ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「――それまで!」
決勝戦を裁くオランダ人主審ロイゼン・ハワード主審が、ブザーの鳴る音を耳にしたのと同時に激しくけん制し合っていた二人を止めた。その瞬間私は、日頃クールな彼女が控えめにグッとこぶしを胸の前で握ったのに気づいた。反対にソビエトの選手が悔しそうに口を歪める。
両者が開始線に戻ったのを確認し、主審が右手を私達のチームメイトを指し示し勝ちを宣告する。途端に激しく振られる日の丸の国旗と、勝者である彼女を讃える無数の歓声。
その歓声をBGMに、4分間戦い抜いた彼女が満足そうな笑みを浮かべながら私達の元へ戻ってきた。
「お疲れさまでした、山口さん! 素晴らしい柔道でした!」
柔ちゃんがタオルとスポーツドリンクを手渡しながら労ったのをきっかけに、次々に彼女に賛辞の声が。
「やったじゃないか、山口。やっぱり本来の階級の方が動きが良いね」
「おーほっほっほ。私の代わりに先鋒を務めたのですから、これぐらいはやっていただかないと私が困りますわ」
「本阿弥さんったらまたそんな事を言って。山口さん、本阿弥さん、山口さんの試合中ずっと声を枯らせて応援していたんですよ」
「――三上さんっ!?」
「分かってるよ、三上。皆の声はちゃんと聞こえていたから。そんな事より本阿弥。私は私の役割を果たしたよ。次はあんただ。気合入れて行きな」
山口はそうさやかに顔を向け、右の掌を顔の位置に掲げる。それを見たさやかは、ふんっと鼻で笑い、無駄に優雅な仕草を取りながらパンッとその手に自身の手を重ね、畳の上に上がって行った。
ソウルオリンピック 柔道種目 最終日。午前の早い時刻から始まった男女国別団体戦も、残るは女子団体の決勝戦を残すのみだった。もちろん、日本の相手はソビエトだ。畳を挟んだ向こう側では、ソビエトの選手達が初戦を落とした選手の肩を叩き、その健闘を労っている。
「よくやった、山口! さすがは女三四郎だっ! 本阿弥、山口に続けよ!」
背後の一段高い場所にある観客席から野太い声が届く。振り返るまでも無くその声の主は分かる。男子無差別級の代表選手であり、日本男子チームの不動のエースである犀藤だ。
つい先ほど男子団体の方の決勝戦は終わっていた。優勝はフランス。日本男子チームは惜しくも準優勝という結果だった。敗北を突きつけられた時の犀藤の男泣きの慟哭が、その激闘の余韻としてはあまりに強すぎるほど私の耳朶にこびりついている。
そして男子団体決勝戦に続き始まった女子団体決勝戦。女子チームの監督である柳澤監督は、ここで周囲をあっと言わせる奇襲に打って出た。
なんと、これまで切り込み隊長として全ての試合で先鋒を務めていた本阿弥さやかに変えて、山口かおるを先鋒に据えたのだ。そして、その外した本阿弥さやかは次鋒に。
これは賭けの要素の強い奇襲だと個人的には感じている。おそらくこれまで通りさやかを先鋒に当てていれば、ソビエトの先鋒は力が一段落ちる事は確実なため、ほぼ間違いなく勝利を収めていたはず。
ただ、そうするとソビエトの次鋒であるフルシチョワに山口が相対する事になる。山口には悪いが、どう考えてもフルシチョワが相手では分が悪いだろう。柳澤監督もそう考えたはず。つまり、次鋒戦を終えて1勝1敗に終わる可能性が高い。そこで柳澤監督はリスクを覚悟して攻めの一手を打った。
ソビエトは、次鋒のフルシチョワと大将のテレシコワの力こそ突出しているが、先鋒、中堅、副将はワンランク落ちる。特に先鋒は穴だった。あの先鋒が相手なら、本来の階級で戦える山口なら十分勝利が計算できる。そして肝心の次鋒フルシチョワと本阿弥さやかだが、この組み合わせを考えた時点で、柳澤監督がさやかに何を期待しているのか自ずと理解できる。
だから私は、軽く跳躍しながら畳の中央に向かうさやかに大声を張り上げる。
「さっしー! 余裕こいてるフルシチョワにかましてきなっ!」
「――私をその名で呼ばないでって言っているでしょう!?」
と、いけない、つい口走ってしまった字名に彼女が目を剝いて反応してきた。
「おい、桐生。いくら何でも、このタイミングであいつの集中を切らすんじゃないよ」
「そうよ、桐生。ただでさえ本阿弥は初めての上の階級に挑戦するんだから、邪魔しないの」
「桐生さん、親しき仲にも礼儀ありよ」
「もう、さやかだから“さっしー”だって言っておけば良かった話じゃない。試合中は相手の手を読むのに長けているのに、どうして肝心な所でそうなのよ」
藤堂、山口、三上、そして柔ちゃん達から口々に非難され、私は殊更肩をすぼめるのだった。
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side 本阿弥 さやか
本当に、あの赤毛猿はっ!
