ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
準決勝第1試合の始まりが近い事を予期した観客のざわめきの中、私達日本チームは選手入場通路を整然と進む。これまでと同様に柔道着を身に着けた5人のうちの最後尾を歩いていた私は、畳を挟んだ反対側の通路を歩くカナダチームに気づいた。
「柔ちゃん、カナダの布陣は監督の予想した通り、これまでと同じみたいね」
後ろを歩くジャージ姿の柔ちゃんを振り返ると、柔ちゃんもそれに気づいていたのかこくりと頷く。
「そうみたいね。ジョディもこちらを見ているわ」
うん、気付いていた。ジョディはニヤッと不敵な笑みで日本チームを……、いや、私を見つめている。その彼女の視線を逸らすことなく受け止めながら、私は3回戦終了後の控室でのやり取りを思い出していた。
~~~~日本チーム控室~~~~
「よしっ、皆、ここまでよく頑張ったな! 次は強敵カナダだ! これまで以上に気合を入れて行けよ」
柳澤監督の激に、三上が「監督ぅ……」と今にも泣き出しそうな声を上げる。
「何だ、三上。どうした?」と監督。
「どうしたも、こうしたもありませんよぉ。カナダの中堅って、これまでずっとクリスティンさんじゃないですか。彼女、72kg以下級の金メダリストですよ。いくら何でも私じゃ、荷が重いです。桐生さんに変わってもらえないですかぁ?」
なるほど。だから三上はずっと顔色が悪かったのか。確かにクリスティンは強い。原作ではソウルオリンピック後の世界選手権から登場した伊東富士子のライバル的存在。いや、別に原作知識だけで語っているわけでは無い。彼女の試合の様子は、3日前の個人戦、そして今日の団体戦と、しっかりと拝見させてもらった。
高い柔道IQから繰り出される数々の技のキレは極上。加えて、72kg以下級の代表選手なのに60kg代前半の体重でしかない彼女のスピードは、同階級で頭一つ抜けている。そのくせ、推定だがパワーも同階級で5本の指に入っていそうだから、手に負えない。
結論。クリスティン・アダムスは、実力的にはジョディやテレシコワに次ぐ心技体の充実した尊敬すべき柔道家。状況さえ許せば、是非戦ってみたい相手でもある。うーん、考えれば考えるほど、食指が動くわね。
「それじゃあ、三上さん。大将と中堅を変わります?」という私の提案に、三上は両の拳を上下させて大声を上げる。
「そしたら相手はジョディさんじゃないですかっ!? どっちも嫌だぁっ!」
「あら、それでは私が大将を務めて、中堅はそこの野蛮人。三上さんは52kg以下級というのは如何? そもそも、最初から本阿弥グループの将来の総帥が大将じゃないなんて、おかしいと思っていたのです」
「あんたじゃロックウェルに瞬殺されるのがおちだよ。引っ込んでな」
「――なんですって!?」
本阿弥と藤堂が会話に割り込んできた事で広くも無い控室が途端に騒がしくなり、二人をなだめる柔ちゃんが私の視界に入る。まあ、柔ちゃんさえ試合に出られたら、ジョディの相手は柔ちゃん、クリスティンの相手は私と、パズルのピースが収まるようにピタッと決まっていたのかもしれないけれど、今更そんな事を言っていても始まらない。
「落ち着けっ、お前達!」
喧々囂々だった控え室内が静かになると、柳澤監督が諭すように続ける。
「カナダチームは、これまでの試合で一度も布陣を変えていない。それは確実に計算できる3人のポイントゲッターを有しているからだ。先鋒のナディア、中堅のクリスティン、そして大将のジョディだ。決勝に勝ち上がるには、この3人のうちの誰かを崩さなければならない。本阿弥、お前は個人戦でナディアに勝っているな?」
「ええ、48kg以下級の準決勝で相対しましたわ。結果は皆さんご存じのとおり私の圧勝でしたわ」
圧勝……? 確かに本阿弥さやかは48kg以下級の準決勝でナディアを降している。ただ、本阿弥さやかが前半で奪った技有に対してナディアが怒涛の攻めで追い立て、有効二つを奪われつつも、本阿弥さやかがかろうじて逃げ切った試合だったと私は記憶しているけど……? まあ、良いや。勝ちは勝ちだ。柳澤監督もあえてそこを指摘せず、深く頷く。
