ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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53話 桐生茜の謀り事

~~~~ソウル とある総合病院の一室~~~~

 

 

その日、猪熊柔の姿は、一人ソウル市内にほど近い総合病院のとある個室に設置されたベッドの上にあった。外はもう夜の帳がとっくに降りている。その総合病院は、ソウルオリンピック開催期間中、出場選手の不慮の病気や怪我に対応するための役割が与えられた病院だった。

 

もちろん彼女がそこにいたのには理由があった。それは……。

 

静寂が支配していたその病室の扉が突然ガラッと音を立てて開く。リクライニング式のベッドの上部を起こし、日本から持ち込んでいた文庫本に目を落としていた猪熊柔は、その音に顔を上げる。扉の向こうからこっそりと人目を忍ぶようにして現れたのは、彼女のよく知っている報道関係者だった。

 

「――松田さんっ! どうしてここに?」

 

「や、やあ、柔さん。……入っても良いかな?」

 

その言葉に、僅かに頬を赤く染めながら髪を整えた猪熊柔は「は、はい。……どうぞ」と彼を迎え入れた。6畳ほどの簡素な病室に身体を滑りこませた彼は、恐縮しながらベッド脇の丸椅子に腰を降ろした。そして眉間に皺を寄せながら、そっと彼女に声を投げかける。

 

「どうだい、身体の具合は?」

 

「はい、もう大丈夫です。それより、松田さん、どうやってここまでこれたんですか? この病院、関係者以外は入れないって聞いてたんですけど」

 

「あ、ああ。それはね……」と、松田は身に着けていた衣服の内ポケットから手の平サイズの身分証明書を取り出す。その身分証明書には、松田の顔写真ではなく別の赤毛の少女の顔写真が張られていた。

 

「それ、茜さんの身分証明書……」

 

「そうなんだ。桐生さんが、これを貸してあげるから柔さんのお見舞いに行ってこいって、押し付ける様に渡してくれて……。この病院、機械式のゲートだったからこれで通過できたんだけど、ごめんね、疲れているだろうと思ったんだけど、一目柔さんの様子を確認しておきたいと思って……。――!」

 

そこまで口にして突然何かを思い出したのか、急に居住まいを正す松田。

 

「ごめん、俺ったらお祝いの言葉も言わずに。女子柔道無差別級の金メダル獲得、おめでとう、柔さん! テレシコワとの決勝戦、本当に凄かったよ! もう俺、興奮しっぱなしで!」

 

何を言い出すのかと思っていた柔だったが、直ぐに笑みを浮かべて応える。

 

「ありがとうございます、松田さん。私こそ、松田さんにはお礼を言わなければと思っていたんです」

 

「お礼……? 俺、柔さんにお礼を言われるような事は何もしてないと思うけれど……」

 

そう言って首を傾げる松田に、猪熊柔は優し気な視線を投げかける。

 

「いえ、私がテレシコワさんの裏投げを受けて気を失いかけた時、松田さんの励ましの言葉が私の意識を繋ぎとめてくれたんです。だから、松田さんにお礼を言いたかったんです」

 

「そ、そんな事……」と照れたように頭を掻く松田だったが、猪熊柔が「まるでお父さんに励まされたのかと思いました」と悪気なく続けた事で「お父さん……」とそのまま固まる松田。

 

「そ、そうだ、それで柔さん。頭の具合はどう……? 俺、それが心配で心配で。結局柔さん、表彰台にも上がれなかったし……」

 

「私の代わりに風祭さんが出てくれたんじゃないんですか? 風祭さんにもご迷惑をおかけしたので、後で謝っておかないと」

 

その言葉に、松田は「いや、それには及ばないと思うよ」と首を振る。不思議そうに首を傾げる彼女に松田は「確かにその予定だったみたいだけど、風祭は急に体調を崩して病院に直行したんだ」と応える。そして松田は、「代わりに表彰台に上がったのは、滋悟郎さんだよ」と続けた。

 

「そうだったんですか……。そういえば、今日は朝から風祭さんの姿を見なかった気がします。大丈夫なんでしょうか?」

 

「い、いや、あんな奴の事なんか気にしなくて良いって。そんな事より、柔さんの具合はどうなんだい?」

 

様々な理由から風祭に対して好意的になれない松田。そんな松田に猪熊柔は力強く頷く。

 

