ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「……柔ちゃん、残り時間は?」
藤堂の大きな身体で視界を阻害され電光掲示板が見えなかったのか、桐生がストップウオッチを手にしている隣の猪熊柔に問いかける。彼女は、素早く手元に視線を落とす。
「後、1分51秒。さやかさん、押されているわね」
「そうだね。まあ、いくらさやかでも、相手は自身より一階級上の実力者。そう簡単にはいかないよね」
フルシチョワに遅れて開始線に戻って行く本阿弥を視線で追いかけながら桐生がそう呟くが、更に「……でも、良い柔道しているよ」と続ける。
その言葉に藤堂と山口が怪訝な表情で振り返る。畳の上では、本阿弥が柔道着の乱れを審判に指摘されたのか、帯をほどき道着を整えていた。
「良い柔道? 残り二分を切って技有と有効を取られているんだよ?」
「そうだよ、桐生。本阿弥もしぶとい柔道を取っているとは思うけれど、どう見ても本阿弥よりフルシチョワの方が
「そりゃあ、仕方が無いですよ。スピードではさやかがフルシチョワを上回っているけれど、それ以上にパワーでは負けている。
しかし、桐生はそこまで言って「でもね……」と続けた。
「でもね、私が見た所、さやかがフルシチョワに勝っている要素が後一つある様に思えるんですよね」
畳の上では本阿弥とフルシチョワの試合が再開された。ポイントで上回っていても一本勝ちに拘っているフルシチョワと、劣勢にもかかわらず生来の強気の性格が薄まっていない本阿弥は、畳の中央でがっしりと組み合う。
フルシチョワの放ったこの日何度目かの背負い投げを躱す本阿弥。
「茜さん、さやかさんがフルシチョワさんにスピード以外で勝っている点って……」
畳の上の戦いに気を取られ口を閉ざした桐生に、猪熊柔が問いかける。藤堂、山口、三上も先ほどの桐生の言葉の続きが気になっているのか、視線は畳の上に固定したまま、そのやり取りに耳を傾ける。
「え……? ああ、さやかって、柔道を始めたのは高校2年生の半ばからでしょ? それが、たった2年やそこらで国家規模で柔道の英才教育を受けて来たフルシチョワを相手に2分以上戦えている。それって、普通に考えたらとんでもない事だよね」
今更ながらにその言葉に彼女達は「そう言われれば……」と納得の表情をする。確かに、どうしても本阿弥の戦績は桐生や猪熊の陰に隠れてしまいがちであるが、普通に考えたら常軌を逸している。
「だからね、そんな経験の浅いさやかがフルシチョワを相手にあれだけ戦えているのは、きっと……“柔道センス”はフルシチョワを上回っているからだと思うんだよね」
「「「「柔道センス……」」」」
本阿弥の背負い投げを、体重を後ろにかける事で堪えるフルシチョワ。しかし本阿弥はそれを予期していたように、タイミングよく前方向の背負い投げから後ろ方向の大内刈りに技を切り替える。
倒されはしなかったものの、フルシチョワが泡を喰ったように距離を取る。
「センスって怖いよねぇ。どれだけ上積みがあっても、一分一秒ごとにその差が縮まっていくんだもん」
どこか遠い目をしながらそう口にする桐生。もしかすると彼女は、秋田東工で本阿弥を相手に4分間目いっぱい戦った際に何か思う所があったのかもしれない。
「……2分44秒か。さて、どれほど差が縮まったかな――「有効っ!」」
桐生の言葉を遮り主審が声を張り上げた。その瞬間、会場がどっと揺れる。歓声が上がったのは、日の丸を激しく振る観客席からだった。
「よしっ、よくやった、本阿弥! まだ
「駄目だよ、藤堂! 本阿弥っ、一つずつ行くんだよっ! 焦るな!」
「本阿弥さん、良い感じです! そのまま行きましょうっ!」
「さやかさん、まずは息を整えてっ! 大丈夫、まだ時間はあるわっ!」
藤堂、山口、三上、そして猪熊柔が口々に声を張り上げ、桐生は「……へえ、よくあんな技を」と呆れ半分、感嘆半分の声を上げる。
本阿弥は一瞬だけ彼女達、とりわけ桐生に視線を投げかけた後、彼女にしては珍しくさほど表情を変える事無く開始線に向かっていく。
