ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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57話 男女国別団体戦 2回戦

~~~~奨忠(チャンチュン)体育館 ソウル五輪 柔道種目最終日~~~~

 

審判に促され、畳を挟んだ反対側に整列して立つ韓国代表と私達が互いに礼をする。そして1回戦同様に先鋒の本阿弥さやかを残して畳を降りようとする藤堂達。

 

「ちょっと待って、皆。円陣を組みましょう」

 

私の突然の声掛けに、不審げな表情で振り返る藤堂。

 

「円陣……? 部活じゃないんだ。そんな事をして何の意味が――」

 

「良いじゃない、藤堂。やりましょうよ。円陣なんて久しぶりで私はやってみたいわ。三上もやるでしょう?」

 

次鋒の山口が、乗り気でなかった副将 藤堂と、今にも吐きそうな表情の中堅 三上にも声をかける。三上は、1回戦で肘を負傷した高辺の代わりに入っているのだが、本人は完全に団体戦は物見遊山気分でいたようで、見ていてかわいそうになるほど緊張している。

 

『監督、どうして私が高辺さんの代わりなんですか!? 同じ72kg以下級の水口さんは!?』

 

『水口は、昨日の練習の最中に右足の筋を痛めているんだ。諦めろ、72kg以下級はもう人がいないんだ! お前か桐生のどちらかが出るしかないんだから、仕方ないだろう!』

 

『――そんなぁっっ! 私なんかじゃ無理ですよぉー! 桐生さん、中堅と大将の両方に出てよぉ!!』

 

『出れるわけないでしょ! 三上さん、そんなに中堅が嫌なら、大将になってみる?』

 

『――どっちも嫌だぁっ!』

 

とまあ、こんな風なやり取りが1回戦を終えた後の控室であったんだけど、ここまで来たらもう三上にも腹をくくってもらわなければいけない。

 

「ほら、さやか。時間が無いんだから、あんたも早く集まりなさい!」

 

「ちょっ! な、何を馴れ馴れしく……!」

 

私は強引に本阿弥の首に右手を回し、輪の中に招き入れる。皆がそれぞれ左右にいる人間の首に手を回して小さな輪が完成する。

 

「たく、あんたが主将に指名されてなかったらこんな事には従わなかったんだけどね。それで、言いたい事があるんだろ。早く言いなよ」

 

そうね、主審と線審の話し合いが終わればすぐに先鋒戦が始まるからあまり時間が無い。やっぱり第一声はこれかな。

 

「いい、皆!? 私達の柔道部物語はここから始まるのよ!」

 

「……部じゃないだろう。桐生、あんた頭でも打ったのかい?」

「1回戦は終わっているのに、ここから始まるっておかしくない?」

「……ずっと始まらないで欲しいんですけど」

「耳元でキンキンと大声を出さないで下さいませ……!」

 

藤堂、山口、三上、そして本阿弥。彼女達の反応が何故か塩対応だ。いけない、この世界にあの名作漫画『柔道部物語』は存在していないんだから、この名セリフに感銘を覚えてくれる人はいないんだ。それでも、小さくないショックを受けた私は気持ちを切り替え、言葉を続ける。

 

「どう、皆。国の威信を背負った団体戦は、個人戦とは全然違うでしょ? 藤堂さん、山口さん、さやか、1回戦はどうだった?」

 

「ふんっ。まあ、いつもより背中に伸し掛かる物が重かった気はしたわね……」

 

「同感。無心でやろうやろうと、思えば思うほど無心でいられなくなったわ」

 

「何を言っているのかしら、この赤毛猿は。私はいつも通りでしたわ」

 

1回戦で一番動きの鈍かったさやかがそう強がりを言うものだから、私はニヤッと笑みを浮かべて彼女を揶揄する。

 

「いつも通り? それじゃあ、さやかのいつもの力はオリンピックの初戦負けレベルの選手と同じという事で良いの?」

 

