ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
「――互いに礼!」
主審のその声に、開始線上の私はぺこりと頭を下げる。そして頭を上げた時にはもう気持ちを切り替えていた。勝ち負けは勝負事の常だ。大事な事は同じ失敗を繰り返さない事。私は沸き立つソビエトのチームメイトの方に戻って行くテレシコワの背から視線を外し、試合の最中ずっと声援を送っていてくれた皆の元へ戻って行った。
「皆、ごめんっ!」
畳を降りた私は、何は無くともパンっと手を合わせて皆に頭を下げる。謝罪は必要だろう。大将として、主将としてふがいない試合をしてしまった事には違いが無い。しかし、柔ちゃんとさやかを除く皆は私を一瞥はするも、それぞれ屈伸したり背を伸ばしたりしながら、私に何ほども無いとばかりに言葉を返す。
「はっ、お前らしい負け方じゃないか。むしろ私は安心したよ。お前もしっかり人間って事を再認識できたからね。なあ、山口?」
「そうだね。攻めた結果よ、桐生。切り替えなさい」
藤堂と山口がそう返事を返してくれると、三上が「お疲れ様、桐生さん。ちょっと失礼」と断ったかと思うと、おもむろに私の道着の右袖をまくって上腕から前腕にかけて指圧を始めた。
「……三上さん?」
「直ぐに出番が来るかもしれないでしょ? 少しでも筋力を回復させておかないと。猪熊さん、左腕をお願いして良い?」
「はい、三上さん」と柔ちゃんは応えて、三上と同じように私の左袖をまくって指圧を始める。
ただ、柔ちゃんは三上とは言葉を交わしても私と顔を合わせてくれない。今もぐっ、ぐっと献身的に指圧をしてくれているが、その顔は俯き加減でどんな表情でそれをしてくれているのか分からない。
……もしかして、怒ってる? これまで私は何度か……、いや、何度も柔ちゃんに怒られた事があるが(直近はソウルに到着して直ぐに松田さんに会った際の事だ)、なんとなくだが今の空気はそれらのどれよりも重たい気がする。
うーん、謝罪が足りなかったか。そう感じた私は、柔ちゃんに顔を向けてもう一度真摯に謝罪する。
「ごめんね、柔ちゃん。頑張ったんだけど、テレシコワも強くて……。でも、次は――「違うっ!」」
――痛っ! どれほど不機嫌そうでも、それでも勘所を抑えた心地よい指圧を施しくれていた柔ちゃんだったが、突然彼女の親指がぐりっと私の腕にめり込む。
「――ちょ、痛いって!? だからごめんって謝っ……て……。柔ちゃん……? もしかして泣いてるの?」
袖をまくられた左腕にぽつん、ぽつんと水滴が跳ねる。右腕を取っていた三上が心配そうに柔ちゃんの肩に手を置く。しかし、柔ちゃんはそれに気づかなかったように、ばっと顔を上げて私をその双眸で見据える。その双眸には、溢れんばかりの涙が。
「負けた事なんてどうだって良いのっ! どうして、あの時腕を出そうとしたのよ!? そんな事をしたら、茜さんならどうなるかぐらい分かるでしょっ!?」
「「腕……?」」 突然の柔ちゃんの感情の爆発にストレッチをしていた藤堂と山口が顔を見合わせる。一瞬の事だったからこの二人は気付かなかったらしい。私があの瞬間、腕を畳について肩車の衝撃をいなそうとしていた事に。
でも、柔ちゃんは気付いた。当然よね、柔ちゃんだし。何の事、ととぼけるのは簡単だけど、それをするとより柔ちゃんの怒りが爆発しそうだ。あの制止の声もまだ脳裏にこびりついているし、こりゃあごまかせそうにないな。
そう考えた私は、しおらしく、正直に答える事にする。
「……うん、そうだね。分かってたよ。あれが大怪我に繋がりかねない行為だっていうのは……」
「だったら、どうして……?」
