ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「――始めっ!」
主審の合図で私達は再びがっしりと組み合う。先ほどのように半身になって、組手から逃げるような素振りは取らない。ジョディは一流の柔道家だ。同じ戦法はもう通じないと思った方が良い。通じない以上、あんな自分からも技を仕掛けにくい組手はやはり好みじゃない。
ジョディが右手を伸ばし、私の左襟をがっしりと掴む。さっきはこの右手にやられた。奥襟は取らせないように十分に警戒をしていたのに、いつの間にかこの手が私の奥襟まで伸びていた。実に巧妙な手技だった。あの技だけで、ジョディが他の一般的な柔道家と一線を画す事が分かる。前世でもあんな手技を会得している選手は、数えるほどしかいなかった。
さすがはジョディ・ロックウェル。これだからこそ倒し甲斐があるというものね。
「――うるあっ!」
「――くっ!」
試合残り時間1分18秒。私の放った“袖釣り込み腰”を耐えたジョディから、逆に“移り腰”を仕掛けられ、私の身体の側面が畳につく。
「――有効っ!」
危なかったっ! ギリギリで手を付いて身体を捩じったから良かったものの、もう少しでやられるところだった。
どぉぉぉっ、と
やってくれたわねっ、ジョディ!
私もジョディの後を追いかけるように即座に立ち上がり、開始線に向かう。
ぜぇっ、ぜぇっ。ガス欠が近い。真に力の拮抗した重量級の選手との戦いがこれほど体力を消耗する物だったなんて。荒い息を吐く私の視界の端に、声を枯らせて声援を送ってくれるチームメイトの姿が映る。もちろんその中には柔ちゃんの姿も。凄いわね、柔ちゃん。あなたはこれまでずっとこんな世界で戦い続けて来たんだ……。素直に尊敬するよ。
「――桐生、道着を整えろっ!!」
藤堂の野太い声が、耳が割れんばかりの大歓声の中を切り裂き私まで届く。道着を直せ。確かに先ほどジョディの移り腰を避けた事で私の道着はやや乱れていた。だけど、藤堂が本当に言いたいのは“道着を整える”事ではなく、その間に息を整えろ、という事だろう。
顎から滴る汗を拭いながら開始線に戻った私は、一刻も早く試合を再開しろ、とばかりに前傾姿勢を取る。しかし、審判が私のその動きを手で制止した。見ると、向かい合うジョディが、いつそれほど道着が乱れていたのか、帯をほどき道着の乱れを直しているところだった。審判が僅かに頷き、私に対しても道着の乱れを正すようジェスチャーで指示する。
ふう……。仕方ない。大きく息を吐いた私は、帯をほどき道着の乱れを正した後もう一度締め直す。せいぜい30秒程度の短い時間だったが、随分と呼吸が楽になった。結果的に助かった。これでまだ戦える。たとえ先ほどのジョディの道着の乱れが彼女が自身で乱したものだったとしても、その事実は変わらない。
「――だぁらぁっ!」
「――ぐはっ!」
背負い投げと見せかけて反転した私の小内刈りに、ジョディがたたらを踏む。しかしジョディは倒れないっ! ならばっ! 私は、ジョディの丸太のように太い右足に狙いを定め大内刈りで追撃する。
「――うぉぉっ!」
唸り声を上げながらジョディが後方に倒れる。しかし、彼女はぎりぎりで身体を捩じり、その背を畳に付ける事に抵抗する。
「――待てっ!」
――ちいっ! またかっ! まさに不沈艦ね、ジョディ・ロックウェル! 今しがたの攻防だけではない。これまでの3分強の試合中、私は少ないながらもジョディを際どい所まで追い詰めている。しかし、これまでの所あの半端な組手からジョディを嵌めた一本背負いによるポイントしか、彼女から奪えていない。
――強いっ! この受けの強さは、これまでに戦った選手の中で紛れもなく随一だ。残り時間……、残り時間は……。
