいつでも食べて良いという許可を得ている。実際、この選手村で生活するようになってからこれまで何度となくその和菓子を頂いていた猪熊は、高辺の応援に行く前に軽く小腹を満たしておこうと考えた。

 

「どれにしようかなぁ♪」

 

天才という名で称えられる猪熊柔も、甘い物に目が無い十代の女性には変わりない。苺大福、豆大福、どら焼き、うぐいす餅、最中(もなか)といった様々なお菓子がお盆の上に山積みとなっている。毎日、隣室の本阿弥や藤堂、高辺達もこれを目当てに部屋にやってくる『三上餡本舗 三日月』の珠玉の一品の数々。

 

しかし、もしもこの場にある種の霊感の持ち主あるいは、第7感(セブンセンシブ)に開眼した聖闘士等がいれば気づいたはずだ。この和菓子の山の中に、一つだけ世にもおぞましいオーラを醸し出している劇物がある事に。

 

それは、桐生が“当たりの中に大当たりがあるルーレットチャンス”と、嬉々として紛れ込ませた彼女渾身の一品。もちろん桐生にとっては大当たりでも、彼女以外の者にとっては、疑いようもなく“当たりの中に劇物が紛れ込んだただのロシアンルーレット”である事は言うまでもない。

 

「これにしちゃおっと。ふふふ、中には何が入っているのかしら」

 

ふふん、と猪熊柔が鼻歌交じりに手に取ったのは最中(もなか)。この和菓子を選んだ事が、ソウルオリンピックにおける猪熊柔の運命を決定づけた。

 

 




2
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。