「そうだ。本阿弥が勝った。だからこそ団体戦の先鋒でナディアとの再戦が予想される本阿弥は外せん。お前が切り込み隊長だ。必ず勝利して、日本に貴重な白星をもたらしてくれ。良いな、本阿弥」
うまい、さすがは柳澤監督。“切り込み隊長”というキーワードで本阿弥さやかの矜持を満たしつつ、彼女のやる気を引き出した。私と違い根が単純な本阿弥は、口角をより上げながら目を細める。
「仕方がありませんわね。皆さんがどうしても私が先鋒でないといけないと言うのでしたら、先鋒を引き受けますわ。実力的には私が大将でもおかしくはないのですが、ここは慈悲の境地で譲って差し上げましょう」
……やっぱり単純だ。柳澤監督の掌の上で転がされている事に、本阿弥さやかは気付いていない。
そして監督は、本阿弥さやかに「頼んだぞ」と激を飛ばした後、壁際で黙したままだった山口に視線を投げかける。この場にいる誰よりも監督との付き合いの長い山口は、その監督の視線を受けただけでこくりと頷く。その所作に頷きを返した監督は、この騒動を引き起こした原因である京都の和菓子屋の一人娘に視線を合わせた。
「三上……、お前には酷な事を頼んでいると思っている。だが、本来の72kg以下級の選手が二人とも怪我で出られん。先鋒と次鋒に48kg以下級の選手を当てた以上、中堅に当てられるのはお前と桐生しかおらんのだ。……そして日本の大将の座から桐生は動かせん」
監督はそこで言葉を区切り、ちらっと私に視線を投げた。それは恐らく、余計な事を言うなという意味の視線だったのだろう。多分先ほど私が中堅の三上と変わっても良いと言う発言を受けてだ。
あの発言の裏に、試合が行われない可能性のある大将より、確実に試合の行われる中堅の方が良いかも、という私の密かな企みがあった事を見抜かれた気がする……。まあ、隠れたも何も、試合無しで終わった韓国戦の後、柳澤監督に中堅へのコンバートをそれとなくほのめかして速攻で却下された時点で、私の狙いは見抜かれていたのかもしれないけれど……。
「桐生さんを大将から動かせない……」という三上の呟きに、柳澤監督は「そうだ。その意味は、三上なら分かってくれるだろう」と応える。その言葉の意味を噛みしめる様に一瞬瞑目した三上は「はーー」と深い息を吐いて目を見開く。
「分かりました。どうなるか分かりませんが、どのみちこの大会で私は引退するんです。やるだけやってみます……!」
「よく言った、三上! 女は度胸だよ! 下馬評で優勝候補筆頭と目されているカナダをあっと言わせてやろうやっ!」
藤堂に背中をバンッと叩かれ、つんのめる様に前にたたらを踏んだ三上を柔ちゃんが受け止める。
「ふふふ。三上さんの柔道、私凄く好きです。準決勝でも三上さんらしい柔道を見せて下さいね」
話がまとまるのを待っていたわけでは無いだろうが、タイミングよく大会スタッフが準決勝のオーダーを記した出場選手リストを受け取りに来たので、コーチの一人がそれをスタッフに手渡す。
「あのー、柳澤監督。私には意思を確認してくれたりはしないんですか?」
ここまで監督の方針に文句ひとつ言わず大将を受け入れて来た私は、柳澤監督にじとっとした目を向ける(いや、一度中堅に変えて欲しいという文句は言ったけれど、まああれは軽いジョークのようなものだ)。
その監督は白い目で私を見つめ口を開く。
「お前、カナダチームで一番強い選手は誰だと思っているんだ?」
「それは、間違いなくジョディでしょう」
「そのジョディと戦わせてやろうと言うんだ。何か文句があるのか?」
「全くありませんね。ご配慮、ありがとうございます、監督」
私の返事を聞いて、話は済んだとばかりに監督とコーチ陣は控室を後にしていったのだった。
「「「「単純だ/単純ね/まさにお釈迦様の掌の上で遊ばれるお猿さんのようですわ/いつか悪い人に騙されそうで心配だわ」」」」
背後から不愉快な声が私の耳朶に届いた気がしたが、私は両の耳をパタンと閉じてそれをやり過ごした。
という様な控室でのやり取りを思い出していた私は、「茜さん、ジョディが……」という声で意識を引き戻された。ジョディは、歩きながらこちらに向かって右拳を真っすぐと突き出していた。それを確認した私は、同じように左拳をジョディの方に突き出し、ニヤッと笑みを零す。
