ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「後は任せたわ。外野は気にせずあなたらしくやれば良いのよ」と、山口が彼女の肩にポンと手を置くと、藤堂は「ふんっ! あたしでケリを付けて勝利の立役者になってやろうと思ってたのにっ!」と鼻を鳴らして、畳の上から降りていく。
ざわざわと落ち着かない会場の雰囲気。彼女の一挙手一投足に視線が集中する。しばらく身体を動かしていなかったためなのか、膝の状態を確かめる様にぐっ、ぐっと伸ばしていた彼女におずおずとかけられる声。
「ごめんなさい。こんな緊張する場面で一番若い――」
「良いんだよ、三上。そいつは目立ちたがり屋なんだから、気にするだけ野暮ってものさ。それより、早く畳から降りないと審判に注意されるよ。桐生、お前もだよ」
藤堂に注意された桐生は「はい、はい」と生返事をし、代表選手に選ばれた選手の背に手をそっと置く。
「やっぱり持ってるね、さっしー。ここで勝ったら、一躍人気者だよ。日本に帰ったら大変な事になるんじゃないかな」
桐生の物言いが気に入らなかったのか、声をかけられた代表選手がまなじりを上げて背後を振り返る。
「おかしなことをおっしゃらないで下さいませ。
「あははは。調子良さそうじゃない、さっしー。その調子、その調子。負けたら私と柔ちゃんが優しーく慰めてあげるから、思いっきりやってきなよ。女は当たって砕けろだよ」
「砕けるつもりなんてありませんわっ! だいたい先ほどからさっしー、さっしーと馴れ馴れしく私に――」
本阿弥の言葉を遮るように一段低い場所から猪熊柔が「茜さん、早く戻って!」と声を張り上げる。その声に「――とっ、いけないっ! じゃ、さっしー、試合の後でっ!」と踵を返して畳の上から降りていく桐生。
「まったく、何をしたかったのかしら、あの野蛮人は……」
ぶつぶつと呟きながら戻って行く桐生をしかめ面で見つめていた本阿弥だったが、審判に促された事で開始線に向かった。
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side 本阿弥 さやか
まったく、馴れ馴れしく『さっしー』だなんて呼び方をするなんて、私は許しませんことよ。……でも、少しだけアイドルっぽい呼び名で、これはこれで悪くはないかもしれませんわ。
「始めっ!」
「――やぁっ!」
私の対戦相手、確かナディアといったかしら。頬に浮かぶそばかすが見苦しい小娘が勢いに任せて向かって来る。先ほどの試合で私にまぐれで勝ったからか、どこか勘違いしているのではないかしら。どちらが上か、身体に刻み込んであげますわっ!
互いにがっしりと組み合う。ナディアが組むと同時に足を飛ばして来る。まあ、がつがつとみっともない。勝負事はもっと優雅にすべきなのに。ナディアの小外刈りを躱して今度は私から仕掛ける。
「――くっ!」
私の仕掛けた大内刈りを必死の形相で堪えるナディア。ソウルでこの子と戦うのもこれで3度目。48kg以下級の準決勝で当たった際は私の優勢勝ち。つい今しがたの2度目はまぐれで敗れましたけれど、普通にやれば私の方が力は遥かに上ですわっ!
大内刈りを必死の形相で堪えている彼女に対して、私は足を組みかえそのまま私の最も得意とする払い腰へと技を変化させる。後方へ倒す技から前方へ投げ飛ばす技に瞬時に切り替えた連携にナディアが遅れを取る。
「――きええぇぃっ!」
ナディアの足を払い、彼女の身体が宙を舞った。私はその瞬間、勝ったと確信を持ったけれど、ナディアは宙で猫のように身体を回転させ、背中から畳に着く事に抗う。同時に主審が「――効果っ!」と宣告する。
効果ですって! 風祭さんにつきっきりで教わったこの連携技をもってしても、効果しか奪えなかったなんて。なんてしぶとい小娘かしらっ! しかも、先ほどの避け方がどこぞの赤毛の女を連想させ、それが余計に私をいらだたせる。
「さやかさん、試合切れてないっ! 集中してっ!」
――! 猪熊柔の声に私は我に返る。確かに審判は待てを宣告していなかった。ナディアは身体の側面を畳に付けて、どうせそのまま腹ばいになって寝技への防御を固めるものだとばかり思っていた。なのにこの小娘は、跳躍するように飛び上がり棒立ちになっていた私の懐に一足飛びに飛び込んで来た。この娘、なんてあさましい戦い方をっ!
