ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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55話 閑話③ ここではないどこかの世界で

~~~~2024年 パリ シャン・ド・マルス・アリーナ~~~~

 

「さあ、2024年パリ・オリンピック 柔道競技最終日 男女混合団体日本チームが、ここシャン・ド・マルス・アリーナの会場に入ってきました。あっと、日本チーム全員の柔道着の胸に喪章が付いていますね。解説の野々村さん、彼女の事、今でも信じられませんね」

 

「ええ、あの選手達の中に神薙 道乃(かんなぎ みちの)選手がいないなんて……。本当に何かの間違いであって欲しい……、今でも本当にそう思います」

 

目頭を押さえながらそう語るのは、1996年のアトランタ、2000年のシドニー、そして2004年のアテネオリンピック 男子柔道60kg級で3連覇を達成した、日本が世界に誇る柔道家 野々村 忠則。

 

「僕は、彼女なら僕のオリンピック3連覇を超えていける選手だと思っていたんです。それがどうして……。本当に日本は、失うべからざるものを失ってしまいました……」

 

アナウンサーが試合会場に向かってゆっくりと歩む日本チームを見下ろす。

 

「ああ、神薙選手に代わって本日の団体戦52kg以下級に出場する綾部選手が号泣しています。それに、神薙選手と長きに渡って死闘を繰り広げてきた48kg以下級の隅田選手も……」

 

「隅田選手は今でこそ48kg以下級ですが、2年前までは52kg以下級に出場していましたからね。彼女の必殺技(フェイバリット)である巴投げと、神薙選手の必殺技(フェイバリット)である袖釣り込み腰のぶつかり合いは、それはもう見ごたえがありました。最近では、背負い投げの綾部選手との試合も素晴らしいものでしたが、あのかつて見られた素晴らしい戦いがもう見られなくなるんですね」

 

「そうですね……。ああ、見て下さい。観客席には、神薙選手の写真を手に持った観客が大勢いますよ。それも、日本人だけではありません……。本当に彼女は人種を問わず世界中の柔道ファンに愛されていたんですね。この光景を目にするだけで、それが分かります」

 

アナウンサーの言葉通り、シャン・ド・マルス・アリーナに詰めかけた観客の多くが、2日前に金メダルを獲得したばかりで早世した神薙 道乃選手の写真を高く掲げて涙を拭っていた。

 

「ふ……ふふふ。彼女は、皆様ご存じのように裏表の無い性格でしたからね。幼少時より世界で活躍していた事から世界中に友人がいました。もちろん日本の柔道選手からも男女を問わず慕われていましたよ。ほら、今、日本チームの最後尾を号泣しながら歩いている犀藤選手もその一人です。神薙選手にとって2歳下の犀藤選手は、公私ともによく彼女に可愛がってもらっていましたよ」

 

野々村の言葉通り、男子100kg超級に登録されているいがぐり頭の犀藤選手は、綾部選手同様に人目もはばからず涙を零していた。その様子を優し気な眼差しで見つめた野々村は、フッと口元に笑みを浮かべる。

 

「……いけませんね。こうして彼女の早世を惜しんでばかりいると、天国にいる彼女に『暗いっ!』と叱られてしまいます。ここは一つ、この映像を見ている日本の皆様に彼女の知られざるエピソードを一つ紹介するとしましょう」

 

その野々村の言葉に、アナウンサーが「良いですね、是非……!」と水を向ける。

 

「2年前にウズベキスタンのタシケントで開催された世界柔道選手権ですが、犀藤選手だけが何故かウズベキスタンの空港の税関で止められて、危うく試合に間に合わなくなりそうになった事を覚えていますか?」

 

「ああ、ありましたね、そんな事が。確か犀藤選手の階級の試合が最終日だったので、かろうじて間に合ったと聞きましたが。確かパスポートの不備が発覚したとかなんとか……」

 