「――何ですって!?」

 

「怒っても無駄よ、さやか。あなたの動きが硬かったのは、隠しようのない事実なんだから。だいたい、あなたらしくないのよ。1回戦は柄にもなく日本国民のために、なんて考えたりしちゃった? 違うでしょう? あなたなら、日本国民のために尽くすんじゃなくて、日本国民が私のために尽くすべき、って考えるべきでしょう?」

 

「――!」

 

私の言葉に大きく目を見開くさやか。そんなさやかから視線を剥がし、私は全員に対して口を開く。

 

「どうせ私は今日だけの形式上の主将だし、大ベテランを差し置いて悟りを開くような事はこれ以上言わないわ。でも、一つだけ。皆、あっちを見て」

 

そう断って私は、(何を話しているのかしら)と、畳の下できょとんとした顔でこちらを見つめている柔ちゃんに視線を投げかける。皆も私の視線に釣られて彼女に顔を向ける。

 

「今日の団体戦に猪熊柔は出場しないわよ。その状態で私達がふがいない試合をしたら、明日の紙面でなんて書かれると思う?」

 

「「「「――!」」」」

 

皆の顔色が変わった。

 

「そうよ。きっとこう書かれるでしょうね。『猪熊柔不在のために、日本敗れる!』ってね。もしかしたら、『やはり猪熊柔の不在は大きかった!』かしら? さて、皆はそんな風に書かれても平気なのかしら?」

 

闘争心少なめの三上だけ「私は別に……」と呟くのを「シャラップです、三上さん」と口を閉ざさせるが、残る闘争心過多な3人はギラっと怖い目つきで柔ちゃんを睨みつける。

 

「――冗談じゃありませんわっ!」

「――ふざけるんじゃないよっ!」

「確かに良い気分はしないわね……」

 

突然そんな殺気めいた視線を彼女達に投げかけられ、柔ちゃんはびくっと怯える素振りをする。ごめんね、柔ちゃん。ちょっと皆に喝を入れるだしに使わせてもらったわ。

 

「……だよね? ふふふ、皆もいったん国の威信だとか、国家のためにだとか、とかそういう重たくて似合わないものを背負うのをやめましょう。

今はただ、柔ちゃんの引き立て役になって終わるというそんな不愉快な未来が訪れないように、がむしゃらに頑張りましょう! それじゃ、一体感を出すために最後に――」

 

「はあっ!? 何だい、それは!?」

 

「……本気なの?」

 

「絶対に嫌ですわっ!」

 

「桐生さん、秋田ではいつもそんな事をやってたんだ……」

 

それぞれが三者三様の反応を示すが、私はここぞとばかりに“主将”特権を使って皆にそれを強制させる。視界の端に主審との細かな打ち合わせを終えた線審二人が、それぞれ所定の場所に移動し始めたのが見える。

 

よしっ、それじゃあ始めよう! 私は、左右に回した両腕にぐっと力を込め、奨忠(チャンチュン)体育館中に響けとばかりに声を張り上げた。

 

 

 

 

 

「おや、山上さん。礼を終えた後、日本チームが何やら円陣を組みましたよ。野球などではよく見られる光景ですが、柔道では珍しいですね」

 

「そうですね。でも、良いんじゃないですか。日本らしくチームワークで勝ち上がって行って欲しいですね」

 

アナウンサーと山上が見つめる前で、円陣を組む事を主導していた桐生が声を張り上げるた。

 

「さあ、やるわよ、皆! ――目指せ、全勝!!」

 

「「「「――ザスッ!」」」」

 

桐生の掛け声になかばやけくそ気味に応えた彼女達は、本阿弥さやかだけを残し畳の上から降りていく。

 

 

 

「――始めっ!」

 

主審の合図と同時にキムが本阿弥に向かう。その迷いの無い踏み込みからは、一度本阿弥に勝っているため負けるはずが無い、と言うキムの自信が透けて見える。当然本阿弥がそれに気付かないはずが無い。

 

生意気ですわっ!

