ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side ベルッケンス・ハルトミュラー(ベルギー代表)
男女国別団体戦 3回戦。その試合に勝てば準決勝進出となり、既に準決勝進出を決めているカナダと対峙する事になる。しかし、その前に3回戦を勝ち抜かなければならないが、それが容易ではない。何故なら3回戦の相手が柔道発祥の国 日本だからだ。
中堅戦までが終わった。今、私の目の前では、大会スタッフの者が畳の上に零れた汗を拭き取っている。
先鋒戦は落とした。我がチームの先鋒ルイーズは相手先鋒のホンアミに一本負けを喫した。ルイーズもベルギー期待のホープだったが、ホンアミが一枚も二枚も上手だった。ホンアミの柔道にはまだ深みが足りないが、一つ一つの所作にどこか華がある。彼女もその自身の強みをよく理解しており、迷いの無い柔道を取られてしまった。
しかし、次鋒エヴァが相手次鋒ヤマグチに試合終了間際に有効を奪い、かろうじて勝利した。これで一勝一敗。
そして今しがた行われた中堅戦。日本の中堅は本来52kg以下級を主戦場としているミカミ。対する我がチームの中堅は国内72kg以下級で私とこれまで幾度となく鎬を削ってきたエヴァンス。
監督もチームメイトも、そして私すら、この中堅戦で日本に勝ち越す事を予想していた。しかし……。
私はこれまでの試合経過を示した電光掲示板に顔を向けた。中堅戦で勝利した事を示す〇の表示が付いていたのは、……ミカミの方だった。
畳を挟んだ向こう側で、中堅戦で見事な一本勝ちを決めたミカミを日本チームが取り囲み労っている。その中には昨日無差別級の準決勝で私を破ったイノクマもいた。
清掃を終えた大会スタッフが畳の上から下がる。主審が我が国と日本の副将に対して畳の上に上がるよう促す。
「……アンナ」
「分かっているよ、ベルッケンス。必ずあんたまで回す! ベルギー柔道界に初めての金メダルを絶対に持って帰るんだ!」
気合の籠ったアンナのその言葉に、私はただこくりと頷いた。
頼んだわよ、アンナ。あなたが副将戦に勝てば二勝二敗のイーブンとなり、勝敗は私と相手大将のキリュウとの一騎打ちとなる。
もちろん大将戦に持ち込みさえすれば勝利は容易い、などと愚かな事は考えていない。キリュウが、我がベルギーが準決勝に勝ち進むにあたって最大の障壁である事は疑いようも無い。
それは、一度でも4日前の52kg以下級で繰り広げられた彼女の戦いぶりを見た者なら理解できるだろうし、その理解が間違っていない事を、彼女は中国のタオとの一戦だけで証明して見せた。
「――おうっ!」
「――こいつっ!」
アンナと日本の副将であるトウドウの実力は伯仲している。共に長い間72kg超級で戦ってきた二人だ。互いの手の内は知り尽くしていると言っても良かった。トウドウの放った内股をアンナが堪える。アンナが片足でケンケンをしながら後方に下がり、トウドウがそれを執拗に追いかける。
――!
「――今よ、アンナ!」
「――踏み込み過ぎ、藤堂さん!」
「――駄目っ、藤堂さん!」
私の言葉と、言葉は分からないものの日本サイドから飛んだ言葉が重なる。
後ろに飛び跳ねながら下がっていたアンナが、飛んだ瞬間に身体をくるりと反転させ、逆に前のめりになっていたトウドウに対して内股を仕掛ける。
「――でやぁっ!」
ズズーーーン!
72kg超級の身体が畳に横倒しに倒れた事で激しい打撃音が
「――技有っ!」
審判の宣告に、ベルギーの国旗が激しくはためき、白地に赤い〇の描かれた旗が萎れる様に下げられる。
「待て」の合図で、アンナがゆっくりと立ち上がり開始線に戻って行く。一瞬私と彼女の視線が交錯する。残り時間は2分と少々。大丈夫だ、アンナは集中を切らしていない。
きっとアンナは副将戦に勝利して、私まで回してくれるはずだ。大将である私は、ただそれだけを信じて準備をしておく必要がある。
グッ、グッと身体の各部位をストレッチしながら畳の上で展開されている副将戦を見つめていると、反対側の日本サイドの動きが視界に入った。キリュウが中堅戦で見事な勝利を飾ったミカミを相手にストレッチをしていた。
「――があぁッ!」
ズズーーン!