「――! くっ、こんな技!」
恐らく彼女の最も得意とする技なのだろう。なりふりかまわず奇襲を仕掛けると言う恥をかなぐり捨てるかのような戦い方で私の懐に飛び込んだ彼女は、背を私に向けて背負い投げの態勢を取る。ですが、この程度の背負いを喰らう私じゃありませんことよっ! 私がいったいどれほどのキレと速さの背負いを想定してあのつらい稽古に励んできたと思っているのかしらっ!?
ナディアの背負いに担がれないよう、私は重心を落とし彼女を上から潰す。膝から崩れ落ちた彼女は私の身体の下で「ぐうぅっ!」と悔し気な呻き声を発する。
ほら見なさい、あなた程度に投げられる私ではありま――。――!?
「あなたっ、まだっ! なんてしつこ――!」
「――やぁぁぁっ!」
しまったっ! ナディアが私を背負ったまま、巻き込む様にして私の背中を畳に押し付けてくる。技の威力なんてとうに殺しているのに、ただ私の背を畳に擦り付けようとするだけのみっともない技。
でも、そんなみっともない技でも背中をつけられるとポイントを取られるかもしれない。その事を恐れた私は、恥も外聞もなくブリッジをするようにしてそれを堪える。堪えるが、ナディアの執念が上回ったのか、とうとう私の背中が畳につく。
「――有効っ!」
途端に日の丸の国旗を振う観客席から、揃ったような溜息が上がる。反対に相手陣営の観客席からは拳を突き上げる歓声が。私の視界の端に、マイクを手にし網状にまとめた髪を振り乱しながら立ち上がるレゲエファッションの男が映るが、それに頓着している場合では無かった。
――信じられませんわっ! こんななりふり構わない技とも言えない技で逆転されたなんてっ!
――しまった! 一瞬茫然とした私にナディアはそのまま抑え込みを仕掛けてくる。体勢は袈裟固め。この技はあらゆる種類の抑え込みの型の中でも、極まれば最も逃げるのが困難な技。これだけは受けるわけにはいかない。私は咄嗟に、ナディアと反対の方へ身体を回転させ抑え込みから逃れようとする。
「さやかさんっ! そっちに逃げちゃ駄目ッ! それよりは――」
「ナディアの襟に後ろから左手を回して締め上げるんだっ、さっしー!」
考えるより先に私の手がその指示通りに動いていた。袈裟固めに私を捉える事に意識が向かっていたナディアは、私が背後から伸ばした手に頸動脈を決められ「――ぐふっ!?」とうめき声を上げる。
「そうっ! 次は足を背後からナディアの足に絡めてナディアごと――」
「――うるさいですわっ!」
皆まで言わなくて結構っ! 私は、自身を勝手に字名で呼ぶ不愉快なチームメイトの言葉に悪態をつきながら、ナディアの身体ごと回転する。今度はナディアが私の下。しかも襟は変わらず私が掴んでいて、彼女は苦悶の表情のまま。このまま絞め落してやるっと私が考えていた時、今度は日本とは反対側から声が飛んだ。
「ナディア! ホンアミの回転に合わせて横に転がるだわさっ!」
――! しまったっ! 私がナディアの身体ごと回転した勢いを殺さないまま、更にナディアが回転する。再び私の身体はナディアの下に。ですけど、問題はそんな事では無くて――
「――場外っ! 待てっ!」
私は天を仰ぎながら、ナディアの襟を取っていた手を離す。そう、ナディアの、いやカナダ陣営の助言の狙いはこれだった。私達はもともと場外近くで寝技の攻防に入っていたので、何度か回転するだけで場外に踏み出してしまっていた。
「――けほっ」と咳ばらいをしながらナディアが立ち上がる。その後を追って私も立ち上がる。電光掲示板に視線を投げるまでも無かった。私は“効果”で彼女は“有効”を取っているので、負けているのは私。残り時間は……。
「さやかさん、あと
みたいね。ふん、ポイントを取られているとはいえ、まだ時間は十分あるわ。普通にやっていたら私の方が上なのですから、敗れるはずがありませんわっ!
