ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
~~~~1987年 2月 某日~~~~
ズダーーーン!
試合開始早々、私の放った渾身の袖釣り込み腰が相手選手を跳ね飛ばし、その背を畳に叩きつけた。
袖釣り込み腰とは、柔道投技の腰技10本のうちの一つで、相手の釣り手(袖口を掴んだ手)を掲げて、相手を背負うような格好で腰に乗せ、一気に前に投げる技である。この技は、前世でいう所の私同様オリンピック2連覇を果たした綾部選手が得意としていた。
その特徴として、この技は背負い投げや一本背負いに比べて習得に時間を要する高度な技であるが、上手くはまれば、組手不十分な体勢からでも相手を背負う事ができる点が上げられる。また、その技が決まる過程の美しさも個人的には群を抜いていると思っている。
「――1本ッ!」
角刈りの男性主審の手が高く上がった事で、私は若干技の効きが甘かった(背中が十分に畳についていない)かもしれないと考え、寝技に移行しようとしていた態勢を解く。
良かった……。ほぼ同時刻に隣の会場で始まった試合が気になり、つい強引に投げ技に行ってしまったが、どうにか最短時間で勝負を決める事が出来た。
私は気もそぞろなまま相手選手に礼をして、畳を降りる。そして私は、そのまま隣の試合会場がよく見える場所まで移動し、畳の上で組み合っている2人、いや、正確には1人を注視した。
そこでは、48kg以下級の1回戦 本阿弥さやかの試合が行われていた。相手は1回戦から大物、前年度の日本選手権 準優勝の長崎尚子選手。
ああ、間違いなく本物の本阿弥さやかだ。開会式に整列した際に遠目から目にしていたが、こうして畳の上で闘争心をむき出しにしている彼女を見ると、彼女の魅力がよくわかる。
容姿は……、うん、おそらく10人が10人間違いないと断言する美人さんだ。加えて、よく手入れされているであろうその肌は色白で、柔道選手らしからぬスタイルの良さもそれを助長している。
そしてその実力は……。
「ええいッ!! 猪熊柔!! 早く出てらっしゃい!!」
おお、本阿弥さやか渾身の払い腰が、長崎選手の一瞬の隙を見事についた。試合時間は開始約2分と少々といった所だろうか。審判の手が待ってましたとばかりに高々と上がる。その瞬間、私の試合の時とは比べ物にならない程の歓声が観客席から上がり、驚きに私の身体は一瞬硬直した。
何、この歓声は……? ううん、観客席からだけではない。私が周囲をキョロキョロと見回すと、運営スタッフの一部までもが、今しがた決着のついた試合会場に視線を向けて拍手を送っていた。それで思い出した。ああ、そう言えばこの大会は本阿弥グループ主催だったと。
この会場も、運営スタッフも、放映TVに至るまで全て本阿弥グループの息がかかっている。本阿弥グループにとって、本来ならこの大会は48kg以下級だけの開催でも良かったのだろう。1回戦から決勝戦までの5試合全てが全国放映される48kg以下級に比べて、それ以外の階級の放映が決勝戦のみなのもそれを裏付けている。まあ、私としては試合さえさせてくれれば、どのような扱いを受けても別に構わないんだけどね。
