ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
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「さあ、もうすぐ女子の国別団体戦の一回戦が始まります。先ほど男子の方は見事な戦いぶりで二回戦に進出していますので、ここは女子にも期待したいですね、山上さん」
「そうですね。ただ、問題は人選ですね。何と言っても無差別級を制した猪熊柔が出場できませんからね。先鋒の48kg以下級の本阿弥、次鋒の52kg以下級の桐生はほぼ決まりだとしても、残り3人を柳澤監督はどう選出したのかが気になりますね」
「そうですね。あっと、今会場が歓声に包まれました。どうやら日本チームが会場に姿を現したようです。先鋒から順に並んでいるはずですが……。――! 山上さん! これは!?」
解説席から身を乗り出すようにしながら、会場入りした日本チームを確認するアナウンサーだったが、その並びを見て驚きに目を大きく見開く。それは山上も同じだった。彼もまた首を大きく伸ばして日本チームを覗き込んでいたが、日本チームの布陣に思わず低い唸り声を上げる。
「うーむ、先鋒が本阿弥というのは予想できましたが……、まさかまさかですね。これは柳澤監督も思い切った事をしましたね」
解説席の二人だけでは無い。会場入りした日本チームの布陣を確認した日本の応援団達から、一様に驚きの声が上がる。
まるで旗手を務めているかのように先頭で優雅に手を振るのは本阿弥さやか。つまりそれは彼女が先鋒を務める事を意味するのだが、彼女の後ろに続くのは5日前に52kg以下級を制した桐生茜では無かった。2人目は48kg以下級の控え選手 山口香。そして3人目は高辺、4人目は藤堂と続き、5人目の姿が見えない。いや、違った。藤堂の巨体に隠れて赤い髪が時折見え隠れする。
そう、5人目の選手は52kg以下級の桐生茜だった。そして柔道着姿の桐生達の後ろに、日本の白いナショナルジャージに身を包んだ猪熊柔が続く。桐生茜は歩きながら背後の猪熊柔を振り返り、何やら日本の報道陣の方を指差して茶化すような笑みを浮かべている。それに心持ち赤い顔で応える猪熊柔。
山上がそんな日本チームを見下ろしながら、感嘆の声を上げる。
「いやー、まさか桐生が大将を務めるとは思いませんでした。桐生はこれまで無差別級に出場した経験は無かったはずです。これは柳澤監督も思い切った采配をしてきましたね」
「大方の予想では、藤堂選手が無差別級の方に転向すると考えられていましたが、予想が外れましたね」
アナウンサーの言葉に山上はこくりと頷く。
「ええ、先ほども言いましたが、日本チームにとって盤石の布陣は先鋒 本阿弥、次鋒 桐生、そして大将 猪熊という布陣でした。3人共に自身の階級で銀メダル以上を獲得していますからね。よっぽどのことが無い限り3つの勝ち星が計算できます。しかし、猪熊の欠場によって状況が変わりました」
山上はそこで言葉を切り、日本チームの一回戦の対戦相手である中国に視線を投げかける。
「無差別級は各国のエース級が名を連ねる階級です。おそらく柳澤監督は先鋒、次鋒で2勝を挙げても、無差別級でひっくり返される可能性を危惧したのでしょう」
「なるほど。山上さんのおっしゃるとおり、中国は大将に、昨日の無差別級で惜しくもメダル獲得とはなりませんでしたが、中国勢としては唯一入賞したタオを当てています。しかし、そうなると大将を務める桐生の勝敗が何よりも重要となってきますね」
「そう言う事ですね。だから大将 桐生という柳澤監督のこの采配は、桐生と共に心中しても良いと言う程の覚悟を持った采配という事になりますよ。果たして、この采配が吉と出るか凶と出るか、その答えはもうすぐ出る事でしょう」
「そうですね。おっと、ここで解説席に資料が届きました。どうやら日本女子チームの主将はその桐生が務めるようですね」
解説席の上にそっと置かれた紙を手に取りアナウンサーがそう読み上げる。
「そうですか。男子の方は犀藤が務めていましたが、主将と言っても今日限りの暫定的なものに過ぎませんからね。差し当たって年長者である山口や藤堂が務めるだろうと思っていましたが、年少の桐生に任せましたか。ふふっ、ですが良いのではありませんか? 桐生は高校でも大学でもキャプテンを務めているようですし、彼女の性格ならぴったりだと思いますよ」
二人がそんなやり取りをしている間にも、日本チームと中国チームは試合会場である畳の上に上がり左右に整列する。付き添いの猪熊柔は畳の下で心配そうに日本チームを見つめている。