主審に促され開始線に向かいながら、先ほどの不愉快な言葉に内心で毒づく。自然と至近で対峙するソビエトの相手選手に視線が向かう。確かフルシチョワだったかしら。皮肉な、そして余裕の笑みを浮かべている所が、何処かの誰かさんを否が応でも連想させ、より一層苛立ちが募る。
確か、ソビエトの無差別級代表テレシコワに匹敵する実力者だから注意しろ、だったかしら。組み合わせの変更を告げられた瞬間から、とにかく頭に叩き込め、と彼女の得意技から組手の癖に至るまで嫌になるほど耳元でがなり立てられた。
まったく、嫌になりますわね。私からすれば、相手の情報なんて、テレシコワと同等程度ならあの猪熊柔がテレシコワに勝っているのですから彼女と同格の私が負けるはずが無いですし、そもそも赤毛猿に一度ならず二度までも負けている時点で、私の相手ではありませんわ。
さあ、特別に私が相手になってあげますわ。かかってらっしゃい。そして私は、主審の「始め」の言葉に、一歩を踏み出した。
――痛っ!
組んだ瞬間に飛ばされた足技に、何か硬い鈍器でくるぶしをがつんと殴られたように感じて思わず顔をしかめる私。いったい何なんですの、と組み合う相手の顔を伺うと、やはり皮肉な笑みがその顔に張り付いていた。
なるほど、これがあの赤毛猿が試合前に言っていた、フルシチョワの足技は痛いよ、という事の意味ですのね。しかも足技だけではなく、私の襟元を取った相手の釣り手が頻繁に私の身体を打ち、私をいらだたせる。
まったく、こんな野蛮な相手だったなんて。野蛮人には野蛮な相手でも良いでしょうが、私をあの女と一緒にしないでいただきたいものですわっ!
お返しとばかりに私もフルシチョワの踏み出された足に出足払いを仕掛ける。しかし彼女は私のそれを意に介さず、力任せに私の身体をぐっと引き付けて来た。
――何なんですの、この馬鹿力は!? かつて藤堂さんとも戦った事がある私は、もちろん私より筋力のある選手との試合経験も少なからずあった。しかし、フルシチョワの力は、これまでに戦ったどの選手より強く感じられた。
今少し試合経験を積めば、その理由が技と力の理想的な融合によるものだと理解できただろうけれど、この時の私にはその答えに辿り着く事が出来なかった。
くっ! 強引に私を引き付けフルシチョワは私に対して払い腰を仕掛ける。しかし、まだ試合序盤で私に体力が十分に残されていた事が功を奏し、致命的な間合いに入る前に私はその技から逃れる事が出来た。
「さっしー、正面から攻めるな。回れっ!」
言われなくても分かってますわッ!
この方が私より筋力が上なのは、先ほどの強引な引き付けで分かりましたわ。赤毛猿のライバルなのですから、さしずめゴリラだと思う事にしますわ。
私は目の前の相手から見て反時計回りに動き始める。しかしフルシチョワは、そうはさせじと強引に私を正面に引き戻す。そして、間髪を入れずに私に身体をぶつける様にしてフルシチョワは大外刈りを仕掛けて来た。
際どい所でその攻めを躱した所で審判が場外を示すジェスチャーをして試合を止める。試合残り時間はまだ3分以上残されている。私達の試合はまだ始まったばかりだった。
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side フルシチョワ・サハノヴィッチ
――逃げたなっ! ホンアミが私の正面から横移動を始めたのを見て取った私は、目の前のいけ好かない女を内心であざ笑った。
戦う前からこの女の事は気に入らなかった。人を見下したような視線、グレムリンのような狡猾な笑み、全てが気に入らない。
そもそも私は、この団体戦の決勝戦で再びキリュウと戦える事を、ほんの僅かだが期待していた。しかし、やはり奴は大将だった。ヤワラ・イノクマさえ出場していれば、奴と再戦出来る可能性が高かったというのに……。
そしてキリュウの代わりに次鋒戦に出て来たのが、目の前のコロン臭が鼻につくホンアミだ。コーチからそれなりにこの女の情報は耳にしている。48kg以下級のシルバーメダリストであり、払い腰を中心とした派手な技を得意とし、ヤワラ・イノクマ、アカネ・キリュウと共に今後長きに渡って日本柔道界を牽引していく存在だと。
だが、明らかにこの女はヤワラ・イノクマに及ばない。もちろん、アカネ・キリュウにも。この程度の女に躓いていられるか! 私の相手に相応しいのは、アカネ・キリュウだけだっ!