しかし、本阿弥グループか。私もどうしてこれまで気づかなかったかねぇ。会場に備え付けられているスピーカーから本阿弥グループを象徴するBGMが流れ始めるのを耳にし、私は軽くため息をついた。
桐生茜17歳。これまでの17年の人生でその名を聞いた事が無かったという事はないはずなのに、私は何故かそれを右から左に聞き流していた。ちゃんとその意味を正しく理解していたら、私はもっと早くにこの世界がYAWARAの世界だと気づいていただろうに……。
そんな事を考えていると、割れんばかりの大歓声の中、本阿弥さやかが周囲に笑顔を振りまきながら畳を降りてきた。まだ1回戦に勝っただけだというのに、畳から降りた本阿弥さやかは、早くもTVインタビューを受けている。
本阿弥さやか……か。うん、まだ技自体には粗さがあるし、大技に至るまでの連携もまだまだ向上の余地がある。でも、長崎選手の体幹が乱れた一瞬の隙を見逃さなかった、その勝負勘はさすがだ。
ん……? 勝負勘? そう言えば、彼女はまだこの時点では柔道を始めて半年にも満たない選手のはずだ。そんな初心者に近い彼女に対して、勝負勘などと言う言葉を自然と使わされたことに、私はふと気づいた。
強くなる……、間違いなく。現時点で私が本阿弥さやかと戦えば、体重差を横に置いておいても、十中十私が勝つだろう。それもおそらく1分以内で。
だけど、2年、いや1年後には十中十が十中八九に変わっているかもしれない。1分以内が2分以内に変わっているかもしれない。
そう私に思わせるほどの彼女の才能だった。
「何ですの、あなた? 先ほどから私をじっと見つめて」
おっと。彼女を見つめていたら、控室に戻る途中だった本阿弥さやかがその足を止め、私に声を掛けて来た。若干きょどりながらも、彼女との会話にワクワクする思いを抑えられずに返事をする私。
「え、あ……、ああ……。ごめんなさい。良い一本だったと思って。ねえ、さっき技をかける時に叫んでいた『猪熊柔』って誰の事?」
「……ふん、あなたには関係のない話よ。そう言えば、あなた先ほど私よりも早く一本勝ちを決めていたわね。ふーん……」
そう言って、私を値踏みするように目を細めて見つめる本阿弥さやかだったが、直ぐに鼻で笑い始める。
「ほほほほ。どうやら多少はやるようですが、あなた、52kg以下級で命拾いしましたね。48kg以下級に出場していれば、私の引き立て役で終わる所でしたことよ」
あはっ。その不敵な物言いが、実に私のツボにはまる。ああ、良いなー、本阿弥。彼女は常にこうじゃなきゃ。だけど、せっかくこうして会えたというのに、言われっぱなしもつまらないよね。うふふ。
私は、「あはは。それはそれは」と言葉を返しながら、「おーほほほ……」と口を大きく開いて高笑いする本阿弥さやかの口元に視線を固定し、首を傾げる。
「あれ……? 本阿弥さん、あなた、前歯が一本欠けていませんか?」
高笑い中だった本阿弥だが、私の言葉に「えっ!?」と驚愕の表情を顔に張り付かせて固まった。そして、わなわなと震える手を口元に持っていく彼女。
くっ、くくく。やっぱり指し歯だったか。
指で自身の歯をなぞり異常が無い事を確認した事で、ようやく私にからかわれた事を悟ったのだろう。途端に目を吊り上げて、私をギリギリと歯ぎしりしながら睨む本阿弥さやか。くすっ、本当に指し歯が取れても知らないよ?
