ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……!   作:怪盗218

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74話 男女国別団体戦 5回戦 決勝 代表戦②

「はぁっ、はぁっ」

 

30秒にも満たない道着を整える時間(インターバル)で整えた息だったが、それが再び荒い息遣いへと変わるのに、さほどの時間は要しなかった。この楽しい時間がいつまでも続いて欲しいが、確実に私の限界は近づいている。

 

「桐生さん、テレシコワが奥襟を狙って来てるよ! 気を付けてっ!」

 

三上の声が私にまで届く。分かっている。テレシコワは、体力の低下と共に私の頭が徐々に下がってきた事に気づいていた。奥襟に伸びる手を払いのける事に体力を使う事すらおっくうになってきている自分がいる。

 

きつい。自分が考えている以上に限界が近いのかもしれない。でも、限界の近いこの状況でこそ輝く技がある。私の腰が落ちてきているのを体力の低下とテレシコワが判断している今こそ、これを放つ絶好の機会だろう。

 

行くよっ、テレシコワ! 桐生茜の借りパク・スペシャルの第2段! 喰らってみさらせっ!

 

「――はっ!」

 

テレシコワが私の奥襟にぐっと手を伸ばしてきたタイミングで腰を落とす。この技は仕掛けのタイミングを気をつけないと、技の始動を相手の技によるものと判断され誤審される恐れがある。まあ、この主審ならそんな誤審は犯さないだろうけれど。

 

私はテレシコワの両袖を取りながら、後方に自分から倒れ込む。その時、私の右足裏はテレシコワのお腹の上にそっと添えていた。

 

他に類を見ない特徴的なこの技の始動体勢。もちろんテレシコワも一瞬でこの技の正体に気づき、急制動するとともに浮かせられまいとぐっと腰を落としてきた。

 

そう、この技は、柔道の数ある技の内で最もポピュラーな技の一つ、『巴投げ』だ。この体育館でこの技を放つのは、これが初めてかもしれない。

 

「――トモエ投げなぞ、喰らうかっ!」

 

言葉の意味は分からなくても、テレシコワが何をいわんやかは分かる。巴投げはポピュラーな技ではあるけれど、同じくポピュラーな背負い投げや一本背負いほどは、高い地位を得られていない。背負い投げや一本背負い、はては袖釣り込み腰のスペシャリストはいても、巴投げのスペシャリストはまず存在しないというわけだ。

 

だけど、私は知っている。かつて巴投げのスペシャリストがいた事を。いや、()()()ではない。()()()誕生する事を。

 

巴投げの始動が中途で止められる。私は畳に背をつけた姿勢で、その私に上からテレシコワが伸し掛かっている。完全に勢いが止められているのだから、この巴投げは失敗に終わった。テレシコワならずとも皆がそう判断している事だろう。

 

テレシコワは、この態勢から私を畳から浮かそうと両の手に力を込めてくる。もしかすると、この態勢からの投げ技を考えているのかもしれない。

 

『いい、道乃? 一発目は投げるイメージで良いの。でも二発目は投げるんじゃなくて、すくう感じで。そのためには身体の向きと足を……』

 

だけどね、テレシコワ。それは致命的なミスだよ。私は体の軸線をテレシコワの真下から斜め横にずらす。同時に彼女の腹に添えている足の角度を微妙に修正する。この細かな調整がこの技の、いや、この特別な技の生命線――!

 

「覚えておきなさい、テレシコワっ! 姉さんの巴の花は二度咲くのよっ!」

 

「――何ッ!?」

 

静止した状態から、一瞬でテレシコワの身体が宙に浮く。彼女はその長い足を宙でばたつかせ、なんとか体幹を回復しようとあがくが、それが出来ないからこの巴は唯一無二の巴なのだ。

 

テレシコワの必死の抵抗をあざ笑うかのように、私の足によって巧みに制御されたテレシコワの背が、前ではなく斜め横方向に落ちていく。

 

ダーーン!