「――有効っ!」
鬼気迫る勢いのトウドウ渾身の大外巻き込みがアンナを畳に引き倒す。アンナの背の全てを畳に付けようとトウドウが必死に巻き込むが、それをアンナがブリッジで堪える。有効は取られたものの、まだポイントでは技有を奪っているアンナが上回っている。
堪えろ、アンナ。そのまま逃げ切れ。
私は日本を決して侮ってはいなかったが、ここまでイノクマ不在の日本に追い込まれるとは思っていなかった。キリュウがイノクマの不在を補うだけの力を有している事は理解していた。日本の先陣を切るホンアミも、本来の力を発揮すれば厄介な相手であると考えてもいた。
しかし、それで二人。五人制の団体戦において勝利を確実なものにするためには、三人のポイントゲッターが必要。その三人目が不在の日本になら負けはしないと考えていた。
しかし、突如日本にその三人目のポイントゲッターが現れたのだ。それは日本の中堅 ミカミ。国際的には全く無名と言って良い存在だった彼女が、柔道競技最終日のソウルで躍動している。ミカミが韓国戦、そして我がベルギー戦においても見事な一本勝ちをした事で、今頃きっと各国のコーチ陣が彼女の情報を集めて回っている事だろう。
ビーーというブザーの音が鳴り響いた。日本のトウドウが悔し気に畳を蹴りつけると同時に、アンナが私達の方を振り返りガッツポーズをする。チームの仲間が沸き立つ隣で、私もアンナにウインクして彼女を労った。
さあ、これで二勝二敗のイーブン。仲間が繋いでくれたこの細い糸を私が断ち切るわけにはいかない。
私の視界に、肩を落として畳から降りるトウドウに日本の大将キリュウが何か声をかけた後、ゆっくりと畳の上に上がってくる姿が映る。
既に一回戦で実力を証明しているためだろう。畳の上に上がるキリュウを見つめるチームメイトの目には、決戦に臨む大将に対する絶対的な信頼が見て取れた。いや、チームメイトだけではない。彼女の背後で日の丸の国旗を掲げる大勢の観客達も、彼女の勝利を信じて疑っていないかのような、ひと際大きな歓声が沸き上がる。
だが、背後から沸き立つ大歓声を耳にしても彼女の表情は変わらない。僅かに口角を上げながら、その双眸は私をはたと見つめて固定されたまま。
アカネ・キリュウ。
若年ながら皆の期待を一身に背負い、なおかつそれで緊張するどころか、それをさも当然といった自然体で受け止める事の出来る女……か。私はキリュウと直接的に対峙した事が無い。だが、試合が始まる前から私は、彼女の力をイノクマのそれと同格と想定し、畳の上に一歩足を踏み出した。
「――始めっ!」
――!
審判の開始の宣言が終わらないうちから、キリュウが私に駆けてくる。このソウルオリンピックでは、個人戦は無差別級一本に絞っていたが、本来私が主戦場とする階級は72kg以下級。カナダのジョディやソビエトのテレシコワ、中国のタオなどを相手にするほどキリュウとの間に体重差はない。しかし、柔道選手である一方モデルとしても活動する私の特徴は人より長いこの手足。
先手を取られるのを嫌った私は、キリュウの飛び込みを抑えようと両手を前に突き出す。
――!?
前に突き出した両手の内、左手の袖を一瞬でキリュウに取られた。――と同時に、桐生が更に加速し私の懐に一瞬で飛び込んで来た。
これは――!? しまったッ!