そんな二人の様子を見て桐生は「良いね、さやか。集中している」と呟いた後、「そう言えば……」と猪熊柔に顔を向ける。
「ねえ、柔ちゃん。さやかって、柔道を始める前は何のスポーツをしていたんだっけ?」
「え……? ああ、確か、テニスだったかしら。その前は……」
そこで口を閉ざし眉間に皺を寄せて「むむ……」と唸り声をあげる猪熊柔に、藤堂が「水泳に乗馬だったはずだよ」と助け舟を出す。その答えというより、藤堂が知っていた事が意外な様子で驚きを示す二人。
「私が知っていたらそんなにおかしいかい? あのいけ好かない女は、色々な意味で有名だからね。それぐらいの情報、巷にいくらでも出回っているよ」
その答えに納得したように頷く猪熊柔の隣で、これまた別の意味で納得したように頷く桐生。
「テニスに水泳に乗馬……か。あの瞬発力はテニスで、持久力は水泳で培われたものかな? 乗馬は……なんだろ? ああ、柔軟性かもしれないわね。ふふふ、フルシチョワ、いい加減目の前の相手を直視しないと、思わぬところで足をすくわれるわよ?」
桐生は、今日初めてポイントを取られた事で膝をついたまま茫然としていたフルシチョワに顔を向ける。よほど先ほどの内股を躱された直後の“肩車”が想定外だったのだろう。
無理もない。フルシチョワにとっては、仕留めたという確信と共に放った内股だったはず。それを本阿弥は素晴らしい瞬発力で躱し、逆に隙だらけの足に手を回し肩車を決めてみせた。むしろ、フルシチョワはよく本阿弥の肩車を有効でとどめたと言っても良いかもしれない。
フルシチョワと本阿弥さやかの息迫る熱戦は、技有一つフルシチョワが上回った状態で残り一分間の勝負にもつれ込んでいくのだった。
「……良い動きが出来ている。そう、焦る必要は無い。時間は十分にある」
熱気を帯びた観客席の最上段。あえて人目に付かないようにしているのか、無機質なコンクリート柱の陰に隠れるようにしながら眼下の試合会場に目を落としている男が、一人そう呟く。しかし、その呟きを拾った男がいた。
「こんな所にいらしたんですか、虎滋郎さん」
突如背後からかけられた言葉に動揺した素振りも見せずにゆっくりと振り返る男。
「……君は?」
「初めまして、日刊エブリ―スポーツの松田耕作と申します」
その名前に心当たりがあったのだろう。彼にしては珍しくぴくりと肩を震わせ背後を振り返った。
「君が松田君か。実に良い記事を書く」
その言葉に松田は照れくさそうに「恐縮です」と答えた後「……実は、桐生さんが、虎滋郎さんは絶対に会場にきているはずって言っていたので探していました」
「桐生……か」
虎滋郎はふっと微かに笑みを浮かべた後、視線を再び畳の上に戻す。松田の方も虎滋郎と会話を交わす事よりも、残り一分を切った試合を観戦する事を優先した。もちろん、この決勝戦が終われば、虎滋郎に猪熊柔と会う事を提案してみるつもりだったが。
「……勝てますか、本阿弥選手は?」
本阿弥は、まだ負けているとはいえポイントを取った事で迷いが消えたのだろう。筋力で勝る相手に振られながらも、態勢十分な組手のまま技を繰り出す事が出来ている。逆にフルシチョワは1階級下の選手にここまで粘られたこと自体が想定外だったのか、仕掛ける技に思い切りが欠けているように見える。
「さて……な。先ほどの肩車は見事だった。1階級上の選手に対して4分間戦える持久力もあるようだ。それに――」
突如、虎滋郎の言葉を遮るかの様に大きな歓声が上がった。その歓声は主にソビエトを応援する観客席からだった。フルシチョワの放った背負い落しが本阿弥に襲い掛かる。本阿弥は事前にその技の特徴をチームメイトから聞いていたのか、かろうじてそれを防ぐ。
しかしフルシチョワも諦めない。技が崩されても両膝を畳に着いたまま、巻き込む様にして強引に本阿弥の背を畳に付けようとする。それをまるでブリッジするかのようにしながら必死の形相で防ぐ本阿弥。両者の攻防が硬直したのを見て審判が「待て」を宣告した。
