ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
side アンナ・テレシコワ
組み際の奇襲によって有効を取られたが、直ぐに取り返す事が出来た。いや、そんな収支には何の意味も無い。一本だ。狙うはただそれだけ。そして、幸いにしてキリュウも一本を取る柔道に徹している。今もこうして、時間を惜しむかのように私に一直線に組み付いてくる。
「はあっ、はあっ!」
キリュウの息が荒い。この女の体力は確実に切れかかっている。先ほどの体落としもそうだ。試合序盤に放っていたなら、キリュウは私の差し出した足を軽々と躱していただろう。だが、キリュウの体力の低下を待つだけでは私に勝機は無い。というより、それは私の矜持が許さない。
何処かに隙はないのか……? キリュウが攻守ともに極めて高いレベルにある事は認めるが、それでも完全ではない。完全ならポイントなど取られるはずが無い。
――くっ! キリュウの足払いを際どい所で躱す。躱しながら技をかけるが、キリュウも躱す。しぶとい女だ。無いのか、本当に。残り時間は僅か。私が一本を取れる技を仕掛ける事が出来るのは、あと何回だ。どの技ならこの女を畳に叩きつけられるのだ。
激しく左右に動く中で私の瞳に仲間の姿が映る。もちろんフルシチョワも。フルシチョワも含めてソビエトチームで金メダルを獲得した選手はいない。今日が最後の機会なのだ。個人では届かずとも、チームとして最も美しい色のメダルを祖国に持ち帰る。そうする事で私達の後に続く者が現れる。私やフルシチョワの後に――。
――! 激しい最後の攻防の最中、勝利するためには全く必要のない無意味な思考に身を委ねていた私に、突如とある啓示が与えられる。きっかけはフルシチョワだ。彼女だけではない。今日の試合中にも何度か思い当たる節があった。あれはもしかして、誘いでは無かったのではないのか……。
もしや、キリュウの隙は……。賭けてみるか。幸いにして、その技は私が最も得意とするものの一つ。
折よくキリュウが袖釣り込み腰を仕掛けて来た。キリュウも勝負に出ている。ならばこれは……。
「――ぬぅぅっ!」
私はキリュウに吊り上げられた釣り手を外す。
「――まだよっ!」
しかし、自身の握力が低下している事に気づいているキリュウはそれを予期していた。それを承知でこれを仕掛けてきているのだ。つまりこれは、奴の名を冠した唯一無二の技『キリュウ・スペシャル』。
だが、キリュウ! お前はこの事までは予期していなかったはずだ。私の釣り手を外すと言う動作が、逃げではなく攻撃のための予備動作であるという事を――!
自由になった左手をキリュウの足と足の間に差し込む。もちろん同時にキリュウの袖釣り込み腰の仕掛けから身体を逸らしながらだ。簡単な事ではない。だが、極限まで集中していた私はそれに成功する。
この技がキリュウに通用するかどうかは分からない。彼女がこの技を受けた所を見た事は無い。だが、もう私にはこれに賭けるしかない。二の矢を放つ時間は私には残されていない。
「――おうっ!」
完全にキリュウの袖釣り込み腰を躱した瞬間、私はその技を仕掛ける。
仕掛けた技の名は――。
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釣り針が外されたっ! だけどそれは想定内。もう握力が限界に近い。だから私はこの技を仕掛けていたのだ。片手袖釣り込み腰。いわゆる『桐生スペシャル』だ。私は引き手だけになった態勢から技の発動を続ける。
ぞくり……。
背筋が一瞬で凍り付いた様に感じる私。背後に背負うテレシコワがまるで巨大な氷の塊になったかのようだ。断言しても良いが、私は桐生スペシャルの発動を一瞬たりとも留めていない。体力の低下など関係ない。間違いようも無く、疑いようも無く、これまでに私が仕掛けた中でも、最高の速度と精度で発動できていた。
しかしテレシコワは、その桐生スペシャルを躱した。いや、躱しただけではない。この女は、躱す事と反撃する事を同時にやってのけた。だからこそ私は震えたのだ。
「――しまっ!?」
ぐわっと身体が持ち上げられる。
これは……、これは……『肩車』だっ!
