ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「ぶはぁっ、ぶはぁっ!」と荒い息を発しながら、今しがた副将戦を戦い終えた藤堂が戻ってきた。副将戦までを終えて、日本はソビエトに対して2勝1敗1引き分けで勝ち越している。
「すまない、桐生! 私で勝負をつけたかったんだけど――」
「いえいえ、ちゃんとバトンは繋がっています。後は任せて下さい」
藤堂が滝のような汗を流しながら私に謝罪するものだから、私は殊更笑みを顔に浮かべて、畳の上に上がる。
「桐生さん、今更桐生さんに言うことなんて無いけれど、桐生さんらしくねっ!」
背後から届いた三上の声に、私は肩越しに振り返り「もちろんっ!」と応える。
三上は、中堅戦で相手ソビエトの選手に対して、試合開始3分過ぎに見事な一本勝ちを決めた。もちろん試合を決めたのは、山嵐だ。これで三上は今日の団体戦に4試合出場し3勝1敗。もともと控え選手でスタートしていて、その上ずっと一階級上のクラスに出続けてこの戦績。私の試合がまだ残っているが、今日の日本のMVPはもしかしたら三上になるかもしれない。
おっと、主審が、私と相手大将テレシコワを畳の中央へジェスチャーで誘導する。ゆっくりと開始線に向かいながら、テレシコワの鋭いナイフのような視線を受け止める。
くすっ、焦る必要は無いわよ、テレシコワ。昨年のドイツでの練習試合はこれから始まる私達の戦いに比べたら児戯のようなもの。さあ、昨日のあなたと柔ちゃんの試合に負けないような勝負をしましょう。
「――始めっ!」
こうして、ソウルオリンピック最終日 国別女子団体戦決勝 大将戦は始まった。
開始線の中央で組み合う私とテレシコワ。テレシコワは上背を活かしていきなり奥襟に手を伸ばして来るかと思っていたけれど、意外に教科書通りに組んで来た。もしかすると昨年の私とのやり取りが頭に残っているのかもしれない。
もっとも、先のジョディのように気づいたら奥襟に手を伸ばしているって事もあるから、警戒は必要だけどね。
おっと。テレシコワがぐっと私の身体を抑え込みにかかってきた。私の襟を取っている右手に力を込め下方向に押して来る。奥襟を取っていなくても、これほどの体格差と筋力差があればこういう力技は可能。
私は咄嗟にテレシコワから見て左に移動する。組んだまま彼女が私を追いかける様について来る。ついて来るという事は当然足が動く。ほんの数歩。その数歩で彼女の体重移動を予測し、急所を突く様にタイミングよく足を飛ばす。
ほら止まった――いや、止まっていない! 止まると私に思わせておいて、テレシコワはその長い足を活かして一足飛びに私の懐に飛び込んで来た。
――大外刈りかっ! その瞬間、鼓膜が破れるかと思う程の歓声が上がるっ! 舐めんじゃないよっ! 足を綺麗に刈られ私の身体は宙を舞う。が、これはどちらからと言えば私から飛んだもの。私とテレシコワの間には、そうできるだけの間合いがあり、余裕があった。宙で余裕をもって身体を捩じらせ、両足でしっかりと接地する。
足のつま先に畳を感じた瞬間、かかとまで接地させる間も厭い、私はテレシコワにつっこんだ。テレシコワは大外刈りを放った前傾姿勢。頭が下がっている。懐に潜り込むには好都合。
「――!」
私の背後からテレシコワの声にならない驚きの声が届く。切り返しの速さに驚いた? 当然でしょう? 軽量級の私がスピードでテレシコワの想定を上回らなくて、何処に勝機を見出せると言うの?