「ええ、表向きはそんな理由になっているのですが、あれ、本当は神薙選手が関係しているんですよ」

 

野々村の言葉にアナウンサーは、「それはどういう事ですか……?」と首を傾げる。そんな彼に野々村は楽しくてたまらないと言った表情で続ける。

 

「実は犀藤選手、成田空港を発つ直前に神薙選手から手作りのお菓子を貰っていたんです」

 

「それが何か……?」

 

「その犀藤選手がポケットに忍ばせていたお菓子が、ウズベキスタンの空港の税関で『毒物』認定されて、彼だけが留め置かれたんですよ。く、くくく」

 

「――毒物ですか!?」

 

解説者と言う立場でありながらおかしくてたまらないという様子で、今度は笑いすぎで涙を零しながら野々村は頷く。

 

「そう、毒物です。いや、私その場にいましたけれど酷い有様でしたよ。突然何匹もの動植物検疫探知犬が犀藤の周囲を取り囲んで彼に対して一斉に吠えたてるんです。まったく、神薙選手から貰ったお菓子を持って税関を通ろうなんて、自殺行為ですよ」

 

「ちょっと待ってください、確認しますが……お菓子……ですよね?」

 

「はい、お菓子です。ただし、神薙選手手作りの。何故誰も注意しなかったのでしょうね。成田空港で彼女手作りのお菓子を渡されたのは彼だけではなく、私を含めた彼以外の人間は皆それを国内に残るスタッフに預けて出国したというのに、彼だけはそれを持って飛行機に乗ってしまったんです」

 

「……」

 

「神薙選手の手作りのお菓子の脅威は、彼女を知っている者なら誰でも知っています。その事を知らなかった犀藤選手が迂闊だったんですよ」

 

「……ちなみに野々村さんは、神薙選手から貰ったそのお菓子をどうされたのですか?」と、恐る恐る尋ねるアナウンサーに、野々村は何でもない事のように応える。

 

「私ですか……? 私はそれを細かく砕いて家の隅に置いておくんですよ。すると、翌日からゴキブリはおろかネズミまで家からいなくなるものですから、とても重宝していました」

 

「そう言えば、彼女がいなくなってこれから我が家の害虫駆除はどうしたら良いんだろう……」と真剣な表情で呟く野々村に、幾分引き気味になったアナウンサーが尋ねる。

 

「な、なるほど……。しかし、そのような情報、彼女の名誉にもかかわるでしょうに、このような場で披露していただいて良かったのでしょうか?」

 

「良いんじゃないですか。もうあの彼女の手作りのお菓子の被害を被る者もいない事ですし。今頃彼女は、天国でこれから始まる『柔道 混合団体』の試合の模様を、ビール片手に観戦しようとしているのではないでしょうか。いや、彼女ならあるいは天国でも柔道を取っているのかもしれませんね。なにせ、彼女は柔道の神に愛された女性ですから」

 

柔道 混合団体の試合を伝える解説者とアナウンサーがそんな会話を交わしている間にも、日本チームの混合団体一回戦が始まろうとしていた。

 

 

 

「――始め!」

 

2024年パリオリンピックでの『柔道 混合団体』は、2020年東京オリンピックから新たに導入された国別の団体戦だった。男女3人ずつの6人制で戦うスタイルであり、階級は男子が73kg以下、90kg以下、90kg超、女子は57kg以下、70kg以下、70kg超である。

 

日本の1回戦の相手は、欧州の強豪スペイン。もっとも、日本はシード枠での出場のため、スペインは日本戦の前に難民選手団と対戦しそれを降して勝ち上がってきていた。

 

審判の声で、大事な団体戦1回戦の先鋒である57kg以下級を託された隅田は前に出る。対戦相手は個人戦でも57kg以下級のスペイン代表カサンドラ・ゲバラ。隅田は、48kg以下級の選手でありその体重差実に10kg近い差があった。

 

「隅田先輩、組み際気を付けて!」

 

上背のあるカサンドラが奥襟を狙って来るのを裁く隅田。その背後から、1回戦はメンバーから漏れた形の綾部の声が届く。この『混合団体』では、対戦ごとに都度メンバーチェンジが可能だ。そのため、監督の構想では先鋒である57kg以下級は体力面も考慮して複数の選手で回していくつもりなのだろう。

 

