ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「――始めっ!」の主審の言葉が終わるや否や、日本の大将である桐生が両手を持ち上げ威嚇するように「――さあ、来ぉいッ!!」と声を張り上げる。それにロックウェルが鬼の形相で「――おおぅッ!」と応え、桐生に突っ込んで行く。
「さあ、大将戦が始まりました! 山上さん、桐生選手からは珍しく気合の声が上がりましたね!」
「ええ、日本はどうにかして桐生にまで回そうと、皆が決死の覚悟で繋いできましたからね。その意気を感じているが故の、あの叫びだったのでしょう!」
「ふんっ、何が気合の声じゃ。気合で勝てるのなら苦労はせんわっ!」
「ーー猪熊先生!」
もはや二人目の解説者と言っていい猪熊滋悟郎の出現に、山上は驚きの声を上げた。
「喰うか?」と目の前に突き出された菓子を丁重に辞退しながら、山上は猪熊滋悟郎に水を向ける。
「猪熊先生は、この試合どうご覧になりますか? 見ての通り、両者の体格差は歴然ですが、これまでの試合のように桐生は勝利できるでしょうか?」
「さて、どうぢゃろうな。ジョデーは、今日これまでに桐生が戦ってきた選手とは訳が違うからのう」
それは山上も感じていた事なのだろう。深く頷いた山上は試合会場を見下ろす。
畳の上では、がっちりと組み合った両者が対峙していた。体格は大人と子供ほどの差がある両者だが、意外にロックウェルが桐生を押し込めていない。両者は、開始線の中央で互いに押し合う力が拮抗するかのように足を止めていた。
「桐生選手、真っ向からロックウェル選手と対峙しています。これは凄いですね、山上さん。これまで重量級の選手を圧倒していたロックウェル選手を、あの小柄な体で押し留めています」
押し留めているばかりか、桐生はロックウェルを中心にゆっくりと反時計回りに移動しながら小刻みに足を飛ばす。ロックウェルは、桐生のその動きに窮屈そうにしながらまだ有効な技を放てていない。その様子を見ていた山上は何かに気づいたのか、猪熊滋悟郎に顔を向けた。
「猪熊先生、桐生の右手ですね」
「うむ……右手ぢゃ」
二人だけで納得しあっている様子を見て、不思議そうな表情を顔に浮かべるアナウンサー。そのアナウンサーに山上は説明する。
「ロックウェルに押し込まれていない理由は、桐生の右手、いわゆる釣り手にあります」
「釣り手……ですか?」
「そうです。ご覧ください、桐生の右手は常にロックウェルの左手の上に置かれているでしょう。桐生は右手でロックウェルの肘をこう、上から抑え込む事でその持ち前の力を十分に発揮させていないんです」
山上がジェスチャーを交えてアナウンサーに説明している隣で、猪熊滋悟郎は眉間に皺を寄せて静かに畳の上に視線を落としていた。
「誰にでも出来る技ではありませんよ。桐生茜、素晴らしい
だが、首をさも感嘆するかのように左右に振る山上に、投げかけられる言葉が。
「じゃが、相手も一流の柔道家 ジョデーぢゃ。……ジョデーの右手を見てみぃ」
「右手……釣り手ですか? ――! いつの間にっ!?」
桐生の右襟を取っていたはずのロックウェルの手が、いつの間にか彼女の奥襟に伸びていた。
「気づかんかったか? 桐生に引き手を殺されている間に、ロックウェルは動きの中で少しずつ釣り手の位置を変えておった。あれもまた、地味なようぢゃが、一流の柔道家による一流の技ぢゃ……!」
奥襟を取られた事で桐生の頭が次第に下がっていく。頭が下がればその動きにも陰りが出る。軽量級ならではの軽快な足さばきが影を潜めるのは時間の問題だった。その足が完全に止まる前に事態を打破せんと先に動いたのは桐生。
彼女はロックウェルの襟元を取っていた右手と袖口を取っていた左手を同時に手放し、両の手で自身の奥襟に伸ばされたロックウェルの手を引きはがす。それは、両の手を用いなければロックウェルの手を剥がせなかったが故であるが、その絶好の機会を逃すロックウェルでは無かった。
「――しまっ!」
桐生も、自身が両の手を離せば防御の事を考える必要のなくなったロックウェルが攻めに転ずる事は予測していた。しかし、ロックウェルの攻めはその桐生の予測の上をいった。
「――こなくそぉっ!」
一足飛びに桐生の懐に飛び込み、そのまま大外刈りを仕掛けるロックウェル。ロックウェルの太い腕が桐生の首に巻き付き、そのまま彼女を後方に引き倒す。
ズダーーーーン!