「――茜さん、あと
電光掲示板に視線を投げる前に私にその声が届く。何故か彼女の声は、この大声援の中でもよく通る。あと
「――行くよっ、ジョディ!」
私のそんな裂帛の言葉を、ジョディは修羅の形相で迎え撃ってくれた。
試合開始当初は、釣り手を利かしてジョディの動きをある程度掣肘出来ていた。しかし、今の私のガス欠寸前の体力でそんな事が出来るはずもない。逆にジョディは私の身体を左右に振ってくる。彼女もずいぶんと体力を消耗しているはずだが、もともとの体力の総量が違うのだろう。彼女の方がまだ余裕がありそうだ。
気を抜けば膝から崩れ落ちそうになるほど体力を消耗しているが、勝負は下駄を履くまでは分からない。というより、このまま終わる事は私の矜持が許さない。
私は、矢継ぎ早にジョディに対して技を繰り出す。正確性も大事だが、それよりも技と技を繋げる事をより意識して。それがこの不沈艦を沈める唯一の方法だと私は、頭で考えるより前に肌で感じ取っていた。
苦しい……。技を繋げる事に注力するあまり、息継ぎをする時間すら無い。畳の上にいるはずなのに、いつの間にか深海に身を揺蕩えているかのように錯覚してしまうほどに。視界が端の方から徐々に白く白濁していく。
問題ない。目など見えなくても、組めてさえいれば十分。ジョディが私に技を繋げさせないように攻撃を繰り出そうとする。それを私は、組んだ両手から感じる彼女の力の変動、体幹の移行などの微かな変化から感じ取って潰す。
――ここだっ!
「――はっ!」
ジョディが私の身体を右から左に振った瞬間に、飛びつく様にして大外刈りを仕掛ける。それをジョディが必死にこらえる。それどころか、逆に私の大外刈りを返そうと彼女が私に伸し掛かろうとする。もちろんその事を予期していた私は、大外刈りに固執していなかった。彼女が前に重心をかけてきた瞬間に私は身体を反転させ、大外刈りから別の技に移行していた。
支え釣り込み足だ。ゆっくりとジョディの身体が前に崩れていく。この技は上手く決まると、まるで時を止めたかのように行動がスローモーションになって崩れていくのが美しい技だが、その発動中にモーションが制止する。
それはもちろんジョディが抗ったためだ。彼女は支点になっていた足をかろうじて躱して、私の支え釣り込み足から逃れる。悔しい、私に三上のような足があったら!
「――はぁっ、はぁっ!」
ジョディの息遣いが随分と荒い。その息遣いは私の頭上から届いていたが、追い込まれている私には息継ぎをするような余裕は存在しない。頭が痛い。チカチカと白い火花が脳内で絶えずスパークしているかのようだ。
お願い、もう少し、もう少しだけ耐えて……! ジョディを倒したら……、彼女の背中を畳に引き倒したら、思う存分息を肺に取り込むからっ!
後方に引き倒す大外刈りの次は、前方に引き倒す支え釣り込み足。それすら躱されたら再び後方に引き倒す技。この後ろから前、前から後ろへと続く3連続の技が私の最後の仕掛けだった。
「――いい加減に倒れろぉっ!」
仕掛けたのは、柔道の投げ技の横捨身技の一つ“小内巻込”。足だけを刈るのではなく、身体ごとぶつける様に仕掛ける小内刈りの捨て身版と言ったら分かりやすいだろうか。だからだろう。この技は別名“
「――おうっ!」
――!
まさに捨て身で仕掛けたこの技によってもう少しで背中から倒れる所だったジョディだが、上半身を捻られた瞬間にいともたやすく私の釣り手が切られた。切られた瞬間に、私の人差し指の生爪が剥がれて宙を舞ったが、そんな事は些細な事だった。痛みを感じるより前に、私は残された引き手だけは切られない様に、固くジョディの道着を握り締める。
後が無いんだっ! 全ての指の爪が剥がれたって、この引き手だけは離さないよっ、ジョディッ!!
