ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side アンナ・テレシコワ
「――技有っ!」
キリュウに未知の技で投げられた直後、私の頭上から主審の声が微かに届く。技有……、馬鹿な、私はいったい何の技で……。
私のその思考は、「――テレシコワ、呆けているなっ! 寝技が来るぞっ!」というフルシチョワの声で妨げられる。
考えるより先に身体が動いていた。無防備に畳に背をつけていた態勢から身を翻し、即座にうつ伏せになる私。直後脇を締めた私の腕と胸のほんの僅かな隙間にキリュウが足をぐっと差し込み、身体を丸めた私を返しに来る。
――ちッ!
この攻めに対する備えは、4日前の52kg以下級の試合以降、密かにソビエトチーム内で検討がなされていた。もちろん、いずれ来る団体戦のためにだ。その備えが功を奏したのか、微かに身体が畳から浮くだけに留める事が出来た。
しかし、キリュウの執拗な攻めは終わらなかった。いったいこの女はどれほどの攻め手を有しているのか、矢継ぎ早にあの手この手で畳にうつ伏せになった私の身体を崩しにかかる。
キリュウが私の背の帯を掴み、素早く上半身へと身体を滑らせる。今度は私の上半身を起点として崩すつもりなのだろう。帯を掴んだキリュウの肘が私の後ろ襟にぐっと伸し掛かると、私の視界の端にキリュウの足が映った。
咄嗟に手が出ていた。頭部に回ったキリュウの足と足の間に腕を差し込んだ私は上半身を起こし、キリュウを後方に突き倒す。私が反撃に出たのが意外だったのか、キリュウの背があっけなく畳につく。もちろん寝技の攻防の最中に相手の背を畳に付けてもポイントにはならない。主審もそれは分かっている。眉を動かしもせず、私達の寝技の攻防をじっと見つめている。
今度はキリュウが僅かに上半身を起こした体勢で畳を背にしている。今なら有利な形で逆にキリュウに対して寝技を仕掛ける事が出来るかもしれない。
一瞬そんな考えが脳裏に浮かんだが、その私の頭を冷ますかのように観客席からコーチの声が届く。
「――テレシコワ、それは誘いだっ! 乗るんじゃないっ!」
――! そうだ、これは誘いだ。キリュウは寝技に絶対の自信を持っている。だから先ほどはあえて無造作に私の反撃を受けたのだ、と私は理解した。
私が寝技に行く様子が無いのを見て取った主審が「待て」を宣告する。畳の上の私達以上に周囲の観客達の方が息を潜めていたのだろう。一斉に活動し始めた呼吸音が意外なほど大きく私の耳朶を打ち、同時にどこからともなく発生した拍手の波が
この拍手の大半は、もちろん先ほどのキリュウの不可解な技に向けられたものだろう。それを認識した私の脳裏に、その不可解な技への疑問が再び鎌首をもたげてくる。キリュウは何と言っていただろうか……。記憶を呼び覚ますように、先ほどの攻防の刹那にキリュウが発した言葉を繰り返す私。
「……イッポンセオイ……オオソト……?」
それは決して答えを期待して発した訳では無かった。しかし、意外にもキリュウから答えが返される。彼女は体を起こす反動で私の耳元に一瞬だけ唇を寄せ、確かに言った。
「くすっ。ワシオ・スペシャルで良いよ」
「ワシ……オ……?」
聞いた事の無い名だ。名前の響きからしておそらく日本人。この試合が終わればコーチに伝え調べてもらおう。それだけを脳裏に刻み込んだ私は、それ以上先ほどの技に執着する事をやめた。
電光掲示板は残り試合時間を2分7秒と表示している。技有を奪われた私には、いや、ソビエトにはこの残された時間で逆転する事しか勝利の目は残されていない。
……問題ない。先ほどは意表を突かれたが、同じ手は二度と喰らわない。必ず残り2分でキリュウを畳にねじ伏せて見せる。必ずだ……!