良い試合をしようね、ジョディ。その拳に込めた思いが通じたのだろう。ジョディは畳の向こう側で不敵な笑みを浮かべていた。そして、私の背後でそんな私達の行為を見守っていた柔ちゃんに気づいた私は、後ろを振り返る。
「ごめんね、柔ちゃん。ジョディとオリンピックで対戦するっていう約束、私の方が先に叶える事になりそう」
「そんな事……。それより茜さん。ジョディは強いわよ」
「そんなの分かってるって。強い相手上等、相手にとって不足は無いわ」と応えた後、監督やコーチの座る応援席に視線を投げかけ、側にいる両親に向かって軽く手を振る。そこで私はふと気づき、背後の柔ちゃんに再び首を巡らせる。
「そう言えば、ここ数日風見鶏の姿が見えない気がするんだけど、理由を知ってる、柔ちゃん?」
「風見鶏……じゃなかった、風祭さんなら数日前に食あたりになったみたいでソウル市内の病院に入院したみたいよ。……知らなかったの、茜さん?」
呆れた視線と共に返された柔ちゃんの言葉に私は「へえ……、興味なかったから知らなかったわ」と返す。
あのナンパ男の事だ。韓国の女性を目当てに夜のソウルの町を歩いて変な物でも食べたのだろう。自業自得だわ、と考えていると柔ちゃんが周囲に視線を泳がせている事に気づく私。誰を探して……、ああ、そうか。
「松田さんなら、あそこにいるよ、柔ちゃん」
「あっ、本当だ――てっ、ち、違うからっ、茜さん!」
違ったんだ。私の視線を追ってほっとしたような表情をしたけれど、一転して勘違いしないで、とばかりに否定してくる柔ちゃん。
「あ、邦ちゃんが松田さんに抱き着いてる……」
「――えっ!?」
私のその言葉に、先ほど見つけた松田さんの方を凝視する柔ちゃん。その様子が可笑しくて、私はお腹を抱えて笑う。
「うっそぉっ! ぷぷぷ、柔ちゃんったら可愛いっ!」
私のからかいに、柔ちゃんは「もうっ、茜さんったらッ!!」と雷を落とすのだった。
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「残念だわ。ジョディ、アカネと戦えるのは、どうやらあなたのようね」
クリスティンは、畳の向こうの日本チームの入場順を見て、背後を振り返る。
「ふふふ、どうやらそのようだわね。個人戦ではヤワラとは戦えなかったけれど、アカネと戦えるのなら、それも帳消しね」
背後のそんなやり取りを耳にしたのか、カナダチームの先頭を歩いていた小柄な柔道着姿の選手が不満そうな表情を顔に浮かべ振り返る。
「良いなぁ、ジョディさん。私もアカネさんと戦いたかったなぁ。強くなった私の姿を見て貰いたかったのに……」
「ナディアはヤワラの前に日本のホンアミに勝たなきゃ駄目ね。監督にも言われただわさ」
その言葉でナディアはカナダチームの監督から発破をかけられた控室での出来事を思い出す。
~~~~カナダチーム控室~~~~
「いいか、お前達。ヤワラ・イノクマがいないからと言って決して油断はするなよ。日本にはまだ
「監督、キリュウはこれまでと同様大将で間違いないでしょうか?」
カナダ女子チームのオリバー監督の激に問いかけたのは、72kg以下級ゴールドメダリストのクリスティン。
「ああ、間違いないだろう。準々決勝では、キリュウが中堅におりるという情報が流れたが、結局日本はキリュウを大将から動かさなかった。あれはおそらく日本のベルギーに対する揺さぶりだったのだろう。だから日本の布陣は、これまでと変わらないはずだ」
「アカネか……。相手にとって不足は無いわね」
カナダの大将ジョディ・ロックウェルが、試合が待ち遠しいと言わんばかりに両腕をぐるぐると回しながら独りごちる。
「良いか、ジョディ。今更言うまでも無いと思うが、キリュウは無差別級の出場経験こそ無いものの、1回戦はタオを降し、3回戦ではあの女王ベルッケンスをも降した日本不動のエースだ。あいつをただの軽中量級の選手と考えるなよ。ヤワラ・イノクマと戦うつもりでやるんだ!」
「もちろん分かっているだわさ。私より、クリスティンは大丈夫かね? ミカミも強敵ね?」