テレシコワの肩車は綺麗な放物線を描かなかった。背中から感じる風圧が、より危険な鋭角で畳に叩きつけられようとしている事を私に悟らせる。本来、1秒にも満たない滞空時間のはずなのに、随分と長く感じられる。だからだろう。私は微かな希望を胸にこの技に抗おうとする。
その鍵は腕だ。肩車は、相手選手の腕を極めずに投げる技だ。背中から畳に着くのではなく、腕を畳に伸ばす事でこの技の衝撃を逸らす事が出来れば、一本は免れるかもしれない。
もちろんそれをすれば、私の腕はただでは済まないだろう。肩車はレスリングで言う所のボディースラムのような技だ。私の体重とテレシコワの体重の全てが腕の一点に集中する。肩から脱臼するくらいで済めば御の字。下手をすれば、肘からへし折れる可能性だってある。
だけど、これを堪えさえすれば、残り時間から言っても私の勝利の可能性が極めて高い。日本に、初めての団体戦のゴールドメダルをもたらす事が出来るんだ。東京の雪辱を……、2020東京で経験したあの悔しさを、私はこの地で晴らすんだ――!
知らず、私の右腕は視界に急激に迫ってくる畳に向かって伸びていた。
後年……、そう、あれは私がソウル、バルセロナに続くアトランタオリンピックの開幕前に受けたTVインタビューでの事だったか。私はTV局内の特設スタジオで、同局の看板アナウンサーからこんな問いかけを受けていた。
『あの瞬間、桐生選手は背中から落ちる事を防ぐために腕を背後に伸ばしたように見えましたが、直ぐにその腕を引き戻しています。あの一瞬でどういう心境の変化があったのですか?』
『……声が聞こえたんです』
『声……ですか。あの一瞬にですか……?』
『はい、あの一瞬にです。その声の主達は、こんな言葉で私を強く引き留めました。それは――』
「「――駄目ッ!!/――およしなさいっ!!」」
――!!
ダァァァァーーーーン!
大砲が炸裂したかのような音と共に、背中から生じた凄まじい衝撃が全身を駆け巡った。
「――一本っ!」
それは、私の高校1年の冬から続いていた公式戦 無敗記録が途切れた瞬間を示す宣告だった。
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時は少しだけ遡る。
「試合残り時間はもうすぐ30秒を切ろうとしています。桐生選手、なおも一本を狙ってテレシコワ選手を攻め立てています!」
「ええ、ですが、テレシコワも逆転を狙っていますよ。技有のポイントがあるとはいえ、彼女にも桐生同様に一本を狙える技があります。最後まで絶対に気を抜いてはいけませんよっ!」
山上と解説者が見つめる先では、桐生とテレシコワが最後の意地と意地をぶつけ合っていた。そんな彼女達に、それぞれのチームメイトが声を枯らしながら声援を送る。
「――桐生っ! ここまでやったんだ、絶対に勝つんだよっ!」
「テレシコワは返し技を狙っているよっ!」
「大丈夫よ、桐生さん! テレシコワさんも疲れています!」
藤堂、山口、三上が、観客席から巻き起こる大歓声に負けじと、声を張り上げる。猪熊柔もストップウオッチを手に「茜さん、最後まで集中っ!」と叫ぶ。その彼女の隣で本阿弥さやかも、直接的な声を上げる事はないものの、やはり桐生の勝利を祈っていた。
もちろん、少々風変わりな性格の持ち主である彼女の思考は、ここであなたが負ければ、私の勝利(勝利はしていない)が無駄になってしまうではありませんか、という考えが下地にあるためであるが、日本の、桐生の勝利を祈っている事に変わりはない。
そんな思いでこれまで二人の試合を見つめていた本阿弥であるが、試合が終盤に向かうにつれ、何故か彼女は徐々にあの日見た光景が頭の片隅にちらつき始めていた。
『風祭君、いつでもいい。これを君がいつか桐生茜に会った時にでも渡しておいてくれないだろうか』
『これは……?』
秋田東工業高校から空港に向かうリムジンの中。徐々に意識が覚醒する彼女の頭上で交わされた虎滋郎と風祭のやり取り。その後彼女は、風祭からその紙片を奪い取り確かに見た。虎滋郎を除けばそのメモを目にしたのは彼女だけ。彼女は、あの日紙片に記されていた文字をはっきりと覚えていた。他ならぬ桐生茜の欠点を指摘した言葉だったからだ。
その紙片は達筆でとても読みづらかったものの、確かにこう書かれていた。
『世界に出るのなら、肩車への対策が足りていない』
彼女自身が、いつか桐生茜と再戦する機会があった時のために密かに習得していた技。いみじくも、その技を習得していたことが決勝の次鋒戦では有効に働いた。