 

本阿弥も負けじと前に出て、互いにがっしりと組み合う。

 

キムは本阿弥と組み合った直後、軽量級らしい軽快な動きで彼女の身体を左右に振る。そうやって激しく動く事で、相手の足運びに隙を作るのは、キムの常とう手段。だが本阿弥もまた、軽やかな動きで彼女の横の揺さぶりについていっている。

 

「本阿弥選手の動きはどうですか、山上さん?」

 

「ええ、悪くないですよ。1回戦は、本来の彼女の動きとは程遠い出来でしたからね。これが本来の彼女の動きですよ」

 

山上の言葉の通り、本阿弥の動きは一回戦とは雲泥の差だった。キムの動きについて行っているどころか、次第にそのキムのスピードすらも凌駕する動きを見せ始めた本阿弥は、逆にキムを左右に振り回すほどにまでなる。

 

「そう言えば、先ほど円陣を組んだ時に桐生が本阿弥に何かを口にしていたようでしたが、それが影響しているのかもしれませんね」

 

山上の言葉は当たっていた。あの時桐生が本阿弥に投げかけた言葉は、まさに今この時彼女の脳裏の大半を占めていた。

 

『……だいたい、あなたらしくないのよ。1回戦は柄にもなく日本国民のために、なんて考えたりしちゃった? 違うでしょう? あなたなら、日本国民のために尽くすんじゃなくて、日本国民が私のために尽くすべき、って考えるべきでしょう?』

 

本阿弥は内心で毒づく。どうしてこんな時に、あの赤毛猿の言葉が思い起こされるのよっ! ええいっ、腹立たしい! ……と。

 

本阿弥は決して認めないだろうが、それは桐生の言葉がまさに正鵠を射ていたからこその腹立たしさだった。

 

互いに技をかけ合う激しい組合の最中、本阿弥の視界に左右に激しく振られる日の丸の国旗が映り、同時に彼女を、いや、日本を応援する声が彼女の耳朶に届く。息もつかせぬ攻防が次第に本阿弥の体力を奪っていくが、何故か逆に彼女の口角は上がっていく。

 

私が日本国民のために……? 冗談じゃありませんわ。そうよ、それで良いの。あなた方は私を讃えなさい。それが本来あるべき姿なのよ。

 

それはまさに女王の微笑だった。本阿弥の微笑とは対照的に、キムが眉間に皺を寄せ迷う様な素振りを取る。

 

――こいつっ! 以前とは動きが別人のようだ!

 

「――はあっ!」

 

「――!? くはっ!」

 

キムが一歩足を踏みだしたタイミングで、ここぞとばかりに支え釣り込み足をかける本阿弥。本阿弥が引っかける様に出した足にバランスを崩し、キムの背が畳につく。

 

「――技有ぃ!」

 

ようやく試合が動いた審判のその宣告に、奨忠(チャンチュン)体育館の観客席から歓声と悲鳴が上がる。奇しくもその技は、個人戦で本阿弥がキムに仕掛けられ技有のポイントを取られた技だった。

 

「――くっ!」

 

畳に背を付いたキムは本阿弥の追撃から逃れようと身体を起こそうとする。

 

「――逃がすなっ、さやか!」

 

「――分かってますわ!」

 

本阿弥は桐生の激に苛立たし気に応えながら、キムに対して寝技を仕掛ける。しかし、直ぐに身体を丸めて亀のように身を固めたキムを攻めあぐねる本阿弥。

 

「さやかっ、キムの頭に回って! 片手でキムの裾を持って、反対の手は帯を持つ!」

 

「――! 何を偉そうに!」

 

そう毒づきながらも本阿弥は桐生の声に従い行動する。

 

「そう! 持ったら相手の両脇に足を突っ込む! そのまま後ろに体重をかけてひっくり返せ!」

 

――何っ! 何だこの仕掛けは!?

 

いとも簡単に堅牢なカメを崩され、キムが驚愕の声を上げる。

 

「――抑え込みっ!」

 

形としては変形の縦四方固め。電光掲示板に抑え込み時間が表示され始める。既に技有を取っているため25秒で一本勝ちだ。

 

「本阿弥さん、後15秒よっ!」

 

「場外は気にしなくていい! そのまま離すんじゃないよっ!」

 

三上と山口が場所と経過時間を確認する余裕の無い本阿弥に声をかける。もちろんキムも本阿弥の拘束から逃れようと激しく動くが、仰向けにひっくり返された際に完璧に首を本阿弥の両手で極められており満足に動かす事が出来ないでいる。桐生による口頭での指示出しではそこまで細かく伝えられていなかったはずだが、それは本阿弥の寝技の勘所を掴む力が突出していたからかもしれない。

 

「……さすが将来の寝技のスペシャリスト 本阿弥さやかね。あそこまで決まったら、もう抜けられないわよ」

 

「茜さん、さやかさんがあんなに寝技が得意なのを知ってたの?」

 

抑え込みが既に逃れようもない程極まっている事をその高い寝技技術ゆえに理解している桐生が発した呟きを、隣の猪熊柔が拾う。

 

「まあね。だってさやかって、蛇みたいにねちっこい性格しているじゃない? だからきっとさやかは、立ち技より寝技の方が向いているって思ってたのよ」

 

「ねちっこいって……、さやかさんに聞こえたら大変な事になるわよ、茜さん」

 

二人がそんな会話を交わしている間に25秒が経過する。審判が電光掲示板の時間を確認し「――技有っ! 合わせて一本!」と本阿弥の勝利を宣言した。

 

 

女子国別団体戦 2回戦。日本対韓国の先鋒戦は、こうして本阿弥さやかが日本に先勝をもたらしたのだった。

 

 

 