ズダーーーン!!
ようやく……、本当にようやくジョディの背中が畳に着く。審判の宣告は――。ジョディが畳に横たわりながら審判を決死の形相で見上げる。残り試合時間は10秒を切っているはず。技有以上なら逆転で勝利に限りなく近づく。逆にポイント無しなら私の勝利の可能性は限りなく低くなる。肺に急速に息を取り込みながら、私はいかようにも動けるように膝に力を込める。
「――有効っ!!」
一瞬放心するジョディ。ポイントで並ばれた。おそらく彼女はそう考えていたはず。しかし、彼女がそれを認識する前に私は次の行動に移っていた。肺の中に取り込めた空気はまだ十分では無い。だけど、それを待っている時間は無い。膝のバネを生かし、瞬時にジョディに飛びつく私。
「――!?」
それに気づいたジョディが身体を捩じり畳にうつ伏せになろうとするが、その前に私は彼女の脇に足を捩じ込み、一気に彼女の身体をひっくり返していた。もちろん狙いは寝技だ。試合の序盤では体力の温存を考えて寝技はあえて控えていたが、もう終盤も終盤。出し惜しみはしない。私に残されたなけなしの体力をここで使い切ってやる。
ジョディの
「――抑え込みっ!」
「――うぉぉっ!」
審判が抑えこみを宣告すると同時に、ジョディが大声を上げて下半身をばたつかせる。大丈夫、上半身さえ押さえておけば、いくら下半身は暴れられても問題ない。ちらりと横目で電光掲示板を見る。既に4分の試合時間は過ぎている。という事は、この寝技が決まるか、解かれた時点で試合終了だ。
既に技有を取っているので、25秒で合わせ技一本。その事はジョディも先刻承知なのだろう。抑え込み時間が5秒、6秒、7秒……と加算されていくのと比例する様に、ジョディの抵抗も激しくなる。
逃がさないよ、ジョディ。あなたは確実にここで仕留める。25秒まで後15秒、14秒、13秒……。もう少し、もう少しだ。大丈夫、抑え込みは完璧に決まっている。七帝の超弩級の名に懸けてこの拘束は絶対に解かない。
「茜さん、足、気を付けてっ!」
足……? ――! しまったっ! ジョディを抑え込むのに必死で気づかなかった。気が付けば私の身体は場外を示す赤いラインの上を出ていた。かろうじて赤いラインに残っているのは私の右足の膝から下だけ。この右足の指先が赤いラインから出た瞬間場外になり寝技が解かれる。線審がその時を見逃すまいと、私の足を凝視しているのを視界の端でとらえる。
ジョディは相変わらず下半身をばたつかせながら試合会場から逃れようと暴れる。寝技を解かれるとは思わないが、体重差はいかんともしがたく、ジョディの身体が激しく暴れるたびに私の身体はずりずりと場外に引きずられていく。
もし私に十分な体力が残っていれば、あるいは、もう少し体格が大きければ、逃げるジョディを逆によっこいしょと引き戻す事も可能だっただろう。しかしこの時の私には、そのどちらも備わっていなかった。
9秒、8秒、7秒、6秒、5秒……。もう少し、もう少しだけもって。私は、足よ伸びよとばかりに必至につま先を伸ばす。
しかし……。
「――場外っ! それまでっ!」
ワァァァーーー! 悲嘆と歓喜の入り混じった声が全周囲から届く。
駄目だったか。私が首を巡らせ足先に視線を投げると、確かに足の指先が僅かに赤い畳のラインから外に出ていた。電光掲示板の抑え込みの時間は23秒で止まっていた。
技有ならず。つまり、私とジョディの試合は、互いに技有一つと有効一つを取り合い、引き分けに終わった事になる。
「アカネ……」
耳元で聞こえたその声に、はっとして私は上四方固めの拘束を解き、ジョディを見下ろす。畳に背中を預けたままのジョディは、試合中とは打って変わってにこやかな笑みを浮かべていた。
「ナイスファイトだったね、アカネ」
「そうね、強かったわ、ジョディ」