しかし……、と隅田は思う。もし、2日前のあの事故さえなければ、監督は彼女を日本の不動の一番手に抜擢した事だろうと。

 

神薙 道乃。現在32歳の隅田にとって彼女は、長年同階級で切磋琢磨してきた8歳年下のライバルだった。隅田は今でこそ48kg以下級を主戦場としているが、ほんの数年前までは52kg以下級を主としていた。当然そこを主戦場とする限り、彼女との戦いは避けられない。

 

『隅田選手、伝家の宝刀 巴投げが決まったぁっ! ――神薙選手、技有を取られました!』

 

『ここで神薙選手の袖釣り込み腰! しかし、隅田選手これを耐える、耐える! ああ、逃げる隅田選手に対して神薙選手、片手で行ったぁっ!』

 

彼女との試合では勝ちも、負けもたくさん経験した。東京オリンピックでは最後の選考試合で敗れたが、その前年の世界選手権では私が勝っていた。

 

神薙との苦しくも狂おしい程の熱気が纏った、畳の上でのぶつかり合いの日々を思い出す隅田。もうあの激しい試合を彼女との間で交わす事は出来ない。

 

ガシッとカサンドラの伸びた手が隅田の奥襟を掴む。このカサンドラの行為もまた隅田に彼女の在りし日の姿を思い起こさせた。

 

あなた、こんな風に無造作に奥襟に手を伸ばして……。カサンドラのつり上がった目を見つめながら隅田は思う。ここに立っているのが私でなくあの子なら、とっくに彼女の袖釣り込みであなたの身体は畳から離れているわよ、と。

 

しかしいまここに立っているのは、彼女ではなく隅田だった。

 

「――おらぁっ!」

 

良い所を獲った事で、たとえ相手が女子48kg以下級の金メダリストであろうと気にしない、とばかりにカサンドラが嵩にかかって攻めたてる。

 

どこか空虚な思いでその揺り動かしに堪えていた隅田だったが、振り回される彼女の瞳に、観客席のとある柔道ファンが高く掲げた写真が映る。

 

それは、神薙 道乃が今まさに対戦相手と組み合おうとしている瞬間を捉えた写真だった。

 

『姉さん、姉さん。先輩の巴投げどうやっているのか、教えてくださいよ!』

 

『何言ってんのよ、道乃。私とあなたはライバル。そんな事を教えるわけないでしょ?』

 

『ええ、良いじゃないですか。私と姉さんの仲じゃないですか。あ、じゃあ、私は片手袖釣り込み腰のコツを姉さんに教えますよ』

 

『あんなおかしな技、私に覚えられるわけないでしょ。なんで袖釣りを片手で出来るのよ。意味わかんないわよ』

 

『駄目ですかぁ。あ、じゃあ、私の得意料理の中から、飛び切りのレシピを教えるのはどうですか?』

 

『あなた、私を殺人者にするつもり!? もう、良いわよ! そんなに知りたいのなら教えてあげるわよ。いい、私の巴投げはね……』

 

相手の心の内側にするっと入り込むのが上手い彼女だった。表面上はライバルと言われていても、私達は年齢の差を超え公私共によく行動を共にしていた。口さえきゅっと閉じていたらモデルとしても活動できそうなほどのルックスとスタイルなのに、彼女から男っ気を感じた事は一度もない。

 

三五十五が恋人ですから、と二次元と三次元の区別が出来ていないのだろうか、と思わず心配になる事を口にする彼女とは、本や物の貸し借りも良く行った。

 

たとえば私は彼女に『帯をギュッとね』という漫画を貸したし、彼女からは『YAWARA!』という漫画を借りて読みふけった事もある。柔道部物語? あれはバイブルだから、私も

彼女も互いの部屋のリビングの本棚に常に置いてある。貸すなんて、とんでもない。

 

 

奥襟を取っている事でぐっと力任せに隅田を押し込んでくるカサンドラ。彼女のその行動とちらちらと審判を伺う仕草に、隅田は彼女の狙いを察する。カサンドラは審判の心象をよくすることで、私に注意が与えられる事を狙っている、と。

 

ふざけるな……。そんな消極的な柔道を取られる事を最も嫌っていた彼女がここにいても、あんたは同じ事をするつもりなのか……!