そのためだろう。彼女だけが、テレシコワが最後に何を狙おうとしているかに気づく事が出来た。それに気づいた時、彼女は外聞をかなぐり捨て、大声を張り上げていた。
「――桐生茜っ!! テレシコワの肩車に気を付け――」
だが、その核心を突いた忠告は……桐生に一歩届かなかった。
「桐生選手、袖釣り込み腰を――」
「――いや、あれは桐生スペシャルですっ!」
山上が、片手で袖釣り込み腰の回転を始めた桐生の姿を見てそう声を上げるが、その山上の隣の猪熊滋悟郎が突如「――いかんっ!」の声と共に立ち上がった。
突然の事に「え……?」と不思議な表情をする二人だが、そこは山上がいち早く事態に気づく。
「あ……いけませんよ、桐生!」
会場全体……、とりわけ残り時間から勝利を確信し始めていた日の丸の国旗を握った観客席の一角から、悲鳴のような声が上がる。しかし、その声を切り裂く様に、テレシコワの肩車が鋭い弧を描く。一瞬の事ゆえ目で追えないほどの技の切れ味の中、滋悟郎が机にダンっと拳を叩きつけ叫ぶ。その叫びは、今日彼が発したもので最も大きな声量だった。
「――やめんか、馬鹿もんっ!!」
そして、悲喜こもごもの感情が複雑に入り乱れる
「――一本!」
「ああーー、今、オランダのロイゼン・ハワード主審の手が高く上がりましたぁ! ――桐生選手! 国内外通じて公式戦57戦無敗だった記録。それが、ここソウルの地でとうとう止まってしまいましたぁ!! 金メダルに王手をかけていた試合だったのですが、山上さんっ! この結果をどう見ますか!?」
「いやー、……衝撃的な結果ですね。私もちょっと言葉が出ないですよ。“講道館柔道の完成形”とまで囁かれていたあの桐生が……。時間は……3分54秒ですか……。後6秒耐えていれば金メダルと言う試合でしたが……」
そう、無情にも電光掲示板の時間は6秒で止まっていた。日の丸を握った応援席の一角では、日本の勝利を確信したかのようなカウントダウンまで始まっていたが、今彼らの席はまるでお通夜のように静まり返っている。
「そうですねぇ、金メダルを半ば掌中に収めていた試合でした……。ああ、桐生選手がその拳を畳に叩きつけて悔しがっています。いったい誰が彼女のこんな光景を予想したでしょうか。我々も悔しいですが、桐生選手はそれ以上でしょうね……」
「ええ、彼女がこの試合にかける思いはひとしおでしたからねぇ。ああ、肩を震わせたまままだ立ち上がれない桐生を、猪熊柔が心配そうに見つめています。ですが、まだ……」
「ええ、まだ終わっていません。これで日本対ソビエトの決勝戦は2勝2敗1引き分けのイーブンです。この後、代表選が行われ勝敗が決します。ああ、桐生選手、ようやく立ち上がりましたね。ですが、さすがに桐生選手の足取りは重いですね……」
「……ええ。猪熊先生、この結果は予期されていましたか?」
主審が両者の道着の乱れを正すように注意している様子を見下ろして、山上が滋悟郎に問いかける。その滋悟郎は、先ほどまでの興奮した様子から一転して、鼻から深い息を発しながら椅子の背もたれに体重をかけ、目を細めた。そして、吐き捨てる様に、言葉を惜しむかの様に、静かに応えた。
「……予期はしておらん。じゃが、危惧はしておった」
ほう……、と滋悟郎に対して続きを促すようにじっと視線を固定する山上。解説者も滋悟郎の見解を伺うべく静かにその答えを待つ。
「桐生は、これほどの体重差のある選手と対戦した経験が明らかに少ない……」
その指摘は山上も承知していたのか、彼はこくりと頷く。だが、彼の眼は言っていた。それだけでは無いだろう、と。
「それだけなら問題は無かったぢゃろう。それほどの選手ぢゃ、桐生は」
(……なにせ、練習試合とはいえ一度は儂の孫娘に勝った選手じゃからな)、と内心で呟いた滋悟郎は、再び重い口を開く。
「……ぢゃが、その体格差のある選手に、桐生の弱点を攻められた。これが致命的ぢゃったの……」
残念……いや、無念ぢゃ。今少し早く、桐生が無差別級の、それも一流の無差別級の選手とこの段階で対戦する可能性があると分かっていたら、あの弱点をそのままにはしておかなかったものを……。
滋悟郎は、肩を落として一礼する桐生を見下ろしながら、そんな事を考えていた。
一方、彼らから遠く離れた会場隅では……。
「桐生さんが負けた……。信じられない、あの桐生さんが……」
松田が茫然とした表情でそう呟く。松田にとって桐生茜とは強さの象徴だった。初めて桐生茜と会ったあの日本武道館以降、彼女とはただのアスリートと記者の関係以上の交友があった。