「アカネこそ強かったね。またやるね!」
「もちろんよ。引き分けじゃあ、収まりがつかないものね。是非、またやりましょう」
そしてジョディの身体に体重を預けていた私はゆっくりと立ち上がり、ジョディが起き上がるのに手を貸す。しかし、体力が尽きていた私はジョディに腕を引っ張られ、逆に彼女の豊かな胸に顔を埋める事になる。
そんな風に疲労困憊の様子で立ち上がった私達を、万雷の拍手が包み込んでいた。
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時は少し遡る。
カナダ民放放送局の解説席。
「ヘイ、ジュリア。もう祝杯を挙げても良いんじゃないか?」
「まだ早いわよ、ルーク。まだ大将戦が残っているんだから」
2年前に引退したカナダ女子柔道72kg以下級のジュリアが、コーラの入ったグラスを乾杯するように掲げたアナウンサーのルークを嗜める。しかし、ルークはその特徴である束形状にまとめた髪を振り乱して、意外そうな表情を顔に浮かべた。
「何を言っているんだ、ジュリア! 大将戦はカナダの大黒柱ジョディじゃないかっ! もう勝ちは決まったようなものだよっ!」
その楽観的な予測に呆れた表情を浮かべるジュリア。引退したとは言え、かつてカナダ柔道界の第一人者であったジュリアは、これからジョディ・ロックウェルが対戦する相手である日本のアカネ・キリュウに対する警戒心を緩めてはいなかった。
「だから何度も言っているでしょう。日本の大将であるキリュウは、決してお飾りの大将なんかじゃないの。彼女がベルギーのベルッケンスを破った映像は見たでしょうっ!?」
「いや、それは見たけどさぁ。ベルッケンスは昨日、日本のイノクマに負けた事で気持ちが切れていたんじゃないの? そうでなければ、あんな小柄な選手に負けるなんて考えられないって!」
「あのねぇ、ルーク。そのキリュウより小柄なイノクマが昨日無差別級を制したのを知らないわけじゃ無いでしょう?」
「いやいやいや、いくら何でもあんなミラクルガールが二人もいてたまりますかって話だよ。おっ、そろそろ試合開始のようだよ、ジュリア! Let's go! ジョディッ! Whoooo!!」
ハイテンションで実況を始めたルークを呆れた目で見つめるジュリアだった。
「――技有っ!」
審判がそう宣告すると同時に、電光掲示板に表記されたキリュウの文字の横にランプが点灯する。これで両者ポイントで並んだことになる。
「やられたわね、ジョディ。キリュウのあの変形の組手は一本背負いを狙ってのものだった。……ルーク? どうしたの、ルーク?」
解説者のジョディは、カナダ国内でレゲエ風アナウンサーとして知られる明るさが持ち味のルークが押し黙っているのを不審に思い、声を投げかけた。肩をジュリアに揺すられたルークは、ギギギと音を立てそうなぎこちない動きで首を回し、ジュリアに相対する。
「ア……、アメ……、アメ……」
「アメ……? ちょっとルーク。本当にどうしたのよ?」
いよいよ不審に思ったジュリアが眉間に皺を寄せてルークに尋ねると、その彼は突然席を立ち奇声を上げた。
「ア……、アメイジング!! WHAT!? ジュリア、いったい今、何が起きたんだ!?」
「何が起きたもなにも、あなたも見ていたでしょう? キリュウが一本背負いでジョディを投げ飛ばしたのよ」
「――あの身体で!?」
「あの身体でよ。だから言ったでしょう? 日本には『柔よく剛を制す』を体現する選手が二人いるって。1人は昨日無差別級を制したヤワラ・イノクマ。そしてもう一人は、つい今しがたジョディを投げ飛ばしたアカネ・キリュウ。キリュウが、決してお飾りで大将に座っている訳じゃ無いって言う私の言葉の意味が分かったかしら?」
「Yeah……。よく分かったよ、ジュリア。だけど……、ジョディも負けてないよな?」