 

不意に隅田の瞳に紅い火花が瞬く。

 

「――しっ!」

 

隅田が放った技は、かつて隅田と幾度となく死闘を繰り広げた彼女が最も得意とした技。

 

袖釣り込み腰。

 

「――〇×#*!」

 

突然放たれたその大技に驚くカサンドラ。取っていた奥襟を吊り上げてかけられたその大技に、57kg以下級の彼女の身体が宙に浮く。

 

「――あなたがやんないから、私がやるはめになるんでしょうがぁっ!」

 

誰に向かって放った言葉なのか、隅田はそう声を張り上げながらスペインの先鋒を投げ飛ばす。

 

「――技有ぃ!」

 

主審の声が高らかに宣告されると同時に、シャン・ド・マルス・アリーナの大気が揺れた。隅田の放った技は、皆がもう一度この目にしたいと願っていた彼女の、在りし日の姿に酷似していた。そう、2日前にここシャン・ド・マルス・アリーナに詰めかけた彼らを最高潮に沸かした彼女の姿に。

 

しかし、それをなした当の本人の想いは違ったようだった。隅田は、畳の上で亀のようになって寝技に持ち込まれる事を抗っているカサンドラの背に乗りながら悪態をつく。

 

「もうっ、だからあの技は無理だって言ったじゃない! 難しすぎるのよ!」

 

隅田は思う。あの技は、柔道の神様に愛された彼女にだけ許された特別な技だと。愛されすぎた故に、彼女は柔道の神様の元にまねかれたに違いない。

 

ひどい、ひどすぎる。早すぎるよ、神様。相手選手の背中に縫い付けられたESPという文字が滲んで彼女には読み取ることが出来ずにいた。

 

 

 

審判による制止を挟んで再開された第1試合。カサンドラは、いかに相手が金メダリストとは言え二階級も下の選手に負けてはいられないとばかりに隅田に対して果敢に攻めてくる。

 

隅田はそんな猛攻を凌ぎながら、徐々に自身の得意な組手に持って行く。それは20代の頃には身についていなかった熟練の手管。カサンドラは知らず知らずのうちに隅田の術中にはまりかけていた。

 

そしてとうとうその時が来る。

 

「――やあっ!」

 

隅田の右足裏がカサンドラの腹部に添えられ、そのまま隅田は後方に倒れ込む。しかし、隅田との体重差優に10kg近いカサンドラは隅田の伝家の宝刀『巴投げ』を堪えきる。

 

不発に終わった巴投げ。自身の真下で巴投げを放った無様な態勢のまま硬直している隅田を見下ろし、カサンドラが勝利の笑みを浮かべる。彼女はそのまま隅田を抑え込もうとぐっと前に身を乗り出す。

 

だが、隅田の巴投げはまだ終わっていなかった。

 

『かっこいいですよねぇ、姉さんの巴投げ。一度止まってもそこから更に投げ飛ばせるんですもん。今度取材された時に、“私の巴の花は二度咲くのよ”ってどや顔で言ってみたらどうですか?』

 

『絶対に嫌』

 

 

 

「――!?」

 

既に終わったと思っていたカサンドラの表情が凍り付いたように固まる。直後、そのカサンドラの身体が宙でくるりと回転する。その回転の支点となっているのは、カサンドラの腹部に添えられた隅田の足だった。

 

「――たぁぁっ!」

 

試合中も滅多に大声を出さない事で知られる隅田の裂帛の声と同時に、カサンドラの背中が畳につく。瞬間的にカサンドラが身体を捻った事で、ほんのわずか隅田の技が乱れた。

 

「――技有ぃっ! 合わせて一本!」

 

審判の宣告は技有だった。そのため、先に隅田がポイントを取っていた袖釣り込み腰と合わせて一本勝ち。

 

二階級上の相手選手に完璧な勝利を掴んだ事で、試合会場隅で彼女の試合を見守っていた仲間達が歓喜の声を上げる。

 

その様子を、巴投げを放った姿勢のまま横目で見つめていた隅田。

 

ねえ、道乃。あなたがオリンピックで一番楽しみにしていたのはこの光景だったよね。東京での雪辱を皆と一緒に果たすんだって、あんなに意気込んでいたのに、どうして……。

 

彼女の頭上で煌々と試合会場を照らしている照明。その光の中に求めている彼女がいるかのように、彼女は畳に背をつけたまま無意識にその手を宙に伸ばしていた。

 

 

 

その後も混合団体の日本は勝利を積み重ねていく。初戦のスペイン戦は結果的には隅田の勝利が決勝点となり僅差で勝利。次戦のセルビア戦では隅田に代わって綾部が出場し、4-1で勝利。準決勝戦では、欧州の強豪ドイツとの対戦だったが、5-0の圧勝で勝利した。

 