「さあ、驚きの布陣となったわけですが、犀藤さんはどのような試合展開を予想しますか?」
「そうですね。何はなくとも、まずは先鋒の本阿弥で一勝ですね。中国の先鋒は48kg以下級で入賞を逃しているワンですから、これは固いでしょう。次鋒の山口ですが、山口にとっては1階級上のクラスで出場するわけですが、山口には長い間52kg以下級で戦ってきた実績があります。彼女は中国の次鋒パオにも過去に勝った事がありますし、何とか引き分け以上を挙げてもらいたいです」
そして犀藤は中堅の高辺、副将の藤堂のどちらかで勝利を挙げて、大将戦の前に勝負を決めて欲しいと語る。
「桐生の力は私も十二分に理解はしているつもりです。ですが、どれほど強くても彼女はまだ18歳の高校を卒業したばかりの女性です。自身の本来の階級より3階級上の階級に挑戦し、その上最初の相手があのタオでは、いくら彼女でも荷が重いと言わざるを得ません」
「なるほど。さて、このソウルオリンピックで初めて開催される男女国別団体戦ですが、改めてルールの説明をさせていただきます。各チーム5人の総当りで対戦し、先に3勝を挙げたチームの勝利となります。白星は、一本でなくとも何らかのポイントを取っていれば得られ、両者ともにポイントが無かったり、同一ポイントであれば引き分けとなります。
そして、大将戦まで行い各チームの白星が並んだ場合は、厳正なるルーレットによって代表者を選定し代表戦に移行します。代表選では引き分けは存在せず、4分間の試合時間が経過しても勝敗がつかなかった場合は、判定により勝敗が決します」
アナウンサーの言葉を、山上がさも面白げに補足する。
「先ほど隣の会場で行われていたドイツ対韓国の試合で早速ルーレットが使われていましたね。まるでスロットのようでエンターテイメント性があって良いのでは無いでしょうか」
「先ほどこのルーレットが回転した際には、韓国の金メダリスト キム選手が出場する『先鋒』が選定されました。山上さん、韓国にとっては幸運な、ドイツにとっては不運な結果でしたね」
「ええ、まさにその通りですね。ですが、私はこういう時には運に任せるというのも嫌いではありませんよ。おっ、そろそろ始まりそうですね。先鋒の本阿弥だけを残して他の選手が畳の上から降りましたよ」
山上の言葉の通り、先陣を切る本阿弥以外の選手が畳の上から降りジャージ姿の猪熊柔の側に立つ。
日本女子チームにとって国の威信を背負った初めての団体戦が今、始まろうとしていた。
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仕方なく私は前方を見るのを諦め、左右にキョロキョロと視線を投げかける。すると、日本の報道陣の中に見知った顔の記者がいる事に気付き、背後を振り返る。
「柔ちゃん、柔ちゃん。ほら、あそこに松田さんがいるよ。手を振らなきゃ」
「――ふ、振りません! そんな事より、もうすぐ試合が始まるのよ。そろそろ集中しなきゃ、茜さん」
「大丈夫よぉ。もうすぐたって、私5人目だからまだまだ私の出番は先なんだから。私の事より、さやかの方を心配した方が良いんじゃないかな」
私の言葉に、「さやかさん……?」と、首を伸ばして日本チームの先頭を歩く本阿弥に視線をなげかける柔ちゃん。
「なーんか、さっきからさやかの顔が強張っているように見えるのよね。柔ちゃんはそう思わなかった?」
「……そうかしら? 控室の様子を見た限りではいつものように思えたけれど……」
ああ、確かにさやかは、控室ではいつもの高飛車な調子で「どうして私が大将ではないのですの!?」と、不平不満を口にしていた。私としては、監督が決めた事なんだからそんな事を言われても困ると言うしかない。まあ、よっぽど不満なようなら、布陣は試合ごとに変更できるんだから、監督に直訴すれば良いのよ。
ふむ、でもまあ、柔ちゃんの言うとおりさやかの平常運転と言えば平常運転か。どうやら私が気を回しすぎたのかもしれない。もしかして私も緊張しているのかな? 皆にとってはオリンピックという舞台で行われる初めての国別団体戦だけど、私にとっては2度目の経験だ。本当はパリ2024で東京に続く2度目の経験をするはずだったけれど、最終日に予定されていた団体戦を迎える前に、私は命を落としてしまった。
皆は東京での雪辱を果たせただろうか。今となっては知りようも無いけれど、もう私には信じる事しか出来ない。だから私は、私だけはこの世界で東京での借りを返すんだ! 絶対に!