「私は大丈夫です。ただの脳しんとうなんだから、本当だったら病院にもかからなくても良いくらいだったんだけど、茜さんが頭は大事だから絶対に病院にかからないといけないって言って譲らなくて」

 

『気を失うほど頭を打ったんだから、絶対に病院にかからなきゃ! 吐き気は!? 頭痛は無い!? TV局行脚!? そんなの後、後! 滋悟郎さんが全部代わりにやってくれるって! ねえ、滋悟郎さん!』

 

『う、うむ。確かに桐生の言う通りじゃ。柔、よくやった! 後は儂に任せて、お前は早く病院に行くがよい!』

 

テレシコワとの一戦で頭を強打した事をことさら心配して血相を変えて詰め寄った親友である桐生茜の姿を思い出す猪熊柔。日頃はむしろおおざっぱ過ぎて心配になるほどの彼女があれほど自分を心配してくれた事が面映ゆい猪熊柔は、松田に対して照れたような笑みを浮かべる。

 

その様子にひとまずは大丈夫か、と安堵の息を吐きながら松田が問いかける。

 

「そっか。それで医者はなんて?」

 

「それが、特に異常は認められないけれど、念のために2,3日は激しい運動はしないようにって、言われたんです」

 

「2,3日……。そうか、それじゃあ、明日の柔道競技最終日は難しい……か」

 

「はい……。私も、皆に迷惑をかけてしまうのが申し訳ないんですけど……」

 

がっくりと肩を落とした松田と、その姿を見て申し訳なさが勝ってしまった猪熊柔がそう口にする。

 

「あ、いや、ごめん! 柔さんがそんな顔をする必要は無いよ! 一番に考えないといけないのは、柔さんの身体なんだから! 大丈夫、皆が柔さんの分まできっとやってくれるよ!」

 

「松田さん……」

 

誰よりもオリンピックで日本のアスリートが活躍する姿を楽しみにしていたのが松田のはずなのに、その気持ちを押し殺して自身の身体が何よりも大事だと言ってくれる。その言葉が嬉しく、猪熊柔は柔和な笑みを浮かべて松田を見つめる。

 

その松田は、今更ながらにうら若い女性の病室に一人忍び込んでいる事実に気づいたのか、照れたようにそっぽを向く。そして視線の先にあった小さな置時計に表示されている時刻が夜の9時を指している事に気づき、あっと声を上げる。

 

「そ、そうだ。ちょうどこの時間に、明日の柔道競技最終日のニュースが流れるはずだよ」

 

「え、そうなんですか。ちょっと待ってくださいね。確かTVのリモコンがこちらに……」

 

ごそごそと枕もとを探った猪熊柔は目当てのリモコンを見つけ、そのスイッチを入れた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

「ほっほっほ! お前達、柔はおらんがこれから祝勝会に行くぞ! ついてこい!」

 

孫娘が取った金メダルを首に掛け上機嫌で奨忠(チャンチュン)体育館を後にしようとする猪熊滋悟郎。そんな彼を留める様に背中から投げかけられる慌てた声。

 

「――ちょ、ちょっと待ってください、猪熊先生!」

 

それは女子柔道チームの監督である柳澤を筆頭としたコーチ陣の面々だった。

 

「むっ? お主らも一緒に来るか? 良かろう、良かろう。では焼き肉でも――」と、背後を振り返った猪熊滋悟郎だったが、コーチ陣の顔は悲壮感に包まれていた。

 

「そ、そんな事より、明日の事を決めなければいけませんよ、猪熊先生!」

 

「明日? 明日はソウル市内を観光して、源さん達への土産を買うつもりぢゃが?」

 

呑気な事を口にする猪熊滋悟郎に、柳澤が驚愕の表情を顔に張り付ける。

 

「な、何を言っているんですか!? 明日は、柔道競技の最終日ではありませんか! そのような余裕はありませんぞ!」

 

「最終日……? 最終日は、無差別級をやった今日の事ぢゃろうが? 何を言っておるのぢゃ、柳澤よ?」

 

「ご、御存じなかったのですか!?」

 

顎が外れんばかりに驚く彼らに、猪熊滋悟郎が眉を上げて「何の事ぢゃ?」と首を傾げる。そして、どうやら本当に知らないらしいと、監督やコーチ陣が互いに顔を合わせた後、代表して柳澤が猪熊滋悟郎に応える。

 

 

「ですから、明日は柔道競技の最終日。この大会で初めて開催される()()()()()()()()()が開催される日じゃないですかっ!」

 

「――なっ!? く、国別団体戦ぢゃとぉっ!?」

 

今度は驚愕の表情を顔に張り付けるのは猪熊滋悟郎だった。彼のその叫び声が、奨忠(チャンチュン)体育館内に木霊していった。

 

 

 

