ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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61話 男女国別団体戦 4回戦 準決勝 次鋒戦

side 山口かおる

 

「お疲れ、本阿弥」

 

負けるなんて露ほども思っていなかったのだろう。唇を強くかみしめながら畳から降りて来た本阿弥の肩に手を置き彼女をそう労った後、直ぐに私は畳に上がった。

 

電光掲示板のJPNの隣に黒く塗りつぶされた〇が点灯している。手痛いのは間違いない。柳澤監督は、3人のポイントゲッターを日本とカナダ共に並べた先鋒戦、中堅戦、大将戦のうち、最も分があると思われた先鋒戦でまず一勝を計算していたはずだ。

 

その先鋒戦を落とした。本阿弥も自身に求められていた役割は痛い程理解していただろうけれど、これも柔道。これも勝負のあやというもの。まだ彼女は若い。彼女なら、この経験を糧にして次に生かしてくれる事だろう。

 

そして、チーム最年長の立場としては、出来る限り早くにその次を若い子に用意してあげなくてはいけない。そのために私はこの畳の上に立っている。本来なら私はもう引退して然るべき選手だった。2年前の11月に東京で開催された『全日本柔道体重別選手権』の52kg以下級の決勝戦。桐生茜に敗れたのをきっかけに私は48kg以下級に転向した。

 

それは、足技を中心とした私の戦い方を考えると長い手足が有利になる48kg以下級の方が私に適しているという判断からだったが、一方で“彼女から逃げた”と後ろ指を指されてもそれは違うと否定できない私がいた。それほどの可能性を私は桐生茜に見ていたのだから。

 

そして新たな主戦場とした48kg以下級でも、桐生茜に続けとばかりに次々と若い選手が台頭してきた。もちろんそれは猪熊柔と本阿弥さやかの事だ。桐生茜と同年齢の彼女達もまた、ただ試合経験が豊富なだけの私より遥かに才能に恵まれた選手達だった。52kg以下級でも48kg以下級でも存在感を発揮できなくなっていた私は、いつしか引退を視野に入れていた。実家で柔道教室を開いている父からも、そろそろ地元に戻って来て教室を手伝ってくれと何度も電話がかかってくる。

 

それを押しとどめたのが柳澤監督だった。

 

『山口、お前のその経験が必要になる場面がきっとやってくる……! 確かに今の日本女子柔道界には若手が次々と台頭してきている。だが、頼む、若い選手達にお前のその経験を受け継がせる機会を与えてやってくれないか!』

 

柳澤監督の言葉が、ただの儀礼的なものに過ぎない事は分かっている。実際、今日の団体戦のこれまでの3試合の私の成績は、1勝1敗1引き分け。いくら1階級上のクラスで出場していると言っても、監督の期待に十分応えていられていると胸を張れる成績ではない。

 

開始線に立つ私の数歩前には、カナダの次鋒 アイヴィーが。アイヴィーの事は良く知っている。長年52kg以下級でしのぎを削ってきた仲だ。そのアイヴィーが燃えるような眼で私を見つめている。おそらく彼女はこう言いたいのだろう。

 

『52kg以下級から逃げた選手が、今更戻って来てどうするつもり?』

 

 

 

「――始めっ!」の主審の声に、私達は前に出る。互いに組手争いには妥協しない私達だけど、アイヴィーとの対戦はかれこれ7度目になる。おかしな話だが、阿吽の呼吸で直ぐに悪くない釣り手と引き手を共に取り合う。

 

「―おうっ!」

 

「――!」

 

先手を取ってきたのはアイヴィー。52kg以下級では比較的小柄な体格のアイヴィーが右の一本背負いを仕掛けてくる。喰らうかっ、と身体を左にずらして避けようとすると、一本背負いはフェイントだったようで、直ぐに左の内股に切り替えて追って来る。

 

アイヴィーお得意の右回転の技から左回転の技への流れるような攻撃。だけど、彼女の手の内を知り尽くしている私は、私の右内股を狙って跳ね上げられた左足を余裕をもって躱す。相変わらずね、アイヴィー。あなたの左回転の技は、右回転のそれに比べて練度が足りていない。

 

そのまま私は彼女に対して体落としを仕掛けるが、早々に引き手を切られ不発に終わる。息をつく間もなく再び組み合い、互いにけん制し合いながら技をかけ合う私達。よどみのない展開は、互いに手の内を知り尽くしている私達だからこそのもの。それが良い事なのか悪い事なのかは別にして。

 

 

 

「山口先輩、良い動きです!」

 

この声は三上だね。三上は私の試合の後3番手として畳の上に立つ。もし私がこの試合を落とせば日本は2連敗となり、後がなくなる。ただでさえ緊張しやすい三上にそんな日本の命運を託すような試合を押し付けたくはない。

 

勝って三上に引き継いであげたい、絶対に!

 

階級こそ一つ下に落とした私だが、それで身長や手足が短くなるわけでは無い。一度組手を切った私は再び組み合う際に、私より上背で劣るアイヴィーの奥襟を取る。そして今度は脇を締めながら一歩後ろに引く。そうする事で、相手の頭は自然と下がる。

 

ほら、下がった。今だっ! 遠い間合いから私は一足飛びにアイヴィーの左側面に飛び込んだ。狙うは大外刈りっ!