そして決勝戦。日本チームとフランスチームが固唾を飲んで見守る中、電光掲示板内に表示されたルーレットが回転している。序盤は隅田達女性陣の活躍もあってリードを奪っていたものの、徐々にフランスチームが巻き返し、先ほどはとうとう最終戦で男子100kg超級の犀藤がフランスの英雄リーネルに敗れ、ルーレットで選ばれた階級の選手同士の一騎打ちで決着のつく代表選に持ち込まれていた。

 

徐々にルーレットの回転が緩やかになっていく。女子57kg以下、男子73kg以下、女子70kg以下……と、男女それぞれの階級が中央の目に現れては消えていく。会場に詰め掛けた大観衆ばかりか日本で固唾を飲んで見守っている柔道ファンの視線が、その矢継ぎ早に変わって行くルーレットに釘付けになっていた。

 

そして、とうとうそのルーレットの目が止まった。無機質な電光掲示板に示されていたその階級は……。

 

途端に地元フランス故に観客席の大部分を占めていた大勢の観客から、歓喜の声が飛ぶ。逆に日の丸の旗が目立った観客席からは「ああ……」、という声にならない声が上がる。

 

代表戦に選ばれた階級は、つい今しがたフランスの英雄が日本のホープを降した男子100kg超級だったのだ。

 

フランスチームからは、既に勝利を確信したように笑みが広がり、代表選を戦うリーネルの肩を皆が叩く。日本チームは肩を落とした者、自身の階級でなく無念の表情を浮かべる者など様々な反応だったが、肝心の代表者に選ばれた男子100kg超級の犀藤の表情はと言えば、浮かない表情だった。

 

下を向く犀藤。この時彼の胸中にはいくつもの感情の糸が複雑に絡み合っていて、何を表に出して吠えればいいか、自身でも答えを出す事ができずにいた。

 

あの人だったらこんな時に取る行動は直ぐに想像できるのに……。ていうか、どうしてあの人が今ここにいないんだよ。混同団体の主将(リーダー)は当日に監督が公表するはずだったから憶測でしかないけれど、もしあの人にあんな事故が起きていなかったら、監督は年齢に関係なくあの人を指名したはずだ。あの人なら、日本チームを大いに盛り上げ、そして背中で日本チームを牽引してくれたはずだ。

 

神薙 道乃。2日前に早世した、自身の所属する大学の2年先輩。先輩は既に大学は卒業されていたけれど、体育会系クラブに所属した生徒にとって、上下関係は生涯不変だ。と言って、あの先輩が別に後輩いじめをしていたとかそんなわけでは無い。むしろ逆だ。

 

『ほら、(たつ)! そんな巻き方したら動きにくいでしょ? テーピングの巻き方はこうよっ!』

 

『ちょ、先輩、近い、近いっす! む、胸があたって……。もう少し離れて下さいっ!』

 

『あ、私のスポドリ無くなっちゃった。(たつ)、それ分けてよ! くー、生き返ったぁ!』

 

『ちょ、それ俺の飲みかけっ! だぁぁ! 先輩は自分のがあるでしょっ!? 纏わりつかないで下さいよっ!』

 

後輩に対する面倒見がよく、加えて、男女を問わず相手の懐にするっと入り込む持ち前の気さくさ。口さえ閉じていればミスキャンパスに選ばれても誰も驚かないルックスの、女子柔道部の主将にして絶対的エース。

 

それは52kg以下級の日本代表の椅子が常連となってからも変わらない。部のエースから日本のエースへと昇りつめ、2020年東京オリンピックでは個人戦で金メダル、混合団体ではチーム事情から一階級上のクラスで登録されたというのに出場した全ての試合で一本勝ちし、日本の銀メダル獲得に誰よりも貢献した尊敬する先輩。

 

あの先輩がいてくれたらきっと……。犀藤がそんな事を考えていると、突然五分刈りにそろえた彼の頭皮に懐かしい感触が……。

 

ジョリ、ジョリ……。

 

「――!? 誰っ……て、歌先輩……」

 

犀藤の五分刈りの頭に手を置いてさすっていたのは、彼が先ほどまで脳裏に描いていた女性と同い年であり、綾部兄妹の名で知られる兄妹の妹、綾部歌だった。

 

「どう、(たつ)君。道乃だと思った?」

 

その問いかけへの答えは、犀藤の顔を見れば明らかだった。狙い通り2歳下の男の子をからかう事に成功した綾部歌は「あはは」と笑いかける。

 

「道乃、しょっちゅう(たつ)君の頭撫でてたもんね。一日一回は撫でないとジンマシン出るって、言って。もう(たつ)君の頭を撫でられなくなって、今頃天国で地団駄踏んでるんじゃないかな」

 

その言葉に犀藤は自身の頭にポンと手を置く。そうだ、大学在学中は隙を見せたら練習中にも関わらず何度も頭を撫でられた。先輩が大学を卒業しても、大学に遊びに来た際には必ずと言っていい程撫でて帰って行った。

 