「どうしてかな……」と呟いて私は自問する。うん、やっぱりこれが私の心の声のような気がする。一つ深呼吸をして私は続ける。
「……多分、諦めきれなかったんだと思う。私自身のためだったという事はもちろんある。だけど、それに加えて、皆の首に一番輝くメダルをかけさせてあげたかった、ていう気持ちもあった。会場や日本で応援してくれている柔道ファン、ううん、それだけじゃない。私達の後に続く選手のために、日本に金メダルを持ち帰って上げたかった。それが、手の届くところまで来ていたから、つい……」
「……茜さん」
私があの行為を取ろうとした理由を知って柔ちゃんは唇をかみしめる。そして「でも――」と言いかけた所で、思わず耳を抑えたくなるほどの甲高い声が私に投げつけられる。本阿弥さやかだ。
「ほーほっほ。無様に負けましたわね、桐生茜。いい気味ですわ!」
さやかは、いつもの鼻に突くコロン臭をまき散らしながら、口に手を当ててそう踏ん反りかえる。
「おい、本阿弥」と藤堂がさやかの肩に手を置くが、さやかはその手をバシッと払いのけ、恍惚の笑みから一転して私をギロッと睨みつける。
「まったく、私達には国の威信や国家のために戦うな、なんて言っておきながら、あなた自身がそれに縛られているではありませんか。言っておきますけどね、あなたが一番そういうのが似合わないんですわよ。分をわきまえなさい、分をっ!」
ああ、そうかもしれないな。あの瞬間確かに、自分のために、というより国や私達の後に続く人達のためにこの腕を犠牲にしようと言う意識の方が勝った気がする。そして、今こうして手厳しい事を言ってくれているさやかが、あの瞬間私に投げかけてくれた言葉は、柔ちゃんの言葉と共に私の脳裏にこびりついている。
「およしなさいっ、だっけ? あの瞬間、私を止めてくれてありがとうね、さやか」
「……な、何を言っているのですか、あなたは。私はそのような言葉はかけておりませんわ! ど、どなたか私以外の方が声を上げたのに決まっていますわっ!」
途端に頬を赤らめ、そっぽを向くさやか。
くすっ。あなた以外の誰が『およしなさい』、なんてお嬢セリフを口にするって言うのよ。あの時、柔ちゃんと同時に発せられた声の主は明白だったけれど、感謝の意を示すために私はそれ以上さやかを追求する事をやめた。代わりに柔ちゃんに顔を向ける。
「柔ちゃんも、ありがとう。あの時、私を止めてくれて。あの時柔ちゃんが止めてくれなかったら、今頃絶対に大怪我を負っていたと思う」
大怪我という肉体面の負傷だけでは済まなかった。多分、精神的にも私は立ち直れないほどのダメージを負っていたはずだ。だって、あの時私が取った行動は、一本負けを免れて優勢勝ちを狙ったものに他ならないから。だから多分、あのまま私が腕を伸ばしていたら、柔道家としての桐生茜は死んでいた。そう思うんだ。
柔ちゃんはさやかに毒気を抜かれたのか、ようやく付き物の落ちたような顔で頷いた。
「……うん、私、茜さんが自分から選手生命を投げ出すような事をしたことが許せなかった。ううん、怖かったの」
「怖かった?」
「うん、私が今柔道をこうして出来ているのは茜さんに出会ったから。そして、また茜さんといつか真剣勝負がしたいと思っているから。それが、そんな未来が訪れないって思ったらどうしても許せなくて……。ごめんね、茜さん。私、自分勝手ね。八つ当たりね、これじゃあ」
そして柔ちゃんは涙を拭って私に頭を下げる。
……そっか。そんな事も考えてくれていたのか、柔ちゃんは。そりゃあ、泣くほど怒られるわけだ。そんな未来を、私は自ら捨てようとしていたのだから。
うん、結論! 全部私が悪いっ! 柄にもない事をしようとして皆を不安にさせてしまった。よもや、よもや。主将として不甲斐なしっ! 穴があったら入りたいっ!