「大丈夫、茜さん?」
突然口を閉ざした私を心配したのか、柔ちゃんが気づかわし気な顔で私を覗き込む。
「ああ、大丈夫、大丈夫」
問題ない。だって、これは緊張では無いから。武者震いだ。先導役のスタッフに促され試合会場予定の畳の手前で足を止めるさやか。柔ちゃんは今日はあくまでスタッフ枠として私達に同行している立場だから、一歩下がろうとする。そんな柔ちゃんに私は胸元から取り出した機械式の腕時計を手渡す。
「ごめん、柔ちゃん。これ、試合が終わるまで預かっててくれるかな」
「ああ、三上さんが言っていた腕時計ね。茜さん、個人戦でも試合の直前までずっと身に着けていたらしいわね。ふふ、誰から貰った腕時計なのか、今度聞かせてね」
柔ちゃんと言い、三上と言い、どうして女の子は人の恋話に目が無いのだろう? その方面に限っては防御が穴だらけの柔ちゃんに、私は反撃する。
「別に柔ちゃんが期待するような話じゃないんだけどね。私の事より、柔ちゃんこそどうなのよ? もう返事はしたの?」
「――へ、返事なんてッ!? ま、まだ今日は直接顔もあわせていないし……。ごにょごにょ……」
ふふふ、やっぱり柔ちゃんは可愛いなぁ。真っ赤になってもじもじする柔ちゃんの姿を見られて余は満足ぢゃ。
その後審判に促された私達は柔ちゃんを残し畳の上に上がった。一番右端の本阿弥さやかから順に整列して左端は私。対戦相手の中国は試合会場の畳を挟んで左端から並んでいるので、向かい合う選手同士が対戦相手という事になる。
畳を挟んで私と向かい合う中国の大将はタオ。身長は今大会出場選手中で最長かもしれない198㎝。体重は確か125kgだったか。私と比べたら身長では約40㎝、体重では70kg以上の差がある。
タオは、昨日は一回戦の相手が柔ちゃんで負けを喫したが、その後敗者復活戦を順当に勝ち上がった。そして3位決定戦では、準決勝でテレシコワに敗れたジョディと対戦し惜しくも敗れたのだが、柔ちゃんと言い、ジョディと言い、相手が悪かった感は否めない。(ちなみにジョディは、テレシコワとの準決勝で原作のような大怪我は負わず、4分間を戦いきった上で有効一つ及ばず敗北している)
ギロッと私を高所から睨みつけるタオ。良いね、早く私の番にならないかな。私はニヤッと笑みを浮かべてその鋭い視線を受け止める。
「――礼ッ!」
おっと。審判の合図で整列した私達は一斉に礼をする。そして私達は、さやかを残して柔ちゃんの待つ畳の下に降りていった。
さあ、いよいよ団体戦の始まりだ。5回勝てば優勝。先はまだまだ長い。がんばるぞぉっ!