続く次鋒戦。日本の代表は山口かおる。対する韓国の次鋒はパク。韓国チームのエースであり金メダリストのキムで先鋒戦の必勝を期していた韓国は、その先鋒戦を落としてしまった事で次鋒戦にかけざるを得なくなる。

 

52kg以下級で入賞した新進気鋭のパクの鬼気迫った攻めを、山口はベテランらしい円熟の試合運びで受け流す。それは、1回戦に引き続き48kg以下級の山口を次鋒戦に起用した監督の期待通りの試合運びだった。そして山口は4分間目いっぱい戦い、勝ちに等しい引き分けを勝ち取る事に成功する。

 

これで次鋒戦を終えて日本は韓国に対して1勝1引き分け。勝敗の行方は中堅の三上に委ねられた。

 

 

 

畳から降りた山口をハイタッチで迎える藤堂。本阿弥の「私ほどではありませんが、上出来でしたわよ」という上から目線の言葉に苦笑いを浮かべる山口。そして彼女は、猪熊柔に「お疲れさまでした」の言葉と共に手渡されたタオルを受け取りながら、青い顔をした選手に声をかける。

 

「三上、次はあなたの番よ。頑張って」

 

「そうよ、三上さん。三上さんの足技は天下一品なんだから、自信を持って!」

 

山口と桐生に激を飛ばされた三上の顔色は変わらない。彼女は今にも泣き出しそうな表情で二人に応える。

 

「山口さん、桐生さん。でも、相手の選手あんなに大きいんですよ。私じゃ、無理ですよぉ」

 

「三上さん、ご両親も応援に来てくださっているわ。頑張ろう?」と猪熊柔がリラックスさせようと続くと、副将の藤堂もだみ声を上げる。

 

「何を怖気づいてるんだい、三上。相手が大きいって言ったって私ほどじゃないんだ。ほら、審判が呼んでるよ。さっさと行きな」

 

「そうですわ、三上さん。相手がこの藤堂さんだと思えば良いんですわ。そう思えば楽に勝てる気がしてきませんこと?」

 

「――何だって! 本阿弥、あんた今なんて言った!?」

 

思わぬ形で先鋒と副将の場外乱闘が始まろうとしていた日本チームを後に、顔色の悪い三上は畳の上に上がって行ったのだった。

 

 

 

「さあ、山上さん。いよいよ中堅戦ですね。しかし団体戦では1階級上のクラスに出場する事が可能とは言え、この中堅戦はまるで無差別級のような体格差ですね」

 

「ええ。次鋒戦では48kg以下級の山口が52kg以下級に出場しましたが、その際の体重差は4kg。それが中堅戦では72kg以下級に52kg以下級の三上が出場するのですから、最大20kg差という事になります。おっしゃられる通り、三上にとっては無差別級に出場するようなものでしょうね」

 

山上の言葉通り、開始線に立つ二人の体格差は明白だった。さらに加えて韓国の中堅は、準々決勝でカナダのクリスティンに敗れたものの、長年韓国柔道界を支えて来たと言って良いジウ。

対して三上は、これまで52kg以下級の正選手である桐生の陰に隠れていて、これがオリンピック初出場。これまでの両者の実績には雲泥の差があった。

 

「本来の72kg以下級の選手が怪我で不在となり、52kg以下級の三上選手が緊急当番した形ですが、柳澤監督としては桐生選手をここに当てるという考えは無かったのでしょうか?」

 

「いや、大将の桐生は動かせませんよ。彼女は文字通りの日本女子チームの大黒柱ですし、エースです。各国のエース級が揃う大将戦をあえて捨てる選択をする国も見受けられますが、日本にそれは許されません。柔道発祥の国である日本が、大将に最も強い選手を当てずに、発祥などと語れませんからね。だからこそ男子は犀藤を、女子は桐生を当てているんです。それに、私は中堅 三上が決して消去法で選ばれた選手だとは思っていません」

 

「ほう、それは……?」

 

「彼女は確かに国際戦の経験は足りていませんが、今年に入ってからの伸びが目覚しい選手です。その伸び率は日本選手の中で随一かもしれません。日本の観客席に、彼女の名前を冠した和菓子屋の旗が翻っています。きっと彼女の出場があるかもしれないという事を願って、日本からご両親が応援に来てくれているはずです。三上には、ご両親に恥じない戦いをして欲しいですね」

 

 

そして、山上の解説が終わると同時に中堅戦が始まった。

 

 

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side 三上杏

 

「――おうっ!」

 

「――ひいっ!」

 

一敗一引き分けと、未だ勝ち星の無い韓国に初めての勝ち星をつけようと気が急いているのだろう。私の対戦相手のジウが目を血走らせて向かって来る。ほとんど開始線から動かずにジウに組み付かれる私。

 

地元韓国を応援する大声援にかき消されがちだけど、私を応援する声が微かに耳朶に届く。父さん、母さんはもちろん、家族のような付き合いをしている“三上餡本舗 三日月”の従業員の皆がはるばるソウルまで来てくれている。押しも押されぬ日本のエースである桐生さんの控え選手に過ぎない私に出番の可能性なんてほとんど無かったのに、それでもほんの少しの可能性を信じて……。

 

せめて、父さん、母さんに誇ってもらえるような試合がしたい。だけど……!