「――皆、ごめんっ! でも、もう謝らないっ! さあ、まだ一戦残っているわっ! 誰が戦うのか分からないけれど、運を天に任せて玉砕しましょうっ!」
「玉砕したら駄目だろうがっ!」
「桐生、あなたもう少し学業の方を……」
「私、玉砕は嫌です……」
「本当に、どなたですの? このお馬鹿さんを主将にしたのは?」
藤堂、山口、三上、そして本阿弥が、ふんすっと拳を突き上げて宣言した私に呆れた表情を向ける。その様子を見て柔ちゃんがようやく、くすくすといつもの朗らかな笑みを浮かべるのと同時だった。
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「さあ、代表選はどのクラスになるのでしょうか? 会場中の視線がリールに集中しています。山上さん、日本にとってもっとも望ましいクラスはどこだと思われますか?」
解説者からそう振られた山上は「うーん」と首をひねる。
「そうですねぇ、最も望ましいのは先鋒、あるいは中堅では無いでしょうか?」
そこで首を伸ばして山上は、試合会場袖で横一列に並ぶ日本チームに視線をやる。
「やはり一度勝利している先鋒の山口、あるいは中堅の三上が選ばれるのが最も望ましいと思われます」
「そうですか。では、日本にとって望ましくない階級はございますか?」
まだリールの回転の速度は緩まない。ソビエトチームは横一列に並び互いに肩を組みながら、リールが停止するのを今か今かと見つめている。その様子にちらりと視線を投げかける山上。
「やはり、ソビエトの二枚看板であるフルシチョワ、テレシコワの階級は避けたい所ですね。あのチームはその二人の力が頭一つ以上抜けていますから。特にテレシコワです」
「それは、やはり先ほどの桐生選手の敗戦を見て、の事でしょうか?」
日本チームもソビエト同様に、皆が横一列に並びリールを見上げている。違っている点と言えば、桐生の両腕の袖をまくり、猪熊柔と三上がそれぞれ桐生の腕を取っている点か。おそらくまだ体力、筋力が十分に回復していない桐生のそれを、僅かでも回復させようと思っての事だろう。
「敗戦は関係ありません。私は、先ほどの試合は桐生にとって決して悪いものでは無かったと思っています。私が問題視しているのは桐生の体力です」
「体力ですか」と、山上の言葉が意外だったのか解説者が僅かに首を傾げる。
「はい。準決勝の時も申しましたが、自身より遥かに体格の大きな選手と戦うのは、とんでもない体力が必要となってきます。おそらくリールの回転はもうすぐ止まります。そうなるとすぐに代表戦が始まります。先ほどの試合から5分と経っていません。いくら体力に不安の無い桐生でも、連戦はあまりに不利です」
そこで山上は言葉を区切り、先ほどから静かに梅昆布茶を啜っていた滋悟郎に「ですよね、猪熊先生?」と、水を向ける。その滋悟郎はずずっと美味そうに茶を喉に流し込み、山上の言葉を肯定する。
「ま、そうぢゃろうな。勝つ事だけを考えたら、儂はあの山嵐使いが最も可能性が高いと思うがの」
「ですが、昨日猪熊選手は、100kgを超える選手を相手に連戦に連戦を重ねて、金メダルを獲得しました。条件はそれと同じでは?」
「同じな訳あるわけないぢゃろうがっ! 昨日の柔の試合は、試合と試合の間に30分以上の間隔があった。準決勝と決勝戦の間はそれ以上ぢゃ。いかに柔でも、5分程度の試合間隔であのレベルの相手と試合をやっておっては、体力がもたんわっ!」
ある意味、滋悟郎ほど『柔良く剛を制す』という言葉の意味を真に理解している者はこの場にいない。小柄な体格の選手が大柄な選手を投げとばす。言うのは簡単だ。だが、そのためには、力、速さ、技といった様々な要素が奇跡的なレベルで充実していなければ不可能。つまり、万全な状態であって初めてその神業が具現化するのだ。滋悟郎の剣幕に頬を引くつかせながらのけ反る解説者。そんな彼らのやり取りを聞くと話に聞いていた山上がおっ、と声を上げた。
「リールの回転が落ちてきましたよ。もうすぐ代表戦を行う階級が決定しそうです」
その声に解説者もハッとした顔で、再びリールに注目するのだった。
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「もう、茜さん。そわそわしないで。そんなに動かれたらマッサージがしづらいでしょ?」
回転するリールの表示に大将戦を意味する『OPEN CLASS』が現れるたびに前掛かりになっていると、未だ左腕を指圧してくれている柔ちゃんが私に対して文句を言う。