私はナディアの背中を睨みつけながら開始線に戻って行った。
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「さやかさん……」
猪熊柔がこちらに視線を投げる事無く開始線に戻って行く本阿弥を気遣うような声を発する。その隣では桐生茜が眉間に皺を寄せて本阿弥を見つめている。
「まずいわね……」
その独り言に、猪熊柔が本阿弥から視線を剥がし桐生に顔を向ける。桐生は顔を本阿弥に向けたまま続ける。
「さっしーったら、まだナディアを下に見た戦いをしているよ。一度勝っているから気が付いていないのかもしれないけれど、今のナディアはさっしーが個人戦で戦った時より格段に力を付けているよ」
その言葉に反応したのは藤堂だ。
「そうは言うけれど、個人戦からまだ5日程度しか経っていないよ? いくら何でもそんな急には力をつけたりは――」
「いや、藤堂。桐生の言う通りだよ」
「山口……」と、背後からかけられた言葉に藤堂が振り返る。畳の上では、審判に促された二人が柔道着の着崩れを直している所だった。
「カナダのナディアはもともと十分な力があった上に15歳と若い。あの年頃の子は、ほんの少しのきっかけで化ける事がままある。この数日でその力を開花させたとしても何もおかしなことはないさ」
「うーん、ナディアちゃんが柔道に対して真剣に打ち込んできた事を知っている私の立場としては、複雑な気持ちです……」
昨年の世界選手権の時からナディアとは親交のあった三上が悩まし気な声を上げる。
「うん、多分ナディアに足りなかったのは自信だけだったんだよ。それがさっき先鋒戦でさっしーに勝った事で一気に開花した。今のナディアは、さっしーが全力で戦ってようやく勝ちを掴めるかどうかという所まで来ているよ。それにさっしーが気付いて、その上で彼女も彼女自身の殻を破らないと、この勝負、落とす事になるかもしれない……」
「茜さん、さやかさんの殻って……」
「殻は殻だよ、柔ちゃん。正直、今のお綺麗な柔道を取る事に執着しているさっしーは見ていて物足りない。全日本女子柔道選手権大会の準決勝のような鬼気迫る表情を取ってくれたら……」
「全日本女子柔道選手権大会の準決勝……? それって確か……」と首を傾げる藤堂だったが、ちょうどその時試合の再開が審判より告げられた事で彼女達は視線を畳の上に戻すのだった。
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「――いい加減に倒れなさいっ!」
この日仕掛けられた何度目かの背負い投げを身体をずらす事で躱した私は、ナディアの身体を小外刈りで背後に引き倒そうとする。しかし、背中が畳につく寸前、ナディアは私の引き手を切り逃れた。
またっ! またぎりぎりのところで躱された。良い所までナディアを追い詰めても、諦めの悪いこの小娘は最後のところで躱す。残り時間は、と、再び組み合った状態で目まぐるしく畳の上を動きながら視線を及ばす私の耳朶によく通る「さやかさん、あと
後1分。どうして私が、こんな小娘を相手にこれほど苦戦を強いられているのかしら! 48kg以下級の決勝戦で敗れた韓国のキムに対しても通じた攻め手が、この娘には通じない。
ほら、またっ!
私の放った渾身の払い腰をナディアは軽やかに躱して、お返しとばかりに体落としをしかけてくる。至近で見るナディアの形相は鬼気迫る表情。みっともないですわね、勝負はもっと優雅にあるべきなのに。私は殊更余裕の笑みを浮かべ、ナディアの技を躱す。
お互いに仕掛けた技を躱し合う間も、刻一刻と残り時間は減っていく。いけませんわ、このままではまたしてもこの小娘にッ!
「本阿弥、もっと左右に振っていけっ!」
「受け身に回っては駄目よっ!」
藤堂さんと山口さんの声が届く。そんな事分かっていますわ。でも、どれほど左右に振っても、先手を取ってもこの相手には最後の最後で躱されてしまう。
「さやかさん、最後まで技を出し切って! そうしたらきっと――!」
ナディアの足払いを躱した直後、一番聞きたくない人間の声が届く。最後まで……? それも分かっていますわ! あなたは黙ってみてらっしゃい!