「……あなた、良い度胸ね。名前をおっしゃって? わたくしが特別に覚えておいてあげるわ」
「桐生。桐生 茜。そのうち、あなたも、あなたがお熱を上げている猪熊柔も倒す予定の選手よ。是非、覚えておいてね、本阿弥さやかさん」
「桐生 茜……ね。ふん、せいぜい無駄な努力をする事ね。口だけなんて、みっともありませんわよ」
そう吐き捨て、本阿弥さやかは選手控室に戻っていった。ふふふ、良いね。本当に良い。柔道をやっていて心から良かったと思える。どうせなら、別作品になるけれど帯ギュの来留間麻理ちゃんや袴田今日子、海老塚桜子もこの世界に来ていたらいいのに。そうしたら、猪熊柔も加えて高校女子柔道界が群雄割拠の大混戦になった事だろうに……。
……と、いけない。私も二回戦に備えて身体を温めておかなきゃ。そして私は本阿弥さやかとはまた別の52kg以下級の控室に戻っていった。
「――1本!」
ワーーーーッ! 私が相手選手の背中を畳に叩きつけ顔を上げた瞬間、観客席から小さくない歓声が上がった。へえ、さすがに決勝戦ともなると注目してくれたようね。
ふー、ようやく終わった。この日の私は、全5試合1本勝ちで優勝を飾った事になる。1回戦は袖釣り込み腰、2回戦は巴投げ、3回戦は体落とし、4回戦は大内刈り、そしてこの5回戦は背負い投げ。当初の予定通り、背負い投げ以外の技の精度を確認しながらこの階級を制覇できた。
52kg以下級の決勝戦の相手は、昨年戦った山口かおる選手では無かった。彼女は何故かこの大会、1階級落として48kg以下級で出場し、決勝戦まで勝ち進んでいる。
つまり、この後行われる今日一番のメインイベント、本阿弥さやかと決勝戦を戦うのだ。
対戦選手と審判、そして試合会場に一礼した私は、バタバタと周囲を慌ただしく駆ける運営スタッフ達に視線を投げる。本阿弥グループ主催の大会の決勝戦という華々しい場に、本阿弥グループの約束された将来の女王が立つのだ。
汗の染みついた畳の清掃、どの位置で決着がついても撮り逃さないカメラの配置、優勝会見場のセットなど、本日の大取に向けて運営スタッフはやるべき事が多いのだろう。私の試合の時とは気合の入り方の違うその仕事ぶりに、所詮は48kg以下級以外の試合は、この後の決勝戦の前座に過ぎなかったという事を実感する。
「桐生茜さん。全試合1本勝ちでの優勝、おめでとうございます」
ほえ……? 不意に背後から掛けられた言葉に、私は前方の試合会場から視線を剥がし、背後を振り返る。振り返る直前、私の鼻腔に薄い香水の香りが届いたが、すぐにその香りの発生源が今まさに私に祝辞の言葉をかけた男性からのものだったと気づく。
その男性を一目見た瞬間、私の身体が硬直する。柔道会場に似つかわしくないブランド物のスーツを上品に着込み、首元には品の良いネクタイを締めた20代前半と思わしき青年。髪は薄い茶色に染めており、十分にハンサムと言って良い整った顔立ちのその青年が私に白い歯を見せて微笑んでいた。
こ、この人って……、まさか……。
未だ硬直する私の手をいつの間に取ったのか、握手するかのように自身の両手で優しく包み込む男。
「あ、あの、あなた……」と尋ねる私に、自然な仕草で「ああ……」と今気が付いたような素振りをする。
「ああ、これは失礼しました。私の名は、風祭進之助。新しく誕生した52kg以下級の女王に、何は無くともお祝いの言葉を送りたいと考え参りました」
そう言って、風祭と名乗った男は私の左手甲に軽く口づけする。て、手の甲に口づけなんて、今世はもちろん前世でもされた事ないんですけど……。ひ、ひくわーーー。
風祭 進之介――。おおよそ『YAWARA!』の読者なら、この男を知らない者はいないだろう。猪熊柔の初恋の相手(錦森は除外する)であり、松田耕作と恋のさや当てを物語中何度も展開した天性のスケこまし。物語の最後では、バルセロナの地で猪熊柔にプロポーズするも完全に彼女に忘れ去られ読者の留飲を大いに下げてくれた挙句、最終的に本阿弥さやかと結婚した男だ。
正直、この男が作中でものにした女性は枚挙に暇がない。私が覚えているだけでも、百合恵に、美奈子、真理子、聖神女学館大学の女子部員、そして……本阿弥さやか。猪熊柔に秋波を送っておきながらその節操のない女性遍歴から、当時の作中人気ランキングでは常に低空飛行だった、ある意味作者の狙い通りとも言える不人気キャラ。
もちろん心の底から『松田×柔』推しである私からしても、この男はにっくき存在と言える。憎い度ランキングの次点は邦ちゃんだが、まあ彼女は最後に松田耕作と猪熊柔の背中を押す潔い人間に変貌するので良しとする。
まさかそのスケこましとここで出会うとは。いや、しかし確かに原作では既にこの段階で風祭は本阿弥さやかのコーチをしていた。だから別によく考えれば不思議な事ではない。
よく考えても不思議なのは、この男の私に対する先ほどの行動だ。この男は、ものにする女性をはっきりと容姿で選んでいる。その基準でいけば、今示したような行動を私に行うはずがないのに、これはいったい……。バグったか、風祭進之助?