 

広いテレシコワの背が畳に着く。

 

「――技有!」

 

試合開始から1分38秒。ようやく私の獲得したポイントが、テレシコワのそれに並んだ。

 

 

 

「ぜぇっ、ぜぇっ!」

「はぁっ、はぁっ!」

 

私の吐く荒い息遣いと、テレシコワの息遣いがシンクロする。テレシコワに奥襟を取られてしまい、私は満足に顔を上げる事すら出来ない。出来ないが、柔ちゃんの「茜さん、あと2分(ふたつ)!」という声は、はっきり私に届いた。

 

試合開始前にデッドラインと定めていた2分を経過した。もちろん私はコンピューターじゃないんだから、2分を過ぎたら突然電池が切れたように動きを止めたりするわけでは無い。だけど、もういくらも私に時間が残されていないのは間違いない。

腕が満足に上がらない。組手を維持するのにも精一杯だ。足だってそう。後何回、一足飛びに懐に飛び込められるだろうか。

 

「――おうっ!」

「――くっ!」

 

テレシコワの内股が私に放たれる。かろうじてそれを躱して反対に体落としを仕掛けるが躱された。まだこうして反撃も出来るが、完全に体力が尽きたらそれも出来ない。ただ無様に私は反撃も出来ないサンドバック状態になるだけだろう。

 

もしかすると2分を過ぎた今の状況は、私にとってアディショナルタイムなのかもしれない。柔ちゃんや三上、藤堂や山口達が献身的に私の体力の回復に努めてくれた(さやかは……まあ良いや)、貴重なご褒美時間。

 

勝負をかけるべきだ。伸るか、反るか。それは分からない。だけどこのまま座して敗北を受け入れる事は出来ない。まだ必殺の一撃を放てる体力が僅かでも残っているうちにやるべきだ。テレシコワもそれを待っている。

 

何故か私はそんな気がしていた……。

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「茜さん、あと2分(ふたつ)!」

 

猪熊柔がストップウォッチから目を離しそう声を張り上げる。

 

「桐生、苦しい所だね」

「ああ、テレシコワも動きが徐々に鈍くなってきているけれど、桐生の方はそれ以上だ」

 

藤堂と山口の言葉に、その隣で桐生の一挙手一投足を注視していた三上が「でも――」と声を上げる。

 

「でも、桐生さん、際どい所ではちゃんと躱していますし、技だってまだ切れています」

 

「そりゃあ、あの子は勘が鋭いからね。ツボは心得ているし、テレシコワを仕留める牙だってまだ残っているだろうさ。でも、桐生のその牙が一本、また一本と抜け落ちて行っている事は確かだよ」

 

山口の言葉に三上は反論できない。もちろんそんな事は三上も分かっていたのだが、誰かにそれを否定して欲しかったのだ。猪熊柔を除けば、この中で誰よりも桐生と長い時間を過ごしているのは三上だ。だから彼女も分かりすぎるほど分かっていた。桐生が望む柔道を取れる時間が残り僅か。今にも砂時計の砂が全て下に落ちようとしている事に……。

 

 

後に、京都老舗の和菓子屋にして本阿弥グループ御用達となる『三上餡本舗 三日月』の第18代店主となる三上杏は、この時の自身の心境についてこう語っている。

 

『うーん、不思議と、桐生さんに勝ってもらって皆で団体戦の金メダルを手にしたいって言う思いはその時は特に抱いていなかったですね。ただ桐生さんが満足する柔道が取れなくなることが悲しいって思っていました。だから、勝つにせよ負けるにせよ、桐生さんが納得できる柔道が取れますようにって、ただそれだけを考えていました。でも、その思いは私だけじゃなくて皆も同じだったみたいで――』

 

 

 

「大丈夫ですわよ」

 

桐生を見つめていた三上は隣から替えられた声に横を向く。本阿弥さやかだ。

 