 

「――ふんっ!」

 

「――!」

 

ジウが体格差を生かして私を左右に振る。20kg以上の体格差の前では、私がこれまで培った技術や経験は何の意味も持たない。無差別級の意義は分かるけれど、『柔良く剛を制す』を体現できる選手は限られた才能の持ち主だけ。それこそ、桐生さんや猪熊さんのような一握りの選手だけだ。天地がひっくり返っても、その一握りの選手に私が割り込む事は無い。

 

これがせめて慣れ親しんだ52kg以下級だったなら……! 今更そんな埒も無い事を考えていると、背後から「三上さん、正面に回っちゃ駄目! 横に動いて!」の声が飛ぶ。桐生さんだ。

 

……桐生さん。私より年下なのに、私と同階級なのに、本来無差別級を務めるはずだった

猪熊さんが欠場し、急遽無差別級に出場する事になった。猪熊さんを例外として、無差別級に出場する選手の体格は72kg以下級とは比較にならない。150kgを超えている選手だって、ざらにいる。

 

そんな事を考えていると、ふつふつと胸の内に闘志が芽生えてくる。そうだ、少しでも桐生さんの負担を減らしてあげよう。20kg差がなんだ! 桐生さんは、自分の体重より100kg以上離れた選手と渡り合わないといけないのよ!

 

ジウから見て左に回った私を正面に引き戻すため、私の襟を取った右手に力が込められる。同時に、彼女の左足に体重が乗る。それを見て取った私は、そのジウの左足くるぶしにそっと右足を外から添える。決して刈らない。私の足技は猪熊さんのような切れ味抜群の足技では無く、フルシチョワさんのような重たい足技でもない。もちろん桐生さんのような何でもできる変幻自在の足技でもない。

 

ただ、粘り強いだけ……!

 

左足に添えられた私の足を嫌い、ジウが足を浮かせて私の右足から逃れようとする。でも逃れられない。私の足はジウの左足くるぶしに吸い付く様にくっついたまま、どこまでも逃げるジウの足を追う。ジウの関心が足に向けられている間に、私はジウの柔道着の襟を取っている引手を引く。もちろん引く先は、左足が宙に浮いていて不安定なジウの左方向に。

 

体重の重さが災いしたのだろう。ジウの身体がぐらっと泳いだ直後、その身体が畳に向かって崩れ落ちる。

 

「――有効っ!」

 

ジウの背を完全に畳に付ける事は出来なかった。せいぜい身体の側面がついただけ。分かっている。私の足技では、まず一本を取る事は出来ない。審判が有効を宣告し、ジウは寝技を警戒して身体を丸めた。でも、脇を締めきれていない。あの脇に手を突っ込み、ひっくり返せるかもしれない。

 

だけど私は、それが誘いだと気づいている。ジウはわざと脇を締めずに隙を見せているだけ。私を寝技に誘導するために。その狙いに気づいていた私は、彼女に寝技勝負を仕掛けるような愚は犯さない。これが桐生さんだったなら、付いて行ったら何が出るかな、とほくそ笑みながらほいほいと飛び込みそうだけれど、私は彼女と違って常識人なのだ。

 

私が寝技を仕掛けそうにないのを見て審判が待てを宣告する。どこか残念そうにジウが立ち上がり、私達は互いに開始線に戻る。

 

そして試合が再開された。ジウは私の足技を警戒してか、積極的に踏み込まなくなってきた。その代わりに私の奥襟を取り、じわじわと私の体力を消耗させる作戦に出た。ポイントでは有効一つ負けているはずなのに、焦る様子もない。おそらく、先ほど開始線に戻る際に韓国側のチームメイトから長期戦を仕掛けるようにアドバイスされたのだろう。

 

「――やぁっ!」

 

ズダダッ!