「あ、ごめんなさい」と苦笑いと共に柔ちゃんに謝罪するが、柔ちゃんと反対側の右腕をマッサージし続けてくれている三上に、そう言えば、と私は顔を向ける。
「三上さんも、少し身体を動かしていた方が良いんじゃないですか? 私の体力回復に努めてくれるのはとてもありがたいんですけど、もしかしたら三上さんの階級が選ばれるかもしれないんですし……」
藤堂と山口は私の試合終了直後から、それぞれのやり方で身体を温め始めていた。さやかもそうだ。それと分かる様なはっきりした動きはしていないが、ときおりフルシチョワの方に視線を投げかけながら、彼女が身体を小刻みに揺らしている事に私は気付いていた。
私のその問いかけに三上は、準決勝ではかわいそうになるほどリールの回転を凝視していた姿とは正反対に、落ち着いた様子で私を見返した。
「え……? 私ですか? あはは、無い無い。絶対にそんな事ありえません」
「そんな事は無いでしょ。ほら、また中堅が……」と回転するリールにちらりと視線を投げかけて私は三上に反論する。私達の会話を聞いていた柔ちゃんも私に賛同する。
「そうですよ、三上さん。茜さんのマッサージは私がやりますから、三上さんも少し身体を動かしていた方が……」
しかし、それでも三上は私の腕を取る事をやめない。そして彼女は、何故か眩しい程の笑みで私を見つめる。
「大丈夫、私の階級が選ばれる事はありません。私、今回の代表戦の選抜では確信しているんです」
「……何を確信しているんですか?」
「それはもちろん、日本の柔道ファン、いいえ、世界の柔道ファン。いえ、もっと言えば柔道の神様も含めて、皆が見たいと思える階級が選ばれるに決まっているからです。それは絶対に私の階級じゃないと思っているので、今回ばかりは安心していられます」
「……」
やばい、三上がおかしなことをのたまい始めた。これは、あれか? もしかして、柔道の神様とやらが三上に降臨しているのか? 今の三上をラスベガス辺りに連れて行ったらカジノで荒稼ぎできそうな気がするのは、私だけだろうか。
おっと、リールの回るスピードが目に見えて落ちて来た。画面の中央に文字が躍る度、周囲からどよめきが発生する。三上の事は放っておこう。もし三上が選ばれたら卒倒しそうな気がするが、その時は卒倒した三上を開始線まで担いで行ってそこで目覚めさせよう。目覚めた瞬間、今度はショック死しそうな気もするが。
両腕をマッサージされている私は、心の中で祈り続ける。まさか準決勝に続いて、再びこのように祈りを捧げる事になるとは。
準決勝では外れた。日頃の行いが悪かったためなのかもしれない。柔道ばかりしていて料理がおざなりになっている。もっと周囲の人達に料理を振舞って、笑顔を届けるべきだった。でも、神様、仏様、そしてクロノスの神様。ええい、この際いるかどうか分からないけど、柔道の神様にも祈っちゃおう。
どうか、どうか、私に当たりますようにっ……!
ギュッと目を瞑って一心不乱に祈りを捧げていると、突然周囲から3つほどはオクターブが上がったのではと思える程の歓声が爆発するように発生した。
止まった!? 私は目を大きく見開き、電光掲示板に表示されている字を確認する。
――!
右腕を指圧してくれていた三上の手が僅かに震えた気がする。まだこの現実が信じられないでいる私が彼女の顔を見ると、彼女の漆黒の双眸がはっきりとこう語っていた。
ね、だから言ったでしょう、と……。
思わず私は会場中に響き渡るかのように、拳をぐっと握りしめ大声を張り上げていた。
「――よっしゃあっ!!」
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「――よっしゃぁっ!!」
代表選を行う階級が決定した。解説者がそれを読み上げようとマイクに口を近づけた瞬間、試合会場袖の日本チームからそんな気勢の声が届き、彼は出鼻をくじかれる。山上が声のした方を覗き込み、苦笑いを浮かべる。
「今の発声は桐生でしたね。まったく、分かりやすい奴だ」
「し、失礼しました。代表選の階級が今、決定しました。大将戦、大将戦です。つまり、無差別級の選手同士の代表戦となります」
気を取りなおした解説者がTVの向こうの柔道ファンに対してそう口にする。
「山上さん。桐生選手、代表選に決定した瞬間、歓喜の声を上げましたね。桐生選手にとっても、望むところだと言うことでしょうか?」