そんな外野の声にいら立ちを募らせていた私に、意味不明な声援が届く。
「さっしー、ブスになれぇッ!!」
――!
またあの赤毛猿は意味不明な言葉を!! 私にブスになれなんて、あなたじゃあるまいし、できもしない事を言わないで下さいませっ!! だいたい、どうしてそれが今この場で私に投げかける言葉として口から出てくるのかしら、あの赤毛猿はっ!
怒りのあまり上がっていた口角が鳴りを潜め、逆にまなじりを吊り上げて半ば八つ当たりのように眼前のナディアを睨みつける。
「――やあッ!」
そのナディアから仕掛けられた技が袖釣り込み腰だった事が、私の怒りに輪をかけた。かつて彼女に何度もこの技をかけられ4分の間に何度転がされた事か。あの時の感情が胸の内にこみあげて来た私は、知らず目の前のナディアを桐生に投影していた。
「――いい加減にしなさいっ!」
ナディアの袖釣り込み腰を躱した私は、反対に払い腰を仕掛けるが躱される。まだですわっ! あの時も、躱されても躱されても私は仕掛けていった。結局一度もあの女の背中を畳につかせることが出来なかったけれど、私は遮二無二に技をかけていた。
「――ぐうぅっ!」
ナディアが払い腰から変化した私の払い巻き込みに苦悶の声を上げながら抵抗する。そこで初めて私は気付いた。通用する。私が身に着けた技はこの女に通用する。だけど、それは華麗に勝とうとしていてはいけない。泥臭く、どれほど無様でも最後の最後まで技をつなげていく事が出来れば……!
そこまで考えた時、先ほどの桐生茜からの意味不明だったアドバイスの意味が朧げに理解できた。でも、この私がそんな無様な真似をしてまで勝ちを拾わなければいけないのかしら。そんな疑念は、否応なしに目に入ってくる観客席の日の丸を目にすれば一瞬で霧散した。
良いでしょう、将来の本阿弥グループの総裁としてあえてこの場は泥水を飲んであげますわッ。それがいずれあの二人を倒す美酒へと変わるはずですからっ!
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「さっしー、ブスになれぇッ!!」
私がそう叫んだ途端、周囲から「桐生、あんた……」、「言うに事欠いて何を……」、「桐生さん、いくら仲が悪くてもこの場で悪口はどうかと思うの」という言葉が次々に私に投げかけられ、困った子と言いたげな何とも言えない視線が私に集中する。
柔ちゃんだけは首を傾げて私の言葉の意味を考えているようだったが、少なくともこの場にいる誰にも私の真意は伝わらなかったようだ。
だけど、それは良い。この場にいる誰にも伝わらなかったとしても、畳の上で戦っているさやかにだけ伝わればそれで良い。
そして、どうやら私のその願いは適ったようだ。さやかが先ほどまでと比べてより泥臭く粘る様になってきた。ナディアが、さやかの払い腰から変化した払い巻き込みを必死の形相で躱す。
そうだ、良いよ、さやか。あんたの強みはその蛇のようなねちっこさにあるんだ。余裕綽々の顔で試合をしていても、あんたのその良さは発揮されない。泥臭く、粘り強く戦いなさい、さやか。それが、将来の寝技のスペシャリストに絶対に必要な要素なんだから。
「さやかさん、あと
後30秒。間に合うだろうか。さやかの動きはより躍動感を増している。しかし、ナディアも必死だ。当然だ、ナディアも自身の双肩に国の命運がかかっている。その若い身にかかっているプレッシャーは想像するに余りある。
ん……? さやかの技を受けきったナディアが攻めに転ずるには絶好のタイミングだったにも関わらず、ナディアが前に出なかった。もしかしてナディアは……。
「――はぁっ!」
「――くっ!」
まただ。さやかの仕掛けを躱したナディアだったが、回避に比重を置きすぎていたのか反撃に出ない。これまではさやかの隙を見逃さず攻めていたナディアだったが、ここに来てその姿勢に変化が生じている。