「か……風祭さんとおっしゃるんですね。ありがとうございます。でも、運よくスピリッツ杯の52kg以下級を制しただけですので、女王なんて恐れ多い……」
かろうじてそう口にして、未だ風祭に取られたままだった手をスッと引く私。ついでに、柔道着の袖で手の甲をふきふきする事も忘れない。
「運よく、などととんでもない。私には分かります。あなたの実力は抜きんでています。あなたがもし48kg以下級に出場していれば……、と考えると思わず戦慄を覚えるほどに。それに……、あなたが抜きんでているのは実力だけではありません。その美貌、イタリアのヴィオレッタを想起させるその赤く美しい髪に、今にもその内から芽吹こうとしている大人の魅力。いやー、実に素晴らしい」
……。間違いない。私はこの柔道会場で風祭にナンパされている。どうして? 風祭ったら女性の好みが変わったのだろうか。私如きに興味を示すとは……。そんな風に私が困惑していると、その風祭の背後から声が投げかけられる。
「風祭さん……? そんなところで何をなさっているのかしら? あら、あなたは……」
本阿弥さやかだ。スタッフによる準備が整ったのか、控室にいたはずの彼女が試合会場の傍までいつの間にかやって来ていた。
「――!? さ、さやかさん!? いやー、こちらの女性の健闘を称えていたところでして。さやかさん、思ったより早かったですね」
途端にしどろもどろになって私から距離を取る風祭。そんな彼を胡散臭そうに見つめていた本阿弥さやかは、次いで私に視線を投げかける。
「その様子を見ると、52kg以下級を制したのはあなたのようですね。安心しましたわ、どうやら口だけの人間では無かったようです。では、今日はあなたのお相手はできませんが、猪熊柔を負かした後に、あなたのお相手をして差し上げますわ。おーほっほっほ。感涙にむせび泣いてもよろしくてよ」
口に手を当ててそう高笑いする彼女に私は、「……へえ、では、あなたが私の相手をする事は一生なさそうですね」と、笑顔を浮かべる。
「……何ですって?」 高笑いを止めて、私を不審そうに見つめる本阿弥さやか。その彼女に私は言葉を続ける。
「だって、あなたでは猪熊柔に勝つ事はありませんから」
「――! あなた、猪熊柔を知っていて!?」
私のその安い挑発に顔色を変えて乗ってくるお嬢様。
「さあ……? あなたが今日この決勝戦で勝って、彼女を表舞台に引っ張り出してくるんでしょう? 楽しみにしているわね」
彼女を表舞台に引っ張り出してくるのはあなたではなく松田耕作だが、その事は今は良いだろう。私は彼女に場を譲るように、横に身体をずらす。
本阿弥さやかは私にまだ何か言いたそうにしていたが、審判に促された事で畳の上に上がっていく。私はその様子を横目にしながら、内心で彼女に語り掛けていた。
今日の主役は確かにあなたよ。でも、それも猪熊柔が表舞台に出てくるまで。残念ね、本阿弥さやか。原作であなたが執着した相手は猪熊柔だけだったけれど、この世界ではそれに私まで加わる事になるわ。
あなたがまだまだ成長途上という事は分かっているけれど、それは私だって同じ。お互い、頑張りましょう。
本日最後の試合の勝者は、大方の期待の通り本阿弥さやかだった。彼女は試合の後の優勝インタビューで、まだ世に知られていない最大のライバルに早く出てこいと宣告する。その様子を最後まで見届ける事無く、私は選手控室に戻っていった。
~~~~秋田東工業高等学校 柔道部部室~~~~
「まったく、どうして48kg以下級の試合は全試合やってんのに、それ以外の階級は決勝戦しかやらないんだよ。贔屓じゃないか」