その問いかけに、ジュリアはもちろんよ、と頷く。
「大丈夫よ、ルーク。あなたと違って、ジョディはキリュウに対して油断はしていないわ。ジョディなら……、彼女ならきっとキリュウを降してカナダチームに勝利をもたらしてくれるはずよ」
「オーケェーイ! Fight、ジョディッ! Whoooo!!」
顎が外れんばかりに驚愕していたルークにいつもの調子が戻ってきたのを見て、ジュリアはそっと安堵の息を吐き、再び始まった両者の試合に集中するのだった。
「耐えろ、耐えろ、耐えろっ! ジョディッ!」
「――ジョディッ、それもフェイントッ! キリュウの本命は――!」
試合終了まで残り時間30秒と少々。ポイントの上ではリードしているものの、燃え盛る炎の如き苛烈さで技を仕掛け続けるキリュウに、カナダ解説席の二人は声を枯らして声援を送る。
もちろんジョディも反撃に出る。しかし、ジョディが一つ技を放つ間に、桐生は持ち前のスピードを生かして二つも三つも技を繰り出す。恐るべきは、それらの技の一つ一つが確実にジョディの退路を奪っていくかのように巧妙に連携している事。右に攻めたてたかと思えば、左に引き落とす。後ろに引き倒そうとしたかと思えば、前に引っかける様に足を出す。矢継ぎ早に放たれる技の嵐に否応なくジョディは巻き込まれていく。
「ジュリアッ! キリュウはどうしてあんなにジョディと組み合っていられるんだ!? こんなのおかしいじゃないかっ! 国内ではジョディに対して誰も――!」
ルークが目を大きく見開き、ドレッドヘアの頭に両手を添えて狼狽える。しかしジュリアは、相棒であるアナウンサーのその行動を笑う事などできなかった。彼女にとっても意外だったのだ。いや、キリュウが侮りがたい力を有している事は最初から理解していた。しかし、それでも自国の英雄であるジョディ・ロックウェルがこれほどまでに防戦一方に追い込まれるとは思ってもいなかった。
ジョディには、ポイントを守るというような考えなど頭に無かっただろう。彼女の柔道からは、一本勝ちを狙いに行っている事がひしひしと感じる。しかし、それ以上に異常なのはキリュウの方だった。いったいどれほどの技を習得しているのか、ジョディを攻め立てるキリュウの技が尽きる事が無い。
「耐えるのよ、ジョディッ! いくら何でもこんな常軌を逸した攻めを最後まで続けられるはずが無いわっ! これを耐えれば勝てるわよ、ジョディッ!」
ジュリアが右拳を机にガンッと叩きつける。実際この時ジュリアの言葉は正しかった。桐生の体力は既に限界に近付きつつあった。しかし、彼女は前世も含めた長年の経験でつちかった勘でここが勝負どころという事をよく理解していて、残された全ての力をここにベットしていた。
そしてジョディが苦し紛れに放とうとした技の初動を、桐生が完璧なタイミングで放った足払いが押し留める。
「――ぐぅっ!?」
そうやってジョディの足を止める。しかし、足は止まってもジョディの上半身の動きは止まらない。視界の左側に消えようとする桐生の身体を正面に捉えようとぐっと引きつけるジョディ。しかし、それこそ桐生が狙っていた行動だった。
唇が紫色に変色しかけている桐生が、大外刈りから支え釣り込み足、そして最後に小内巻き込みと3連撃を仕掛けた事で、ようやくカナダが世界に誇る不沈艦『ロックウェル』の急所に、日ノ本の超弩級『桐生』の砲弾が突き刺さる。
ズズーンと地響きを立てて畳の海に沈むジョディ。
「――Oh my God!!」と頭を抱えるレゲエアナウンサーの事など知った事かと、まるで海面から顔をようやく出したかのように「――かはぁぁっ!」と畳の上で息継ぎをする桐生。しかし桐生の動きが止まったのはその一瞬だけだった。審判の「有効」の宣告が終わる前から動き始めた桐生にジョディが後手を踏む。気が付けばジョディは、桐生の抑え込みに捉われていた。