理由は分かっている。ナディアが勝利を意識し始めたんだ。メダルの確定がかかった準決勝。その上、チームの勝敗が決まる代表戦だ。どれほど意識しなくても意識してしまうのが人間。自身の信条を捨ててでも、チームのために勝利を掴みたくなった15歳の彼女を誰が責められようか。
だけど、気をつけなさい、ナディア。オリンピックの魔物の吐息が、会場袖の私の耳にまで微かに届き始めたわよ。
受けに比重を置き始めたナディアに対してさやかが攻勢に出る。それも、先ほどまでのような華麗に一本勝ちをする事を狙った技の組み立てではない。執拗に、泥臭く、どんな体勢でも相手を倒す事だけを考えた組み立て。
そしてそのさやかの攻勢がとうとう実を結ぶ時が来た。一本背負いを受け止められた。さやかは即座に後方に引き倒す小内刈りに切り替える。というより、最初からそれを見込んだ技の組み立てだったはず。
しかし、ナディアも必至だ。その小内刈りを必死に耐える。耐えるが、この時、この瞬間においては、さやかの勝利への執念がナディアを上回った。身体ごと引き倒す捨て身と化したさやかの小内刈りにナディアは抗えず、とうとうその背が畳に着く。
主審の手は……? 試合残り時間は3秒で止まっている。
主審の右手は、高く天井を指していた。
整列し一礼した後、私達は喜びを爆発させる。まだ神聖な畳の上だけど、今日この時ばかりは許してくれるだろう。皆がさやかの身体を強く叩き、勝利の立役者となった彼女を荒く労う。
おかしいな、いつものさやかなら、当然ですわ、と口に手を当てて高笑いするだろうに、いつになく殊勝な態度でそれを受け入れている。もっとも、それを言い出したら先ほどの代表戦の後、勝ち名乗りを受けたさやかが敗北し号泣するナディアに歩み寄り何やら慰めていた様子だが、その時点からおかしかった気もする。
「どうしたの、さっしー? さっきから何か様子が変だけど。もしかして、さっしーがお気に召さなかった?」
私の問いかけに、さやかは何故か頬を染めそっぽを向いて応える。
「……ふ、不本意ですが特別に許可をして差し上げても良いですわよ。大学の学友の皆さんは私の事を“さーやさん”と呼びますが、“さっしー”でも響きはそれほど悪くありませんし……」
許可が出たよ。その上さやかは、「さっしーという響きは俗っぽいですが、大衆受けは良さそうですわね」と何やら一人うんうんと頷いている。
「良いですね、本阿弥さん。さっしーってどこかアイドルの字名のようで、私は好きですよ」
三上が合いの手を打って賛同するものだから、さやかもますますご満悦だ。
「さやかの新しい字名も決まった事だし、この際だから三上さんは”はっちゃん”で――」
「それ、絶対蛸から取ってるよね、桐生さん? 私は字名はいりませんっ!」
そんな風に私達がわいわいと騒いでいると、藤堂が”さっしー”の由来を尋ねてきたので私は答えた。
「え、そりゃあ、さやかって差し歯じゃない? 差し歯だから“さっしー”。どう、ピッタリでしょ?」
私がそう応えた瞬間、皆が揃って苦虫をかみつぶしたような顔をして私から距離を取る。
「どうしたの皆――って、さっしー、あんた試合が終わったと言うのに、どうしてそんなに目を吊り上げてるのさ?」
異様な気配に背後を振り返ると、そこには、このカナダ戦だけで随分と距離が縮まったように感じていたさやかが。しかし、先ほどまでの態度を彼女は一変させ、何故か背中から湯気が出そうな程のオーラで私を睨みつけていた。
彼女は私を、代表戦もかくやといわんばかりの眼光で射抜き、会場中に聞こえるのではないかと思える程の大声を発する。
「――二度と、私を“さっしー”だなんて呼ばないで下さいませっ!! 良いですわね、赤毛猿!!」
何故か彼女は先ほどの前言を撤回し、ぷりぷりと肩を怒らせながら一人控室に戻って行くのだった。
どうやら、近づいたと思っていた彼女との距離は、再び開いてしまったようだ……。