試合が途切れたのを見て、ほっと安堵の息を吐く松田。その松田の隣で虎滋郎は呟く。
「……それに、身体が実に柔らかい。彼女は修練次第で、素晴らしい寝技の使い手になるだろう」
「寝技……ですか?」
派手な技を好む本阿弥に似つかわしくない戦法が虎滋郎の口から出た事で、思わずそう疑問の言葉を発する松田。
「……可能性の話だ。今の事ではない。彼女は良い柔道を取っているが、今の攻防で残り時間は僅かとなった。柔やあの娘ならこの状況からでも決して勝ちを諦めないだろうが、はたして彼女はどうかな?」
その虎滋郎の独白のような呟きに松田はニヤッと笑みを浮かべて、今度は確信を持って応える。
「それなら大丈夫です。本阿弥選手の諦めの悪さは、娘さんや桐生さんと比べて決して劣りません。絶対に……!」
「ふっ。それなら期待してみるとしよう」
そして彼らは、荒い息を吐きながら開始線でにらみ合う二人をじっと見つめるのだった。
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side 本阿弥さやか
開始線に戻り荒い息を整えている私の耳朶に「さやかさん、あと
それぐらいの事分かっていますわっ! 電光掲示板に視線を投げれば試合残り時間が36秒となっている事は嫌でも目に入る。それに、技有一つ分負けている事も。
私は、目の前の相手を睨みつける。試合開始当初にその口元に浮かんでいた、にやついていた笑みは影を潜めていて、今彼女は歯を苦々しく噛みしめていた。その様子から、彼女の胸の内でとぐろを巻く様にのたうっている感情が容易に理解できた。
フルシチョワ・サハノヴィッチ。確かに強いお方でしたわ。速さでは私とほとんど遜色なく、力や技術では悔しいけれど明らかに負けている。そんな相手に、残り30秒と少しで逆転しなければならない。
普通に考えれば諦めた方が良いのかもしれない。残り時間、ポイントは奪えないまでも防御に徹すれば一本負けはしないで済む可能性が高くなる。勝敗としては『負け』はつくけれど、それは優勢負け。一階級上の相手に十分健闘したと評価される『負け』。
「さやかさん、残り時間が無くても組手はしっかり取って!」
「さやかっ! 試合再開と同時に来るよっ! ――狙えっ!」
ですが……、ですがこの二人なら絶対に諦めない。この二人が諦めない以上、私が諦めるわけにはいきませんわっ! これが、柔道の前に打ち込んでいたテニスなら諦めたかもしれない。
ですが、テニス……いや、水泳でも、乗馬でも、これほどまでに私に刺激を与える人は存在しなかった。もしかすると、私が柔道という数多あるスポーツの内のたかが一つにこれほどまでに固執しているのは、柔道という競技以前にあの二人の影響が大きかったのかもしれませんわ。
「――始めっ!」
――! 主審の宣告と共に、試合残り時間のカウントダウンが始まった。36、35と徐々に減っていく残り時間。
主審の宣告と共に目の前の相手が飛び込んでくる。組手争いは無く、互いに瞬時に欲しい場所を取り合う。とても不本意な事ですが、長時間の立ち合いが、意図せずして私と彼女をまるで息の合ったダンスパートナーにしているように感じる。
フルシチョワ・サハノヴィッチ。この方は、私がこれまでに対戦した選手の中で、3番目に強いと断言できる。速さでは負けていなくても、力と、とりわけ技術には雲泥の差がある事を認めざるを得ない。
試合開始当初、この方は私と対峙していながら私を見ていなかった。今なら分かる。準決勝でのナディアさんの苛立ちが。そして今もまだ私を見ていない。いえ、見ようとはしているけれど、プライドからかそれを認めようとはしていない。
後に私は、とあるTV番組でこの後繰り出す連携技をいつから考えていたかと問われるけれど、上手く応える事が出来なかった。だって、気が付いたら放っていたとしか応えられないのだから、仕方がないではありませんか。