「――儂は聞いておらんぞっ!」

 

「そ、そうは言われましても、私どもは無差別級の開催と共に、団体戦の開催もタマランチ会長に強くお勧めしたのが猪熊先生だと伺っておりましたので、当然知っているものとばかり……」

 

「タマちゃんに勧めたぢゃとっ!? 儂が勧めたのは無差別級の開催だけ……」

 

そう言葉を発していた猪熊滋悟郎だったが、あのタマランチ会長を招いた全日本女子柔道選手権大会の時の事を思い出し、思わずその言葉が途中で途切れる。

 

あの日は、当初英語の話せる風祭が儂の言葉を代弁して、タマランチに無差別級の魅力を伝えるはずぢゃった。その風祭が何故か大会が始まって早々に姿を消し、偶然その場に居合わせた桐生が風祭の代わりに通訳をした。

 

桐生……。舌をぺろりと出した彼女のしたり顔が猪熊滋悟郎の脳裏に浮かんだ瞬間、彼は全ての絵図を描いていた者の正体に気づいた。

 

「――桐生っ!! よくも儂を謀りおったなっ!!」

 

怒髪天を衝く勢いで猪熊滋悟郎が叫ぶが、その桐生はとっくに選手村に戻っていてこの場にいない。

 

「おのれぇっ!」とギリギリと歯を食いしばる猪熊滋悟郎だったが、彼の胸の内を占める感情は(してやられた!)という怒りの感情から、徐々に(やってくれおったわっ!)という感嘆の感情に変わって行く。

 

そう思ってしまうこと自体が許せず、猪熊滋悟郎は身体をわなわなと震わせるが、直ぐに彼は直面する問題点に思考を委ねる。

 

「ときに柳澤よ! その男女別団体戦とやらに出場する選手は決まっておるのか!?」

 

「それを猪熊先生に相談しようと思っておりました! 先ほど病院に行った者から連絡がありました。猪熊柔はドクターストップがかかっており、明日の団体戦には出場できないとの事です! 早急に無差別級の出場者を選定する必要があります!」

 

ぬうっ! その言葉にうめき声で返す猪熊滋悟郎。いかに彼と言えど、ドクターストップのかかっている孫娘を強行出場させるほど無慈悲では無い。病院にかかるように強硬に主張したのは桐生だったが、それがなくても猪熊滋悟郎も医者にかかるよう孫娘に勧めるつもりであった。

 

そして彼らはその場で情報の共有を図る。男女国別団体戦は、男性と女性それぞれに分かれた5人制の国別団体戦。当初タマランチは男女混同の国別団体戦を構想していたようだが、正式競技である男性と、公開競技である女性を混合させることに難色を示す者がオリンピック組織委員会の中にいたようで、それならと男女を分けた形での団体戦に舵を切った。

 

5人制の内訳は、個人種目の並びのとおりであった。つまり一人目は48kg以下級、二人目は52kg以下級、三人目は72kg以下級で、四人目は72kg超級。そして最後の五人目が無差別級という構成だ。

 

各階級に出場できる選手は、各階級の代表選手あるいは控え選手の2名のいずれか。そして各階級の一つ下の階級の選手は、その一つ上の階級の選手としてエントリーが可能であり、無差別級に至っては全階級のどの選手が出場しても可というルールだった。

 

そこまで猪熊滋悟郎に説明した柳澤が、一枚の紙を猪熊滋悟郎に提示する。それは、現時点で考えうる各階級の候補選手のリストだった。

 

先鋒(48kg以下級)候補選手:本阿弥さやか、山口かおる

次鋒(52kg以下級)候補選手:桐生茜、三上杏 +48kg以下級候補選手2名

中堅(72kg以下級)候補選手:高辺陽子、水口裕子 +52kg以下級候補選手2名

副将(72kg超級) 候補選手:藤堂由貴、鷹森佳乃 +72kg以下級候補選手2名

大将(無差別級)  候補選手:猪熊柔(欠場)+全階級の候補選手

 

そのリストに目を通し「うーむ」と、眉間に皺をよせ唸り声を上げる猪熊滋悟郎。その様子を、固唾を飲んで見守っていた柳澤が深く頷く。

 

「大将である無差別級に同階級金メダリストの猪熊柔が出られるのでしたら、先鋒を同階級銀メダリストの本阿弥、そして次鋒を同階級金メダリストの桐生にする事で勝ち星3つが高い確率で計算できました。しかし、猪熊柔の欠場が決定的となった今、その計算が崩れました」

 

「やはり72kg超級の藤堂を無差別級に転向させるしか無いのでは……?」

 

一人のコーチがそう口にするが、柳澤は渋い顔で首を振る。

 

「藤堂は72kg超級で入賞止まりだ。各国のエース級がしのぎを削る無差別級に転向させたところで、勝ち星は計算できん」

 