 

「――!」

 

貰った! 大外刈りの勘所は、相手の重心を吊り手と引き手で崩す事。そして今アイヴィーの重心は崩れた。後はこのままアイヴィーの身体を畳に叩きつけるだけ――だったはずなのに。

 

ガシィッ!

 

――止められたっ! 身体ごとぶつかった勢いのままにアイヴィーを畳に叩きつけたかったのに、後に大きく反っていたアイヴィーの身体が途中から畳に根を張ったように動かなくなった。

 

ぐぐっ! まずいっ、飛び込んだ際の私の勢いは完全に止められた。今はかろうじて均衡が維持できているけれど、徐々に今度はアイヴィーの方が私を後ろに引き倒そうと力を込めて来た。これは大外刈りに対するカウンター 大外返しだ!

 

「――でやぁっ!」

 

アイヴィーが逆に私に対して大外刈りを仕掛けた格好になり、私の身体はいともたやすく宙を舞った。

 

ズズーン!

 

痛っ! いや、痛がっている場合じゃ無い。早く寝技への防御態勢を取らなければ。まだ試合は終わっていない。アイヴィーの大外返しに対するポイントは“技有”だったのだから。

 

アイヴィーが四つん這いになった私に対して覆いかぶさってきた。だけど、これは恰好だけ。アイヴィーの寝技技術は私のそれには及ばない。それは彼女もよく理解しているので、今彼女が寝技を仕掛けて来たのは、ポイントで有利に立ったので少しでも残りの時間を減らそうと言う戦略に他ならない。

 

形だけのアイヴィーの寝技を防ぎながらチラッと電光掲示板に視線を投げる私。残り時間2分と33秒。時間がない。早く審判に試合を止めて欲しい。その願いが通じたのか、残り時間が2分と29秒になった時点で主審が“待て”を告げた。

 

アイヴィーと私はゆっくりと立ち上がりそれぞれの開始線に戻って行く。直ぐに試合再開かと思ったが、審判が私の柔道着の乱れを正すように指摘する。ああ、確かに乱れているわね。おそらくさっきの大外刈りから大外返しの攻防の際に着崩れしたのだろう。

 

ふーー。帯をほどきながら、私は深く息を吐いた。まいったな。4kgの差は思った以上に大きい。さっきの大外刈り、おそらく私が52kg以下級に出場していた時だったら決まっていたはずだ。だけど今の私の体重は48kgジャスト。あの頃より4kg足りない。そして筋力もその分落ちている。体重と筋力の不足が、先ほどの大外刈りで仕留めきれなかった原因だ。

 

アイヴィーもそれを承知しているのだろう。ほら見た事か、という目で私を見ている。

 

さて、どうしたものか。体重と筋力の不足を今更補う事なんて不可能。ない物ねだりをしても仕方ない。それに、自身の出場階級以上の階級に出場しているのは私だけではない。とりわけ日本チームにはそんな選手が多い。52kg以下級でありながら無差別級である大将をこれまでの全試合で務めている桐生。そして同じく52kg以下級の三上も72kg以下級と、最大20kgの体重差の中堅戦に出場している。

 

弱音なんか吐けるか。彼女達と比べたら私の体重差なんて誤差のようなもの。先達の柔道家としてここで意地を見せずに、いつ見せるというのか。私は山口! 山口かおるだっ!

 

私は最後に帯をギュッと締めて、アイヴィーをきっと見返した。

 

「――さあ、来いっ!」

 

主審の再開の合図があった直後、私は吠えた。いつ以来だろう、試合中にこれほどの気勢の声を上げるなんて。少なくともこれまでのアイヴィーとの試合では上げていない。その証拠にアイヴィーの顔に僅かに驚きの感情が現れたのが見て取れた。

 

再び組み合う私達。上背がある分有利な奥襟を取る事が出来るが、アイヴィーは力に任せてそれを切ってくる。ポイントで負けている私は積極的に攻めるが、アイヴィーはそのポイントを守るかのように受け身の柔道で私の攻めを受け流す。

 

それでも私は攻める。日の丸の国旗が激しく振られ、私を後押しする。もちろん藤堂達からかけられる声援も私の力となった。

 

小内刈り。決まった。ちっ、有効か。時間が無いと言うのに……。残り時間が40秒を切った。あと仕掛けられる技は幾つだろう。駄目か……。いや、諦めない。絶対に。バトンを繋ぐんだ。本阿弥は敗れた。それでも私は確かに彼女からバトンを受け継いだ。三上に繋ぐんだ。それを。三上は藤堂に、藤堂は桐生に。それが団体戦だ。これが団体戦だ。

 

試合再開の合図と共に私は開始線から矢のように飛び出した。アイヴィーは、組手争いに備えて両手を胸の高さまで上げて私を迎え撃つ。

 

決して計算した訳では無かった。先の大外刈りが体重と筋力の不足で止められたのなら、その不足を補う程の速さで飛び込めば良いと考えていたのは事実だ。だけど、先の技は私にとって取りうる最速の仕掛けだった。

 

あれ以上となると……。あれ以上……。

 

そうだ、これしかないっ!