「大丈夫ですよ。あの女は猿だけに、野生の勘にはめっぽう優れていますわ。どうにもならない状態に追い込まれる前に、きっと最後の大博打に出る事、間違いありませんわ」

 

それを聞いて、藤堂もはんっと笑みを浮かべて続く。

 

「ま、それは間違いないだろうね。あいつがずるずるとこのまま沈むとは思えない。なあ、山口」

 

「ええ。きっと今のあの子の頭の中からは、日本女子団体初の金メダルがかかっているなんて言う事はすっぽり抜け落ちているんじゃないかしら」

 

「あっはっは。違いない。だけど、それで良いさ。今日の団体戦は、私達みんな、『桐生JAPAN』という船に乗ってここまで来たようなものだ。あいつのやりたいようにすればいい」

 

三上は藤堂の言葉に柏手を打って笑みを浮かべる。

 

「桐生JAPAN、良いですねっ! すっごく強そう! それに楽しそうっ!」

 

「今回だけだよ。4年後のバルセロナでは『藤堂JAPAN』にしてやるさっ!」

 

藤堂がそう息巻くが、本阿弥さやかが口に手を当てて冷笑する。

 

「あら、それでは重さで海に沈んでしまいますわね。それよりは『本阿弥JAPAN』の方が良いのではなくって? 三上さん、特等席にご招待いたしますわよ。藤堂さんは水夫で良いならどうぞ」

 

「だれが水夫だっ! だいたいお前の船なんて、金ぴかで着飾って成金趣味満載になるだろうがっ! こっちから願い下げだよっ!」

 

「――何ですって!?」

 

「ま、まあまあお二人とも―「皆、茜さんが――」」

 

言い争いを始めた二人をなだめようとしていた三上の声を遮り、一人桐生の試合運びから視線を剥がしていなかった猪熊柔が声を上げた。その声に皆が再び畳の上の両者の戦いに注目する。

 

 

 

「桐生、なかなか頭を上げさせてもらえませんね。このままでは徐々に体力を消耗していきますよ」

 

「はんっ、消耗を気にするような体力などもういくらも残っておらんわ。試合経過時間は何分ぢゃ?」

 

滋悟郎の問いかけに手元の時計を確認した解説者が「ちょうど2分を経過したところです」と応える。その答えに腕を組んでふーむと唸る滋悟郎。その彼に山上は問いかける。

 

「猪熊先生が事前におっしゃっていました2分が経過しました。桐生、仕掛けるでしょうかね?」

 

「仕掛けるぢゃろう。むしろ遅いくらいぢゃ」

 

せめて、1分過ぎに桐生が仕掛けた肩車がポイントを奪えていたら。あれが場外になった事が悔やまれる。しかし、その結果は、決して運が無かったためでは無い。あれはテレシコワの執念が生んだ場外。

 

「先ほどの桐生の巴投げ、あれで決めておきたかったですね」

 

山上が、桐生の先ほどの一風変わった巴投げを指して滋悟郎に水を向ける。

 

「釣り手をギリギリのところで切られたの。今日はあの釣り手を酷使しすぎておる。致し方なしと言った所ぢゃろうな……」

 

あの巴投げは確かに惜しかった。釣り手さえ切られていなければ、一本取れていてもおかしくは無かった。

 

通常の巴投げは相手の仕掛けてきた勢いを力に変えて投げ飛ばす。しかし、あれは一度その動きを完全に静止した状態から、相手選手の腹に添えた足を起点にくるっと相手を小さく回転させるようにしてその背を畳につける。

誰が編み出した技かは知らんが、実によく考えぬかれている。おそらくあの技は、寝技や関節技と組み合わせる事で最大の効果を発揮するだろう。

 

「終わった事は良いわ。それより、山上。桐生が狙っておるぞ。問題はそのタイミングぢゃ」

 

滋悟郎の言葉に山上は目を細めて畳の上を凝視する。

 

「間に合いますかね……?」

 