「ジュリアッ! 何だってあの小さな体でジョディを抑え込めるんだっ! 俺は夢を見ているのかっ!?」
「夢でも幻でもないわよっ! キリュウはあの小さな体でジョディを抑え込んでいるわ!」
「嘘だろっ!? ジョディィィィーーー! その抑え込みを外せぇっ!」
「駄目よっ! あれはもう外せない! それよりジョディ、逃げなさいっ! あと少しで場外よっ!」
もちろんその声がジョディに届いたはずも無いが、ジョディも判断を誤る事は無かった。彼女は唯一動きの取れる下半身を大きく動かし、最短距離で場外を目指す。
「後少し! もう少しだ、ジョディッ!」
「Hurry up、ジョディ! 時間が無いわっ!」
絶叫を上げる二人のその場は、もはや解説席ではなく応援席と化していた。おそらくカナダチームを応援しているカナダ国民達もTVの向こうで絶叫していた事だろう。そして技有を取られるまで残り時間2秒というタイミングで、ようやくジョディは場外に逃げる事に成功するのだった。
「ぜぇっ、ぜぇっ! ジュ、ジュリア……。ミーは柔道の試合の実況を担当してからこれまで、こんなにも疲れたのは初めてだ……」
「わ、私もよ……。ジョディの試合をこんなに手に汗を握って解説した事なんて、無かったわ。え、えー、カナダの皆さん。どうかご安心ください。ご覧の通り、大将戦は引き分けという結果となりましたが、まだカナダチームは敗れていません。この後、代表決定戦が行われます。どの選手が選ばれても、きっとカナダは勝利する事でしょう。どうか、チャンネルはこのままで。ここまでの解説はジュリア・ローランドが務めました」
後に判明する事だが、この日行われたカナダ対日本の準決勝の大将戦は、この年のカナダの全TV放送局中で最高となる視聴率81.3%を記録したと言う。
そして同時刻の日本側解説席。
「いやー、あまりの試合展開に、思わず息をするのも忘れるほどでした。桐生選手、あと2秒で一本勝ちという素晴らしい試合を見せてくれましたが――「0点じゃっ!」」
アナウンサーの言葉にかぶせる様に猪熊滋悟郎が声を荒げる。
「れ、0点ですか……? こ、これはまた手厳しい猪熊先生のお言葉です。猪熊先生、それはまたどうしてでしょう? 桐生選手はあわやという試合を見せてくれましたが……」
「ふんっ! 一本取らねばどんな試合ぢゃろうと0点ぢゃっ!! ジョデーを倒した後、もっと早く抑え込みに行っておれば勝てた試合ぢゃったものを!」
鼻息荒くそう持論を展開する猪熊滋悟郎の意識を別に向けようと、アナウンサーは高い位置に吊るされている電光掲示板を指差し、山上に水を向ける。
「山上さん、日本にとっては初めての代表戦となります。この後、ルーレットによるランダムで代表選手が決定されますが、日本にとって有利なクラスはありますか?」
その問いに、山上は顎に手をやりながら実に悩まし気に唸る。
「そう……ですね……。どの選手が選ばれても厳しい戦いになるとは思いますが、出来れば大将戦は避けて欲しいですね」
先ほどカナダの大黒柱と互角と言っても良い試合をした日本の大将 桐生が選ばれてほしくないと言う意見に、アナウンサーは不思議そうに首を傾げる。
「桐生選手ではいけないと判断される理由は何でしょうか?」
「それはもう、体力が回復していないの一言に尽きます」
そこで言葉を区切った山上は「良いですか?」と続ける。
「体格差のある選手と戦うと言うのは、決して簡単な事ではありません。昨日の猪熊柔、それに今日の桐生茜の活躍を見ると我々はその事をつい忘れがちですが、重量級の選手と軽量級の選手では絶対的に体力が異なります。つい今しがた重量級のロックウェルと試合をした桐生に、もう一度4分間戦う体力は残っていません」