「とはいえ、72kg超級の藤堂の控え選手である鷹森も、藤堂より実力が一段も二段も落ちます。その上72kg以下級の控え選手である水口は練習中の怪我で出場は困難。高辺を無差別級に転向させますか?」

 

別のコーチの提案にも柳澤は首を振る。

 

「いや、どう考えても経験の浅い高辺に無差別級は荷が重い。それに、あいつは腰をやっている。あいつは本来の自分の階級で固定させるべきだ」

 

「しかし、それでは無差別級の候補選手が……!」

 

「候補選手なら……いる!」

 

そう断言する柳澤。そして柳澤は、リスト上のとある人物の名を指で指し示し、猪熊滋悟郎をはっしと見つめた。

 

「猪熊先生……。私は、無差別級の代表選手は彼女しかいないと確信しています……! 先生のお考えは如何に!?」

 

猪熊滋悟郎は柳澤が指し示した名前をじっと見つめる。言われるまでも無い。猪熊滋悟郎も柳澤の至った結論に早々に達していた。

 

だが……。

 

猪熊滋悟郎は、眉間に刻まれた皺をさらに深く刻み、僅かに瞑目した後天井を見上げて深く嘆息した。

 

「ふーーーー、やむを得ぬ……か」

 

その言葉に柳澤は我が意を得たりと強く頷いた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

『では、明日の女子国別団体戦の無差別級に猪熊柔選手は出場できないと』

 

『先ほど陣営から発表された内容ではそうなりますね』

 

猪熊柔が病室でTVをつけると、ちょうどオリンピックの特集コーナーが放送されており、TV局のアナウンサーとスポーツライターがそんな会話をスタジオで交わしている。

 

「もう柔さんが明日の試合に出られない事は伝わっているみたいだね」

 

「そうみたい……」

 

申し訳なさそうにそう口にする猪熊柔に、松田は「柔さんのせいじゃないって!」と励ますが、柔の表情は晴れない。その時、TVの映像が明日の試合に出場する可能性のある選手へのインタビューに切り替わる。右上に“LIVE”の文字がある事から、おそらく中継だろう。そこに映ったのは、柔道着ではなく、日本代表のナショナルウェアでもなく、高級そうな白い服に身を包んだ黒髪の女性。その女性はカメラに向かって優雅に流し目を送りながら高笑いをする。

 

『ほーほっほっほ。あなた方が何を心配なさっているのか、私には全く理解できませんわ。あの方などいなくても、私がいる限り金メダルは確実ですのに!』

 

「相変わらずだな、あのお嬢様は」

 

「ふふふ、でも、さやかさんらしいわ」

 

平常運転の本阿弥さやかの高笑いに二人は苦笑いを浮かべる。そして次に画面に映ったのは72kg超級の藤堂。

 

「あー、喰った、喰った。何だい、あんた達? ああ、明日の事かい? ふん、猪熊柔が出られないなら、私が無差別級に出たら良いだけの事じゃないか。何も心配はいらないね」

 

「あら、あなたが無差別級に出るはずがありませんわ。ここは、あなたに勝った私が選ばれるに決まっていますわ」

 

「なんだって!? まぐれで勝ったあんたが何を偉そうに!」

 

途端に口論が始まった二人をTVカメラがなるだけ自然に見える様にフェードアウトしていき、巨体の藤堂の背後から現れた小柄な赤毛の女性を映し出す。満足そうに膨れたお腹を押さえながら現れた女性は、突然向けられたTVカメラに一瞬驚いた様に立ち止まるが、直ぐにカメラを正面から見据えてインタビューに応える。

 

『大丈夫ですよ。柔ちゃん亡き後でも、私達のやる事は変わりませんから。日本から応援して下さっている皆さんの期待を裏切らないよう、精一杯頑張ります』

 

「「……」」

 

しばし病室に無言の時間が訪れるが、ぼそっと猪熊柔が呟く。

 

「私、今、茜さんに死んだ事にされた……?」

 

「……されたね」

 

そこで画面は暗転し、おそらくプレスセンターだろうが、そこに設置された某局のスタジオに画面が切り替わった。何故かアナウンサーが襟を正し、TV画面に向かって淡々とセリフを読み上げる。

 

『えー、今、猪熊選手が亡くなったかのような発言がとある選手から飛び出しましたが、猪熊選手は亡くなっておりません。現在はソウル市内の病室で検査入院をしております。繰り返します。猪熊選手は亡くなっておりません。大変失礼いたしました』

 

「「……」」

 