「――ふっ!」
バンッと膝を利かせてテレシコワの巨体を背負う。仕掛ける技は一本背負い。釣り手を取る必要が無い分、技の始動が背負い投げより速いという利点がある。
重量級の彼女の身体を背負うのは決して楽な事ではないが、タイミングと速さを両立させることでその重さは、ほんの一瞬だけ羽毛のそれへと変わる。
身体が軽い。テーピングは足先から指先まで至る所に巻かれているが、それでも絶好調だ。だが、突然ガクンっと浮き上がりかけた私の身体に制動がかけられる。後ろに引かれているわけでは無い。まるで前方につっかえ棒があるかのような止められ方だ。
ちらりと視線を前に向けると、テレシコワが自由な左手を前方に伸ばし畳に手を付いていた。しまった。低姿勢だったからこその止め方をされてしまった。だけど、それならそれでやりようはある。私は完全に背負いの勢いを殺される前に、技の軌道を修正しテレシコワの突き出された左手を巻き込む様に一気に膝を立てる。
――! 軽いっ! しまった、私が膝を立てる前にテレシコワは畳に付いた左手を支点に自ら回転し、その長い足が綺麗な弧を描く。いわゆる前方宙返りという奴だ。彼女はそのまま宙で身を翻し、両足でしっかりと畳を踏みしめ私に対峙する。
「……へー、やるじゃない、テレシコワ」
その一連の行動に、私は畳に片膝をついた姿勢で思わず称賛の声を上げる。軽量級の選手ならいざ知らず、重量級であのような軽やかな避け方をする選手を私は知らない。藤堂はもちろん、おそらくジョディですら出来無いのではないだろうか。重心の低いあんこ体形でなく、そっぷ体形のテレシコワならではだ。
テレシコワがああいう避け方が出来るという事は理解した。さて、ここらでテレシコワの寝技
まだ試合は序盤も序盤。ここで彼女の寝技
「――待てっ!」
場外間近で試合が硬直したためだろう。主審が私達に対して開始線に戻るよう指示する。テレシコワは、先ほどの激しい攻防など無かったかのように、涼し気な顔で開始線に戻って行く。
ちっ。思った以上にノリの悪い奴だ。私は、テレシコワの横顔を盗み見ながら、これからの戦略を脳裏に思い描く。
とりま、あの涼し気な表情を崩したい。つまり、彼女の冷徹極まりない精密機械のような頭脳にバグを生じさせたい。もしそれが出来れば面白い事になりそうな予感がする。ミスターにも負けない私のカンピューターがそう言っている。
あ……。そうだ、あれ、やってみようかな。うふふふ。
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side アンナ・テレシコワ
キリュウが片膝を畳に着いた姿勢のままこちらを凝視している。寝技に行くか……? いや、もしかするとあれは誘いかもしれない。奴の寝技
そんな事を考えていた時、主審が試合を止めた。場外……? 私は足元に視線を落とす。赤い畳。そうか、場外か。ならば仕方あるまい。ふっと緊張を解くと、向かい合っていたキリュウも肩の力を抜いたのが分かった。同時に微かに舌打ちも。
ふっ、やはり誘いだったか。食えない奴だ。
私は開始線に戻りながら、先ほどの攻防で得たキリュウの情報を素早く脳裏で上書き修正していく。強い……。昨年のドイツでの乱取りをした際の認識のままでいては敗れる。
速さは私の想定を超えていない。昨日のヤワラの速さをまだ身体が覚えているうちに対戦出来たのが大きい。不思議なのは、決して最速ではないのに、最速のように感じられる点。速さだけならヤワラの方が上回っているのに、それを感じさせない。
おそらく奴は、僅かに劣る速さを経験で補っている。4日前の52kg以下級、そして今日のこれまでの奴の試合を見ていても分かる。若年にも関わらず、奴の柔道は既に練達の域に達している。ヤワラを含めた誰よりも……だ。
奴を、年齢相応の柔道家と考えていてはいけない。精神面には未熟さが目立つが、肉体面には練達の士という、アンバランスだが危険な柔道家。私は目の前の女の情報をそう修正し、開始線についた。
「――ちっ!」
内股を仕掛けようと踏み込むが、その始動を妨害するようにキリュウが私の動きを止める。キリュウの右手が邪魔だ。力ではこちらが明らかに勝っていると言うのに、奴の釣り手が私にその力を十分に発揮させない。ドイツでもそうだった。今日もカナダのロックウェルを相手にこの技術を有効に使っていた。
やはりヤワラとは違う。実力的には甲乙つけがたいが、その戦い方は明らかに異なる。ヤワラの才能と実力は認めても、彼女にこの老練さは無い。