「――始めっ!」の審判の合図でさやかとワンが組み合う。途端に揺れる日の丸の旗。観客席には個人戦の時以上の観客が詰めかけているのか、耳が割れんばかりの歓声が飛ぶ。
右組手のさやかに対して、ワンは左組手。畳の中央で激しい組み手争いが始まるが、先に良い所を取ったのはワンだ。さやかもワンに遅れて引き手と釣り手を取ったが、良い所を取れなかったのか、どこか窮屈そうだ。
組手有利なワンがさやかを左右に引きまわす。軽量級同士の戦いらしく、小刻みに左右に動きながら足が飛び交う。
「……さやかさん?」
私の隣で柔ちゃんが首を傾げる。ああ、悪い予感が当たったか。
「……まずいね。さやかの動きが鈍い。あの子、柄にもなく緊張してるわね」
「緊張……? でも、さやかさんは個人戦でも緊張した様子は見られなかったし、それに……」
「……それに、柔道に限らず国際試合の経験は豊富のはずだって?」
私の言葉に、柔ちゃんはこくりと頷く。まあ、確かに柔ちゃんの言う通りだ。数日前の48kg以下級では、彼女は緊張した様子は一切見せなかったし、彼女は柔道を始める前にはテニスを始めとした国際色豊かなスポーツで頂点を取っていたはず。オリンピックという大舞台ではあるが、今更彼女が緊張するなどと思いもしなかっただろう。
だけど、一つだけ柔ちゃんは思い違いをしている。これまで彼女が頂点を取ってきたスポーツや先日の48kg以下級とは、今日の試合はある一点に置いて明らかに異なっているという事を。
「違うよ、柔ちゃん。今日の試合はこれまでと違う。分からない?」
「え……?」と、硬直した試合を続けるさやかに視線を固定していた柔ちゃんが、私を振り返る。そのまましばし私の顔を見つめていた彼女だが、ふいに「あっ……!」と声を上げた。
「気づいた? そう、今日の試合は、さやかがこれまでやってきた個人競技のスポーツじゃない。今日の試合は、団体競技よ。それが大きな違い」
そう、団体競技なのだ。一試合一試合は個人競技だが、その個人競技で積み重ねた勝ち星の多いチームが勝利するれっきとした団体競技。そして私は、この団体競技特有の呪縛が、個人競技では世界を圧倒できる日本柔道陣が団体競技になった途端、他国の後塵を拝する一因だと思っている。
おそらくそれは、個より組織を重んじる日本人のDNAに刻まれた呪縛。そしてその呪縛に、国家の威信という異なる呪縛が重なった時、『オリンピックの魔物』が目を覚ます。
「しかし、まさかあのさやかまで呪縛に捉われるとは……ね。これだからオリンピックは怖い」
その後、普通にやれば十中八九勝てるワン相手に、さやかはかろうじて負けはしなかったものの、引き分けで終わる。さやかで一勝を想定していた柳澤監督の戦略は初っ端から崩れた事になる。
続く次鋒。ここで国際大会での経験が豊富な山口かおるが意地を見せる。現在の彼女の階級の1階級上とは言え、長年主戦場にしていた52kg以下級。開始3分過ぎ、出足払いで技ありを奪い、そのままタイムアップを迎える。これで日本は1勝1引き分け。
更に中堅の高辺。今回の日本女子チームの中で最年少の高校3年生。しかし、この日に限ってはその若さが裏目に出た。不用意に仕掛けた技を返され、そのまま対戦相手に関節技を仕掛けられ無念のギブアップ。痛めた右ひじを抑えながら畳を降りた高辺は、涙を零しながら私達に謝罪する。これで1勝1敗1引き分けのイーブンとなった。
そして副将戦。72kg以下級ベスト8の藤堂と、同じくベスト8のクァシン。共にベスト8同士の二人ながら、実力は明らかに藤堂が上。しかしその藤堂も、初めての団体競技ゆえの緊張からか、さやかや高辺と同様にいつもの力が発揮できない。終始藤堂が押し気味ではあったが、最後の詰めがどうしても決め切れずそのままタイムアップ。