「――こらえろっ、テレシコワッ!」
フルシチョワに言われるまでも無い。キリュウの放った袖釣り込み腰を私は重心を落とす事で堪える。ヤワラ・イノクマと言いキリュウと言い、一体どうすれば私の体重の半分にも満たないこの小さな体で、私を浮かせられるのだ。
だが、もう少し、もう少しでこの技の威力が衰える。あらゆる危機には好機がある。
――今だっ!
背を向けたキリュウの腰に両手を廻し、私は彼女の身体をぐっと抱え込む。狙う技はもちろん裏投げ。
――! 私の筋力をもってすれば綿毛かと錯覚する程に体重を感じさせないキリュウの身体。その身体を軽々と持ち上げたところで、私の裏投げの発動が止まる。原因は明白。私の左膝の裏にキリュウが足をねじ込み、裏投げを止めたのだ。
「――ぬぅぅっ!!」
「――くあぁっ!!」
私とキリュウの力のせめぎ合い。この邪魔な足さえ抜く事が出来れば、1秒にも満たない速さで、キリュウの背を畳に叩きつける事が出来るというのに、しぶとい女だっ――!
私とキリュウの身体は均衡を保ったまま、互いにもつれ込む様にして崩れていく。だが、畳に着く寸前、膝にかけられたキリュウの足が抜ける。――間に合えっ!
ズダーーン!
「――有効っ!」
有効だとっ!? 今少し早く、キリュウの抵抗を排除出来ていれば――! 一本はおろか技有にも届かないポイントを奪った所で、負けている事実は変わらない。
――!?
ちっ! 切り替えの早い女だっ! 猫のような素早く柔軟な動きで、キリュウが私の右腕を両手に抱え、自身の両足を畳と私の胸の間にねじ込んでくる。咄嗟に私は、膝をつき立ち上がろうするが、この女はその膝を蹴りつける様に押し込み、私に立ち上がる事を許さない。
――裏十字だとっ! 裏十字固めは、両者うつ伏せの状態で仕掛ける腕ひしぎ十字固めの事。だが、これはまだ極まっていない。私は、完全に右肘を伸ばしきられる前に、左の手と右の手をがっしりと組み合わせていた。
畳とキリュウの身体に挟み込まれた私の右肘を、キリュウは全体重をかけて伸ばそうとする。攻守が入れ替わり再び力と力のせめぎあいが発生する。試合会場袖で、仲間が畳をその拳で何度も叩きながら「――立ち上がれっ!」と叫ぶが、それは悪手。
まずはこの、足癖の悪い女の支点を無くすことが先決だ。そうしなければ、この女は私に再び足を飛ばしてくるだろう。
私は極められつつある右腕に力を込め、腕に伸し掛かっているキリュウの身体ごと浮かせようとする。いくら体格差があると言っても、50kgを超える重りを片腕で持ち上げるようなもの。私の顔が、力みで紅潮する事を自覚する。だが、桐生の体重を私の筋力が僅かに上回ったようだ。僅かに私の腕が畳から浮く。
「――噓でしょっ!?」
キリュウが驚きの声を上げる。これでキリュウの態勢を崩した。もはや足が飛んでくることもあるまい。そうしておいてから片膝をつき、私は今度こそ完全に右腕を畳から浮かせる事に成功する。
私がキリュウの関節技から完全に逃れたのを確認した主審は、そこでようやく「待て」を告げた。際どいところで私に逃げられたキリュウは、肩を竦める動作と私の腕の拘束を解く動作を器用にも同時に行った後、私を残してすたすたと開始線に戻って行く。
私は片膝をついた姿勢のまま、その背、その足取りをじっと背後から見つめる。
試合残り時間は1分と少し。有効を奪った事は何の意味も持たない。それより、キリュウの体力はどれほど消耗しただろうか。立ち技から続く寝技の一連の攻防は、随分とキリュウの体力を消耗させたはずだ。
体格を上回る相手と組み合う事は、一つ一つの動作に常以上の力を必要とする。いかにキリュウとは言え、それは試合経過時間が長引けば長引くほど、ボディーブローのように効いてくる。
勝負時だ。そう決意した私は、ゆっくりと立ち上がった。