 

アイヴィーに呼吸を合わせる様に私も両手を胸の高さまで上げる。セオリー通りの組手争いをアイヴィーは期待している。その証拠に、取ってみろとばかりに少し頭を落とし、その奥襟を私にちらりと見せさえもしている。

 

ーー残念、アイヴィー! 私は組まないよっ!

 

「――はっ!」

 

「――!?」

 

仕掛けたのは先ほど同様、大外刈り。ただ違ったのは、組んだ状態から飛び込むのではなく、組まない状態から飛び込んだ事。“組む”と“飛び込む”を同時に行う大外刈りよっ! これが、体重と力が不足している私がたどり着いた現時点の最適解。

 

「――でぇぇぃっ!」

 

半ば体当たりのような勢いでアイヴィーに飛びつくと同時に、彼女を背後に全体重をかけて引き倒す。これが最後の攻防になる事を理解していた私は、後の事を一切考えずに遮二無二になって彼女の足を刈る。

 

ズダーーンッ!

 

「――一本!」

 

 

主審の言葉に、アイヴィーは驚きに目を大きく見開き、私は感極まって目を閉じた。たかが一勝。されど一勝。これまでの柔道人生で数多くの勝ち星を積み上げて来たけれど、それら全てを足してもこの一勝の喜びには及ばない。

 

これがオリンピックか。これがオリンピックで行われる団体戦か。その魔物めいた魅力に、私は身体が振るえる程感激していた。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

「さあ、繋いだよ、三上。次はあんたの番だ。頑張りな」

 

勝利宣告を受けて畳に一礼して戻ってきた山口が最初に声をかけたのは、彼女の次に試合をする三上だった。

 

「はいっ、山口先輩! 先輩の試合を見て勇気を貰いました。当たって砕けろ、です! 行ってきます!」

 

砕けられたら困るんだけどな、と思っていると、その三上は山口と入れ違いに畳に上がって彼女の戦場に向かって行く。良い表情だ。これは、三上も言っていたけれど、先ほどの山口の試合のお陰と言っても良いだろう。

 

長年日本の女子柔道界を牽引してきたベテランらしい素晴らしい試合運びだった。上の階級に挑戦する事は、必ずしもハンディだけではないと言う事を体現した試合運びだった。三上も随分勇気を貰った事だろう。

三上も私も応援に力が入りすぎ、彼女が勝負を決めた瞬間に自身がどっと汗をかいていたのに初めて気づいたほどだった。

 

だけど、そのおかげで三上は山口の試合の熱戦を我がことのように感じながら自身の試合に臨めることだろう。山口は日本に貴重な一勝をもたらしただけでなく、最高の形で次戦にバトンを引き継いだと言える。

 

「お疲れさまでした、山口さん。私、本当に感動しました」

 

柔ちゃんからねぎらいの言葉と真新しいタオルを手渡された山口は「ありがとう」と、自分の仕事をやり切った職人のように、すがすがしい笑顔で応える。そして流れる汗を拭った山口は私に視線を投げかける。

 

「桐生、あなたまで繋ぐからね。三上も、藤堂も。しっかり準備しときなよ」

 

ああ、良いなぁ。これだから団体戦はやめらんないのよ。無差別級の開催だけでなく、団体戦の開催まで応えてくれたタマランチ会長ことタマちゃんに、私は心の内でそっと感謝の言葉を述べながら山口に応える。

 

「はい、もちろんです。それに……」と山口に応えながら、未だ仏頂面で私達の輪に入ろうとしない本阿弥に私は顔を向ける。

 

「ほら、さやか。いつまでさっきの敗戦を引きずってるのさ。山口さんが一勝したよ。これで一勝一敗。まだ終わってないよ。三上さんを一緒に応援しようよ」

 

「ひ、引きずってなんていませんわ……! 次は絶対に負けませんから!」

 

「ならその次の機会を得るために、三上さんを応援しようよ」

 

「そうよ、さやかさん。ほら、こっちに来て!」

 

柔ちゃんがさやかを前に引っ張り出して来る。そんな私達のやり取りをつまらなそうに見ていた藤堂がふんっと鼻を鳴らす。

 

「なんだい、たかだか一敗したくらいで人生が終わったような顔をして。個人戦じゃないんだ。団体戦なんだから、自分が負けても他の奴が勝って最終的にチームとして勝てば良いんだよ」

 

「そうよ、本阿弥。結果的に負けたけど、私は確かにあなたからバトンを渡されたわ。今そのバトンは三上の元にある。さあ、一緒に応援しよう」

 

「わ……分かりましたわよ。応援……すれば良いんでしょ。すれば。三上さん、頑張りなさいなっ!」

 

そして日本対カナダの第3戦 中堅戦 『三上杏 対 クリスティン・アダムス』戦が幕を開けたのだった。

 

 

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