気づいた時には私の両の足は畳から浮き上がりかけていた。ぶわっと、冷や汗が全身の肌という肌から一瞬で吹き上がる。
「――ま、まだよっ!」
浮き上がりかけた両足のうちの右足を桐生の足に引っかける事で、私の身体を下から上に跳ね上げようとする凄まじい上昇運動に抵抗する。掛けられている技は理解している。袖釣り込み腰。彼女が最も得意とする技であり、最も警戒が必要な技。
渾身の力でその袖釣り込み腰を耐えきった私は、上からキリュウの身体を潰す。私が技を躱した事に気づいた審判が「待て」を宣告し戦いを止める。
危なかった……! 技こそ異なるが、昨日イノクマに開始早々一本背負いを仕掛けられた時の衝撃に勝るとも劣らない刹那の技のキレだった。ただ違ったのは、私には昨日のイノクマとの試合の経験があった事。もし昨日イノクマと対戦していなければ、私は開始早々一本負けを喫していたかもしれない。
「あっちゃぁ。柔ちゃんほどはベルッケンスの身体を崩せなかったかぁ。悔しいなぁ」
キリュウの身体の上から起き上がり、彼女を残したまま開始線に戻ろうとしていた私の耳朶に彼女が発した独り言が届いた。
「――場外っ!」
私の身体が場外を示す赤い畳を超えた事で、線審が場外のジャスチャーを取る。日本の応援団の席からはまともに組み合おうとしない私に対して非難の声が飛び、我がベルギーの応援団からは困惑の声が漏れる。
「ベルッケンス、どうした! 攻めろっ!」
副将のアンナが私に激を飛ばす。他のチームメンバーもそれぞれの言葉で私に声をかける。分かっている。私だって攻めたい。しかし、攻めるためにはキリュウとまともに組み合う必要がある。
組めないのだ。まともに組めばその瞬間に投げ飛ばされる未来しか脳裏に浮かばないから。同じだ。イノクマと。
いや、厳密に言えば同じではない。肌が泡立つような恐怖を感じる点では同じだが、微妙にその性質が異なる。イノクマの場合は一瞬で命を刈られるような感覚に苛まれたが、キリュウには一瞬で私の手の内を見透かされそうな感覚に苛まれる。
いずれにしても、立ち技で勝負を挑んではいけない事は間違いない。昨日のイノクマとの戦いで私が考えていた戦略と同じだ。何とかして相手の技を躱し寝技勝負に持ち込む。キリュウが立ち技だけでなく寝技にも造詣が深い事は52kg以下級の試合のビデオで知っている。
しかし、それでも寝技では単純に20kgの体重差は有利に働く事は間違いないし、モデル活動で培った柔軟性は私の武器の一つ。それでキリュウに確実に勝てるとは言えないが、少なくとも立ち技で勝負を仕掛けるよりは勝利する可能性が高いはず。
「――ぬおっ!!」
キリュウの袖釣り込み腰を警戒しながら取った奥襟。私は桐生の奥襟を握った拳を固く握りしめ、彼女の身体を力任せに振り回す。
キリュウの
「――今だ!!」
私は右方向に流れる桐生の右足に左足を添え、それを支点に支え釣り込み足を仕掛ける。ぐらっと傾くキリュウの身体。よしっ、このまま彼女の身体を畳に押し付け寝技勝負を仕掛ける!
しかし、キリュウの動きは私のそんな戦略を軽々と超えて来た。バランスを崩していたはずのキリュウが足を踏ん張り、くるりと反転するようにして私と身体を入れ替える。気づけば、何故か私の方がキリュウの放った支え釣り込み足に捉えられていた。まるで天地がひっくり返ったかのように錯覚する程、急激な勢いで私の視界の全てを畳が占めていく。
「――くはっ!」
「有効っ!」
ポイント、取られた! しかし、これは僥倖でもあった。キリュウが畳に背を付いた私に対して寝技をしかけてきたのだ。ポイントこそ取られてしまったものの、キリュウを寝技勝負に持ち込む事は私が狙っていた事。ここで仕留める!
「――来なさい、キリュウ!」
「――ベルッケンス! あなたが私を寝技に誘っている事にはとうに気付いてた! さあ、何を見せてくれるの!?」
私の咆哮にキリュウが目を爛々と光らせて向かって来た。
キリュウが畳に背をつけた私に対して横から攻めかかってくる。しかし私は両足を桐生の身体と畳の間にねじ込み、そのまま足の力だけで桐生の身体を高く掲げひっくり返した。即座にその桐生の身体に覆いかぶさる私。
上手くいった。本当なら昨日これをイノクマに対して仕掛けるつもりだった。同階級の選手が相手ではこんな力技の切り返しは、これまで経験した事が無いだろう。身長差と体重差のある無差別級だからこそだ。
「――ハァッ、ハァッ!」
立ち技から寝技へと連続した激しい動きが続いたためか。息が続かない。だが、キリュウを倒す千載一遇のこの機会を逃すわけにはいかない。
狙うは縦四方固め。畳に仰向けに転がったキリュウに、抱き着く様に両手両足で巻き付く。息が続かない。耐えろ、耐えるんだ。審判が抑え込みを宣告した。後30秒耐えれば私の勝ちだ。抑え込みから逃れようと桐生が私の身体の下で暴れる。絶対に逃さない……! 息苦しさのあまり視界が徐々に白い靄に覆われていくが、抑え込みを継続するのに視力は必要ない。絶対にこの拘束は解かない!