「間に合わせるしかなかろうな。しかし、逸ってはならん。まずはテレシコワの身体を崩す。勝負をかけるのはその後じゃ」

 

桐生の体力はもはやいくらも残っていない。それが尽きるまでにテレシコワを仕留められるか。ポイント上は並んでいても、追い詰められているのは明らかに桐生だった。

 

桐生が足を飛ばし、テレシコワの足がバタつく。ピクリと滋悟郎の片眉が上がるが、桐生はそれ以上踏み込まなかった。いや、踏み込めなかった。浅い。彼女はそう判断したのだろう。テレシコワほどの一流の選手の体幹を、たとえ一瞬とはいえ崩すのは容易な事ではない。

 

激しく畳の上で組み合いながら、両者は互いに必殺のタイミングを狙う。

 

「はぁっ、はぁっ!」

 

桐生がテレシコワの大外刈りを最小限の動きで躱すが、躱したと同時に疲労で足がもつれる。もうこれ以上はもたない。先にしびれを切らしたのは、やはり追い詰められている桐生の方だった。

 

「――ええい、もういっちゃえっ!」

 

大技を仕掛ける前のセオリーである小技をすっ飛ばして桐生がテレシコワの懐に飛び込む。その瞬間、奇しくも解説席に座る滋悟郎とその孫娘の声がシンクロした。

 

「「――桐生、逸ったかっ!?/――茜さん、まだ早いっ!」」

 

だが、既に桐生は、一体どこにこんな力が残っていたのかと、思わず問いかけたくなるほどの強い踏み込みと共に、一歩を踏み出している。賽は投げられたのだ。もはや後戻りはできない。

 

受け止めるテレシコワ。態勢十分な状態でテレシコワは返し技に裏投げを選択する。

 

――勝てる。体勢は崩されてはいない。ならば問題ない。桐生の釣り手、つまり私の左腕が上方へ振られている。おそらくは袖釣り。これを受け止めると同時に裏投げだ。

 

――!? 

 

余裕の表情で待ち受けていたテレシコワの顔が僅かに曇る。彼女は気付いた。桐生の踏み込みが深く、そして強すぎる事に。

 

袖釣り込み腰の下半身の動きは背負い投げと同じだ。つまり、桐生はテレシコワの眼前で足を揃えて背を向ける必要がある。そのために必要なのは、加速だけでなく減速だ。相手の眼前で減速する事で初めて相手に背を向け、ピタリと足を揃えられる。しかしこの速度では到底減速などできない。これでは、体当たり――。

 

――ドシィッ!

 

――!?

 

テレシコワが桐生の狙いに気づいたのと同時に、彼女の下半身がぐらりと揺れた。理由は明らか。桐生の鋭い踏み足が……、本来テレシコワの眼前で揃えられるはずの彼女の踏み足が、テレシコワの足と足の間に差し込まれていたのだ。それほどの踏み込みだ。当然身体的接触が発生する。

 

桐生の突進力がテレシコワの両足で受け止められていた。

 

そう、桐生はなんと、自身の力で減速するのではなく、テレシコワの身体を使って減速する事を考えていたのだ。しかも、その行為によってテレシコワの体幹を崩す事にも成功している。おそらく……、いや、間違いなく確信犯的に。

 

 

アンナ・テレシコワ。

 

ソウルオリンピックから4年後に開催されたバルセロナオリンピックで引退を表明した彼女は、カナダのジョディ・ロックウェルと並び彼女達の最大の好敵手であった事で知られている。そのためだろう。彼女はヤワラ・イノクマとアカネ・キリュウが取る柔道の違いについて、自国のメディアから問われる機会があった。

 

その時の彼女の回答は次のようなものだった。

 

『ヤワラ・イノクマの取る柔道は、実に美しい。私は彼女ほど美しい柔道を取る柔道家を他に知らない。一つ一つの動作が全て理にかなっていて、そのまま教科書の教本に載せたくなるほどだ。