部室に置いてある小さなブラウン管のTVの前で、2年の溝渕がそんな風に愚痴をこぼす。そのTVからは、東京で行われているスピリッツ杯女子柔道選手権大会の模様が映し出されていた。
その言葉に副キャプテンである真田が、「実際、贔屓しているんだよ。ほら、聞こえるだろう」と、TVに向かって顎を振る。TVからはちょうど「ほんあーみィ♪ ほんあーみィ♪ ほんあみグループゥ♪」と、耳にタコができるほど同じ曲が流されていた。
「ああ、48kg以下はあの本阿弥さやかが出ているんだったか。道理で。だけど、容姿だけならうちの桐生も負けてないのに、悔しいな。桐生はちゃんと決勝まで残っているかな」
もう一人の2年生である田代が心配そうにそう口にする。
「桐生なら大丈夫さ。俺は、本気を出したあいつが国内で敗れる所が想像できん。それより、1年生はどうしたんだ? 今日部室のTVの前で一緒に桐生の応援をしようと言い出したのは、1年生じゃなかったか?」
真田が、2年生しか集まっていない部室内をぐるりと見まわして、そう溝渕と田代に問いかける。しかし、問われた二人はその原因に心当たりがあるのか、顔を見合わせて言いにくそうに言葉を濁した。
「いや……それが……1年達に注意する事を、その……忘れていて……」
「うむ……、すまん、真田……」
「……? ――! おい、まさか……」
最初は首を傾げていた真田だったが、不意に、思う所があったのか、色を変えて茫然と佇む。
「ああ、忘れていたんだよ。あいつの手作りチョコを食ってはいけないという事を……」
「1年生達にはすまん事をした……」
「なんてことだ……。それでは、1年生達は今日だけじゃなく明日も学校に出てこれるかどうか、分からないじゃないか……」
彼らにこれほどの絶望を与えたもの。それは、彼らの誇るべきキャプテン『桐生茜』の手作りチョコレートだった。いや、それは実のところ、チョコレートという括りで語るのもおぞましい、劇薬と言っても良い物体だった。
2年生はその危険性に気づいていた。昨年の苦い経験があったから。そもそも桐生茜が手作りのチョコを作り始めたのは、彼女が高校に上がってからだった。学生にとっての2月の一大イベントと言えば、何といってもバレンタインデー。
柔道部唯一の女性である彼女は、自分が男子部員にチョコを贈らなければ、男子部員はきっとただの一つもチョコを貰えないだろうといういらぬ義侠心を抱き、日頃女らしさを微塵も見せない彼女には実に珍しい事に、昨年よりバレンタインデーに手作りチョコを部員に贈るという事を、自身に課していた。
「真田は……桐生チョコ、どうしたよ?」と、溝渕が口に出すのも憚られるかのように小声で尋ねる。
「俺は……その……松本の下駄箱に……」
「お前もか……。俺も職員室に行った時にあいつの机の上に……」
「俺もだ……」
ここで彼らが語った松本とは、秋田東工業高等学校の物理の教師であった。規則規則といつも口やかましいこの教師に常日頃より思う所のあった彼らは、差出人不明として松本の下駄箱や机の上にそっと桐生から渡されたチョコレートを置いていたのだ。
「歴史は繰り返す……だな。桐生の見た目に騙されていた1年坊主共も、これで多少は熱が冷めるだろう」
「だな……。まあ死にはしないだろう。松本と仲良く自宅療養すると良いさ。あっ、始まったぞ、決勝戦!」
何かを悟ったように語り合う彼らだったが、TVに彼らのキャプテンである桐生の姿が映ると、彼らの視線はTVにくぎ付けになったのだった。
~~~~スピリッツ杯 会場~~~~