結果、副将戦まで終えてスコアは、1勝1敗2引き分け。勝敗の行方は、大将戦の結果次第と言う事になってしまった。……いや、なってくれた。
「はぁっ、はぁっ! ……すまない、桐生。せめてあんたに、引き分けで十分なようにしようと思ったんだけど」
荒い息を吐きながら戻ってきた藤堂がそう私に頭を下げる。引き分け? ああ、藤堂が勝っていたら、私は引き分けるだけで日本の勝利だったからか。私は、うなだれる藤堂に「お疲れ、藤堂さん!」と声をかけ前を向く。
ふふ、藤堂さん、どのみち私の取る柔道に引き分けの文字は無いんだから、そんな配慮は必要ないよ。
「茜さん……」と心配そうに私を見つめる柔ちゃん、そして先に戦った4人の視線を頬に感じながら、私はその頬を勢いよく両手でパン、パンと叩く。審判が5人目の選手に畳の上に上がるよう促す。
「――皆の衆、後は私に任せなさいっ!」
私は肩越しに背後を振り返りそう声を張り上げた後、ゆっくりと開始線に向かって足を進めた。
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「さあ、いよいよ大将戦が始まります。山上さん、全くイーブンで迎えたこの初戦の大将戦。日本は……、桐生選手はどのような試合をするべきですか?」
「いやー、苦しいですね。せめて勝ち越してこの大将戦を迎えたかったですね。よりによって、相手は中国のエース タオですよ。昨日猪熊とタオが戦った時とほとんど同じ状況ですよ。ご覧ください、あの体格差! いくら無差別級とは言え、これはあまりと言えばあまりな体格差です」
いざ二人が開始線に並ぶとその体格差が否が応でも分かろうと言うものだった。頭二つ分、いや、三つ分ほどの差はあるだろうか。まるで大人と子供のようなその体格差に、
「日本としては、桐生にどうにか引き分けて貰って、代表選に持ち込みたいですね。そして後は、山口か藤堂、あるいは本阿弥のクラスが選出される事を祈るばかりです。本阿弥も先ほどは十分に実力を発揮できませんでしたが、本来の地力は相手より上ですから」
「しかし山上さん。引き分けると言ってもあの体格差ですよ。捕まってしまったら一巻の終わりでは無いですか?」
「ええ、ですが桐生も52kg以下級の金メダリストです。軽量級の軽さを存分に生かして、左右に素早く動く事でタオの攻撃をいなす事は求めても良いでしょう。いずれにしても、タオと正面から組み合ってはいけません。一気にもって行かれますよ」
「おっと、今主審の始めの合図がありました。――! 桐生選手、開始の合図と共に前に出ます!」
「――いけませんっ! タオは桐生の奥襟を狙っていますよ!」
その言葉通り、タオは真正面から向かってきた桐生に対して奥襟に手を伸ばす。通常選手は、奥襟を取られまいと身体を起こすか、手で払いのけるかするのだが、これほどの体格差では無意味。
一瞬でタオの太い左手が桐生の奥襟を掴んだ。そのまま押し込み、無差別級でもテレシコワ、ロックウェルと並び3本の指に入ると言われるその怪力で桐生の身体を浮かしにかかるタオ。
「タオ充分! 桐生選手あぶなーい! ――!?」
「―あっ!!」
その巨体で桐生を押し込もうとしていたタオの前から、肝心の桐生が消える。いや、消えてはいない。次の瞬間桐生の姿が畳の上に現れる。ただし、今度はタオの姿は畳の上に無い。彼女の身体があったのは、上空。彼女は桐生を支点に、逆さまの状態で弧を描く様に宙を舞っていた。
ズドーーーン!!
まるで大砲が放たれたかのような凄まじい音が
誰も声を上げられない。今しがた桐生に投げられたタオはもちろん、試合を裁く審判すら、畳に茫然と横たわるタオとそのタオの身体の上をまるで投球後のフォロースルーのように前転する桐生を凝視したままだ。
――バリン、ボリンッ!