横に回ろうとするホンアミの動きを掣肘するため、足を飛ばして止めた隙にその身体を強引に引き戻す。見たくもない女の顔だが、終わらせるためだ。この女に圧勝して、畳の袖でこちらを見つめているキリュウに私の存在を思い出させてやる。
「――これで終わりだっ!」
だが、私が仕掛けた大外刈りはギリギリのところでホンアミに躱され、ポイントを奪えずに終わる。ちっ、先ほどの払い腰と言い、今のと言い、なかなかしぶとい。だが、それも時間の問題だ。
審判の試合再開の言葉と共に私は前に出る。ホンアミも逃げる素振りを見せず私と正面から組み合う。ふん、私と正面から堂々と組み合うなど、同階級でもキリュウを除けば片手で数えられるほどしかいなかった。その気の強さだけは認めてやるよ、ホンアミ。
私と組み合った状態で先ほどと同様に横に回ろうとするホンアミ。さすがに軽量級の選手らしく私より動きは良いが、いかんせん筋力が違う。再び強引に私の前に引き戻し技を仕掛けようとする私だったが、そのために踏み出した足を狙われた。
タイミングよく足を払われた事で技の初動に失敗する私。その隙にホンアミは私に対して小内刈りを仕掛けてくる。思わずたたらを踏み、ほんの僅かひやっとする私だったが、ホンアミはここでミスをする。踏み込み過ぎたのだ。経験値が足りない選手なのだろう。私が既に態勢十分な事に気づかず前がかかりになったホンアミ。私はその彼女の懐に身体を入れ替える様にして潜り込み、背負い投げを仕掛ける。
「――これで終わりだっ!」
「――くっ!」
ズダーーン!!
仕留めたかっ!? 直ぐに主審の方を伺うが、主審の手は真っすぐ天を指してはいなかった。
「――技有ぃっ!」
ちっ。技有か。次こそ一本で仕留めてやる。
ホンアミを投げたままの態勢で膝をついていた私は、起き上がる際に彼女の鳩尾にそっとつま先をめり込ませる。ふっ、顔色が変わったな。すんなりと一本負けをしないからそうなるのだ。私は笑みを浮かべホンアミを見下ろした後、彼女を残し開始線に戻って行った。
「――ほらほらっ! どうした、ホンアミ! 仕掛けてくるのではないのか!」
私は筋力で劣るホンアミを左右に振り回す。もちろん負けているこの女は振り回されながらも時折技を仕掛けてくるが、当然私はその瞬間彼女の身体を上から抑え込む様にして、それを潰す。
すると、ホンアミは大技を私に仕掛ける事を諦めたのか、小刻みに足を飛ばしながら小技を繋げる動きを始める。
悪くはない。腹立たしい事に時折私の足は彼女の足技にたたらを踏むし、審判も防戦一方で無い彼女に対して、消極的柔道の指導を与える気配はない。だが、大小様々な技を継続して繰り出し、しかもそれを効果的に繋げていくには、この女の柔道経験値は絶対的に不足している。それこそ、あの赤毛の女でも無ければどだい無理な話だ。
そらっ! 息が上がって足運びがおろそかになっているぞ、ホンアミ!
不発に終わった技の態勢から再び戻ろうとするその一瞬、ホンアミの足が揃う。私はその一瞬の隙を逃さず、その足を払う。一瞬で宙を舞うホンアミ。私は釣り手を引き手を効かす事でホンアミの身体を宙で制御し、その背を畳に叩きつけようとする。
「――さっしー! 逆らうな、回転!!」
目まぐるしく動くうちに日本チームの眼前で柔道を取っていたようだ。その声が私の耳朶を強くうち、気づけばホンアミの身体を完全に制御できないまま彼女の背を畳に付けていた。
「――有効っ!」
ちいっ! ホンアミめ、私の行動に抗うのではなく、むしろ加速するような動きを取ったか! 余計な力がかかったためにむしろ回転しすぎて完全にその背を畳に付ける事ができなかった。
だが、これで技有一つと有効一つ。残り時間は2分を切った。この女が先ほどまでと同じようなしみったれた柔道を取るのなら、私の勝ちは万に一つも揺るがないだろう。
私は寝技を警戒して身体を亀のように丸めているホンアミから視線を剥がし、舞台袖でこちらを真剣な眼差しで見つめている日本の大将 キリュウを見下ろす。
そこでよく見ていろ。ホンアミなど私の相手ではない。遠くない未来、必ずお前を畳に沈めてやる。絶対に、絶対にだっ!
キリュウは、私のその確信的かつ挑戦的な言葉を内包した