柔道着から特に代わり映えしない私服に着替えた私は、狭い通路を出口に向かって一歩踏み出した。昨年の選手権大会同様に、今日中に秋田まで帰るつもりでいるので、私のその足取りは早かった。背後の試合会場に面した通路の向こうからは、「おーほほほ」という、どこぞのお嬢様の高らかに笑う声が、未だに私の背中に届いていた。
「桐生さん、『全日本柔道体重別選手権』に続く52kg以下級制覇、おめでとうございます。もう52kg以下級は完全に桐生さんを中心に回っていますね」
おや、この声は……。3か月ほど前に耳にした声音からそれを発した人物を察した私は、笑みを浮かべながら振り返る。そこにいたのは、予想の通り日刊エブリースポーツの松田耕作記者と鴨田カメラマンだった。
「ああ、えっと、松田さんに、鴨田さん。お久しぶりですって、どうされたんですか松田さん。その顔のお怪我は?」 今回は会えないか、と思っていた2人にここで会えたのは嬉しかったが、松田さんの顔がバンソーコだらけなのに驚く私。
「あ、ああ、これはちょっと転んで。そんな事よりお急ぎの所、申し訳ありません。少しお話を伺っても?」
転んで……? ああ、そうか。そう言えばこの時松田さんは、風祭にバスの中から投げ飛ばされて怪我をしていた気がする。ふふふ、松田さんには申し訳ないけれど、猪熊柔を取り巻く情勢は順調に進んでいるようで何よりだわ。
「それは構いませんが、あちらの48kg以下級の覇者のインタビューに行かなくて良いんですか? ずいぶん盛り上がっていますよ」
私は、本阿弥さやかと彼女におべっかを使う記者達の声が聞こえてくる会場の方を指さしながら松田さんに返事をする。しかし松田さんは苦笑いを浮かべながら、「いや、彼女の自慢話は正直もう聞き飽きていまして」と苦笑いを浮かべる。
私は鴨田カメラマンからの、賞状を持って笑顔を向けて欲しいというリクエストに応じながら、松田さんからの問いかけにも応えていく。
「試合前に本阿弥選手と言葉を交わしていたようですが、どのような会話を? もしかして、本阿弥選手に48kg以下級に転向するよう誘われたとか?」
「いえ、違います。ただの世間話、女子トークです。そうそう、48kg以下級と言えば、今日は山口さんが48kg以下級に転向していましたね」
「ええ、どうやら所属大学の監督の意向のようですね。ですが、彼女に48kg以下級は……」
「そうですね、向いていないでしょうね」
山口選手の今日の戦いぶりは目にしていた。決勝戦以外を全て一本勝ちで勝ってきてはいたものの、彼女の持ち味であるキレの良い足さばきが、今日は鳴りを潜めていた。無理もない。私以上に上背のある彼女だ。それが減量による影響なのは明らかだった。その事に松田さんも気付いている。
「そう言えば、本阿弥さんが優勝インタビューで猪熊柔という女性の事に言及していましたね。もしかして、その猪熊柔と言う名前の選手が、以前松田さんが口にしていた注目株の選手ですか?」
答えを分かっていながら直接松田さんからの答えを聞きたかった私は、そう言葉を投げかけてみる。松田さんと鴨田さんは私の問いかけに互いに顔を見合わせぐっと押し黙るが、一拍置いて松田さんが小さな声で私の問いに応えた。
「……その通りです。でも、彼女の存在はまだ世に知られていません。ですから桐生さんも彼女の事はまだ内密に……」
「もちろんです。あの本阿弥選手が執着し、松田さんが私より強いという選手ですもの。彼女が早くこちら側に来る事を心より願っています」
「……。残念です。桐生さんが彼女と同じ階級だったら、きっと本阿弥選手を超える彼女のライバルになった事でしょうに」
そう言って心底悔しそうにする松田さんに、私はほんの少しだけ悪戯心が湧く。
「くすっ、本阿弥選手だってまだまだ成長途上ですから、将来は分かりませんよ。ほら、『柔の道は一日にしてならずぢゃ』という格言もあるではないですか」