先手必勝。負けを恐れていては、この相手に逆転する事など不可能。私はフルシチョワの襟を掴んだ右手の釣り手を移動しながら袖へと移動させる。同時に、フルシチョワの意識を下方へと向けるために足を飛ばす事も忘れない。
「――はっ!」
私の足技によってフルシチョワの足が止まった瞬間に、私は右手を高く掲げながら彼女の懐に飛び込む。
「――袖釣りだとっ!? 舐めるな、ホンアミ!」
フルシチョワは、誰とは言いませんが、袖釣り込み使いに対する研究は十分に積んでいたのでしょう。彼女は、私が吊り上げた左腕を勢いよく振りほどく。
釣り針が解けた。
やはりこの方は強い。解いただけではなく、私の腰に両手を回そうとする。その意図は明白。返し技、おそらくは裏投げだろうけれど、私は釣り針を外されても動きは止めていなかった。
あの女ならここから自身の名を冠した技に移行するのでしょう。ですが、私にそんな技術は無い。ただ、私の脳裏には、あの
切られた釣り手を引き戻し、私はそのままフルシチョワの右脇の下から通す。もちろん体の回転と踏み込みは、一切途切れさせてはいない。
どれほどこの技への対策に時間と労力をつぎ込んできたのか。現在までの所、かけた時間と労力に見合うほどの対価は、全く頂けていない。
ですが、今この瞬間に流れる様にこの技を放てていられるのは、その数少ない対価と言えるのかもしれませんわね。
――一本背負いっ!
よく見ていなさい、猪熊柔! この技がこの方に通じなければ、あなたの技が二流だという事の証ですわよっ!
腕をロックした。回転も十分。後は膝を立ち上げるだけ、という所で技の始動が止まる。いや、止められる。
「――舐めるなと言っているっ!」
――がしぃっ!
くっ! 裏投げっ! 前方への動きから徐々にぐぐっと身体が後方に振られる。一本背負いと裏投げのせめぎ合いが、一瞬の硬直で目に見える形で現れる。ですが、僅かに私の方が態勢十分だったようですわ。
勢いは大幅に減じられたものの、それでも斜め前方に崩れるようになりながら、私はフルシチョワの身体を宙に浮かせる事に成功する。何と無様。やはりあの方は二流ですわね。
ズズーン。
もつれる様に倒れた私達の頭上で、主審の発する「――技有っ!」の声が届いていた。
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人工的なブザーの音が会場中に響いた。息をするのも忘れて観戦していた観客がほとんどだったのか、その瞬間、ほぉっという溜息とも安堵の息ともつかぬ声ならぬ声が驚くほど大きく会場に響いた。
ソウルオリンピック 柔道競技最終日。女子国別団体 決勝 次鋒戦。本阿弥さやかVSフルシチョワ・サハノヴィッチの試合は、互いに技有一つと有効一つを取り合い、引き分けに終わった。
これで次鋒戦までを終え、日本の1勝1分けという結果となった。最高の結果という訳ではないものの、戦前はこの段階で1勝1敗のイーブンという予想が大半であった事を考えると、十分な結果と言える。
「いやー、すごいな、本阿弥選手。本当に凄い。彼女、この1試合だけで、数年分以上の練習に匹敵する力が付いたんじゃないかと思える程ですよ」
もしかすると、女子柔道陣の監督である柳澤のもう一つの狙いはこれにあったのでは、とすら感じた松田は、後程柳澤にこの見解をぶつけてみようとメモを取る。その松田の隣で虎滋郎は、畳の上から視線を剥がさないまま呟く。
「フルシチョワは裏投げの始動が遅れたな。最初の袖釣り込み腰。釣り手を剥がすのに意識が行き過ぎていて、下半身が止まっていた。おそらくは反撃より回避を優先したのだろうが、誰を想定していたのかは知らないが、あの練度の袖釣りであったなら反撃を選択しても良かった」
「もっと早く裏投げを仕掛けていたら勝っていたのはフルシチョワだったと……?」
「柔道にたらればの話しは無いが、おそらくな。もっとも、それを見越してあの袖釣りを最初に仕掛けたのだとすれば、あの娘もなかなかに
「なるほど……」とメモを取りながら熱心に頷く松田。
そんな彼らの見つめる中、決勝戦の折り返しに当たる中堅戦が今まさに始まろうとしていた。