「――技有っ!」
メイプルロール旗を掲げる応援団から歓声が上がるが、同時に仕留めそこなった事に対する溜息もわずかながら漏れた。カナダチームも一本を確信していたが、一転して頭を抱えて悔しそうな態度を露わにする。
「――技有、技有です。桐生選手、ロックウェル選手の大外刈りで技有を取られましたっ! 山上さん、桐生選手はあわや一本かと思われましたが、かろうじて躱しましたね?」
「ええ、際どい所でした。奥襟を取られてもまだ完全に桐生の足が止まっていなかった事と、直前にロックウェルの奥襟を剥がせていて、彼女が引き手だけで大外刈りを仕掛けた事が功を奏しましたね。後少しでも判断が遅れていたら、やられていましたよ」
山上が解説している間にも、「待て」がかかっていた両者の戦いが再開される。
「さあ、桐生。ポイントを奪われたと言っても、まだ時間は3分以上残っています。強気な攻めの柔道を信条とする彼女の事です。このままで終わるとは思えません。そうですよね、猪熊先生?」
「……あ奴が、あれでジョデーを必要以上に恐れなければな」
「桐生がロックウェルを恐れる? それは……?」
山上の問いかけに猪熊滋悟郎は、「見てみぃ」と畳の上で組み合う桐生を指差す。
「ほれ、さっきのように組み合ってはおらんぢゃろう。ジョデーを怖がっている証じゃ」
その言葉に、山上は畳の上の二人を見やる。なるほど、試合当初の姿とは異なり、確かに桐生は正面から組み合っていない。桐生は右手でロックウェルの左襟だけを取っており、自身の左半身は後ろに引く、いわゆる半身の姿勢を取っている。
そのため、ロックウェルは桐生の左袖、つまり引き手しか取れていない。ロックウェルは右手を伸ばし釣り手を取ろうとするが、桐生が彼女に対して反時計回りに動くためその手は空を切る。
「……釣り手でロックウェルの動きを掣肘しているのは、先ほどと同様ですね。ですが、引き手を取っていないので桐生も有効な技を仕掛ける事ができていませんね」
「そういうことぢゃ。ただでさえ負けておるのに、あのような逃げの柔道をしておっては、勝てるわけがなかろう」
猪熊滋悟郎が桐生の組手を見てそう評していた同時刻。会場の片隅で準決勝の試合の様子を腕組みをして見つめているチームがいた。一足先に決勝進出を決めているソビエトチームだ。
「あの様子では、決勝の相手はカナダに決まりだな。フルシチョワ、残念ながらお前にキリュウとの再戦の機会は訪れなかったな」
ソビエトの48kg以下級代表選手が、彼女の肩に手を置きながら語り掛ける。しかしフルシチョワはその言葉に迎合しなかった。
「あの様子……? オリガ、お前にキリュウの何が分かると言うのさ。テレシコワ、お前はあの組手をどう見る?」
フルシチョワに水を向けられたテレシコワは、怜悧な視線を畳の上の桐生に固定したまま応える。
「私にも一見逃げの態勢のように見える……が、あのキリュウの事だ。何か裏があるようにも思える。フルシチョワ、直接奴と戦ったお前の方がキリュウには詳しいのではないのか?」
その言葉にフルシチョワはフッと笑みを浮かべる。
「保留付きか。皆、キリュウの事を分かっていないな。あいつは、最後の瞬間まで相手に一本勝ちする事を狙い続ける、いかれた女だぞ。そんなあいつが、いかにロックウェルが相手とは言え、ただの逃げを打つわけがない」
その言葉に、やはり共に準決勝の行方を見守っていたソビエトの選手が異を唱える。
「だが、相手はカナダのロックウェルだぞ。いくらキリュウでも――「ワァァァッ!」」
突如としてその言葉を遮る大歓声が会場全体を包み込む。そしてその大歓声は、日本の解説席で桐生の柔道に眉をひそめていた滋悟郎にも届く。
「ジョデーに勝つには――「ワァァァッ!」」
猪熊滋悟郎の言葉を、突然沸き起こった大歓声が遮った。
「――技有っ!」
ロックウェルに続きポイントを奪ったのは桐生だった。ロックウェルは畳の上で身体を丸め、続く桐生の寝技による追撃に備えるが、その桐生はロックウェルのその構えに隙が無いのを見て取ったか、早々に寝技の攻防に見切りをつけ、すっくと立ちあがる。
主審の「待て」の言葉を受け、ゆっくりと開始線に戻る桐生。あっという間にポイントをイーブンに戻した桐生に日本の応援団から大歓声が上がる。その様子を解説席から見つめていた山上は猪熊滋悟郎に顔を向ける。
「猪熊先生、今のは、一本背負いでしたね」
「……そうぢゃな。桐生め、ジョデーが釣り手を取ろうと伸ばした右手を狙っておったわ」
山上はこくりと頷き、「思わず解説を忘れてしまう程の素晴らしいタイミングと切れのある一本背負いでした。まるで昨日の猪熊柔選手の一本背負いを彷彿とさせますね」と続けるが、猪熊滋悟郎は片眉を上げて不機嫌そうに腕を組む。
「――はんっ! 柔が仕掛けておったら、今の一本背負いで勝負は決まっておったわ。上半身のひねりが足りておらなんだから、今のような中途半端な背負いになったのぢゃ!」