「ま、まあそれはそうなんですが……。……? あれ、今何と言いましたか、桐生さん?」
私の発した言葉の意味に気づきかけて、不審の表情を顔に浮かべる松田さん。そんな彼に私は「汽車の時間があるからこれで」と、断りを入れて足早にその場を立ち去ろうとするが、一つ忘れていた事を思い出して、柔道着を入れたバッグの中に手を突っ込む。
皆に配った余り物だけど、念のために東京まで持って来ていて良かった。
ガサゴソとバッグの中を漁り、目当ての物を取り出した私は松田さんと鴨田さんにそれを手渡した。それはピンク色の包装紙で包んだ手のひらサイズの小箱だった。
「これ、今日お二人に会えたらお渡ししようと思っていたんです。ふふふ、ちょっと遅いですが、バレンタインのチョコです。手作りなんですよ。良かったら食べて下さい」
私からなかば押し付けるように渡された小箱に茫然とする2人。本当に帰りの汽車の時間が迫っていた私は、彼らの「あ、ありがとう」という言葉に手を振りながら、その場を後にした。
~~~~東京都 寿町2丁目3番 とある邸宅~~~~
「……悔しかったら早く出てらっしゃい!! 柔さん!! 私は、逃げも隠れもいたしませんわ!! 私は、あなたと戦うために柔道界入りしたのです!!」
TVの向こうからの突然の挑戦状に、居間にいた一人の少女と高齢の男性が口をあんぐりと開けるが、すぐに少女が「――信じらんない!!」と声を荒げる。
その様子を見て高齢の男性がTVを指さしながら「みごとな挑戦状じゃ、どうする、柔!?」と問いかけるが、柔と呼ばれた少女にとって挑戦状などどうでもいい事だった。問題はただ一つ。
「冗談じゃないわ!! 勝手に人の名前、テレビで言わないでよ!!」
憤慨した彼女は、そうTVの向こうの少女に対して怒気を発しながら台所へと戻っていった。その背中を見つめながら、「まったく、柔ときたら。儂の時代では、これほど胸のすく挑戦状を貰えば、思わず小躍りしたものじゃぞ……!」とぶつぶつと呟く。
そして高齢の男は、再びTVに視線を投げかけ、残念そうな顔を浮かべながら首を左右にふるふると振った。
「しかし……、この大会は日本人だけの大会かと思っておったが、どうやら違ったようじゃのう。……惜しい、実に惜しい事じゃ。あの52kg以下級を制した
彼の脳裏には、52kg以下級を胸のすくような見事な背負い投げで制した、赤毛の髪の少女が浮かんでいた。
#######################################
【本阿弥 さやか ステータス】
なまえ :ほんあみ さやか
せいべつ :おんな
ねんれい :17さい
れべる :18
くらす :じょし48kgいかきゅう
ちから :71
すばやさ :143
たいりょく:83
かしこさ :120
わざ :128
こうげき力:153
しゅび力 :129
E じゅうどうぎ(しゃねる)
【山口 かおる ステータス】
なまえ やまぐち かおる(*)
せいべつ :おんな
ねんれい :22さい
れべる :20
くらす :じょし48kgいかきゅう
ちから :74
すばやさ :139
たいりょく:118
かしこさ :155
わざ :118
こうげき力:140
しゅび力 :122
E じゅうどうぎ
*調整失敗による弱体中。
風祭 進之介。決して好きなキャラクターでは無いですが、描写すると本阿弥さやか同様楽しいキャラクターでした。実を言うとアンチ・ヘイトタグは彼のために念のために着けたタグなのですが、彼にも彼の良さがあるので(ん、あったかな?)、多分そんなにひどい描写はしない……と思います。