「――テレシコワ、一度その釣り手を切れっ!」
観客席から声を張り上げるコーチの声が私まで届くが、私はその助言に従うつもりは無かった。確かに邪魔な釣り手だが、これまでの所キリュウの攻めは私の予想の範囲を超えていない。
袖釣り込み腰も、背負いも危なげなく躱した。残り試合時間は約2分と30秒で、互いにポイントは無い。引き分けに終わってしまっては我がソビエトチームの敗北が決定するが、キリュウのこれまでの試合運びを見る限りでは、奴が引き分けで良しとしていない事は明白。もちろん私自身も、引き分けなどでこの試合を終わらせるつもりは毛頭ない。
試合経過と共に体格に劣るキリュウの体力は目減りしていく。次だ。次に奴が大技を仕掛けてきた時、裏投げをかける。たとえその技がキリュウの名を冠した技だとしても、あるいは山嵐だったとしても私には通用しない。習得している技の豊富さに定評のあるキリュウだが、講道館柔道のありとあらゆる技への対処法は既に頭に入っている。
キリュウが、私の放った大内刈りを際どい所で片足を引いて躱した。躱したが、私との間合いは詰まったまま。奴にしては余裕の無い躱し方。その事が、キリュウが躱した直後に私に対して技を放とうと企図している事を悟らせた。
――やはり。キリュウが、強い踏み込みで詰まった間合いを更に詰めてくる。ここだ。何の技を仕掛けるつもりかは知らないが、この技を耐えて裏投げを放つ。
キリュウの動きを冷静に見極める。一本背負いだ。問題ない。ヤワラを相手に何度も想定したパターンだ。昨日は仕留めそこなったが、今度こそ。私は桐生が間合いを詰めてくるその一瞬で、一見それと看破されない程度腰を落とす。技を受けると同時に裏投げを放つために。
だが、私の脳内にある膨大な知識が、キリュウの動きに違和感という名の警鐘を鳴らす。
……妙だ。上半身の動きは一本背負いのそれなのに、身体の回転が足りていない。あれでは、私に背を向けて私を背負う事など出来ない。
――しまった! 大外刈りかっ! 前方への投げ技と見せかけておいて、後方引き倒しの技を仕掛けてくるとは、さすがに練達の士。
私は際どい所で裏投げの態勢を微修正する。問題ない。一本背負いが大外刈りに変化しても、私の裏投げは対応可能。
だが、ここでキリュウは更に私の想定を覆す。足が大外刈りの動きを取っていない。なんだ、これは。いったい何の技をキリュウは仕掛けようとしているのだ。
釣り手と引き手は一本背負いの動き。上半身の動きは大外刈り。
しかし、足の動きは――、足の動きは――!
払い腰だとっ!
馬鹿なっ! こんな技、見た事も聞いた事も無い! 危険を察知した私は咄嗟に間合いを外そうとするが、キリュウの渾身の踏み込みに一手遅れを取った。
――!
複数の技を同時に発動させていると言うのに、その切れ味はいささかも衰えていない所が非凡。キリュウの放った裂帛の声が、一瞬で逆さになった私の耳朶を強く打つ。
「――くらえ!! 一本背負い大外払い腰スペシャル!」
「――ぐぉっ!」
ズダーーーーン!
激しい打撃音と共に私の背から発せられた衝撃が、前後不覚に陥った全身を駆け巡った。
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「猪熊先生、テレシコワ選手を相手に桐生選手は果敢に攻めていますね。引き分けでも日本の勝利が決まるこの決勝戦ですが、どう見られますか?」
開始早々両者ともに激しい攻防が発生するも、互いにポイントを奪うには至らなかった。残り時間はもうすぐ2分と30秒といったところか。もはや定位置と化した解説席の左端に座る滋悟郎は、解説者の言葉に唾を飛ばして応える。
「当り前ぢゃっ! 常に一本を狙う柔道を取ってこそ、真の柔道家よっ!」
「ははは……」と苦笑いを浮かべる解説者の隣で、山上が「――危ないですよっ、桐生!」と声を張り上げる。
「――むっ!」
「おっと、テレシコワ選手、大内刈りだっ! これは桐生選手危ないっ! 堪えられるでしょうかっ!?」
テレシコワが桐生をぐっと引き付け大内刈りを仕掛ける。その前に桐生の身体を上方へ浮かせ態勢を崩していた事が効いているのか、桐生が躱す間もなくテレシコワの間合いに捉えられてしまったように見える。
だが、猪熊滋悟郎は桐生の狙いに気づいていたようだ。
「――そこぢゃっ!」