喜怒哀楽を隠さない彼女の天真爛漫な行動に、時に振り回され、時に助けられてきた。決して口と態度には出さないが、本心では、手のかかる妹のような気持ちを彼女に対して抱いてもいた。
松田の呟きを、虎滋郎は畳の上の桐生から視線を剥がさず、「だが、これが柔道だ。負けたから弱いのではない。弱いから負けたのだ」と切り捨てる。
「弱い……?」
「そうだ。桐生茜は、肩車への対策が不十分だった。そのつけを、このソウルオリンピック 団体戦決勝という舞台で彼女は払う事になった」
「肩車への対策が不十分……? い、いや、それは桐生選手自身の口から聞いた事があります。肩車を含めた裏投げやすくい投げを主とする海外のパワー柔道への対応のために、彼女は中学時代その克服に力を入れたと……」
間違いない。それは、松田自身が桐生茜と初めて会った時に、彼女の口から語られた言葉だ。彼女は最初から世界を視野に入れて柔道に打ち込んでいた。なのになぜ……。虎滋郎は視線だけをちらりと隣の松田に向ける。
「その中学時代に、彼女の周囲で世界に出るほどの選手はいたのか?」
「世界に……? い、いえ、そのような選手はいなかったと記憶しています」
いないはずだ。男女を問わず、彼女と同世代の柔道選手で秋田出身の選手はいない。虎滋郎の質問の趣旨が分からず訝し気な表情の松田。だが、虎滋郎の続く言葉に、彼は言葉を失い立ち尽くす。
「一流の選手が放つ一流の技を受けずして、その対策が十分と言えるのかね?」
「――! あ、あぁっ!」
ようやく松田にも理解できた。虎滋郎が何をいわんやかを。そうだ、そも日本の選手でパワー柔道を得意とする選手は限られている。それが出来るだけの体格が不足しているから。桐生茜は、県内の男子生徒を含む選手との修練で十分と判断していたが、その実、未だ十分にその対策が出来ていなかったのだ。
大学に入ってからは猪熊柔を相手に1日も欠かさず修練に明け暮れた。猪熊柔も肩車は習得しているし、彼女からそれを受けた事もあるだろう。だが、そも肩車や裏投げと言った返し技は、十分な体格の選手が放った際に最大の効果を発揮する。
もし桐生茜が三葉女子短大ではなく、西海大学に進学していれば、大学に在籍する十分な体格の持ち主である男子選手と対戦する中で、その弱点を克服できていたかもしれない。だが、その機会は失われた。それは、彼女が選択しなかった未来だ。
「それでも、最後にテレシコワが放った技が、彼女の代名詞である裏投げであったならまだ躱せただろう。だが、肩車は駄目だ。彼女は足取りを仕掛けられた時、他の技への対応と比べてほんの少しだけだが、反応が遅れる」
それは決して弱点と言える程の弱点ではない。気づいたのも、虎滋郎のような特別な才能を持った一部の限られた柔道選手だけ。実際に対戦したテレシコワ自身も、はっきりと確信を持っていたわけでは無いだろう。だが、刹那の対応を求められる超一流選手同士の試合に限っては、彼女のその弱点ははっきりと弱点と言えた。
桐生がテレシコワに敗北した理由に納得した松田は、開始線の上で膝に手を置き、肩を落としている桐生に顔を向ける。
その桐生を見つめる松田の目は、決して桐生に対して哀れみでも、同情でもかけてはいなかった。
彼は知っていた。いや、確信していた。柔道家 桐生茜は、決してこのまま沈んだりしないと。そう思えるだけの知己を、彼は彼女との間で育んでいた。
だから彼の眼は、こう桐生に対して無言の声援を送る。
(下を向くな、桐生さん! 君はまだやれる! 俺が保証するっ!)と。
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【桐生 茜 ステータス】
なまえ :きりゅう あかね
せいべつ :おんな
ねんれい :18さい
れべる :34
くらす :じょし52kgいかきゅう
ちから :99
すばやさ :226
たいりょく:160
かしこさ :207
わざ :229
こうげき力:255
しゅび力 :235
E じゅうどうぎ
【アンナ・テレシコワ ステータス】
なまえ :アンナ・テレシコワ
せいべつ :おんな
ねんれい :23さい
れべる :34
くらす :じょしむさべつきゅう
ちから :226
すばやさ :153
たいりょく:207
かしこさ :195
わざ :209
こうげき力:246
しゅび力 :238
E じゅうどうぎ
本作品は残り5話で完結予定です。ここまでお読みいただき深く感謝します。是非最後までお楽しみください。