 

奥襟を取って私を左右に振り回すジウに私は足を飛ばす。だけど、先ほどと違って半歩遠い間合いゆえに、ジウの身体を崩しきれない。下手に足を延ばすと、逆に私が一気に持って行かれる恐れがある。

 

試合時間が残り2分を切った。頭を押さえつけられ肩で息を始めた私を見て、ジウが少しずつ前に出始めた。韓国側からジウに対する声援が飛ぶ。おそらくこの展開は向こうの作戦通りなのだろう。

 

こうして私より上背のある相手に体力の消耗を待つ長期戦を仕掛けられ、どれほどポイントを奪っていたとしても、試合終了間際に大技で一本負けを喫する。もう嫌となるほど経験してきたこの展開。昨年までの私なら、この展開に成す術が無かっただろう。

 

 

――だけど、今の私にはこの展開を打開する術がある! 足りないのは、心の踏ん切りだけ!

 

「三上さん、相手が前掛かりになってきてる! チャンスだよっ! 一本狙おうっ!」

 

足りなかった私の心の踏ん切りを、桐生さんが後押ししてくれた。

 

「――おうっ!」

 

――来たっ! 大内刈り! まるで体当たりするかのように、一足飛びでその巨体を私にぶつけてくるジウ。ちまちまとした足技なんて大技で吹き飛ばしてやると言わんばかりのその動作を、私は正面から迎え撃つ。

 

 

完全に懐に入られる前に、私は半歩身体を引いて大内刈りの大鉈を躱す。

 

「――ちいっ!」と舌打ちをしながらも、次の技に私を捉えようと更に押し込んでくるジウ。次の瞬間、間合いを保つ事に腐心していた私は、逆にその間合いをゼロにするかのように彼女の懐に飛び込んだ。

 

「――はぁっ!」

 

「――!?」

 

ジウの驚きが組み合った私にまで伝わってくる。それはそうだろう。これは、せいぜい有効が精いっぱいだった取るに足らない足技の踏み込みでは無い。やるかやられるかの瀬戸際の踏み込みだ。

 

飛び込みながら私は身体を反時計回りに回転させる。ジウの左の襟を取っていた右手は、彼女の右の襟を握り直している。左手はジウの左袖を握ったままなので、これは“片袖”という名の反則状態。この状態で6秒が経過すれば私に注意が与えられる。

 

逆に言えば、6秒以内に勝負をつければ良いのだ。これまで試合の度に長期戦を強いられてきた私が最後に手に入れた技が、この6秒以内での決着を求められる刹那の技だったのは、皮肉としか言いようがない。

 

だけど、これはもう私の技だ。この技で私は一本勝ちをしてみせる! 桐生さんのためにっ!

 

やあっ! ジウの胸部に背中を密着させた私は、高く振り上げていた右足を勢いよく振り下ろす。その向かう先はジウの右足。足が接触した瞬間、ジウの身体が高く跳ね上がる。当然ジウは私の足から逃れようとするけれど、私の足は彼女の足に寄り添うように接着したまま、彼女の身体を最高点へと導いていく。

 

充分な高さまでジウを導いたと判断した私は、今度はジウの身体を弧を描く様に畳に向かって墜とし始める。かつて桐生さんには、まさにこの最高到達点に達した瞬間に躱されたけれど、あくまでそれは彼女が人間離れした空間把握能力の持ち主だったからに他ならない。ジウに彼女と同じ事は出来ない。だって桐生さんは特別だから。

 

「――いやぁっ!!」

 

ズドーーーーン!!

 

衝撃で私の身体が浮き上がるほどだった。握りこんでいた吊り手と引手が思わず離れる。咄嗟にもう一度握ろうとジウに手を伸ばすが、その前に天井のライトに照らされた審判の影が私の瞳に映る。その影は、真っすぐに天を指し示していた。

 

「――一本!!」

 

割れんばかりの歓声と拍手が私に降り注がれる。本当に? この歓声と拍手は私に向けられたものなの? 桐生さんじゃなくて? 猪熊さんじゃなくて? 私が受けて良いものなの?