「なるほど。では、大将は当たって欲しくないとなれば、日本にとって当たって欲しい階級は、やはり一度勝利している52kg以下級の次鋒戦、あるいは72kg超級の副将戦という事になりますか?」
その問いに山上は眉間に皺を寄せる。
「うーん、確かに次鋒戦と副将戦は先ほど勝利を収めていますが、もう一度同じ事が出来るかと言えば……、おっ、ルーレットが回り始めましたよ」
山上の言葉の通り、天井から吊るされた電光掲示板の中央部に標記されていた文字が突然回転を始めた。それはまさにカジノにあるスロットマシンのリールの回転と酷似していた。ただし、高速で回転するリールに描かれている文字は、果実や特定の絵柄ではなく、『48kg UNDER』『52kg UNDER』『72kg UNDER』『72kg OVER』『OPEN CLASS』の5つのみ。
今しがた行われた大将戦の激闘の余韻でざわめいていた観客の視線が、その回転するリールに一斉に注がれ、束の間の静寂が訪れる。
「ふん、まるでお祭りぢゃな」と回転するリールに毒づく猪熊滋悟郎だが、彼の目が笑っている事から、彼もこのエンターテイメント性の高い演出を楽しんでいる事は明白だった。
目で追えないほどの高速で回転していたリールが僅かずつだがそのスピードを落としていく。そのため、徐々にリールに描かれた文字が目で終える様になってきた。『48kg UNDER』の次に『52kg UNDER』。『52kg UNDER』の次に『72kg UNDER』と文字が目まぐるしく移り変わって行き、『OPEN CLASS』の後は『48kg UNDER』に戻る。
本阿弥さやかは仏頂面で腰に手を当てながら、山口かおるは右手に握った水筒から伸びたストローに口をつけながら、藤堂は未だ滝のように流れる汗をタオルで拭いながら。
そして、桐生茜と三上杏の二人は、共に手を胸の前で組み合わせ、まるで神に祈りを捧げるかの様に一心不乱に何やら念じていた。しかし、行動こそ瓜二つの両者だが口にする言葉はそれぞれ正反対と言って良かった。一方は花札で役を待つかのように「こいこい、こいこい」と、片や一方は「こないで、こないで」と念仏を唱えるように呟いている。
もうリールは停止する寸前。『72kg UNDER』の文字が中央に躍る度、三上杏が「――ひいっ!」と悲鳴を上げて顔を背ける。反対に『OPEN CLASS』の文字が中央に押し出されると、桐生茜が「来たっ! そこでストップ!」と声を上げるが、まだ運命のリールは停止しない。
日本チーム、カナダチームの選手達をあざ笑うかのように次々と文字を躍らせていたリールだが、いよいよその動きが緩慢となってくる。一つの文字が停止しては、次の文字が現れる。かわいそうに、三上杏はもはや失神寸前だ。対して桐生茜はガッツポーズをしては次の瞬間地団駄を踏むという事を繰り返し、彼女の爪の剥がれた指にテーピングを巻いている猪熊柔を困らせている。
そしてとうとう運命のリールが停止する。リールが停止した時に表示されていた文字は……。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :18さい
れべる :33
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :96
すばやさ :217
たいりょく:156
かしこさ :203
わざ :224
こうげき力:253
しゅび力 :230
E じゅうどうぎ
【ジョディ・ロックウェル ステータス】
なまえ :ジョディ・ロックウェル
せいべつ :おんな
ねんれい :25さい
れべる :33
くらす :じょしむさべつきゅう
ちから :225
すばやさ :123
たいりょく:203
かしこさ :184
わざ :205
こうげき力:239
しゅび力 :256
E じゅうどうぎ