そして、「横移動しながらの背負いなのぢゃから、それを見越した回転を加えねばならんのに、馬鹿者めっ」、とぶつぶつと呟く猪熊滋悟郎だったが、その表情には安堵の感情が見受けられた。それは恐らく、先ほどの桐生の組手が逃げではなく、攻めのための戦略であった事を理解したためだろう。
「……儂を謀るとは、相変わらず生意気なやつよ」
猪熊滋悟郎の口元にはにやりと笑みが浮かんでいた。そしてそれは、日本の解説席とは畳を挟んで反対側に陣取るソビエトチームのフルシチョワも同じだった。彼女はようやく得心がいったのか、満足そうに頷きながらチームメイトを振り返った。
「ほら見ろ、お前達。やはりキリュウは罠を張っていたぞ」
「罠……?」
フルシチョワの言葉の意味が分からず首を傾げるチームメイトだったが、唯一テレシコワが応えた。
「あの構えは逃げのためではなく、攻めるためのものだったようだな。だが、キリュウが組手そのものを戦術に組み込むような仕掛けをしたのは、初めてではないか?」
桐生のこれまでの主だった試合の全てが頭にインプットされているテレシコワが、その涼しい顔を崩さず尋ねる。
「ああ、そうだろうね。くっくっく、あれは私との戦いで掴んだキリュウの新しい攻め手と見た」
テレシコワにはその言葉だけで十分だった。彼女はさもおかし気に含み笑いをするフルシチョワから視線を剥がし、畳の上の桐生に視線を向ける。
「なるほど……。お前との一戦で、キリュウは組み合う前から仕掛ける攻め方が有効である事に気づいたのか」
52kg以下級でのフルシチョワとキリュウの一戦を脳裏に思い浮かべるテレシコワ。
「そういう事。また一つ厄介な相手になったな、キリュウは」
テレシコワは隣のフルシチョワに目線だけ向けて「……そう言いながら笑っているのは何故だ、フルシチョワ?」と尋ねる。
そう、フルシチョワは隠しきれない笑みをその顔に浮かべていた。
「フフフ、頂は高い程登り甲斐があるというじゃないか。高ければ高い程、その頂に立った時に見える光景は格別だろうさ……」
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「……やーめた、と」
畳で四つん這いになるジョディ―の帯を取った私は、(さあ、ひっくり返して寝技勝負に行こう)と、腕にぐっと力を込めたが、その直前に考えを改めた。理由は2つ。一つは、ジョディ―の寝技に対する防御姿勢を崩すのが骨だと考えたため。もちろん、強引に攻めようと思えば攻められたが、そこで2つ目の理由が発生する。
疲れるのだ。寝技は。寝技の攻防に、立ち技のようなキレは必要としない。必要なのは、詰将棋のように相手を理論的に追い詰める戦略と、相手より優れた確かな技術。それさえあれば勝利は揺るがない。
しかし、寝技の攻防は諸刃の剣とも言える。何故なら、寝技がキレを必要としない分、立ち技以上に体力を必要とするからだ。名刀のようなキレ味の技を一瞬のタイミングで仕掛ける事さえ出来れば、立ち技で体力はほとんど消耗しない。しかし、寝技は別だ。何を仕掛けるにしても、体力を対価として支払わなければならない。
寝技で確実に勝利を収めると確信できるなら、体力の消耗を度外視して仕掛けても良い。しかし、私はジョディに対して確実に寝技で勝利できるという確信を持てなかった。もし寝技で仕留めそこなえば、私はあたら体力を消耗した状態で再びジョディと対峙する必要が生じる。体力は、体格に劣る私が何よりも大事にすべき要素だ。試合の最中に体力が尽きれば、後は蹂躙されるがままになってしまう。
それを恐れた、いや、危惧した私は、(ここは引いておくべき)と判断したのだ。
ジョディがゆっくりと立ち上がり、してやられたと言いたげな視線を私に投げかける。まあ、そうだろうね。先ほどの攻め方は、組み合ってからの技の掛け合いに重きを置いていたこれまでの私の柔道スタイルとは明らかに異なるからね。
先日のフルシチョワとの一戦で、ああいう攻め方も有効である事を再認識できた。フルシチョワがそれに気づかせたと言う点では若干癪に触るけれど、まあ技の引き出しが一つ増えた事には違いない。
電光掲示板には私の名前の隣に、『技有』を取った事を示すランプが点灯している。これでポイントの上では、『技有』を一つずつ取り合って並んだ事になる。本音を言えばこれで一本を取りたかったんだけど、詰めが甘かったのだから仕方ない。
原因は分かっている。上半身のひねりが足りなかった。それに尽きる。ジョディに対して横移動しながらの仕掛けだったのだから、通常と同じひねりでは足りなかった。
だけど、欲はかくまい。まだ試合は折り返し地点にも来ていない。残り試合時間は2分と19秒。勝った方のチームが決勝進出だ。
そして私とジョディの死闘の第2幕が上がった。