 

畳に両膝を付いたまま私は茫然と周囲に視線を泳がせる。声は大歓声に紛れて聞こえないものの、父さんや母さん、皆が私に向かって感極まったように手を振っている様子が瞳に映った。

 

やった。やったよ、父さん、母さん。私、日本のために少しは役に立てたかもしれない。

 

日本対韓国の試合結果を表示する電光掲示板にランプが瞬き、この瞬間日本は二勝一引き分けとなった。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

side 藤堂由貴

 

三上がやった。私を含めて誰もが三上の勝利は難しいだろうと予想していたけれど、それを覆して三上が一本勝ちを収めた。これで二勝一引き分けとなり、いよいよ韓国の方は後がなくなった。もう韓国には私と桐生の二人に勝って代表選に持ち込むしか無い。

 

中堅戦が終わったタイミングで、畳の上に零れた汗を大会ボランティアがふき取るインターバルが取られる。その時間を利用して、畳の向こう側の韓国チームは大将と副将が何やら顔を突き合わせて作戦会議をしている。

 

「すごいわ、三上さん! あんな凄い山嵐、初めて見たわ!」

 

「でしょう、柔ちゃん。三上さんの使う山嵐は、そんじょそこらの山嵐とは訳が違うんだから。あれはもう、SM固めに続く三上さんの第2の必殺技。まさに三上スペシャルよ!」

 

「SM固め……?」

 

「わーー、桐生さん、それは言っちゃ駄目って言ったでしょっ! い、猪熊さん、ドリンクありがとう! 生き返ったわ!」

 

「ほっほっほ。あれは山嵐という技なんですね。実に美しい技で気に入りましたわ。三上さん、コーチ料金をお支払いしますので、後日教えていただけないかしら? あれは私にこそふさわしい技ですわ」

 

「山嵐は三上さん以外に使いこなせないよ。それよりさやかは、寝技に力を入れた方が良いんじゃないかな」

 

「どうして私が汗臭い寝技に力を入れなければならないのですっ!?」

 

 

 

まったく、こいつらはやかましいったら無いね。こっちは、これからの試合の事で頭がいっぱいだと言うのに。

 

「どうだい、藤堂。相手のソヒョンとは相性はあまりよくなかっただろう? 何か作戦でもあるかい?」

 

ガヤガヤと五月蠅い桐生達と距離を取って軽く身体を動かしていると、いつの間にか山口が側にいた。ここ数年は桐生や猪熊、本阿弥と言った若い連中に軽量級、軽中量級の代表の座を奪われているが、長い間日本女子柔道界を引っ張ってきた山口だ。軽量級は山口、重量級は私と呼ばれ、幾度も海外遠征や合宿で顔を合わせている盟友と言って良い存在。そんな山口だから、私とソヒョンとの対戦成績も把握していたのだろう。

 

「ふんっ、確かにソヒョンとは三勝五敗で負け越しているよ。だけど、まだオリンピックではあいつと戦った事は無いからね。負けないよ」

 

私の答えに満足したのか、山口はフッと笑みを零して未だに騒がしい連中に顔を向ける。

 

「藤堂が引き分けか、勝つかしたらその時点で日本の勝利が決まって、桐生の出番は無くなるね。52kg以下級の選手が無差別級に出続ける事による負担は言わずもがなだろう。一戦でも多く、あの子の負担を減らせられたらと思うんだけど……」

 

「分かってるよ、山口。……分かってる」

 

山口に言われるまでも無い。絶対に本人には面と向かって言ってやらないが、猪熊柔を除いた今の日本の全階級の選手の中で最も強いのは桐生だ。それはもしかすると、猪熊柔を含めても変わらないかもしれない。そして彼女の強さは、精神的な部分でも図抜けている。

 

形だけの事とは言え、監督が任命した今日の日本女子チームの主将は桐生だ。本来なら年長者である私や山口が務めて然るべきだが、おそらく山口は正代表選手で無い事、私は個人戦で銅メダルすら獲得できなかった事から選ばれなかったのだろう。

 

実際、桐生のリーダーシップは大したものだ。個人戦でなく、団体戦だからこそそれが如実に感じられる。1回戦で私達がふがいない試合をして、大将戦で決着がつくと言う時、あいつは緊張した様子を微塵も見せず「後は私に任せなさい」という不敵な言葉だけを残し、有言実行。まさに秒殺で相手の大将を下し、日本に勝利をもたらした。

 

皆が初めてのオリンピック、初めての団体戦という重圧に押しつぶされようとしていた時にあの戦いぶり。柔道発祥の地である日本が、初めての団体戦で一回戦負けする事など、絶対に許されない状況下だったにも関わらずだ。

 