「ああ、ヤマアラシ使いだろう。これまではキリュウの陰に隠れていたようだけれど、あんな選手が控えにいたなんて……ね。さすが柔道発祥の国 日本。選手層の厚さには恐れ入るわ」
ジョディから視線を剥がし、クリスティンに視線を投げかけたオリバーは、クリスティンの言葉に強く頷く。
「そうだ。だが、ミカミはヤマアラシのような大技に注目されがちだが、最も厄介なのは小技の方だ。出会いがしらの足技には要警戒だぞ、クリスティン!」
先刻承知なのだろう。クリスティンは監督に対して了解の意を示すように、不敵な笑みを浮かべながら、左拳を握り締め親指を立てる。それに頷いたオリバーは、一人壁に向かって打ち込みをしていたチーム最年少のナディアに顔を向ける。
「ナディア、お前の相手は恐らくホンアミだ。個人戦での借りを返すいい機会だぞ!」
ナディアは、5日前の48kg以下級の準決勝で本阿弥さやかと戦い、惜しくも敗れていた。打ち込みを中断したナディアは汗を拭いながら監督の激に応える。
「はいっ! サヤカ・ホンアミには絶対に48kg以下級の借りを返してみせます!」
「その意気だ。お前が白星を取れるかどうかで、その後の流れが全く違うからな。頼んだぞ!」
ナディアは監督の激に頷きを返し、再び壁に向かって打ち込みを始める。若さ故にじっとしていられないのだろう。カナダチームの皆が、かつて自身が通ってきた道を同じように辿るナディアに、優しい眼差しを向けていた。
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「さあ、試合会場となる畳の上に日本とカナダの選手が整列しました。まもなく、男女国別団体戦 女子の部 準決勝が始まります。山上さん、日本もカナダも布陣を変えてきませんでしたね」
「ええ、カナダはこれまで先鋒のナディア、中堅のクリスティン、そして大将のジョディが完璧に機能していて、変える必要がありませんでしたからね。カナダにとってはこれが盤石の布陣なのでしょう」
「そうですね。逆に日本の方は相手の布陣が読みやすい分、変化させてくるのではという予想もありましたが、柳澤監督は変えてきませんでしたね。これについて、どのようにお考えでしょう、山上さん」
山上は、放送席から見て手前から本阿弥、山口、三上、藤堂、そして桐生の順で並ぶ選手達に視線を落とし、こくりと頷いた。
「ええ、私としては、もし変えてくるのなら、日本は先鋒 本阿弥、次鋒 三上、そして中堅 桐生と、先行逃げ切りの布陣があり得ると考えていました。もしかすると、その布陣がカナダに対して最も勝率の高い布陣だったかもしれません」
「なるほど。カナダの大将にして大黒柱のジョディ・ロックウェルの前に勝負を決める布陣ですね。なぜ日本は、その布陣を取らなかったのでしょう? やはり、山上さんが2回戦で述べた理由のためでしょうか?」
その問いかけに、山上は神妙な表情で「おそらく」と頷く。そして山上は、「繰り返しになりますが……」と言葉を続ける。
「日本は柔道発祥の国であり、古来より団体戦では最も強い選手が大将を務める事を尊ぶ精神が根付いています。今畳の上に立っている日本の選手の中で最も強い選手は桐生です。だからこそ、大将には桐生以外ありえないのです。
ここで桐生を大将から外す采配をとる事は、たとえそれでカナダに勝ったとしても『試合に勝って勝負に負けた』と言えます。一時的な勝利に執着して、長期的な目標や価値観を見失うことを柳澤監督は良しとしなかったのでしょう」
「互いに礼!」
審判に礼を促され、畳を挟んで対峙した日本チームとカナダチームの面々が一斉に礼をする。そして日本は本阿弥を、カナダはナディアをそれぞれ残して、他の面々はいったん畳の上から降りていく。
その様子を見つめながら山上は続ける。
「桐生だけの話ではありません。カナダのポイントゲッターは先鋒、中堅、そして大将の3名。その3名に、日本も考えうる最強の選手を当てているんです。これは、紛れもなく日本とカナダががっしりと組み合った力勝負になりますよ。
さあ、本阿弥が日本の先陣を切ります! 彼女の奮戦を期待しましょう!」
山上の言葉が終わるまさにそのタイミングで、主審による先鋒戦開始の合図が宣言された。