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「はぁっ、はぁっ!」
一足先に開始線に戻った私は息を整えながら、ゆっくりと開始線に戻るテレシコワの姿を目で追う。私は膝から両手を離し、指先まで伸ばして水を切るようにふらふらと動かす。まだしびれが取れない。関節技の極めっこの影響が、握力の低下という形で現れている。
もう少しで裏十字が極まりそうだったが逃げられた。結局、先の攻防に限って言えば、有効一つ私が取られてしまった点で、私の負けと言える。もっとも、足のロックが外れるのがもう少し早ければ有効だけで終わらなかった事は明らかなので、むしろこれは喜ぶべきなのだろうか。
……否、喜べるはずが無い。めちゃくちゃ悔しい。だからつい、なにくそ、とばかりに、望み薄だった関節技の攻防に熱を入れ過ぎてしまった。後悔はしていない。していないったら、していない。
「――茜さん、あと
分かっている。ちらりと柔ちゃんを含む仲間の方に視線を投げかけこくりと頷く。すると、柔ちゃんの隣の藤堂から、「その調子で耐えるんだよ、桐生!」という言葉も投げかけられる。
うん、それは違うな。リードしているとはいえ、あと
逃がさないからね、テレシコワ。私は、対峙するテレシコワにそんなメッセージを込めた視線を投げかけた。
「――せぇぇいっ!」
ズダーーン!
テレシコワが私の釣り手を嫌って切ってきた瞬間にタイミングよく飛び込んだ大外刈りが決まる。
と言っても――
「――有効ぉっ!」
――止まりだったわけだが。
握力がまだ十分に戻っていない。だからぎりぎりの所で引き手を切られて逃げられた。
――うっ! 主審が有効を示す斜め下方向のジェスチャーが終わる前からテレシコワが踏み込んでくる。右足を手で取られたっ! やばっ! この技は朽ち木倒しだ。柔道手技16本の内の一つで、片手で相手の片脚を内側あるいは外側から取って引きつけつつ、相手の上半身は後方へ押し落として投げる技。
双手刈りを筆頭に、技の仕掛けの中で足を手で取る行為は、前世ではのきなみ2010年以降禁止になっている。だから私もほとんどこの技を受けた経験は無いのだが、そこは1988年。使用に何の制限も無い。
私は瞬時に取られていない方の左足を軸に身体を反転させ、取られた右足を引き戻すのではなく、逆に高く跳ね上げた。右足がテレシコワの左内股にヒットし、彼女の左足を上方へと導いていく。
一瞬ヒヤッとしたが、上手くカウンターに出来た。完成したのは、即席の内股だ。
後は下半身を捻り残ったテレシコワの右足を畳の上から剥がせば私の勝ち。――勝ちなのだが、テレシコワは右足でケンケンをしながら私の内股を堪える。
私の方は必死の思いでつま先立ちになってまで技を仕掛けているというのに、かけられているテレシコワの方は悔しい事にまだ余裕がありそうだ。こんちくしょう、そんなに足の長さを自慢したいかっ!
テレシコワに対して半ば八つ当たりの悪態をついた私は、早々に内股に見切りをつけ、頃合いを見計らって技を変化させる。次なる技は支え釣り込み足。内股で態勢を崩されていたテレシコワは私のその技によってぐらりと態勢を崩す。しかし、テレシコワの長い足はここでも私の癇に障る働きをする。器用に足をたたんだかと思えば、見事な体重移動で支え釣り込み足により崩された体幹を回復させた彼女は、反撃とばかりに私に体落としを仕掛けてくる。
「――ぐぅぅっ!」
躱しきれなかった。顔面から畳に落ちた私の頭上より主審の発する「――有効」という声が届く。
取って取られたりか。やっぱり強い。この強さは紛れもなく、柔ちゃんやジョディに匹敵するほどのものだ。
だけどね、テレシコワ。――最後に勝つのは私だよっ! 畳についた状態から跳ねる様に起き上がった私は、テレシコワに一足飛びに組みついていった。