たとえ猪熊柔がドクターストップがかかっておらず大将に座っていたとしても、おそらく監督は主将に桐生を指名しただろう。

 

「副将は大将の露払いが役目だからね。払ってやるよ、山口」

 

「ふふふ。さすがは藤堂だ。期待しているよ」

 

そして私は、審判に促され畳の上に上がって行った。

 

 

「――おうっ!」

 

試合開始3分と13秒。私の放った払い巻き込みを堪えていたソヒョンだったが、最後の力を振り絞って身体を回転させたことで、ようやく彼女の背中を畳に付ける事が出来た。審判が「一本」を宣告した瞬間、韓国の応援団からは一斉に溜息が漏れ、日本の応援団からは歓声が巻き起こった。

 

よしっ、これで大将戦の前に勝利が確定した。これであいつも少しは体力が温存できただろう。畳に膝をついたまま、チームの山口に視線をなげかけると、あいつは小さくこくりと頷きを返した。その山口の隣では、桐生や三上や猪熊も喜びを爆発させるかのようにはしゃいでいる。本阿弥は腹立たしい事に、腕組みをして私を見下ろすように微笑んでいるが、何故か今だけは許してやろうと言う気にもなる。

 

やれやれ。オリンピックで行う団体戦なんて、個人戦の後のおまけのように考えていたが、なかなかどうしてこれは悪くない。うん、悪くないね。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「――一本!」

 

よしっ! 藤堂が勝った。これで二回戦の突破が決まった。私は両隣の三上と柔ちゃんを相手に順にハイタッチをして喜びを露わにする。その間にも藤堂が畳に一礼をしてゆっくりと私達の所に戻ってくる。

 

皆が藤堂を労う隣で、私は軽くストレッチをして体をほぐす。勝敗は決したけれど、まだ大将戦が残っている。皆の勢いにブレーキをかけないよう、私もきっちり最後をしめよう。私がそんな事を考えていると、山口が「さあ、整列だ。行くよ」と声をかけ畳の上に上がろうとする。

 

「え、ちょ、ちょっと待ってください、山口さん。まだ私の試合が残っています」

 

「何言っているのさ。藤堂が勝った事で勝敗は決しただろう。大将戦は行われないよ」

 

焦った私の言葉に山口が首を傾げながら応える。

 

「え、勝敗が決まっても、最後まで試合をするんじゃないんですか?」

 

「何言っているの、桐生さん。そんなはずないじゃない。ほら、行こうよ」

「もう韓国の人達整列しているわよ、茜さん。早く行かないと」

 

三上と柔ちゃんまでそんな事を言う。え、私の認識が間違っていたの? 団体戦って三勝したり、勝ち星を覆せなくなった時点で試合が終わっちゃうものだったの? そう言えば私はこの世界で団体戦に出た事が無くてそんな事知らなかった。前世は? 東京2020ではどうだっただろう? だめだ、私は団体戦でも常に2番手から3番手で出場していたから、後の方の記憶がほとんど残っていない。

 

え、じゃあつまり、藤堂が勝った時点で三勝一引き分けで、私の試合がなくなった訳? 藤堂か本阿弥か、三上の誰かが負けていたら私の試合がなくならなかった?

 

そこまで思考を進めた私は思わず叫んでいた。

 

「――どうして、皆して勝っちゃうのよっ!? 1回くらい負けなさいよっ!!」

 

「――あんたのためにやったんだろうがっ!?」

「――突然何言ってるの、桐生さん!?」

「誰ですの、こんなお馬鹿さんを主将に指名したのは?」

「はーー……」

 

藤堂、三上、本阿弥、そして山口それぞれが私の魂の叫びに三者三様の返答を返したのだった。

 

 

########################################

 

幕間(3回戦進出確定直後の控室での茜ちゃんと柔ちゃんの一コマ)

 

「茜さん、ちょっとそこに座りなさい」

「もう座ってます……」

「皆が頑張って、大将の茜さんに回す前に試合を決めたって言うのに、あんな言い方は無いと思うの」

「でも……」

「でもじゃありません」

「……」

「ちゃんと皆に謝るのよ。分かった?」

「……(こくり)」*桐生、不承不承ながら頷く

「ん、よろしい。じゃあ、改めて3回戦進出おめでとう、茜さん。試合前にやった円陣が良かったみたいね。次もやるんでしょう?」

「……やだ。もう円陣は組まない」

「どうして?」

「喝が入りすぎて、私まで試合が回らなかったら嫌だから」

「――全然反省してないよね、茜さん!? そこに座りなさいっ!」

「もう座ってます……」

 

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