まさに滋悟郎が声を上げた瞬間、桐生が刈られようとしていた右足を引き、かろうじて大内刈りを躱す。ピンチの後にチャンス有り。山上も、大内刈りを躱した桐生に絶好の好機が巡ってきた事に気づく。
「――チャンスですよっ!」
その言葉が終わる前に桐生は反撃に移っていた。引き手で取ったテレシコワの右腕に腕を伸ばす桐生の構えは一本背負い。解説席に座る誰もが桐生の仕掛けた技を一本背負いと判断した。
「――なにをやっておるかっ!」
誰よりも早く滋悟郎が手技と上半身さらには下半身の動きに整合が取れていない事に気づき、叱責の声を上げる。
「――あ、いや、一本背負いではありませんよっ! ――大外刈りっ!?」
僅かに滋悟郎に遅れ山上が続くが、その山上の推測も外れていた。手技と上半身と下半身の動きをそれぞれ取り上げると、3つの技が同時進行している状態。もはや解説者が付いていけるレベルを超越している。
「い、一本背負――あ、いや、大外――あ、いや――な、何なんでしょう、これは!?」
程度の差こそあれ解説席に座る3人が驚きの声を上げる中、何とも形容しがたい桐生の技がとうとうテレシコワを捉える。
大きな振動を発しながら今日初めてテレシコワの背が畳に着く。経験豊富なオランダ人審判アイゼンが一瞬悩む素振りをした後、声を張り上げる。
「――技有ぃッ!」
その瞬間、どっと会場が揺れる。日本の応援団はもはやお祭り騒ぎだ。まだ試合は途切れていない。テレシコワは寝技への警戒のため畳の上で身体を丸める。対する桐生も間髪入れず亀のように身を固めたテレシコワの背に覆いかぶさって行く。
しかし、解説席では先ほどの桐生の放った技が何だったのかの議論が
「今の桐生選手の技は何と形容したら良いのでしょうか、山上さん?」
「いやー、私が見た限りでは、一本背負いと大外刈りと払い腰が合わさった技のように見えましたが……」
「そんな技が講道館柔道にあるのですか?」
「ありませんね。断言できます。ですが、ああしてテレシコワ選手の牙城を崩したわけですから、実に優れた――「何が優れたものかっ!」」
山上の言葉を眉間に皺を寄せた滋悟郎が遮る。滋悟郎は、寝技の攻防が膠着した事で試合が止まり、開始線に向かう桐生を見つめながら続ける。
「一本背負いに大外刈りに払い腰が合わさった技ぢゃと? そんなものは技とは呼べんわっ! 一本背負いはキレが足らず、大外刈りは突進力に不足、払い腰は回転不足。たまたま決まっただけのビックリ芸ぢゃっ!」
収容人数4,500人を超える
むろん周囲の大声援にかき消されてその声が聞こえるはずも無いが、彼にはその内容が手に取る様に分かっていた。
「いやー、さすがは桐生さんっ! 目の覚めるようない、一本背負……、い、いや、払い腰? 虎滋郎さん、あの技は何という名前なんでしょうか?」
虎滋郎と共に試合を観戦していた松田が、先ほどの形容しがたい技の名前を尋ねる。
「あれは技などと呼べるものでは無いよ」
その意見は父 滋悟郎と一致していたが、その口調は滋悟郎よりは明らかに穏やかだった。
虎滋郎の答えを半ば予期していたのか、松田はぽりぽりとペンで頭を掻きながら苦笑いする。
「やっぱりそうですか。でも、柔さんの柔道と桐生さんの柔道はどこか違いますね。桐生さんの柔道は、なんていうか……遊びを感じられます」
遊びか……。いみじくも、虎滋郎も松田と方向性が一致した想いを抱いていた。確かに、決して褒められた技ではない。それでも、その技が無差別級 銀メダリストの背を畳につかせたのだ。それは、遊びは遊びでも、柔道を習い始めたばかりの子が児戯で繰り出したものとは明らかに異なる、高度な遊びである事を証明していた。
どこか真理を付いたかのように思える松田の見解に、仏頂面のままだった虎滋郎の表情が僅かに緩みかけるが、不意に彼は眉間に皺を寄せる。
主審が寝技の攻防に移りかけた両者に「待て」をかける。その様子をじっと見つめていた虎滋郎がぼそっと呟いた。
「……は伝わらなかったか」
「え……? 何が伝わらなかったんですか?」
松田の問いかけに、今度は虎滋郎は応える事無く、じっと畳の上を見つめていた。
女子国別団体戦 日本対ソビエトの決勝 大将戦は、前半戦を終え、中盤から終盤へと向かいつつあった。
一本背負い大外払い腰スペシャル……漫画『柔道部物語』に登場するとあるキャラクターが試合で使用し勝利した技。ただのネタ技かと思いきや、実際にシドニー五輪の女子57kg以下級で銅メダルを獲ったとある選手の『くるくる大外刈り』に似ているそうな。だからまあ、テレシコワがかかった事もお許しください。