水を打ったような静けさに包まれた会場のいずこかで、何か硬い物、例えるならせんべいのような硬いものをバリボリとかみ砕く音が、
「――! あ……、あ……、い、一本!」
その音で我に返ったのか身体を硬直させていた主審の手が上がり、一本を宣告する。途端に爆発するかのような大声援。まるで昨日の個人戦 無差別級の衝撃が蘇ったように、
「いやー、これは驚きましたね。まるで昨日の猪熊選手の試合を見ているかのようでした。あれは桐生選手の得意技 袖釣り込み腰ですか、山上さん?」
「ええ、袖釣り込み腰ですね。タオが奥襟に向かって伸ばした手を見事なタイミングで吊り上げましたね。その後の懐に入るタイミング、腰の使い方、どれをとっても完璧です。いやー、素晴らしい。昨日に続き、まさに『柔良く剛を制す』の神髄を見せて貰いましたね」
山上が首を振りながら感嘆の言葉を発する。その桐生は今、畳の上で対戦相手のタオと軽く抱擁しチームメイトの元へ戻るところだった。ジャージ姿の猪熊柔が笑顔でタオルを手渡し、藤堂、高辺、山口と言った面々が桐生を囲む。本阿弥はその様子を面白くも無さそうな表情で見つめていた。
「しかし、猪熊選手の不在を感じさせない桐生選手の存在感でした。日本は桐生選手に救われました」
「そうですね。加えて、団体戦とは言え、無差別級は未知数だった桐生を大将に据えた柳澤監督の先見の明も素晴らしかったですね。もしかすると猪熊先生の推薦もあったのかも――」
「――ふんっ、儂は推薦などしておらんわ」
山上の言葉を遮り隣の椅子に腰を降ろしたのは猪熊滋悟郎。彼は山上に「喰うか?」と手に持ったせんべい袋を差し出しながら勝利に沸き立つ日本チームの面々を見下ろす。
差し出されたせんべいを丁寧に遠慮し、「……推薦はされなかったのですか?」と怪訝な表情を猪熊滋悟郎に向ける山上。
「……しておらん。他に桐生以上の適任がおらんかったのじゃから、あ奴が選ばれただけぢゃ」
「なるほど。しかし、桐生選手は見事に期待に応えてくれましたね。これで日本は男子に続き、女子も2回戦進出が決定しました。女子の方の次戦は、先ほどドイツとの代表選を制した韓国が相手ですね。山上さん、次戦の韓国、そして気は早いかもしれませんが日本女子に立ちはだかる可能性のある国はどこになりそうでしょうか?」
「はい、韓国は何と言っても48kg以下級の金メダリスト キムが注目の選手ですね。おそらく先鋒でぶつかる本阿弥との試合結果がその後の展開に大きく影響するでしょう。本阿弥は、個人戦でキムに敗れていますから、是非雪辱を期待したいですね」
「ふん、一回戦のような試合をしておっては確実に負けるの、あのお嬢さんは」
歯に着せぬ物言いをする猪熊滋悟郎に、アナウンサーは「は、ははは……」と引きつった笑みを浮かべる。山上も次の話題に行った方がよさそうだと判断し、更に続ける。
「今大会、日本チームにとって最大の壁となりそうなのは、やはりカナダとソビエトでしょう。カナダは48kg以下級銅メダリストのナディア、72kg以下級金メダリストのクリスティン、そして無差別級銅メダリストの“不沈艦”ロックウェルと、3人のメダリストを擁しています。この勝ち星の計算できる3人がいるのは大きいですよ。
そしてソビエト。ソビエトには、52kg以下級銀メダリストのフルシチョワ、そして昨日猪熊と激闘を繰り広げた無差別級 銀メダリストのテレシコワ。残り3人もそれぞれ実力者ぞろいです。ソビエトも油断できませんよ」
「なるほど。しかし、こうして他国に目をやると、無差別級に軽中量級の選手を当てているのは日本くらいのように見えますね」
「日本は今どうしても、軽量から中量級の間に目立った選手が台頭してきていますからね。本阿弥しかり、猪熊しかり、桐生しかりと言ったように。本来無差別級は体重に関係なく強い選手が代表者となるべきで、そう言う意味では日本は昨日の猪熊、今日の桐生と実に日本らしい選手起用が出来ていると思いますよ。次戦も是非期待したいですね」
そして数十分後。日本は二回戦で地元韓国との試合を迎えるのだった。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :18さい
れべる :33
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :96
すばやさ :217
たいりょく:156
かしこさ :203
わざ :224
こうげき力:253
しゅび力 :230
E じゅうどうぎ
【タオ・リーハイ ステータス】
なまえ :たお りーはい
せいべつ :おんな
ねんれい :26さい
れべる :26
くらす :じょしむさべつきゅう
ちから :201
すばやさ :128
たいりょく:181
かしこさ :146
わざ :144
こうげき力:198
しゅび力 :187
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