 対して、アカネ・キリュウだが、彼女の取る柔道は時に意図的に道を踏み外す。合理的と言ったら良いのだろうか? いや、工夫か。彼女はその時々で自身に最適な柔道を模索し続けている。

そうだ、探究心の差が彼女達の違いのように思える』

 

 

 

「――くっ!」

 

桐生と接触した事でテレシコワの態勢が崩れる。しかし、それでもテレシコワはまだ自身の勝利は揺るがないと考えていた。左腕は桐生に吊り上げられているが、右腕は拘束されていない。

 

つまりこれは桐生の代名詞である『片手袖釣り込み腰』、いわゆる『桐生スペシャル』。十分な組手からでなく、また、技の始動中に片手を切られても決め切る事の出来る彼女だけのフェイバリットだが、技の継続力は上がっても威力そのものが大きく上がるわけでは無い。それがテレシコワのこの技に対する評価だった。

 

「――そう思ってるよねっ! でもこれが――、これこそが本当の『桐生スペシャル』よっ!!」

 

「――!」

 

片方の手で技を発動できるという事は、もう片方の手は自由。彼女は独楽のように自身の身体を回転させながらその自由な左腕でテレシコワの左足をがっしりと掴む。

 

そして、自身の回転に彼女の身体を巻き込みながら、その場で前方宙返りをした。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「――だぁらっしゃぁぁぁっ!」

 

テレシコワの左腕と左足をがっしり掴んで私は縦回転する。左腕はともかく、左足を掴むだなんて、足取りが禁止になった令和の時代には許されない行為だ。だけどこの時代は別。さんざん足取りで苦労させられたんだ。少しぐらいは私にも恩恵があっていいだろう。

 

ていうか、もっと早く気づけよって話だ。この時代のルールを克服するのではなく、活用する事に――。新たな『片手袖釣り込み腰』。相手選手の片袖と片足を引っ掴み1回転する。時を逆行した事で、この技が思わぬ進化を果たした。

 

――ありがとう、テレシコワッ! 最後まで私に付き合ってくれて! あなたが私の短期決戦に付き合ってくれたからここまで戦えた。あなたに、じりじりと体力を消耗するだけの長期戦に徹せられていたら、こうはいかなかった。

 

 

ありとあらゆる感謝の気持ちを技に乗せて、私はテレシコワの背を畳に叩きつけた。

 

 

ズダーーーーーン!

 

激しい衝撃が、テレシコワの身体越しに私の背中一面に伝わる。

 

「――一本っ!」

 

顔を上げた私の瞳に映る電光掲示板の試合経過時間は、2分28秒で制止していた。

 

 

「ふーーー……」

 

深い息を付きながら私はゆっくりと上半身を起こす。試合会場を取り囲むように設置されている観客席からの大歓声が耳を打ち、逆に一つも意味を成した言葉として私の耳に入って来ない。喜んでくれている事は分かる。日の丸が激しく振られている。いや、日の丸だけではない。

 

人種を問わず、多くの観客が立ち上がって拍手を送ってくれている。その中には、錆色の国旗を持った人達も多くいた。涙を零している人もいる。皆が私達の試合を祝福してくれていた。良かった。試合は一人ではできない。二人いて初めて出来るものだ。この大歓声は、私ともう一人の選手に向けられたものだ。

 

どう、テレシコワ? あなたの耳にはこの大歓声が届いているかしら?