「もちろんそうでしょう。彼女の性格を考えれば当然です。受けた借りは必ず返す。彼女はそういう柔道家ですから。ですが、喜んでいるのは彼女だけではありませんよ」
その言葉に、解説者が山上の視線の先を追う。そこは、ソビエト側陣営。彼女達も無表情のテレシコワを囲む様にしてはしゃいでいた。その様子からは、明らかに大将戦での決着を彼女達も望んでいる様子が見て取れた。
「ソビエト側も、この代表選に自信があるようですね」
「あるでしょうね。先ほどテレシコワが見事に一本勝ちした組み合わせで再戦ですからね。その上、あの体格差で連戦です。先ほどの大将戦以上に与し易い代表選になると、彼女達も分かっているんですよ」
大将戦後の猪熊滋悟郎の言葉を思い出したのだろう。解説者がそっと山上の巨体の左隣に座る滋悟郎を、首を伸ばして伺うようにする。滋悟郎は、はしゃぐ日本の桐生とソビエト陣営の様子を渋い顔で見つめた後、短く言葉を発する。
「――2分ぢゃっ!」
「……。……何が2分なんでしょう、猪熊先生?」
2分の意味が理解できず解説者が問いかけると、滋悟郎はふんっと鼻で息をして続ける。
「試合時間に決まっておろう! 2分を過ぎたら桐生めに勝ち目は無い。再戦に浮かれるのも良いが、テレシコワに勝ちたいのぢゃったら、2分以内に勝負をつけねばならんっ!」
滋悟郎は、眼下の日本チームの中心に立つ桐生を見下ろしながら厳しい言葉をかける。桐生は代表戦に決定した事がよほど嬉しいのか、少しでも体力を温存する必要があると言うのに、その場でスキップを踏みそうな程興奮していた。
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「もう、桐生さんっ! 少しでも体力を回復させないといけないんだから、動かないでっ!」
「そうよ、茜さん! ほら、審判団が畳に上がったわ。今にも呼ばれるわよ」
試合開始寸前までマッサージをしてくれるつもりなのだろう。三上と柔ちゃんが私の両腕を取ってそう叱ってくる。うん……? 両足にも、触られる感触が。私が視線を下に向けると、なんと大先輩である山口と藤堂がしゃがみ込んで、私の両足のふくらはぎを指圧してくれていた。
「私達に出番は無いって決まったからね。まだ突っ張っているじゃないか。時間が無いんだ、動くんじゃないよ」
「ここが硬いね。よく解しておかないと……」
柔ちゃんと並んで最年少である私の両手両足を先輩達に指圧してもらう至れり尽くせりのこの状況を、私はどう受け入れたら良いのだろうか。視線を泳がせていた私は、不意に側でぽつねんと立っていたさやかと目が合う。
そう言えばさやかって、さっきの試合の終盤何か私に言いかけていなかっただろうか? いや、最後の「およしなさい」ではなく、その直前に。
「ねえ、さやか。あなた、私とテレシコワの試合の終盤に、私に何か大声で叫んでなかった? ちょっとよく聞き取れなかったけど……」
「――! な、何も言っていませんわ! 疲労で幻聴でも耳にしたのではなくって!?」
幻聴か……。まあ、あれだけの大声援だったしね。いくつかの声が合わさってそう感じただけかもしれない……か。私がさやかの返答に納得しかけていると、三上があれ、という疑問の顔をさやかに投げかける。
「本阿弥さん、言っていませんでした? テレシコワの肩車に気をつけろーとか、なんとか――」
「――、み、三上さんっ!?」
「肩車に気をつけろ? さやか、あんたなんでそんな事が――」
「し、知りませんわっ! 三上さんの聞き間違いではなくって――!?」
さやかが焦ったようにしどろもどろになる。ふむ、もう少し詳しく聞きたいな、と思っていたら畳の上の主審から、とうとうお呼びがかかった。ま、いっか。その件は後で。
「皆、ありがとうっ! 行ってくるねっ!」
皆の激励の言葉を背中で受け止めながら、私はゆっくりと畳の上に上がっていく。足が軽い。指に痺れが無い。筋力が戻っている証拠だ。皆のおかげだ。もちろん万全の状態ではないが、先ほどの試合直後から考えると、これは雲泥の差だ。これで私はまだ戦える。
だけど、過信してはいけない。今の状態では、4分間フルに戦う事なんて出来っこない。
短期決戦だっ! テレシコワに勝つにはそれしかない。3分……、いや、2分だっ! それが今の私が全力で戦える限界点だ。それを超えたら、後は野となれ山となれだ。
さあ、柔道の神様が授けてくれた2度目のチャンス、絶対にこの手に掴んでやるっ!
「――はじめっ!」
主審の開始の声と共に、私とテレシコワは息を合わせたかのように、開始線から一歩を踏み出した。