『……先輩、いい加減俺の頭を撫でるのやめてくれません? 後輩達が見てるんで、俺もばつが悪いんですが……』

 

『だーって、(たつ)の頭が一番丸っこくて撫で甲斐があるんだもん。良いじゃん、減るもんじゃあるまいし。なんだったら、お返しに私の胸揉んでみる?』

 

『是非って――、も、揉むわけないでしょう!? 先輩のファンからガチで刺されますよ、俺! ああ、もう、良いです! 好きにして下さいっ!』

 

かつて何度となく交わした先輩とのあの日を思い出した犀藤。同時に彼は、早世した彼の父が亡くなった直後の、彼女とのやり取りも思い出した。

 

1年前の世界選手権で行われた混合団体の決勝戦。決勝の相手は地元韓国。観客席では、病没した父の遺影を膝に置いた母が真剣な表情で見守っている。2勝2敗1引き分けで迎えた最終戦。ともすれば足が震えそうなほどの痺れる場面で犀藤の頭にポンと手が置かれる。いつもの先輩の気まぐれの所作。しかしその日は撫でるのではなく、ただ手が頭に置かれただけだった。

 

『……どうして動かさないんですか、先輩?』

 

『振り返んないの、(たつ)。ほら、目を瞑って。この手はあんたのお父さんの手。息子の大一番にお父さんが天国から降りてきて、力を注入しているんだから』

 

『……』

 

最後の大将戦を裁く審判が畳の上に上がってくるまでの30秒にも満たない短い時間。(たつ)は背後に立つ先輩の指示に従い、束の間目を瞑る。先に沈黙を破ったのはその先輩だった。

 

『……ごめんね、(たつ)。私の小さな手じゃ、あんたのお父さんの大きな手の代わりにはなれなかったね』

 

(たつ)の耳に届いたのは、不器用ながらも愛情深い先輩が発した小さな声。しかし、それに応えた声は腹の底から振り絞った大きなよく通る声だった。

 

『いえ、めちゃくちゃ大きかったっす! エネルギー充填120%っす! ありがとうございました、神薙先輩!』

 

それは犀藤の本心だった。父と並ぶ超一流の柔道家が、自分如きのために心を砕いてくれた。犀藤からすれば望外の喜び以外の何物でもなかった。

 

『……。そっか。うん、分かった。じゃあ、男になってきなさい、(たつ)!』

 

そして犀藤は、尊敬する先輩の逞しい手に背中を押されて、自身の戦場に向かったのだった。

 

 

 

「――双方の選手、前へ!」

 

審判がフランスチームと日本チームの方に順に視線を投げかけそう促す。フランスのリーネルが、陽気にチームメイトとハイタッチを交わしながら、余裕綽々の表情で開始線に向かう。

 

そして犀藤は……。

 

「綾部先輩。皆さん……」

 

6人制の混合団体。最年少の犀藤は背後の仲間達を振り返る。

 

「神薙パワーが注入されたんで、エネルギー充填120%っす! 男になってくるっす!

!」

 

その頼もしい言葉に、チーム最年少でありこれからの日本代表を背負って立つホープの精神状態を心配していた仲間達から、一様に笑みが零れる。

 

「甘いわよ、(たつ)君! 道乃のパワーが注入されたんなら充填500%よ! やりすぎないよう気をつけなさい!」

 

「そうかっ! 神薙のパワーが加わったんなら、リーネルなんて目じゃないな! かましてこい、(たつ)!」

 

(たつ)君、これで君が負けたら、絶対に道乃が夜な夜な枕元に現れてねちっこく説教してくるよ! 頑張って!」

 

「絶対に混合団体の金メダルを獲って、あいつの墓前で『良いだろうっ』て、自慢してやろうぜ!」

 

「日本に帰ったら、前みたいに井下先輩と野々村先輩に焼き肉をおごってもらおうね! 道乃が、私にも食べさせてーって現れるぐらい!」

 

(……先輩、もう俺の事は心配されなくても大丈夫です。だから先輩は、天国でも大好きな柔道を続けて下さい。ずっと戦いたかったと言っていた講道館四天王や平成の三四郎とか、先輩の相手として相応しい柔道家は天国にいっぱいいるんじゃないですか? もちろん親父も。本当はもっとこの目で先輩の柔道を見ていたかったですけど、きっと柔道の神様が古今東西の柔道家の中で誰が最強なのか知りたくなって、先輩を呼んだんですよ……)

 

静まり返ったシャン・ド・マルス・アリーナの会場。日本の若きエース犀藤は、そんな事を考えながら開始線に一人ゆっくりと向かって行った。

 

 

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