どちらからとなく、ぷっとこらえきれないような笑いが漏れる。それを契機に、猪熊柔と松田は顔を見合わせ「あははは」「もう、茜さんったら! くすくすくす」とお腹を押さえながら笑いだす。二人の目には、あまりのおかしさに涙が浮かんでいるほどだった。

 

「あははは。ほんとうに桐生さんは……。あっと、もうこんな時間か。柔さんの無事な様子も見られたから、俺は見つからないうちに失礼するよ。邪魔したね、柔さん」

 

「そんな、わざわざ来てくれてありがとうございました、松田さん」

 

本音を言えばもう少しこの場に引き留めたかったはずの猪熊柔だが、その思いを胸の内に隠して松田にそう声をかける。その松田は、あっと思い出したように取材鞄のチャックを開き、中から手のひらサイズのカセットレコーダーを取り出す。

 

「それ、茜さんの使ってた……」

 

そのカセットレコーダーに見覚えのあった猪熊柔が呟くと、松田は同意するように頷く。

 

「そうなんだ。これ、桐生さんから柔さんにって預かって来ていてね。危うく、渡すのを忘れてしまうところだったよ」

 

そう言って恥ずかし気に頭を掻きながらそれを猪熊柔に手渡す松田。

 

「桐生さんがね、優勝した日はどうせ目がさえて眠れないだろうから、安眠に効く音楽が録音されたカセットテープを貸してあげるって言ってたよ。ふふふ、金メダリスト同士、通じるものがあるのかね」

 

「茜さんが……」

 

これでもうやる事はないとばかりに、松田は今度こそじゃあ、と手を上げて病室から出て行った。猪熊柔は、なおも明日の試合について喧々諤々と議論が続いていたTVのリモコンを手にし、それを消す。

 

途端に病室に静寂が広がる。松田が来るまではその静寂に気づかなかったが、何故か松田が去った直後にその静寂が身につまされる様に感じる猪熊柔だった。

 

彼女は、身体を横に倒し、病室の照明のスイッチを切る。途端に、病室は月明かりだけが窓から入る薄暗い無機質な空間へと変わる。横になったまま、猪熊柔は先ほど松田から手渡された桐生のカセットレコーダーに繋がっているイヤホンを耳に充て、そのスイッチを入れた。

 

少しの沈黙の後彼女の耳に流れて来たのは、桐生がよく猪熊邸の自室で流しているロックバンドの楽曲。今年の4月に解散した男性4人で編成されるそのバンドの曲は、アイドル好きの彼女の好みでは無かったが、それでも熱狂的なファンが存在する事はよく理解していた。

 

(茜さん、どうしてこのバンドの曲が安眠に効くなんて言ったのかしら?)

 

そんな事を考えながら猪熊柔は目を閉じる。もちろん安眠には程遠いそのハードなロック調の楽曲では直ぐに寝付く事などできなかったが、それでもその小さな体で無差別級を制した事に起因する体の疲れは正直で、次第にとろんと目を閉じていく猪熊柔だった。

 

 

 

 

 

『……選手は、松田さんにとってただの取材対象ですか? それとも、彼女に対してそれ以上の感情は抱いていますか?』

 

――!

 

甘美な微睡に身を委ねていた猪熊柔だったが、突然がばっと身を起こす。一瞬茫然自失となる彼女だったが、直ぐに枕元にあるカセットレコーダーに手を伸ばす。薄闇にまだ目が慣れていないため、カセットレコーダーを掴む手がおぼつかない。それでも、彼女はどうにかしてカセットレコーダーのテープを巻き戻すボタンを見つけ、そのボタンを押す。キュルキュルキュルと音を立ててカセットテープが巻き戻され、ある程度巻き戻した所で、猪熊柔は再び再生ボタンを押し込んだ。

 

『……それじゃあ質問しますね。ずばり聞かせていただきますよ。――』

 

病室のベッドで上半身だけを起こした姿勢で、猪熊柔は長い時間そのカセットレコーダーに録音された音声に耳を澄ませていた。

 




はい、これが私なりの令和の時代に『YAWARA!』を書き始めた理由の答えになります。男女国別団体戦。これがやりたかったために、本作を書き始めたと言っても過言ではありません。

ちなみに、最初はリアルに合わせて男女混同で行く事も検討したのですが、それが出来るほどの男性キャラクターがいなかったので、断念しました。それをした場合のメリットは、4年後に花園夫妻が同チームで共闘する展開が書ける事だったのですが。

激戦に次ぐ激戦の団体戦、是非ご覧ください。明日はお休みし、その後2話ほど閑話を投稿した後、9日から団体戦編スタートです。
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