後17秒、16秒、15秒、14……3、2、1。
勝った! 勝ったぞ、キリュウに! 我がベルギーの勝利だ! 観客席に視線を投げかけると、ベルギーの国旗である黒、黄、赤の三色旗が準決勝進出を祝い激しく振られていた。
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ベルッケンスは畳に背をつけた桐生にのしかかる様にして覆いかぶさっているため、彼女の表情は解説席からは伺う事ができない。それは主審であるミハエル・ブランチも同様だったのだろう。審判を現す純白のスーツに身を包んだ彼女は、桐生の側にかかがみこみ、ベルッケンスの表情をそっと伺う。
「審判がベルッケンスを覗き込んでいますね。あ、今ミハエル主審が桐生の肩を叩きました」
「ええ、ベルッケンスは落ちましたね。もしかするとベルッケンスは、自身が桐生に絞め技を仕掛けられた事にすら気づいていなかったのかもしれません」
桐生はベルッケンスの両襟に突っ込んでいた手を引き抜き、崩れ落ちたベルッケンスを残しすっくと立ち上がる。
「山上さん、あれは十字締めでしょうか?」
「ええ、十字締めです。ただし、両手の甲でベルッケンスの頸動脈を圧迫するように絞めていますので、正確には逆十字締めですね」
山上の言葉は正しい。確かに桐生は、講道館柔道 絞技十二の型の内の一つ『逆十字締め』でベルッケンスを絞め落していた。
「ほら、ここです。よく見て下さい。ベルッケンスが桐生の身体を両足で持ち上げ身体を入れ替えていますよね。ここでベルッケンスは桐生に対して縦四方固めを仕掛けようとしていますが、この時にはもう、下から伸ばした桐生の両手がベルッケンスの首元に深く差し込まれています。そして抑え込もうと前のめりになったベルッケンスの動きを逆手に取り、一瞬で彼女の頸動脈を圧迫しています」
山上は、解説席の上に備え付けられているモニターに映る先ほどの映像を指差す。
「見て下さい、完璧に決まっています。おそらくベルッケンスは、桐生を抑え込みにかかろうとした瞬間に意識を失ったんじゃないでしょうか。彼女は桐生に対して寝技勝負を仕掛けたようですが、逆にそれを逆手に取られましたね」
山上がそう口にした瞬間、会場中からどよめきとも安堵とも取れる声が漏れた。失神したベルッケンスの意識が戻ったのだ。彼女は自身の置かれた状況が分からないのか、上半身だけを起こしてキョロキョロと周囲を見回しているが、審判に促された事で状況を理解したのだろう。
一瞬呆けたような表情を見せたが、直ぐに彼女は立ち上がり、一足先に開始線に戻っていた桐生と向かい合う場所へと移動する。
そしてミハエル主審による試合終了の宣告の後、どちらからとなく歩み寄り互いに抱擁する二人。その後ベルッケンスはおもむろに桐生の左手を取り、彼女の勝利を讃える様に笑みを浮かべたのだった。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :18さい
れべる :33
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :96
すばやさ :217
たいりょく:156
かしこさ :203
わざ :224
こうげき力:253
しゅび力 :230
E じゅうどうぎ
【ベルッケンス ステータス】
なまえ :ベルッケンス・ハルトミュラー
せいべつ :おんな
ねんれい :25さい
れべる :29
くらす :じょし72kgいかきゅう
ちから :134
すばやさ :170
たいりょく:172
かしこさ :179
わざ :184
こうげき力:201
しゅび力 :213
E じゅうどうぎ