 

片膝をついた姿勢で背後を振り返ると、未だテレシコワはその大きな背中を畳に付けて茫然と天井を見上げていた。私はゆっくりと立ち上がり、そんなテレシコワに向かって手を差し出す。彼女は呆けた顔で私の差し出した手を見上げる。私はくすっと微笑み、彼女に言葉を投げかけた。

 

「オリンピックで受けた借りはオリンピックでしか返せない。4年後、返しに来な」

 

あなたほどの選手が外的要因で柔道を取れなくなるなんて事は私が許さないんだから。4年後、絶対にオリンピックの畳の上に戻ってきなさいよ。

 

意味が通じたわけでは無いだろうが、突然彼女が顔を紅潮させ勢いよく起き上がった。至近で見つめ合う私達。上背のあるテレシコワが私を見下ろす。私は、テレシコワを起こすために差し出していた右手を、そのまま彼女の前に再度突き出す。

 

じぃっとテレシコワは私の差し出した手を見つめていたが、おもむろに私の手を掴んだ。無言のままだ。だけど、私の手を包んだ彼女の手からは多くの感情が流れ込んできているように思えた。熱い。少なくとも、今のあなたは冷徹な精密機械じゃぁ、ないわね。

 

こうして、私のソウルでの最後の試合が幕を閉じた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「「――なっ!?/――えっ!?」」

 

桐生がテレシコワに身体ごとぶつかっていき、彼女の大きな身体を使って急制動した事に解説席の猪熊滋悟郎と会場袖の孫娘が大きく目を見開く。

 

セオリーを無視したその荒々しくも理に適ってもいる柔道に、滋悟郎はもうずいぶん前となった、孫娘と桐生の練習試合の様子を脳裏に思い出す。そして、孫娘である猪熊柔は、残り少なくなった体力の分を相手選手に負担させるかのような振る舞いが、日頃の要領の良い彼女の姿と重なって映った。

 

その後は一瞬の出来事だった。山上や解説者が口を挟む間もなく、テレシコワの身体が桐生の身体と共に宙を舞う。

 

主審の一本の宣告が高らかになされた瞬間、解説者は身を乗り出して興奮した様子でマイクに大声で叫んだ。

 

「やりましたっ、桐生選手! 一本、一本ですっ! 日本女子団体、初めてオリンピックで開催された男女国別団体戦 女子の部で、初代の金メダルに輝きましたっ! ――快挙です。桐生選手、いや、1回戦からこの決勝戦まで戦った全ての選手の力が結集された勝利です。おめでとうございます、日本女子チーム! 山上さん、とうとうやりましたねっ!?」

 

「いやー、お見事、としか言いようが無いですね。最後は桐生スペシャル、いや、足を取っているので変形の桐生スペシャルですね。あの技は初めて見ました。軽量級で無差別級に出場し続け、しかも決勝戦は二連戦! 誰もが無理だと思った所で、あの目の覚めるような大技。昨日の猪熊柔と言い、今日の桐生茜と言い、いや、本阿弥もいますね。今後日本の柔道界は彼女達を中心に回っていく事、間違いありませんね」

 

「本当にそうですね。猪熊先生は如何ご覧になりましたか?」

 

解説者にマイクを向けられた滋悟郎はすっかり冷えてしまった梅昆布茶でずずずっと喉を湿らせ応える。

 

「まだまだじゃっ! そもそも大将戦で負けとる上に、代表選でも肩車を外すわ、巴投げでも仕留めきれておらんっ! 修業が足らん証拠よっ!」

 

「な、なるほど……。桐生選手は猪熊先生のご自宅に下宿して、先生ご本人から稽古を受けていると聞きます。やはり自身の教え子には厳しいという事ですね」

 

優勝というめでたい席で否定の言葉ばかり並べられるのを嫌ったのか、解説者が桐生を迎える日本チームの様子にカメラを誘導する。

 

「ご覧ください。代表戦を戦い終えた桐生選手を、日本チームの面々が温かく迎えております。ああ、本日出場は適いませんでしたが、ずっとチームに帯同していた猪熊選手もいますね。皆が桐生選手を労っています」

 

カメラが桐生を含めた日本チームの様子を遠く離れた日本のお茶の間に届けていた。

 

 




次回、エピローグその1。まったりと終わらせる……はずがありませんね。何しろ桐生さんですから。彼女らしい激しめのエピローグを構えています。
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